goo blog サービス終了のお知らせ 

台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

二つの中国

2013年09月10日 | 歴史

 二つの中国とは、中華民国と中華人民共和国のことだ。

 今から70年前、この二つの中国は、中国大陸で武力抗争していたが、戦後はもっぱらスポーツの分野で対立している。オリンピックとかスポーツの国際大会で対立するので、スポーツの分野での問題かというと、そうではなく、立派な政治問題なのである。

対立の中身を見てみると、

1956年(メルボルンオリンピック)

 台湾は中華民国の国旗を掲揚した。すると北京の中共は怒って引き揚げてしまい、不参加となった。この後、IOCは、台湾選手の胸のマークは「China」ではなく、「Taiwan」と表示することを義務付ける。

 当時は、蒋介石が健在で、国連の常任理事国には「中華民国」が存在していた。この頃の中華民国は、中共との力の差は歴然としていたが、大陸反攻を目指して、鼻息だけは荒く、台湾だなどと、一地方の名称が自分の国を表わすなどは、我慢できない状態であった。

1958年(アジア大会)

 この時は、IOCの方針に基づいて、「中華民国」を「台湾」と表示し、選手の胸には「Taiwan]のマークが付いていた。しかし、中国大陸の正当な後継者を標榜する国民党は、IOCや国連が中共の言いなりになって、あれはだめ、これはだめと言ってくることに腹がたって仕方がない状態であった。

1960年(ローマオリンピック)

 台湾は、ボイコットを示唆して、「台湾」という表示を「中国」または、「中華民国」に変更することを要求したが、拒否される。この大会では、アミ族出身の「楊伝広」が十種競技で銀メダルを獲得している。しかしながら、国際的には、中共の存在が増していくのと反対に、台湾は影は薄くなっていく。

1964年(東京オリンピック)

 日本は、台湾が「China」と表示をすることを認めなかった。中共の存在はあらゆる場面で無視できないほど大きくなっていたからだろう。

 では、国の表示はどうするか?・・・・・・・  苦悩する台湾は、アメリカが提案する「chinese Taipei」を受け入れ、ようやく一応の解決を見た。台湾の国民党の幹部は、歯がゆい思いであったろうが、台湾生まれの若者たちの多くは、そんなことは少しも気にしなくなっていた。この頃から、自分を「中国人」ではなく、「台湾人」と呼びたがる人達が増えてきていたからだった。

 台湾は国際情勢の中でますます孤立化を深めてはいたが、東京オリンピックには参加した。聖火がギリシャから香港を経て、9月6日に台北に到着したときは、台北第一の大通り「中山北路」は人波であふれ、歓迎の爆竹が鳴ったという。

 この頃の中共の考え方は、「台湾チームは、中国の一部である台北という都市から来たチームであることは認めるが、中華民国という国を認めたわけではないので、国旗も国歌の演奏も認めない。」というものだった。これは当時の党主席「小平」の路線であったが、台湾の国民党にしてみれば、「それはこっちのセリフだ!」と言いたいところだったろう。

 1972年、ニクソンの訪中後、国連の常任理事国には中華民国に代わって、中共が加わり、日本も中共の政治的、経済的な存在を認めざるを得ず、同年田中首相のときに、中共と国交を回復し、同時に中華民国台湾とは、国交を断絶した。

 しかし、国交は断絶したが、台湾と日本の経済や文化の交流は以前にもまして盛んになり、大陸などとは比べ物にならないくらい、よりよいパートナーになっている。

2012年(ロンドンオリンピック)

 経済的に独自の発展を遂げている台湾にとっては、孫文や蒋介石の「中華民国」ではなく、まして毛沢東の「中共」でもない、第三の選択肢として「台湾」と表示するほうが国民感情にあっているようだ。

 以前は、「中華民国」にこだわっていたために「台湾」という表示を素直に受け入れなかったが、現在では、台湾独立という気運がみなぎっており、さらに名よりも実を重視する成熟した台湾人が増えているため、国民感情も変化しているようだ。少し前までは、国名なんてどうでも好いと考える人がおおかったが、現在は台湾にしたいと考える人が多くなっているように思える。

以上

 


アミ族野球団

2013年09月03日 | 台湾の中の日本

台湾における野球の歴史のはなしである。

 鈴木 明の著書「ああ、台湾」によれば、台湾で最初に野球をやったのは「アミ族」だという。アミ族は、台湾の東海岸に住み、漁業などを行う、どちらかといえばおとなしい原住民だ。

 日本統治下の台湾で行政官をしていた「江口良三郎」が、アミ族の子供たちに「ボール投げ」を教えたのが始まりという。1923年(大正12年)6月には、花蓮港の花岡山グラウンドで、アミ族を中心としたチームと日本チームがゲームをしており、アミ族のエース「サウマ」が延長16回を投げ抜き、サヨナラ・ホーマーでアミ族が勝ったという。このあと、このメンバーが中心となり「能高団」というチームを結成している。

 1925年(大正14年)、この「能高団」は日本遠征をして、各地でゲームを行なった。当時の朝日新聞は、訓練された立派なチームで、あなどりがたい実力を持っていると評価している。

 チーム「能高団」の活躍は、アミ族ばかりでなく、台湾全土の少年たちに強い影響をあたえたという。この野球に対する熱い思いは、戦後になっても続き、リトルリーグでの台湾チームが、世界を制覇した時の台湾人の喜びは、はかり知れないものがあった。一生懸命やれば、自分たちだって、世界一になれるという自信を持ったのがその時であった。

 台湾から日本のプロ野球に来て活躍した名選手たちを書いておこう。

郭源治  台東のアミ族出身。中日ドラゴンズで活躍していた。

荘勝雄  台南出身の台湾人。確か、ロッテオリオンズで活躍していたと思う。

郭泰源  台南生れの台湾人 長栄高校野球部出身。巨人軍行きたかったらしいが、西武に入団。時速160kmを超える剛速球で人気があった。今は、どうしているのだろうか。

1925年は昭和の初めであるが、アミ族を中心に台湾原住民による野球チームができていたことは驚きではないだろうか。少なくとも、花蓮のアミ族の文化レベルはかなり向上していたのであろう。

 野球のことを考えながら、蛇足のように、ふと「霧社事件」のことを考えてしまう。

 ここでもまた「霧社事件」を引合いに出してしまうが、霧社と花蓮はそれほど離れてはおらず、花蓮のアミ族は野球チームをつくって、日本遠征までしているのに、同じ時期に、霧社のセデック族は、理不尽な強制出役で苦しんでいたというギャップに違和感を持つ。

 蛇足のついでに、「霧社事件」の記録を読むと、その当時、霧社蕃地方は植民地政策として成功し、理想的な統治がおこなわれていたと、書かれているが、それは認識不足もいいところであろう。

 霧社蕃の現実は、道路をつくれ、山林を伐採しろ、小学校などの寄宿舎を建設しろなどと、強制出役などがあり、さらに労賃はごまかされ、原住民の娘は弄ばれるなどで、人間扱いされない最悪の条件であった。だから、日本人に反抗して事件が起きたのであり、山地行政は非常にまずかったのである。

 これに反して、アミ族は野球をして、日本遠征までしている。文化や生活レベルの差が歴然としているが、その差はどうして生まれたのであろうか。

 おそらく、巡査などの行政官の資質によるところが大きかったのではないだろうか。台湾の中でも山岳地帯は、僻地扱いで、左遷されてきたり、食い詰めた人たちが流れてきたりで、まともな行政政策が行なわれなかったからであろう。

 アミ族の野球の話が、霧社事件との比較になってしまったが、何気ない出来事にも深い意味があることを考えてしまう。

以上

 


霧社の花

2013年08月31日 | エピソード

 バカン・ワリスは、台湾原住民の村「霧社」では誰もが認める美人だった。

 1908年生まれ、モーナ・ルダオと同じ「マヘボ社」出身、その可憐な容姿で「霧社の花」といわれていた。「霧社事件」当時、22歳、事件の中を逃げ延びて生き残った数少ない原住民の一人だ。

 タイヤル族やセデック族を語る時、どうしても「霧社事件」を引合いにださざるを得ないが、それは100人を超える日本人を殺した「霧社事件」が大きな出来事であったからであり、反対に、もしこの事件が起きていなければ、「バカン・ワリス」も「モーナ・ルダオ」も歴史の舞台には登場せず、我々もその存在を知ることはなかったはずだ、とも思われるからである。

 1990年、「台湾 霧社に生きる」の著者、柳沢通彦はその本の中で、インタビューした「下山 一」が「バカン・ワリス」に会ったときのことを書いているが、その時バカン・ワリス82歳になっていたが、下山 一は彼女を見て「初々しい山の娘が、そのまま歳をとったようだ。」と感想をもらしている。美人は歳をとってもどこかその面影が残っているものなのである。

 ちなみに、下山 一(中国名 林光明 1914年生まれ)は、霧社に駐在していた警部補「下山治平」と原住民の妻「ピッコタウレ」との間にできた子供であり、存命とすれば100歳近く、埔里市に住んでいる。霧社事件後、セデック族は、台中県の川中島に強制移住させられたので、バカン・ワリスもそこで暮らしていた。下山 一は、柳沢の依頼で会いに行ったと思われるが、彼女は、孫たちに囲まれて暮らしており、日本語はほとんど忘れてしまっていたが、、代わりに山の歌をうたってくれたという。

 どのような美人か気になるところだが、幸いなことにその写真が残っていた。写真は「霧社討伐写真帖」という、「霧社事件」を記録した雑誌に載っていた。国会図書館にでも行けばみられるであろうが、「霧社の三美人」と題された写真には、バカン・ワリスを真ん中にして、その両側に妹の「ウマ・ワリス」ともう一人の娘が写っていた。年齢はティーンエイジの頃と思われ、民族衣装を着た三人は、すらりとしたかわいい山の娘たちだ。確かに、ほんとうに美人でかわいい。

 さて、そのバカン・ワリス、結婚したが、1年ほどで離縁されてマヘボ社の実家に帰ってきた。男たちが、そんな美人をほっとかないのは、古今東西変わらないが、そのバカンに痛く心を奪われたのが、「モーナ・ルダオ」の長男の「タダオ・モーナ」だった。

 タダオ・モーナは何とかして「バカン・ワリス」を得ようとしたが、妻もいれば子供もいる。まして、頭目の長男であれば、世間の目も厳しい。自分が独身で、他の男とバカンの奪い合いをするのであれば、早く首をとったほうが勝ち、ということになるのであるが、そういうわけにもいかない。タダオ・モーナは、夫と別れたばかりのバカン・ワリスの後ろ姿を見て、悶々とした日を過ごしていた。

  ピホ・ワリスによれば、タダオ・モーナのこのむしゃくしゃした気持ちが、「霧社事件」を起こした大きな要因の一つであると「霧社緋桜の狂い咲き」という本の中で書いている。1929年から1930年頃のことであろうが、日本人警察の非道な扱いに対して、反乱を起こす計画が進行中であり、その実行を強く主張したのがタダオ・モーナだった。彼の内には、バカンワリスのこと、また吉村巡査に暴行をはたらいたことで、官憲に目をつけられていることなどが、悩みとしてあった。

 彼の行きどころのない悩みが爆発したのは、1930年10月27日の未明だった。日本人殺害計画は、その日に予定されている運動会で実行する手筈であったが、タダオ・モーナは、まず手始めに、造材地にいる吉村巡査や近くの駐在所に勤務している杉浦巡査の首を切って喊声をあげた。日本人134人の命を奪った「霧社事件」のはじまりだった。

 この後、タダオモーナは、父モーナ・ルダオの後を継いで勇敢に闘うが、やがて日本軍に追いつめられてしまう。弾薬や食糧がない状態で仲間がつぎつぎ自決していく。そこへ日本軍に投降した妹のマホン・モーナが日本軍の降伏勧告の使者となってタダオ・モーナのところにやってくる。タダオ・モーナはその話を聞いて「投降」ということも考えたが、日本人が自分を許すことは絶対あり得ない。セデックの勇者として闘いの場で死ぬしかないと考えていた。しかし、死ぬにしても、のどが渇き腹が減った状態では死ぬに死ねない。

 そこで、タダオ・モーナは、仲間とともに投降するからと嘘をいい、妹のマホン・モーナに酒を要求する。やがて酒が届くと、部下とともに飲み、立ち上がり、歌いながら踊りだした。歌の内容は、死んだ妻や息子たちのことだ。要は、自分ももうすぐそちらに行くから、待っててくださいという悲しい内容だ。マホン・モーナはそれを聞いて、兄は投降する気がないことを悟る。

 踊り終わると、妹のマホン・モーナに向かって「自分の土地は全部お前にやる。」との遺言を残し、数人の部下とともにマヘボの森に消えてゆき、酔いの醒めないうちに縊死を遂げたという。

 タダオ・モーナのバカン・ワリスへの片思いだけが「霧社事件」の原因ではないが、それにしても悲しい恋の結末ではないでしょうか。

以上

 


台湾蛮族図絵

2013年08月21日 | 台湾の中の日本

 「台湾蛮族図会」という雑誌がある。

 これは1896年(明治29年12月)に発行された風俗画報という雑誌の臨時増刊号だ。日本の台湾領有が1895年だから、その翌年に特集した雑誌である。台湾の植民地開発をすすめるなかで、首狩り族として恐れられている、台湾原住民の実態を調査したものだった。

 その当時、台湾には大きく分けて、4種類の人種がいた。まずは17世紀頃から大陸から移住した中国系台湾人がいた。、次は台湾に紀元前から住み着いていた原住民、これは二つの種類に分けられる。まずは、「生蕃」といって文明人とほとんど交流をもたず、山岳地帯に独自の生活圏をもっていた種族で、首狩りの風習があり、もう一種族は、原住民でありながら、台湾人などと交流をもち、文明を受け入れて生活している種族で「熟蕃」と呼ばれていた。そこに新たな統治者として日本人が住むようになったわけだ。

 日本人は台湾全土を開発しようとして少しずつ奥地に侵入する、そうはさせじと「生蕃」は武器をもって立ち向かう。原住民と日本人とのすさまじい闘争は日常的に起きていたのだろう。

 「台湾風俗絵図」の解説を読むと、その事件は1896年(明治29年)1月に台北で起きた。「土匪が四方に蜂起し・・・」云々と書いているが、いわゆる多数の「生蕃」が武器をもって台北城を襲うという事件が起きた。その頃、台北には四方を城壁で囲んだ城があったが、現在もその名残がある。それは、ともかくとして、

 日本軍は城から撃って出てこれを敗走させた。そのなかで、生蕃のリーダーらしき者が追撃されて、「馬來社」という原住民のに逃げ込んだという。しかし、その生蕃のリーダーにとっては運が悪かったことに、そこは「熟蕃」のであり、その事情を知った民は、生蕃のリーダーを捕えて日本軍の守備隊に引き渡し、しきりにその首を切れと促したという。

 そのリーダーは捕縛されていたが、「その縛法、奇なり」という。両手を前にひき揃えて、藤蔓で肘から手首までがっちりを巻き締め、もう一つの藤蔓で輪をつくり、それを首にはめて手綱とし、その手綱をもって引きまわしたという。それは「猿」を扱うに等しい状態で、手綱をもった原住民は、鞭を手に持ち、その鞭で叩きながら、とらえたリーダーを進退させる光景は、人間業とは思えなかったという。

 当時は日本人は、「生蕃」を人間扱いはしなかったが、原住民同士でも、敵の部族の人間は、家畜くらいにしか見ておらず、いとも簡単に命を奪い、その扱いは想像を超えているようだ。

 さらに読んでみると、「日本人」と「生蕃」、「生蕃」と「熟蕃」の殺し合いは生々しく、それは憎しみのぶつけ合いであり、凄まじい報復合戦であった。

 台湾領有後、日本は生蕃の居住地を1年に1里というから、約4kmずつ侵奪していった。その前線には隘勇(アイユウ)や隘丁(アイテイ)がいた。隘勇は軍人で大尉位のものがなったというから、台湾軍の日本人であったであったろうし、、隘丁はその配下の兵士で、普段は農耕に従事しているが、敵の襲撃あれば武器をもって戦うという屯田兵であった。

 隘丁には、その多くが「熟蕃」たる原住民がなったという。前線には城郭のような砦を築き、土塀をつくって「生蕃」の襲撃に備えた。このような砦を生蕃の居住地を取り囲むように幾つも造り、それらの砦をつないだ線を「隘勇線」と呼び、毎年少しずつ前進させたという。

 この隘丁が「生蕃」を殺すやり方が凄まじい。夜中に、多数でひそかに生蕃の村落を囲み、老若男女の区別なく、ことごとく縛り上げて、耳や鼻をそぎ落とし、腕を切り落として、足を断ち、頭は切り落とさずに、森の中に捨て置いたという。このように一つの村を全滅させることもたびたびあったという。

 したがって、「生蕃」の隘丁になった「熟蕃」に対する憎しみは、並大抵のものではなく、その仕返しは眼を覆いたくなるような惨状であった。同じ原住民のくせに、日本人にこびへつらい、同族に銃を向けるとは何事かというところだろう。

 その報復の一例が載っている。武装した多数の「生蕃」が隘丁として働いていた「熟蕃」一家を皆殺しにした事件であった。

 事件の直後、現場をみて、「その残忍なること見るに忍びない。」と書いている。一家の主夫婦とその子供二人、主人の兄弟二人の6人の「首なし死体があったという。死体は大木にあおむけに縛られおり、鈍刀をもって首を切ること、数度に及び、顎に切りつけたり、胸にあたったりして、ようやく首を落としたような痕跡があったという。主人の死体は、さらに手を殺ぎ、足を断っており、憎しみがことのほか深かったようだとある。

 この隘丁たる「熟蕃」は、一家で樟脳製造を目的として、生蕃地域内に忍び入り、樟樹を伐採したり、生蕃がつくった作物を残らず盗ってしまい、また歩哨などをして、近づく「生蕃」を狙撃していたため、「生蕃」では、予めその一家せん滅を決定していたという。

日本が領有を始めたころの台湾は、なんとも凄まじい闘争の地であったようだ。

以上


日本時代の台湾人

2013年08月17日 | 

 台湾人の日本統治時代の思い出は複雑だろう。侵略した異民族として嫌悪する人もいれば、近代的な国づくりをしてくれた民族として評価してくれる人もいる。このあたりの事情を一人の台湾人を通して考えてみたいと思う。

 李培燦は1923年(大正12年)に台北で生まれ、今年90歳になる生粋の台湾人で、わたしからすれば、遠い縁戚にあたる。日本統治時代の生まれであり、小学校、中学校と日本語の教育を受け、和歌や短歌をつくることができるほどに日本語が堪能である。

 高齢になった現在の楽しみは、昔覚えた日本語を話すことなのだそうだ。息子家族や孫に囲まれて生活しているが、彼らは日本語は話さない。だから、たまに日本人に会うと、昔のことを思いつくままに、まるで日頃のうっ憤を晴らすかのように、際限もなく日本語を話す。

 今年の春にその李さんと円卓を囲み家族そろって夕食を共にすることがあった。その時李さんは、日本人の私にぜひ見せたいといって、文集ををもってきた。それは、李さんが卒業した「台北第二中学校」の文集であり、その中学校に通う生徒が書いたものを冊子にしたものだった。当時、李さんは17歳位だから、約70年間大事に保管していたことになる。

 李さんは、その冊子をめくって、自分が書いた文章を私に見せてくれた。その文を書いたことで、担任の先生に大いにほめられ、国語については試験の成績に関係なく、最高点をくれたと自慢していた。

 李さんは、親切にも、その部分をコピーしたものを持参していたので、その原稿用紙2枚くらいの文を読んでみた。

 テーマは「皇国民の一員として」であり、「三年乙、李培燦」と印刷してあった。当時17歳とすれば、1940年頃であり、日本は中国大陸を侵略して満州帝国をつくりあげ、それに反対する蒋介石を追いかけまわして、日中戦争は泥沼の様相を呈してきた頃だ。太平洋戦争は、その翌年にはじまった。

 文は「皇紀2600年」という文字から始まる。はじめの部分を引用してみよう。

 「皇紀二千六百年、本年は実に一億同胞の慶賀にたえない年である。けれども国運の発展は国民のたえざる協力一致なしには期待することは出来ぬ。・・・・・・」という内容からはじまっているが、台湾人でありながら、よくもここまで立派な日本文を書けたものだと感心せざろうえない。統治時代の台湾における国語教育はレベルが高く徹底したものだったようだ。

 李さんが、褒められたのは、その文章はさておき、その主張がすごい。皇民化運動が広まり、やがて姓名まで日本風にしようという流れを、それは台湾人の義務であるといって賞賛していた。当時の教師とすれば生徒がそこまで日本の政策を受け入れてくれたのだから、よほどうれしかったに違いないが、今日の私からすれば、被統治民がそこまでするかと、呆れる思いもする。

 李さんの主張はさらにエスカレートする。当時日本は軍国主義のまっただ中におり、台湾領有のほかに朝鮮を併合しており、中国大陸での戦争が拡大し、兵隊はいくらでもほしかった。この状況下で、朝鮮には、いち早く志願兵制度ができた。このことに対して、李さんは、台湾には志願兵制度ができていないことに不満をもち、弟(朝鮮)に先を越されてと抗議めいた文を書いたのだった。担任の先生も、教え子の国を思う気持ちに感激したのではなかろうか。

 そこまで日本人におもねるかという見方もあるが、李さんは、日本におもねようとしたのではなく、本当に日本が好きだったようだ。李さんは、その後、日本の大学に留学し、まもなく太平洋戦争がはじまり、戦後になって台湾に帰った。

 李さんの苦い思い出は、この後起きた。国民党が台湾にきて、蒋介石の独裁がはじまる。まもなく「228事件」が起き、李さんは無実の罪で10年ほど投獄されてしまう。考えようによっては、殺されなかっただけ、幸運だったともいえる。そんなわけで、よけいに日本びいきになったともいえる。

 李さんは今でも日本が大好きだし、日本の伝統的な文化だけでなく、相撲などの取組みがあれば、毎日観ているという。李さんの青春時代は、日本の教育の中でつくられたものだし、それをすばらしい伝統として評価しているのだ。できるならば、一生日本人として生きたかったに違いない。

日本が大好きな李さんがつくった短歌を載せておこう。これも李さんが大事にしている思い出なのだ。

「 垣根越し ふと見上ぐれば 大空を 爆音高く すぐる荒鷲 」 

 戦争時代に青春だった李少年の思いは、国を思う日本人の少年と変わることがない。頭上を過ぎる日本機を見るたびに、自分も国のために戦いたかったに違いない。

 わたしの個人的な感想ではあるが、戦後国民党の反日的な教育により、若い人たちは、日本を悪者あつかいして嫌う人も多かったが、戦後、日本に来て、そして日本人と話し合って、けっして日本人は悪者ではないと理解して、日本が好きになってくれる人が多いような気がする。

 李さんは今でも自分が卒業した「台北第二中学校」の校歌を覚えている。卒業は、昭和15年のようだが、話しているうちに、その当時に戻ったかのように、李さんは校歌を口ずさんでいた。李さんがコピーしてくれた第二中学校の第一校歌は7番まである。ずいぶん長い校歌だとも思う。李さんのためにその一番を書いておこう。

1、鵬程万里涯もなき 地は南涯の一孤島 あまねき君の御光に 開け行くなり文の道

 皇国思想一色で、これでも校歌かと思うが、軍国主義時代を考えればしかたがないだろう。しかし、それでも李さんは、その校歌を誇りにして、90歳になった現在も忘れない。 日本時代の台湾人には李さんのような日本好きが多いことを忘れないでほしい。

以上