眠脳休間農場に宿泊した翌朝、民宿オーナーは近くにある、森林鉄道の駅「天送碑駅」に案内してくれた。もちろん、鉄道は廃止されているので、駅は、記念碑的に残されているにすぎないが、駅舎には切符販売用の窓口があり、その真上には各駅までの料金表が残されていた。近くには新装されたトイレ、駅舎の側には幅70cmのレールがそのままで保存されていた。レール幅が狭いのは、事業専用の軽便鉄道であるからだろう。そして、ここにもまた、鉄路に沿って桜が植えられており、日本時代を懐かしむ風情だ。
日本時代を懐かしむ気持ちは、年配の台湾人一般にみられるが、台湾人の中でも、漢人より台湾原住民の方がより強いような気がする。これについてはついては確たる証拠がある訳ではないが、日本時代、部族ごとに異なる言語をもっていた原住民に、共通言語を与え、教育と健康と文化的な生活を与えた日本人に独特な親愛感をもっているような気がする。
太平洋戦争当時高砂義勇兵として活躍した山地原住民の気持ちは、あれこれ調べていくうちに、あながち上から強制されたものではなかったように思えてならないのだ。太平洋戦争が始まってから、山地原住民が進んで「皇軍」に参加しようとしたのは、まがりなりにも日本人の価値観に共感してくれたからであり、今でもその名残が原住民の間に残っているような気がしてならない。
台湾原住民の話しはさておき、民宿オーナーが見せてくれた、日本時代の森林伐採事業などの当時写真集は興味深いものがあった。鉄道が山地を走る風景やそこで働く人々の記念写真など日本時代を知るには貴重な資料であった。
その写真集をパラパラとめくっていると、たいへん面白い写真があった。その写真を指さして、民宿オーナーに見せると、にっこり笑っていた。その笑顔を見ていると、この人にはタイヤル族の血が混じっているのかなとも考えてしまう。余談だが、現代の台湾人の70%位に、程度の差はあるが、原住民の血が混じっているという調査結果あることを本で読んだことがある。特に台湾の東海岸沿いにはアミ族、北部にはタイヤル族などの原住民が多い地域でもあるからだ。
話しをもどして、面白い写真のことだが、その写真には、巨木を伐採している日本人が写っていた。日本人は、若い夫婦であると写真の下に説明書きがあるが、職人風の夫は、斧で樹を楔型に切っており、巨木の一方の端には、日本髪を結った妻が和服をタスキでまとめて、大木に穴を開けている姿と説明されていた。
その大木を夫婦の身長と比べてみると、直径は6m位はあるように見えるのだ。平成の現在でさえ、これだけの大木を伐採するとなれば、それ相応の重機と人数が必要と思われるが、太平山の山奥で夫婦二人は、象に食らいついたアリンコのように、巨木を倒そうとする姿が大変ほほえましく思えた。時期は森林鉄道が開通した頃、大正から昭和にかけての頃のようだ。海を越えて台湾に渡る夫について行った妻が、夫の仕事を手伝っているのだ。
夫は巨木を前にして、妻にいう。「いっちょ、この木を切ったるが、手伝ってくれんか?」 妻は喜んでかえす、「あいよ!」てな感じではなかったろうか。
明治から大正にかけて世の中には、しっかり者で魅力的な女性が多かったようである。
以上