goo blog サービス終了のお知らせ 

台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

日本時代の台湾人(日本海軍少年工)

2014年01月17日 | 

 日本時代の台湾人が、なぜ日本贔屓なのかについて考えることがある。 もちろんすべての台湾人が日本好きというわけではないが、台湾生まれの本省人は、日本時代を懐かしむ傾向にある。

 ここで紹介する太平洋戦争当時、日本海軍の少年工であった陳さんは、台湾生まれの本省人である。日本好きの台湾人として、陳さんの言動がたいへん面白いので紹介したくなったのだが、それは作家阿川弘之が、戦後二十数年ぶりに台湾を訪れたときの感想を、座談会風にまとめたものだった。

 作家阿川弘之の本として記憶に残るのは、「山本五十六」であるが、何年かぶりに読み返して阿川氏の戦争観や人間観に考えさせられてしまう。

  阿川弘之と台湾の関わりであるが、昭和17年、東京大学に在学時、海軍の予備学生として出征し、高雄の南にある東港へ行き、その近くにある入江で海軍の基礎教育を受けたという。その入江には 当時海軍が世界に誇る飛行艇の基地があったという。

 その入江とは、大鵬湾のことであり、外洋とは狭い入口で通じており、水深があり、飛行艇の基地としては理想的であったらしい。現在は「大鵬湾国家風景区」として市民の憩いの場になっており、わたし自身何度か行ったことがあるが、10年ほど前から再開発が進み、湾の周りには自転車道を整備するなどして美しい公園として生まれ変わっている。

 ちなみに、東港は高尾市南方の漁業の町で、マグロなどの漁獲が多く、そのほとんどを日本へ輸出しているという。わたしの妻の故郷でもあり、わたし自身何度もおとづれている。

 さて、はなしは阿川弘之氏に戻るが、

 おそらく1970年頃であろうが、阿川氏は二十数年ぶりに、その昔訓練を受けた「大鵬湾」を訪れた時、戦争当時「日本海軍の少年工」だった陳さんと再会し、陳さんの案内で、阿川氏は、懐かしい東港の街をあるきながら、いろいろおかしなこと(?)があったという。

 この陳さんは、少年ながら頭がよく、さらにたいへんな海軍びいきで、軍艦や駆逐艦などすべての艦艇の名前や形を覚えており、少年工として大変可愛がられたという。阿川氏と陳さんの出会いは、大鵬湾での訓練の時であり、戦後もそのお付き合いは続いているという。

 まず、東港を訪ねて行ったとき、昔その町の小学校の校長だったおじいさんと会ったとき、阿川氏は失礼のないようにと、「民国31年(1942年)頃、私はここにおりまして」と云ったら、「年号は昭和で言わないとわからないよ」とたしなめられて、涙が出そうになったという。

 そうなんです、そんな風に日本語の達人がいたるところにいるんです。そのやりとりを読んでいて、わたし自身目頭が熱くなりました。

 東港駅にも行ったというが、1970年当時は、まだ林辺から東港まで鉄道が敷設されており、その間に大鵬という駅があったという。現在は、この支線は廃止されており、東港駅も大鵬駅もない。

 阿川弘之が訪ねた当時は、まだ東港には鉄道があったが、駅員たちは、阿川氏が「東港航空隊」にいたことを知ると「東港航空隊、懐かしいね」といって、電車に乗せてくれたという。

 途中の大鵬駅は、日本海軍が大鵬湾の基地のために造ったものであり、阿川氏は、そんな駅はもうないだろうと思って、「タイホウエキ(大鵬駅)まだあるんですか?」と聞いたところ、「タイホウじゃないよ、おおとりだよ」と云われたという。

 阿川氏は、戦後になっても日本式の訓読みが、残されていることに驚きつつ感動したという。台湾には至るところに、日本語が残っているが、植民地政策に反発しながらも、どこかしら日本的なものを受け入れていたのだろう。その国の言葉を大切にすることは、その国の文化を尊重することなのだが、それが日本贔屓につながっていると思う。

 また、陳さんは、はなしの最中に、しきりに「負けたとき、負けたとき」いうので、阿川氏は「あなたたちにとっては、勝った時なんじゃないの?」と云うと、陳さんは、「いいえ、わたしは日本人、支那人大嫌い」と云って笑ったという。

 阿川氏は、台湾にはこういう人が多いのだと感じたというが、そう感じた人は阿川氏だけではないのだ。特に、台湾生まれの知識人にいたっては、日本びいきがどこにでもいる。

 日本好きで有名な李登輝は、22歳まで日本人であったといって、外省人の反発をかったが、日本の伝統を大事にするという素直な気持ちを言ったまでだ。

 また、こういう云い方もできる。好きとか嫌いという感情は、絶対的なものではなく、ものごとを無意識に比較していることが多い。先に、陳さんが冗談のように「わたし日本人、支那人大嫌い」と云ったようなことだろう。

 台湾生まれの台湾人が、日本時代を懐かしむのは、228事件に端を発した国民党による「白色テロ」の恐怖を体験しているからだろう。そこには、日本の植民地時代を肯定するわけではないが、国民党の時代よりはましだ、という本音が感じられる。

 「李登輝友の会」の会長をしているという阿川弘之氏は、現在も会長なのかどうか確認していないが、この先、台湾がどのように進んでいってほしいと考えているのだろうか。

以上

 


日本時代の台湾人(陳啓民)

2013年12月24日 | 

 日本時代の台湾人、年代的にいえば、大正から昭和10年くらいまでに生まれ、現在80歳を超える人達だが、共通しているのは日本好きという点だ。

 植民地時代の生まれであり、日本人から、日本語で教育を受けたからといってしまえば、それまでだが、この日本好きの傾向は教育程度が高い男性に共通しているように思える。

 陳啓民さんも日本大好きの台湾人の一人で、私は囲碁を通して陳さんに出会った。陳さんは囲碁が好きで、台北の復興南路にある囲碁クラブでよく対局しているという。80歳というが、その堂々たる体格は年齢からすれば並はずれている。身長は、180cm位、体重は90kg位ありそうで、大柄な李登輝と並んでも遜色はないだろう。

 昭和10年の生まれとすれば、10歳までは日本語の教育を受けていたわけだから、日本語が流暢なのはわかるが、陳さんは、源氏物語や平家物語などの古典をはじめとして、海音寺潮五郎や司馬遼太郎の歴史小説まで読みこなすというから、たいへんな語学力なのだ。

  しかし、陳さんが受けた日本語教育は、1945年日本の敗戦、つまり陳さんが10歳の時点で、終わっている訳だから、源氏物語を読むような高い日本語能力はどのようにして身につけたのだろうか。是非とも聞いてみたいところだ。

 1945年、台湾は中華民国に返還され、陳さんを含む多くの子供たちは、中国語を学ばなければならなくなった。

 外来政権が日本から中華民国に代わり、話す言葉も変わる中で、おそらく陳さんは大変な努力をしながら、台湾大学を卒業しているが、中国語で学位をとりながら、日本語の研鑽も忘れなかったのだろう。

 李登輝が日本好きなのは有名だが、陳啓民さんを見ていると、李登輝の日本好きは決して珍しいことではなく、大正から昭和にかけて生まれた台湾人に共通した特徴ではないだろうか。

 次に逢う機会があれば、どうして日本が好きなのか、聞いてみたい。

以上


総統府のガイド

2013年12月17日 | 

2013年12月12日、台北の総統府を見学した。

 総統府の内部が一般公開されたのは、何年前からだろうか、1996年発行のブルーガイド台湾、つまり18年前のガイドブックには、内部見学ができるとは書いていない。

 内部見学はできるようにはなったが、現在も使用中の公館であり、警備は厳しい。

 南側の通用門から見学を申し込むと、胸に憲兵マークのある制服を着た若い軍人が、パスポートを要求、見せると総統府の敷地内に入ることを許可してくれた。憲兵とはいっても、いかつい感じはなく、20代であろうか、韓流に出てくる俳優のようで、好青年だ。

 総統府の守備といえば、昔流にいえば、近衛軍であり、国の最も大事な建物を守る軍人なのだから、かなりのエリートに違いない。個人的なことをいえば、わたしは台湾の若い軍人が好きである。理由はといえば、まじめで、明るい感じで、自分の国が大好きそうに見えるからだ。

 そんなことを考えながら、入口近くにある独立した小さな建物の内部に並ぶように指示される。受付係の中年の女性は、パスポートの内容をノートに記入し、それが済むと、「総統府参観證」というまるいワッペンを渡して胸につけるようにいった。事務的だが、目は歓迎のまなざしで暖か味がある。そこを出て、少し進むと日本語の流暢な台湾人ガイドが現われて、これから内部を見学しますが、写真撮影は禁止ですと、説明してくれた。このガイド、ボランティアだそうだが、どことなく愛嬌があり、こんな仕事を進んでやるくらいだから、日本人が好きなのであろう。

 内部に足を踏み入れると、台湾人の中・高生のグループが多いが、彼らにとっても珍しい場所であるのだろうし、私たちのほかに、日本人のグループは見かけなかった。

 内部は個室に分かれており、総統府建築当時の写真資料や甲午戦争後の馬関条約(下関条約)など、歴史的に貴重な資料が展示されている。そのなかで特に目を引いたのは、昭和天皇の直筆のサインと思われる文書であった。墨で「裕仁」と骨太に書かれており、少し横に曲がっているのが、何ともいえない風情を感じた。見学は早足なので、じっくり見ている暇がなかったが、おそらく、敗戦により、台湾を中華民国に返還する条約へのサインであろうと思われた。

 総統府には、脱出用の地下道が三つあると、ガイドはいう。一つは、総統府の北側に通りをはさんで建っている台湾銀行の地下に通じているといい、もう一つは、南側に隣接しているホテル(貴陽大飯店のことだろうか?)に通じているという。最後の一つは、私にもわかりませんと言っていた。想像するに、総統府の東側には、介寿公園と228記念公園が広がっており、樹木がうっそうとしているが、そこのどこかにつながっているのかもしれない。

 脱出用通路がいつできたかは、聞かなかったが、おそらく、大陸での戦いに敗れた蒋介石が、台湾に移ってきた後であろうと思う。中共軍がいつ攻めてきてもおかしくない情勢であり、また、台湾人のことも信用していなかったからだろう。

 総統府は、日本時代の1919年(大正8年)に建てられたが、その当時の名称は「台湾総督府」であり、日本の植民地政策を実施する最高権力の象徴であった。戦後は、「総統府」と名前をかえて中華民国の行政機関となり、現在に至るまで、大事に扱われているが、そこには台湾人の日本(made in Japan)に対する気持ちが現われている。ちなみに、朝鮮にも同じような「総督府」が置かれていたが、日本の敗戦とともに、跡形もなく破壊されている。

 はなしを戻して、この総統府には歴代の総統の写真が飾られている。蒋介石、厳家金、蒋経国、李登輝、陳水扁、そして現総統の馬英九と続く。ガイドは、中庭から三階の執務室を指さして、あそこの窓辺に何人か人が見えますが、今、馬総統がいるようですと私達の注意をうながしながら、現総統の馬英九について、ひとしきり感想を述べた。

 馬総統は、外見は格好がいいし、ハーバード大学を卒業するくらいだから頭もよく、学者としての能力は高いが、政治的能力、特に経済問題については全く駄目だという。総統に当選した当時は、80%近い支持率があったが、今は何%くらいになっているかわかりますかと質問してきた。私は、40%位かなとこたえると、とんでもない10%ですといい、早く辞めたほうがいいと、あっさりと切って捨てた。

 そこは、総統府の中で、しかも現総統に敬意を表してか、馬総統の功績が写真入りで展示してある一室だ。そんなところで、ガイドは声を低めるどころか、他の見学者にも聞こえるような声で、国のトップを平気でけなすことに驚くとともに、蒋経国が生きていたら、決してそんなことは言えないはずだなどと考えながら、台湾もやっと民主的な国になったのだと実感した。

 台湾が、台湾出身の総統になって三代目、この率直なガイドを見て、台湾人の長年の夢が実現したのであり、名実ともに民主国家の仲間入りを果たしたのだが、多くの台湾人の本音である「台湾独立」はいつになるのだろうか。

以上

 


李登輝(1)

2013年09月21日 | 

李登輝 この人から新しい台湾がはじまったといっても過言ではないだろう。

 1923年(大正12年)1月15日生まれ、今年で90歳になっている。本籍は福建省永定県、祖先は閩西客家人に属するが、台湾に移住後長い年月を経たので台湾語(閩南語)しか話せない。但し、李登輝は日本時代に教育を受けているので、日本語は流暢に話す。

 著書「台湾の主張」で述べているように、1945年22歳まで日本人として教育を受けた李登輝は、源氏物語や平家物語などの日本の古典をはじめとして、西田幾多郎の「禅の研究」や和辻哲郎の「風土」など多くの書物を読んでおり、日本人以上に日本的な心を理解していることを知る必要があるように思える。

 学歴は、台北高校から京都大学(農業経済学を専攻)に留学しているので、太平洋戦争中は日本で過ごしたはずである。京都大学時代には日本文学、西洋文学それに中国の思想にいたるまで広範な読書遍歴を行なっているが、マルクス主義に興味を持ったのもその時期で、マルクスやエンゲルスの本を読み漁ったという。

 戦後、台湾に戻り、台湾大学に入学しているが、この時期に共産党の地下組織に加わったのは、京都大学時代のマルクスなどの読書の影響であろう。しかし、マルクス主義を学んだことで、李登輝の農業経済学の理論は、より一層高度で現実的なものになったようだ。

 その後、1965年にアメリカのアイオワ州立大学やコーネル大学に留学して農業経済学博士号を取得している。クリスチャンに興味をもったのはこの頃だろうか。なぜ、キリスト教に興味をもったかについては、李登輝自身の著作「台湾の主張」にも書いていないが、民主先進国アメリカの留学体験が大きかったのではないだろうか。帰国後、おそらく1970年頃と考えられるが、妻の曽文惠を伴って週に4~5回台北の教会に行って聖職者の話を聞ながら、神の存在を考えたという。

 想像をたくましくしていえば、国民党への入党を考えていた李登輝は、できるならば、国民党のトップと思想だけでなく、宗教も同じであるほうが、なにかと都合がいいと考えたからではなかろうか。当時のトップ蒋経国は青年時代にソ連に留学しており、マルクス主義の善悪をよく知っていたし、その宗教もロシア人の妻とおなじくキリスト教であったからだ。

  政治家としての出発点はは、1971年に国民党に入党したことに始まるだろう。1972年に行政院政務委員(農業政策担当)になったのを初めとして、1978年には台北市長に任命されたが、それは蒋経国が李登輝を育てるための人事だったといわれている。1981年に台湾省主席、1988年蒋経国が逝去すると、国民党の総統になった。台湾生まれの政治家が総統になったことで、以後台湾は民主化の道を歩むことになる。

 その意味では蒋経国も偉いといわざるを得ない。というのは、1985年12月の国民党の年次総会において、蒋経国は次期総統が蒋一族から出ることはないと言明したからである。新しい台湾をつくるには、新しい血が必要であることを一番痛感していたのは蒋経国であったろう。彼の英断がなければ、今でも蒋家の独裁政治が続いていたかもしれない。

 李登輝の政治理念

 明治以後の近代日本の発展を羨望するとともに、多元化された民主政治体制をもつアメリカや日本を理想の民主社会とみなしている。

 また、理想の民主社会を実現するには、健全なる野党が必要と判断しており、1986年9月に民主進歩党が結成されている。

 しかし、李登輝の計画からすれば、台湾の民主化はその手始めでしかない。彼の究極の目標は、台湾独立にあり、台湾人の、台湾人による、台湾人のための国をつくることであった。総統になった後、その目標は随所にあらわれてくる。

 たとえば、最近話題になっている「尖閣諸島」問題については、中国人留学生の前で「尖閣は日本領」といいきって、会場が騒然となったこともあった。

 中共のいうように「尖閣諸島」が中国のものなら、「台湾」も中国のものになってしまう。そうなれば自分の理想とは正反対の結果になってしまうので、あえて、「尖閣は日本領」ということにより、台湾の独自性を保とうとした、極めて政治的な判断であったように思う。

 しかし、李登輝は国民党に属していたが、そのあまりに台湾島重視の故に、総統退任後に党籍をはく奪されてしまう。

 だが、彼の理想は消えることなく、現在は「台湾団結連盟」を結成して、中華民国ではなく、「台湾」という国号を求める「正名運動」を推進している。彼は、今後の政策を次のように述べている。

 「蒋政権の長かった台湾は、国の立場が曖昧であったが、理想の国づくりには明確な目標が必要であり、台湾正名運動はその第一歩である。」

1、我々の国は「台湾」であり、中国ではない。

2、大陸の中華文明ではなく、台湾を主体にした教科書が必要である。

3、台湾の新憲法の制定。

4、国名を「台湾」または「台湾共和国」にする。

 この運動の余波として、蒋介石の号に因んだ「中正国際機場」が、「桃園国際機場」に改名された。民進党が政権をとった時に、この理想が実現するかもしれないと考えたが、トップの不祥事で政権が再び国民党に移り、李登輝の理想は少し遠のいているのが現状だ。

 現在の国民党は、名よりも実をとる方針であり、国名はどうでも「台湾」は独立しているのだから、過激なことは言わずに、大陸の中共とは経済交流などを通して適当に付き合っていくのが得策であると考えているようだ。

以上


日本時代の台湾人

2013年08月17日 | 

 台湾人の日本統治時代の思い出は複雑だろう。侵略した異民族として嫌悪する人もいれば、近代的な国づくりをしてくれた民族として評価してくれる人もいる。このあたりの事情を一人の台湾人を通して考えてみたいと思う。

 李培燦は1923年(大正12年)に台北で生まれ、今年90歳になる生粋の台湾人で、わたしからすれば、遠い縁戚にあたる。日本統治時代の生まれであり、小学校、中学校と日本語の教育を受け、和歌や短歌をつくることができるほどに日本語が堪能である。

 高齢になった現在の楽しみは、昔覚えた日本語を話すことなのだそうだ。息子家族や孫に囲まれて生活しているが、彼らは日本語は話さない。だから、たまに日本人に会うと、昔のことを思いつくままに、まるで日頃のうっ憤を晴らすかのように、際限もなく日本語を話す。

 今年の春にその李さんと円卓を囲み家族そろって夕食を共にすることがあった。その時李さんは、日本人の私にぜひ見せたいといって、文集ををもってきた。それは、李さんが卒業した「台北第二中学校」の文集であり、その中学校に通う生徒が書いたものを冊子にしたものだった。当時、李さんは17歳位だから、約70年間大事に保管していたことになる。

 李さんは、その冊子をめくって、自分が書いた文章を私に見せてくれた。その文を書いたことで、担任の先生に大いにほめられ、国語については試験の成績に関係なく、最高点をくれたと自慢していた。

 李さんは、親切にも、その部分をコピーしたものを持参していたので、その原稿用紙2枚くらいの文を読んでみた。

 テーマは「皇国民の一員として」であり、「三年乙、李培燦」と印刷してあった。当時17歳とすれば、1940年頃であり、日本は中国大陸を侵略して満州帝国をつくりあげ、それに反対する蒋介石を追いかけまわして、日中戦争は泥沼の様相を呈してきた頃だ。太平洋戦争は、その翌年にはじまった。

 文は「皇紀2600年」という文字から始まる。はじめの部分を引用してみよう。

 「皇紀二千六百年、本年は実に一億同胞の慶賀にたえない年である。けれども国運の発展は国民のたえざる協力一致なしには期待することは出来ぬ。・・・・・・」という内容からはじまっているが、台湾人でありながら、よくもここまで立派な日本文を書けたものだと感心せざろうえない。統治時代の台湾における国語教育はレベルが高く徹底したものだったようだ。

 李さんが、褒められたのは、その文章はさておき、その主張がすごい。皇民化運動が広まり、やがて姓名まで日本風にしようという流れを、それは台湾人の義務であるといって賞賛していた。当時の教師とすれば生徒がそこまで日本の政策を受け入れてくれたのだから、よほどうれしかったに違いないが、今日の私からすれば、被統治民がそこまでするかと、呆れる思いもする。

 李さんの主張はさらにエスカレートする。当時日本は軍国主義のまっただ中におり、台湾領有のほかに朝鮮を併合しており、中国大陸での戦争が拡大し、兵隊はいくらでもほしかった。この状況下で、朝鮮には、いち早く志願兵制度ができた。このことに対して、李さんは、台湾には志願兵制度ができていないことに不満をもち、弟(朝鮮)に先を越されてと抗議めいた文を書いたのだった。担任の先生も、教え子の国を思う気持ちに感激したのではなかろうか。

 そこまで日本人におもねるかという見方もあるが、李さんは、日本におもねようとしたのではなく、本当に日本が好きだったようだ。李さんは、その後、日本の大学に留学し、まもなく太平洋戦争がはじまり、戦後になって台湾に帰った。

 李さんの苦い思い出は、この後起きた。国民党が台湾にきて、蒋介石の独裁がはじまる。まもなく「228事件」が起き、李さんは無実の罪で10年ほど投獄されてしまう。考えようによっては、殺されなかっただけ、幸運だったともいえる。そんなわけで、よけいに日本びいきになったともいえる。

 李さんは今でも日本が大好きだし、日本の伝統的な文化だけでなく、相撲などの取組みがあれば、毎日観ているという。李さんの青春時代は、日本の教育の中でつくられたものだし、それをすばらしい伝統として評価しているのだ。できるならば、一生日本人として生きたかったに違いない。

日本が大好きな李さんがつくった短歌を載せておこう。これも李さんが大事にしている思い出なのだ。

「 垣根越し ふと見上ぐれば 大空を 爆音高く すぐる荒鷲 」 

 戦争時代に青春だった李少年の思いは、国を思う日本人の少年と変わることがない。頭上を過ぎる日本機を見るたびに、自分も国のために戦いたかったに違いない。

 わたしの個人的な感想ではあるが、戦後国民党の反日的な教育により、若い人たちは、日本を悪者あつかいして嫌う人も多かったが、戦後、日本に来て、そして日本人と話し合って、けっして日本人は悪者ではないと理解して、日本が好きになってくれる人が多いような気がする。

 李さんは今でも自分が卒業した「台北第二中学校」の校歌を覚えている。卒業は、昭和15年のようだが、話しているうちに、その当時に戻ったかのように、李さんは校歌を口ずさんでいた。李さんがコピーしてくれた第二中学校の第一校歌は7番まである。ずいぶん長い校歌だとも思う。李さんのためにその一番を書いておこう。

1、鵬程万里涯もなき 地は南涯の一孤島 あまねき君の御光に 開け行くなり文の道

 皇国思想一色で、これでも校歌かと思うが、軍国主義時代を考えればしかたがないだろう。しかし、それでも李さんは、その校歌を誇りにして、90歳になった現在も忘れない。 日本時代の台湾人には李さんのような日本好きが多いことを忘れないでほしい。

以上