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茅舎追想(その六~その九)

2010-07-06 20:27:42 | 川端茅舎周辺
(茅舎追想その六) 龍子と茅舎(その略年譜など)

 一大の画人として文化勲章をも受賞した川端茅舎とその十二歳年下のその才能を惜しまれつつ夭逝した異母弟の俳人・茅舎とでは、まさに、両極端のようなに思われるけれども、この両者は、陰に陽に惹かれ合い、直接・間接を問わず影響し合った兄弟同士であったということを実感する。
殊に、俳人・茅舎の生涯というのは、その年譜を比較対照して見ていくと、異母兄の龍子とその妻・夏子の庇護下のものであったということを実感する。
 茅舎が生まれた日本橋蛎殻町の家には、茅舎の両親と共にそこに同居して異母兄の龍子が居て、そして、その龍子の実母はこの家の近くの親戚の経営する日本橋病院に住み込みで働いているという、誠に龍子にとっては異常な境遇下で、やがて、龍子はその実父と茅舎の母とを嫌悪しつつ、この家から離れ、独立独歩の道を進んで行く。
 一方、茅舎は、この両親の溺愛の中で育ちつつ、やはり、この異常な環境下の家を離れ、青春彷徨をしつつ、龍子の庇護を受けて、その実母亡き後は、実父共々、龍子が建ててくれた青露庵に落ち着き、そこで、四十四歳の生涯を閉じることとなる。
 龍子は、明治三十七年(一九〇四)、十九歳のときに、国民新聞社(現在の読売新聞社)の「明治三十年画史」に応募当選し、明治四十年に国民新聞社に入社して、挿絵などを担当する。当時は写真画像よりも挿絵画像が持て囃され、それで名を成していく。同時に、洋画で文展入選など、当時は日本画ではなく洋画の道を歩んでいた。
 そして、龍子は、大正二年(一九一三)に、国民新聞社員のまま渡米して、七ヶ月の滞在の後に帰国して、洋画を捨て日本画に転向する。茅舎は、この頃から、父の寿山堂に習って俳句を始め、一高受験に失敗の後に、龍子が断念した洋画の道に入って行く。以後、茅舎は、龍子とその妻夏子の庇護の下にあって、洋画の修業と共に、龍子が知己としていた「ホトトギス」などで俳句との係わりを深くしていく。
 昭和三年(一九二八)、茅舎、三十一歳のときに、母を亡くして、この年から、龍子が建ててくれた青露庵に移り、以後、昭和十六年(一九四一)、四十四歳で亡くなるまで、完全に、龍子一家に面倒を見て頂くことになる。
 すなわち、俳人として一時代を画した茅舎は、物心両面にわたって、茅舎以上に画人として一時代を画していた龍子の世話になっており、画人・龍子無くして俳人・茅舎は存在しなかったと言っても、決して過言ではなかろう。
 と同時に、俳人としての茅舎の才能を他の誰よりも認めていたのは、これまた、龍子であり、そして、茅舎もまた、画人として龍子のとてつものない才能を陰に陽に見守り続けていたと言って、決して過言ではかろう。
 龍子は、太平洋戦争後、まずもって、茅舎の句業の総決算ともいうべき『定本川端茅舎句集』を、茅舎の師の虚子と虚子の側近の深川正一郎の手を借りて実現する。そして、太平洋戦争中に亡くなった妻と戦死した子息の鎮魂のために、昭和二十五年から足掛け六年にわたって四国遍路を決行する。この四国遍路の同行者は、『定本川端茅舎句集』を実質的に編んだ、「ホトトギス」の俳人・深川正一郎であった。
 この龍子の四国遍路の記録は、『詠んで描いて 四国遍路』(小学館)にまとめられている。この「四国遍路」だけではなく、その後の、「西国巡礼」・「板東三十三ヶ寺巡礼」・「奥の細道行」など、それは、亡くなった茅舎を始め龍子の肉親者に対する鎮魂の行脚であったように思えてならないのである。
 ここで、川端龍子略年譜 [括弧書きは「茅舎略年譜]を付記して置きたい。

(付記)

川端龍子略年譜 [括弧書きは「茅舎略年譜]

1885(明治18) 和歌山市の呉服商の長男として生まれる。
1895(明治28) 家族とともに上京。初め浅草に、後、日本橋に移る。
[1897(明治30) 茅舎、東京都日本橋蛎殻町に生まれる。]
1907(明治40) 国民新聞社に入社。第1回文展に初入選。
1913(大正2) 渡米。帰国後日本画に転向。
[1914(大正三年 茅舎十七歳。この頃母は芸妓置屋「三日月」を営み、茅舎はその二階の一間を「茅庵」と称し、自分を「茅舎」と号して、父の寿山堂に習って俳句を始める。医学を目指しての一高受験に失敗。本郷春日町の藤島武二絵画研究所に通う。]
1915(大正4) 第2回日本美術院展初入選。[茅舎十八歳。「ホトトギス」虚子選(初入選)。] 
1916(大正5) 第3回院展、樗牛賞受賞。
1917(大正6) 第4回院展入選。日本美術院同人に推挙される。
1920(大正9) 新井宿に住居と画室を新築。
[1921(大正10) 茅舎二十四歳。岸田劉生に師事。龍子の家に出入りし、龍子の妻・夏子の庇護を受ける。]
1928(昭和3) 日本美術院同人を辞退。[茅舎三十一歳。母ゆき死亡。龍子が建てた家(青
 露庵)に父と共に移る。この頃、倉田百三の妹艶子と恋愛。]
1929(昭和4) 青龍社樹立宣言。第1回展開催。[茅舎三十二歳。春頃から特に病弱となる。十二月、岸田劉生急死。]
[1930(昭和5)茅舎三十三歳。妹晴子(生まれて直ぐに他家に養女)急逝。「ホトトギス」一辺倒になる。]
1931(昭和6) 朝日賞を受賞。 [茅舎三十四歳。脊椎カリエスのため昭和医専付属病院に入院。]
[1933(昭和8) 茅舎三十六歳。八月四日、父寿山堂死亡。]
[1934(昭和9) 茅舎三十七歳。五月、龍子の妻・夏子の紹介で、第一生命相互保険会社の「あをきり句会」の指導を始める。十月、第一句集『川端茅舎句集』を刊行。]
1937(昭和12) 帝国芸術院会員に任命されたが4日後に辞退。
[1939(昭和14)茅舎四十二歳。五月、第二句集『華厳』刊行。六月、小野房子を九州に訪ね、筑紫に遊ぶ。]
1940(昭和15) 満州国新京美術院長に就任。 [茅舎四十三歳。一月以降次第に病状悪化。九月、高野素十を新潟に訪ねる。]
[1941(昭和16) 茅舎四十四歳。七月、第三句集『白痴』刊行。その月の十七日に永眠。「青露庵茅舎居士」と龍子が戒名を付け、伊豆修善寺の川端家の墓地に埋葬。]
1944(昭和19)7月龍子の妻・夏子死亡。11月三男嵩戦死
[1946(昭和21) 九月『定本川端茅舎集』刊行(発行者は茅舎になっているが、龍子が虚子と深川正一郎に遺稿を託して刊行)。]
1950(昭和25) 四国遍路に赴く。
1955(昭和30) 古稀記念第1回龍子の歩み展開催。
第1回大観・玉堂・龍子展開催。
1958(昭和33) 青龍社30周年記念第2回龍子の歩み展開催。
第29回ヴェネチア・ビエンナーレ展に出品。
1959(昭和34) 文化勲章受章。
1962(昭和37) 喜寿記念第3回龍子の歩み展開催。
1963(昭和38) 龍子記念館開館。
1966(昭和41) 池上本門寺祖師堂天井画「龍」制作。
4月10日死去。80歳。従三位に叙せられる。



(茅舎追想その七) 龍子と茅舎の号の由来など

 龍子は、その「わが画生活」で、その生い立ちと「龍子」の号の由来を次のとおり克明に記している(『川端龍子(菊地芳一郎著)』)。

[ 私の母勢以は平野なおの独り娘で、しかも平野家の戸主であった。父信吉も亦川端家へ養子に這入った戸主であった。戸主同志は法律上婚姻の手続きを踏むことは出来ない。そこで私は戸籍面には、父の認知による庶子男として届けられた。そんな戸籍面を知らず居た私は、徴兵検査の必要から、自分の謄本を取ってみると、そこに意外なる事実が記載されて居た。それのみか、それを手渡した戸籍吏の冷笑的にも皮肉的にも、私をさげすんだ様な眼の色は、純真だった私の心を傷けずには措かなかった。戸籍謄本を見て始めて知った自分の何か情ない様な境遇、嫡男ではなく庶子という身分、これからの自分の一生を支配する、いわば不幸の出発点のやうな気がして、心の底から湧いてくる父への憎念を抑へることは出来なかった。父は母勢以の入籍について合法的な手続きをとらず、異母弟茅舎(信一)の生母ゆきを入籍させ、本来庶子であるべき信一が一転して川端家の嫡子になり、私は名実共に法律上では父の庶子に成り終ってしまった。こうして、母と私を裏切った父の行為、そこで私は「俺は誰のでもない龍の落し子なのだ」という気概に揺すぶられて自らこの雅号を附し、これこそ自分の生んだ芸術上の戸籍なのだとして、その当時の心の調和を図ろうとした。そして、私は、この時限り父への望みを棄て、私から新しい別の川端家を創めるという強い反撥心をもって起き上がった。私は龍子の雅号に因んだ定紋(宝珠)を制定して、私を第一代とする新しい川端家を誕生させたのである。 ]

 龍子とは「龍の落し子」、これこそが「川端龍子」の、その号の由来なのである。後に、詩人の佐藤春夫は、龍子に対して、次のような賛辞を呈する。まさに、「龍の落し子」が飛龍になって一大画人として大成するのである。

[ 明治以来今日までのわが芸術界にあって、名手や妙手なら決して少なくないが、真に巨匠と呼ぶにふさわしいのはただ一人川端龍子ぐらいものではないだろうか。(佐藤春夫「朝日新聞・巨人の足あと、龍子の歩み展を見る」) ]

 その異母弟「川端茅舎」の「茅舎」の号の由来もいろいろと謎が隠されている。その略年譜を見ると、次のように記されている。

[1914(大正三年 茅舎十七歳。この頃母は芸妓置屋「三日月」を営み、茅舎はその二階の一間を「茅庵」と称し、自分を「茅舎」と号して、父の寿山堂に習って俳句を始める。医学を目指しての一高受験に失敗。本郷春日町の藤島武二絵画研究所に通う。]

 この略年譜の「茅庵」・「茅舎」というのは、文字とおり、「かやぶきの家。茅屋(ぼうおく)」の「茅葺きの粗末な棲まい」のような意であろう。そして、芭蕉の「茅舎の感」と題する「芭蕉野分して盥に雨を聞(きく)夜哉」を想起させる。その芭蕉の句は、杜甫の「茅屋秋風ノ破ル所ト為るル歌」を踏まえており、いかにも、俳人「茅舎」の号の由来に相応しいように思われるのである。
しかし、事実はそんな生易しいものではなく、この「茅舎」というのは、旧約聖書の「レビ記」に出てくる「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」(出エジプト後の荒野放浪時代に神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせたことに由来する祭)の「仮庵」(茅舎)というのが、その真意らしいのである(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親著・蝸牛俳句文庫)』)。
 茅舎には、「茅舎」という号の他に、「遊牧の民」・「俵屋春光」という号での投句も散見される(『川端茅舎(石原八束著)』)。この「俵屋春光」の「俵屋」は、茅舎の父の川端家の屋号が「俵屋」であり、その屋号に由来がある。そして、この「遊牧の民」というのは、どうやら、異母兄の龍子が、当時、転々と住所を替えて移り住む、茅舎や茅舎の父親などに呈した戯言に由来のあるもののようなのである。
 この「遊牧の民」から旧約聖書の「茅舎」(仮庵)というのが、どうやら、俳人・川端茅舎の「茅舎」の号の由来のようなのである。
 これらのことについて、茅舎は何も語ってはいない。しかし、茅舎が亡くなる年に刊行された、茅舎の第三句集の『白痴』の冒頭の章(「青淵」)の冒頭の句(「大旱天智天皇の『秋の田』も」)に、どうやら、茅舎は、自分の号の由来を託したようなのである。
 この『白痴』の冒頭の章名の「青淵」は、「川端」の姓の意にもとれるのである。そして、その冒頭の句の、「大旱天智天皇の『秋の田』も」の、この「天智天皇」の「秋の田」の歌は、百人一首の、「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ 我が衣手は露にぬれつつ」で、どうやら、この茅舎の句は、その天智天皇の「秋の田」の「本歌取り」の句と解せられるのである。
 すなわち、その冒頭の章名とその冒頭の句からすると、「青淵」の「川端」の「かりほの庵」の「茅舎」という意が、これらの中に込められているということになる。

 川端龍子の「龍子」が「龍の落し子」という、何とも、意表を突いたものならば、川端茅舎の「茅舎」も、「ヨルダン川のほとり(川端)の仮庵の茅舎(遊牧の民の「テント」)というのが、これまた、何とも絶妙な号の由来のように解せられるのである。



(茅舎追想その八) 龍子が建てた茅舎句碑

 龍子も茅舎も伊豆修善寺の龍子が「川端家」ならぬ「川端系之墓」と刻んだ墓域の一角に眠っている。「修善寺を墓地に撰んだのは、おそらく夏子夫人がこの地を愛し、ために『青々居』なる別邸までこの地につくった、にもかかわらず、夏子夫人は、遂にこの別邸に住む日もなく、終戦を一年前にして十九年の七月に没しいかれた。それへの追善供養と言う意味を含めて、ここを永遠の地としたことでもあったろう」として、「父祖伝来の墓地は、今和歌山市内に現存する」(『川端龍子(菊地芳一郎著)』)とのことである。
 この和歌山市内にある川端家の父祖伝来の墓地には、「昭和十年(一九三五) 三十八歳。十月、龍子の妻夏子と一緒に、和歌山市へ父母の墓参」(「川端茅舎略年譜」)とあり、茅舎と龍子の夏子夫人は訪れている。そして、ここには、龍子や茅舎の父の寿山堂などが眠っているのであろう。
さて、この「川端系之墓」と刻んだ墓域の一角に、龍子が建てた茅舎句碑がある。「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の一句である。この句は、昭和五年(一九三〇)「ホトトギス」十一月号の巻頭の四句のうちの一句である。その四句は次のとおりである。

○白露に阿吽(あうん)の旭さしにけり
○白露に金銀の蠅とびにけり
○露の玉百千万も葎(むぐら)かな
○ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな(「ひろびろ」の「びろ」は二倍送り記号の表示)

 「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の句意は、「芭蕉の広い葉に乗った露が、仏教浄土の実相図をなしている」(『川端茅舎(石原八束著)』)というようなことであろう。茅舎追善句碑の句としては、誠に相応しい句であろう。また、茅舎は、「露の茅舎」とも「茅舎浄土」とも言われ、それらの面からも、これを句碑の句として撰んだ龍子というのは、茅舎の俳人生というものを正しく見抜いていたという思いを深くする。
 と同時に、茅舎が瞑目したときに、龍子は、茅舎の「青露庵」の庭に咲いていた、芭蕉の花を、その茅舎の棺に入れるのであるが(「庭の花(虚子)」)、何故か、龍子にとっては、茅舎というのは、「青露庵」の庭の一角に植えられていた芭蕉の想い出と共に在るのではないだろうか。
さらに、想像を逞しくするならば、龍子は後に「奥の細道」行脚を決行しており、茅舎の「俳人生」というものを「俳聖芭蕉」のそれと重ね合わせているのではなかろうか。
ここで、俳聖芭蕉の「茅舎の感」の前書きのある次の一句を掲げて置きたい。

  茅舎ノ感
○芭蕉野分して盥に雨を聞(きく)夜哉  芭蕉

 この前書きの「茅舎ノ感」は、深川芭蕉庵をさす(『武蔵曲』・『泊船集』など)。『禹柳伊勢紀行』の前書きでは、「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」とある。この「老杜」とは杜甫、坡翁は蘇東坡のこと。また、芭蕉の句の「盥」は「手水盥」のことであろう。句意は「吹き荒ぶ野分の中の草庵、その草庵の中に独居して、芭蕉の激しく吹き破られる葉音と手水盥に響く雨漏りの音がひとしお身にしみる」というようなことであろう。
 川端茅舎の、その「茅舎」の号は、その号を使用した当初の頃は、茅舎自身、芭蕉の「茅舎ノ感」とは直接関係がなくとも、俳人・川端茅舎ということになると、芭蕉の「茅舎ノ感」のある、この芭蕉の句などを思い浮かべることは自然のことであろう。
 そして、茅舎の異母兄の龍子が、茅舎の墓の脇の句碑として、茅舎の数少ない、芭蕉を句材とした句の中で、「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」を撰んだということは、宿痾で夭逝した異母弟・茅舎の一生は、俳諧一筋に生きた俳聖芭蕉の申し子のようだったと、そのように理解することこそ、何故か、龍子と茅舎の意に添うような、そんな感慨を抱くのである。



(茅舎追想その九) 茅舎と龍子の「阿吽」の句


○白露に阿吽(あうん)の旭さしにけり  茅舎

 『川端茅舎(石原八束著)』の鑑賞文は次のとおりである。

[ 昭和五年十一月「ホトトギス」雑詠の巻頭を飾った茅舎開眼の一作として有名である。雑詠欄の巻頭は大正十三年十一月号以来二度目である。この期の茅舎が仏語を用いてまず「時雨」という自然の詩情を把握することに成功していたことは、その佳品をもいくつかあげてさきに言った。同じ手法で「露」の世界の断面をハスに切って鮮やかな新世界を展開せしめたのが、上掲の作をはじめ後に説くこの期の露の佳品である。阿吽という仏語は剣道や相撲の世界などにも転用されて、呼吸の合った説明に用いられているから、ここでは詳しくは言わない。白露の玉がきらッと光るその一瞬の気息に、発止と合って朝日の閃光がさしたというのである。思わず息をのむようなこのあやしい小宇宙には、鉱質の結晶と化した露の白玉だけが存在するのである。露の白玉を鉱質の結晶と見立て、それをやはり仏語の「金剛」という文字で表現した「金剛の露ひとつぶや石の上」はこの作の一年後に登場するが、その下地はすでにこの「阿吽」の発想のときにあったといっていいだろう。


 さて、龍子にも、「阿吽」の一句がある。
 
○台風を阿吽に受けて二王かな   龍子

 龍子は、昭和二十五年(一九五〇)から昭和三十年(一九五五)にかけて、四国八十八カ所の「四国遍路」の行脚を決行する。同行者は、『定本川端茅舎句集』の編集者の「ホトトギス」同人の深川正一郎さんと龍子の三女の紀美子さんである。昭和二十五年というと、龍子、六十五歳の時で、この年には、龍子の話題作の「金閣炎上」などが制作された年である。
 掲出の句は、第三十八番札所「金剛福寺」での作である。同時の作に、「台風にあらがひここに札所あり」「台風の渦中に遍路揉みくちやに」がある。この時の龍子の紀行文は次のとおりである。

[ 土佐の海岸線は長い。第二十四番室戸(岬)の最御寺から、第三十八番の足摺(岬)の金剛福寺まで延々実に八十余里の遍路である。四国もここまで来ると海は黒潮の紺碧いよいよ強く、遍路の白衣も浸せば染みそうである。地には熱帯性の樹木が繁茂して、南洋のジャングルのように暗い。如何にも最果ての気分が濃ゆい。折しも台風雨来! 断崖を噛み、灯台を揺り、寺門を襲う。ここに民衆の危惧の念を救護の為に、大師の発願は金剛福寺を建立される。  ]

 掲出の龍子の句の「阿吽」の二字、そして、この掲出句を生んだところの「金剛福寺」の「金剛」、この時に、龍子は、亡き異母弟の茅舎のことなどが脳裏にあったのではなかろうか。龍子は黙して語らない。この紀行文の、「民衆の危惧の念を救護の為に、大師の発願は金剛福寺を建立される」の、「民衆」という二字もまた、龍子を探るキィーワードである。
 茅舎には、「民衆のための創作活動」ということとは無縁であるが、龍子には、「民衆・大衆のための美術行動・会場芸術」という大きなスローガンがあった。

[ 日本画の歴史に展覧会の施設が加へられて以来、たとへ外面的にも日本画の様子の変わったことは事実です。そして、もとより真正の会場芸術とは銘打てないまでも、明治この方展覧会の作品は、所謂床の間芸術とは調子を別にして、兎も角進展を続けて居るのです。これは今では、画業――展覧会――時代――観衆――会場芸術という関係が、日本画家の一部に朧気ながら判って来た結果だと思はれます。 ]

 これは、昭和六年(一九三一)の「第三回青龍社展出品目録」での、龍子の「会場芸術」の宣言の一部なのであるが、この宣言のとおり、龍子の主たる作品は、屏風絵などの大画面表現の大作が、その主流をなしていた。
 その一方で、龍子は、「南洋点描」「南方草描」「仏印草描」「盛夏草描」などの、小品の、いわゆる、龍子の造語の「草描画」をも発表して、これら「草描画」は、小画面に抜群の筆技による水墨・淡彩が施され、まさに、龍子の独壇場のものであった。
 龍子の、戦後の四国遍路に関するものは、これらの「草描画」に属するものであるが、これらの、小画面の水墨・淡彩画を目の当たりにすると、茅舎のミクロの世界の俳句の世界と軌を一にするものに思い至る。
 と同時に、茅舎の俳句の世界や、いわゆる、これらの龍子の小品の草描画の世界は、決して、「画業――展覧会――時代――観衆――会場芸術」の、いわゆる、大作主義の作品に比して、その規模の大小によるインパクトということは別にして、その質的な面において、「これぞ龍子」という生の姿と共に親近感すら抱かせるのである。
 
 すなわち、龍子は、茅舎の、ミクロの珠玉のような「小宇宙」の真の理解者であり、そして、龍子は、そのミクロの珠玉のような「小宇宙」を、その「草描画」と、茅舎と同じように、俳句という作品を添えて、今に遺しているということを実感するのである。
 

 


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