二つの中国とは、中華民国と中華人民共和国のことだ。
今から70年前、この二つの中国は、中国大陸で武力抗争していたが、戦後はもっぱらスポーツの分野で対立している。オリンピックとかスポーツの国際大会で対立するので、スポーツの分野での問題かというと、そうではなく、立派な政治問題なのである。
対立の中身を見てみると、
1956年(メルボルンオリンピック)
台湾は中華民国の国旗を掲揚した。すると北京の中共は怒って引き揚げてしまい、不参加となった。この後、IOCは、台湾選手の胸のマークは「China」ではなく、「Taiwan」と表示することを義務付ける。
当時は、蒋介石が健在で、国連の常任理事国には「中華民国」が存在していた。この頃の中華民国は、中共との力の差は歴然としていたが、大陸反攻を目指して、鼻息だけは荒く、台湾だなどと、一地方の名称が自分の国を表わすなどは、我慢できない状態であった。
1958年(アジア大会)
この時は、IOCの方針に基づいて、「中華民国」を「台湾」と表示し、選手の胸には「Taiwan]のマークが付いていた。しかし、中国大陸の正当な後継者を標榜する国民党は、IOCや国連が中共の言いなりになって、あれはだめ、これはだめと言ってくることに腹がたって仕方がない状態であった。
1960年(ローマオリンピック)
台湾は、ボイコットを示唆して、「台湾」という表示を「中国」または、「中華民国」に変更することを要求したが、拒否される。この大会では、アミ族出身の「楊伝広」が十種競技で銀メダルを獲得している。しかしながら、国際的には、中共の存在が増していくのと反対に、台湾は影は薄くなっていく。
1964年(東京オリンピック)
日本は、台湾が「China」と表示をすることを認めなかった。中共の存在はあらゆる場面で無視できないほど大きくなっていたからだろう。
では、国の表示はどうするか?・・・・・・・ 苦悩する台湾は、アメリカが提案する「chinese Taipei」を受け入れ、ようやく一応の解決を見た。台湾の国民党の幹部は、歯がゆい思いであったろうが、台湾生まれの若者たちの多くは、そんなことは少しも気にしなくなっていた。この頃から、自分を「中国人」ではなく、「台湾人」と呼びたがる人達が増えてきていたからだった。
台湾は国際情勢の中でますます孤立化を深めてはいたが、東京オリンピックには参加した。聖火がギリシャから香港を経て、9月6日に台北に到着したときは、台北第一の大通り「中山北路」は人波であふれ、歓迎の爆竹が鳴ったという。
この頃の中共の考え方は、「台湾チームは、中国の一部である台北という都市から来たチームであることは認めるが、中華民国という国を認めたわけではないので、国旗も国歌の演奏も認めない。」というものだった。これは当時の党主席「小平」の路線であったが、台湾の国民党にしてみれば、「それはこっちのセリフだ!」と言いたいところだったろう。
1972年、ニクソンの訪中後、国連の常任理事国には中華民国に代わって、中共が加わり、日本も中共の政治的、経済的な存在を認めざるを得ず、同年田中首相のときに、中共と国交を回復し、同時に中華民国台湾とは、国交を断絶した。
しかし、国交は断絶したが、台湾と日本の経済や文化の交流は以前にもまして盛んになり、大陸などとは比べ物にならないくらい、よりよいパートナーになっている。
2012年(ロンドンオリンピック)
経済的に独自の発展を遂げている台湾にとっては、孫文や蒋介石の「中華民国」ではなく、まして毛沢東の「中共」でもない、第三の選択肢として「台湾」と表示するほうが国民感情にあっているようだ。
以前は、「中華民国」にこだわっていたために「台湾」という表示を素直に受け入れなかったが、現在では、台湾独立という気運がみなぎっており、さらに名よりも実を重視する成熟した台湾人が増えているため、国民感情も変化しているようだ。少し前までは、国名なんてどうでも好いと考える人がおおかったが、現在は台湾にしたいと考える人が多くなっているように思える。
以上