日本時代の台湾人が、なぜ日本贔屓なのかについて考えることがある。 もちろんすべての台湾人が日本好きというわけではないが、台湾生まれの本省人は、日本時代を懐かしむ傾向にある。
ここで紹介する太平洋戦争当時、日本海軍の少年工であった陳さんは、台湾生まれの本省人である。日本好きの台湾人として、陳さんの言動がたいへん面白いので紹介したくなったのだが、それは作家阿川弘之が、戦後二十数年ぶりに台湾を訪れたときの感想を、座談会風にまとめたものだった。
作家阿川弘之の本として記憶に残るのは、「山本五十六」であるが、何年かぶりに読み返して阿川氏の戦争観や人間観に考えさせられてしまう。
阿川弘之と台湾の関わりであるが、昭和17年、東京大学に在学時、海軍の予備学生として出征し、高雄の南にある東港へ行き、その近くにある入江で海軍の基礎教育を受けたという。その入江には 当時海軍が世界に誇る飛行艇の基地があったという。
その入江とは、大鵬湾のことであり、外洋とは狭い入口で通じており、水深があり、飛行艇の基地としては理想的であったらしい。現在は「大鵬湾国家風景区」として市民の憩いの場になっており、わたし自身何度か行ったことがあるが、10年ほど前から再開発が進み、湾の周りには自転車道を整備するなどして美しい公園として生まれ変わっている。
ちなみに、東港は高尾市南方の漁業の町で、マグロなどの漁獲が多く、そのほとんどを日本へ輸出しているという。わたしの妻の故郷でもあり、わたし自身何度もおとづれている。
さて、はなしは阿川弘之氏に戻るが、
おそらく1970年頃であろうが、阿川氏は二十数年ぶりに、その昔訓練を受けた「大鵬湾」を訪れた時、戦争当時「日本海軍の少年工」だった陳さんと再会し、陳さんの案内で、阿川氏は、懐かしい東港の街をあるきながら、いろいろおかしなこと(?)があったという。
この陳さんは、少年ながら頭がよく、さらにたいへんな海軍びいきで、軍艦や駆逐艦などすべての艦艇の名前や形を覚えており、少年工として大変可愛がられたという。阿川氏と陳さんの出会いは、大鵬湾での訓練の時であり、戦後もそのお付き合いは続いているという。
まず、東港を訪ねて行ったとき、昔その町の小学校の校長だったおじいさんと会ったとき、阿川氏は失礼のないようにと、「民国31年(1942年)頃、私はここにおりまして」と云ったら、「年号は昭和で言わないとわからないよ」とたしなめられて、涙が出そうになったという。
そうなんです、そんな風に日本語の達人がいたるところにいるんです。そのやりとりを読んでいて、わたし自身目頭が熱くなりました。
東港駅にも行ったというが、1970年当時は、まだ林辺から東港まで鉄道が敷設されており、その間に大鵬という駅があったという。現在は、この支線は廃止されており、東港駅も大鵬駅もない。
阿川弘之が訪ねた当時は、まだ東港には鉄道があったが、駅員たちは、阿川氏が「東港航空隊」にいたことを知ると「東港航空隊、懐かしいね」といって、電車に乗せてくれたという。
途中の大鵬駅は、日本海軍が大鵬湾の基地のために造ったものであり、阿川氏は、そんな駅はもうないだろうと思って、「タイホウエキ(大鵬駅)まだあるんですか?」と聞いたところ、「タイホウじゃないよ、おおとりだよ」と云われたという。
阿川氏は、戦後になっても日本式の訓読みが、残されていることに驚きつつ感動したという。台湾には至るところに、日本語が残っているが、植民地政策に反発しながらも、どこかしら日本的なものを受け入れていたのだろう。その国の言葉を大切にすることは、その国の文化を尊重することなのだが、それが日本贔屓につながっていると思う。
また、陳さんは、はなしの最中に、しきりに「負けたとき、負けたとき」いうので、阿川氏は「あなたたちにとっては、勝った時なんじゃないの?」と云うと、陳さんは、「いいえ、わたしは日本人、支那人大嫌い」と云って笑ったという。
阿川氏は、台湾にはこういう人が多いのだと感じたというが、そう感じた人は阿川氏だけではないのだ。特に、台湾生まれの知識人にいたっては、日本びいきがどこにでもいる。
日本好きで有名な李登輝は、22歳まで日本人であったといって、外省人の反発をかったが、日本の伝統を大事にするという素直な気持ちを言ったまでだ。
また、こういう云い方もできる。好きとか嫌いという感情は、絶対的なものではなく、ものごとを無意識に比較していることが多い。先に、陳さんが冗談のように「わたし日本人、支那人大嫌い」と云ったようなことだろう。
台湾生まれの台湾人が、日本時代を懐かしむのは、228事件に端を発した国民党による「白色テロ」の恐怖を体験しているからだろう。そこには、日本の植民地時代を肯定するわけではないが、国民党の時代よりはましだ、という本音が感じられる。
「李登輝友の会」の会長をしているという阿川弘之氏は、現在も会長なのかどうか確認していないが、この先、台湾がどのように進んでいってほしいと考えているのだろうか。
以上