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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

眠脳教育休間農場(2)

2013年05月23日 | 自然

 眠脳休間農場に宿泊した翌朝、民宿オーナーは近くにある、森林鉄道の駅「天送碑駅」に案内してくれた。もちろん、鉄道は廃止されているので、駅は、記念碑的に残されているにすぎないが、駅舎には切符販売用の窓口があり、その真上には各駅までの料金表が残されていた。近くには新装されたトイレ、駅舎の側には幅70cmのレールがそのままで保存されていた。レール幅が狭いのは、事業専用の軽便鉄道であるからだろう。そして、ここにもまた、鉄路に沿って桜が植えられており、日本時代を懐かしむ風情だ。

 日本時代を懐かしむ気持ちは、年配の台湾人一般にみられるが、台湾人の中でも、漢人より台湾原住民の方がより強いような気がする。これについてはついては確たる証拠がある訳ではないが、日本時代、部族ごとに異なる言語をもっていた原住民に、共通言語を与え、教育と健康と文化的な生活を与えた日本人に独特な親愛感をもっているような気がする。

 太平洋戦争当時高砂義勇兵として活躍した山地原住民の気持ちは、あれこれ調べていくうちに、あながち上から強制されたものではなかったように思えてならないのだ。太平洋戦争が始まってから、山地原住民が進んで「皇軍」に参加しようとしたのは、まがりなりにも日本人の価値観に共感してくれたからであり、今でもその名残が原住民の間に残っているような気がしてならない。

 台湾原住民の話しはさておき、民宿オーナーが見せてくれた、日本時代の森林伐採事業などの当時写真集は興味深いものがあった。鉄道が山地を走る風景やそこで働く人々の記念写真など日本時代を知るには貴重な資料であった。

 その写真集をパラパラとめくっていると、たいへん面白い写真があった。その写真を指さして、民宿オーナーに見せると、にっこり笑っていた。その笑顔を見ていると、この人にはタイヤル族の血が混じっているのかなとも考えてしまう。余談だが、現代の台湾人の70%位に、程度の差はあるが、原住民の血が混じっているという調査結果あることを本で読んだことがある。特に台湾の東海岸沿いにはアミ族、北部にはタイヤル族などの原住民が多い地域でもあるからだ。

 話しをもどして、面白い写真のことだが、その写真には、巨木を伐採している日本人が写っていた。日本人は、若い夫婦であると写真の下に説明書きがあるが、職人風の夫は、斧で樹を楔型に切っており、巨木の一方の端には、日本髪を結った妻が和服をタスキでまとめて、大木に穴を開けている姿と説明されていた。

 その大木を夫婦の身長と比べてみると、直径は6m位はあるように見えるのだ。平成の現在でさえ、これだけの大木を伐採するとなれば、それ相応の重機と人数が必要と思われるが、太平山の山奥で夫婦二人は、象に食らいついたアリンコのように、巨木を倒そうとする姿が大変ほほえましく思えた。時期は森林鉄道が開通した頃、大正から昭和にかけての頃のようだ。海を越えて台湾に渡る夫について行った妻が、夫の仕事を手伝っているのだ。

 夫は巨木を前にして、妻にいう。「いっちょ、この木を切ったるが、手伝ってくれんか?」       妻は喜んでかえす、「あいよ!」てな感じではなかったろうか。

 明治から大正にかけて世の中には、しっかり者で魅力的な女性が多かったようである。

以上

 


眠脳教育休間農場

2013年05月22日 | 自然

 眠脳教育休間農場は、リゾート宿泊施設で台湾流の分類でいえば「民宿」になる。所在地は、「宜蘭県三星郷天福村東興路32-1」、宜蘭市街から内陸方面へ車で約30分、のどかな水田や畑が広がる農村のど真ん中にある。地域の特徴は、東には中央山脈、西には雪山山脈に囲まれた盆地であり、晴れた日には台湾第2の標高の「雪山(3,886m)」を見ることができる。

 眠脳は「ミンノウ」と発音し、昔からそこに住んでいたタイヤル族の言葉で、近くにある「太平山」の旧名を漢字表記したものであり、「鬱蒼とした森林」を意味すると案内書にあった。それに「眠脳」という漢字をあてたのであるが、眠脳という漢字は、本来、脳を休めるつまり、休息を意味するが、わたしはあえて、自然の空気をいっぱい吸って、眠っている脳を教育する農場と解釈したくなった。それほどこのあたりの自然の風景は、心身をリフレッシュさせる効果があるように思えた。

 宿泊施設はバス・トイレ付のワンルームであり、木製のフローリングの床に直接布団を敷いて、わたし達家族8人は、文字通り枕を並べて寝た。液晶テレビが1台置いてあるだけでガランとしており、中学生が林間学校などで宿泊するには、理想的な感じであった。

 宿泊費は、一人NT500元(日本円で1600円位)、朝食付きだ。朝食は、豆乳とサンドイッチの簡素なもので、この民宿オーナーのおじさんが、朝早く起きて、近くの売店で買ってきたものである。お金をかけずに旅をする人達には、もってこいの施設であろうし、自然な台湾を知るには理想的であると思った。

 この付近は、日本植民地時代、近くにある「太平山」から木材を伐採して発展した農村であり、その当時は、太平山から港がある羅東まで木材運搬用の鉄道が走っていた。鉄道は1920年頃に敷設されたようで、1960年まで事業用としてつかわれていたが、その後は観光用として1978年まで運行、現在は廃止されて、鉄路や駅が記念碑的に残されているだけだ。

 太平山は標高1950mで、日本時代は木材生産の現場であった。紅檜や柳杉などの巨木が生育していたようで、説明書には、樹齢1000年の紅檜の巨木を伐採して、日本の東郷神社の建築の用材としたとある。この「紅檜」を、台湾人オーナーは、「ベニヒ」と発音しており、植民地当時、日本人が発音していたままの言葉で残っていた。

 そういえば、明治神宮の入口にある大きな鳥居が、台湾から搬送された樹木であることは知っていたが、もしかすると太平山で切り出した樹木であるかもしれない。チャンスがあれば、明治神宮の大きな鳥居の説明書きをもう一度読んでみよう。