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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

ハロー・キティ

2013年09月15日 | 台湾の中の日本

 台湾において、「ハロー・キティ」のキャラクターは、日本好き族のシンボルになっているという。かわいい子猫のぬいぐるみなどとしても売られている。これを教えてくれたのは、「現代台湾を知るための60章」という本だ。

 著者は「亜洲奈みづほ」、日本人のような名前だが、なんとなくペンネームのような気もする。というのも、一昔前の台湾においては、台湾の歴史や政治について論評しようものなら、台湾国内はもちろん外国にあっても命の危険があったが、著者はその恐怖政治時代の記憶をもっているような気がするからだ。

 だから本を出版する時には本名を使わずに、ペンネームを使ったのではないか。もちろん、これは推測のことでしかないが、・・・・・。

 日本好きの度合いをもう少し見てみると、

 高校で公的に開講されている第二外国語のクラスは、1600位あるそうだが、そのうち「日本語」は最多で「69%」をしめており、次が「フランス語」だという。もちろん、第一外国語として、英語を学ぶ人が一番多いことを念のために言っておこう。

 さらに、世論調査では、「最も好きな外国は?」のこたえは、「52%」が日本で、第1位になっている。「日本大好き」人間は、台湾にも多いことをつけ加えておこう。

 台湾好きの人のために台湾の世界一をみてみると、次のようだ。但し、この記録は10年ほど前の数字であることを、お断りしておこう。

携帯電話普及率  117%(世界一)、日本は90%位だ。

胡蝶蘭の生産   世界市場の3分の2(世界一)を占めている。胡蝶蘭の原産国は、台湾だったのかと改めて驚いてしまう。

 世界一ではないが、そのほかの数字をみると、

 黒マグロ漁獲高  1位は日本(25万トン)、2位台湾(19万トン)。ちなみに、台湾で獲ったマグロの7割は日本へ輸出されている。

 台湾で獲れるウナギの9割が日本へ輸出されている。その量は日本の消費量の2割になるという。

 外貨準備高は世界4位で、4010億㌦(2012年)となっている。あの小さな島国の経済力はすごい。ちなみに、1位は中国(3.3兆㌦)、2位日本(1.3兆㌦)、3位ロシア(5.2憶㌦)となっている。

 また、京華城というショッピングセンタ-が台北にあるが、その規模はアジアでは最大規模であるという。私はまだ行ってはいないが、是非その最大規模の実際を見てみたいところだ。

 最後に、高等学校の学費が2014年度から「無償」になる予定だという。このへんは日本でも見習ってほしいと思う。

以上

 


アミ族野球団

2013年09月03日 | 台湾の中の日本

台湾における野球の歴史のはなしである。

 鈴木 明の著書「ああ、台湾」によれば、台湾で最初に野球をやったのは「アミ族」だという。アミ族は、台湾の東海岸に住み、漁業などを行う、どちらかといえばおとなしい原住民だ。

 日本統治下の台湾で行政官をしていた「江口良三郎」が、アミ族の子供たちに「ボール投げ」を教えたのが始まりという。1923年(大正12年)6月には、花蓮港の花岡山グラウンドで、アミ族を中心としたチームと日本チームがゲームをしており、アミ族のエース「サウマ」が延長16回を投げ抜き、サヨナラ・ホーマーでアミ族が勝ったという。このあと、このメンバーが中心となり「能高団」というチームを結成している。

 1925年(大正14年)、この「能高団」は日本遠征をして、各地でゲームを行なった。当時の朝日新聞は、訓練された立派なチームで、あなどりがたい実力を持っていると評価している。

 チーム「能高団」の活躍は、アミ族ばかりでなく、台湾全土の少年たちに強い影響をあたえたという。この野球に対する熱い思いは、戦後になっても続き、リトルリーグでの台湾チームが、世界を制覇した時の台湾人の喜びは、はかり知れないものがあった。一生懸命やれば、自分たちだって、世界一になれるという自信を持ったのがその時であった。

 台湾から日本のプロ野球に来て活躍した名選手たちを書いておこう。

郭源治  台東のアミ族出身。中日ドラゴンズで活躍していた。

荘勝雄  台南出身の台湾人。確か、ロッテオリオンズで活躍していたと思う。

郭泰源  台南生れの台湾人 長栄高校野球部出身。巨人軍行きたかったらしいが、西武に入団。時速160kmを超える剛速球で人気があった。今は、どうしているのだろうか。

1925年は昭和の初めであるが、アミ族を中心に台湾原住民による野球チームができていたことは驚きではないだろうか。少なくとも、花蓮のアミ族の文化レベルはかなり向上していたのであろう。

 野球のことを考えながら、蛇足のように、ふと「霧社事件」のことを考えてしまう。

 ここでもまた「霧社事件」を引合いに出してしまうが、霧社と花蓮はそれほど離れてはおらず、花蓮のアミ族は野球チームをつくって、日本遠征までしているのに、同じ時期に、霧社のセデック族は、理不尽な強制出役で苦しんでいたというギャップに違和感を持つ。

 蛇足のついでに、「霧社事件」の記録を読むと、その当時、霧社蕃地方は植民地政策として成功し、理想的な統治がおこなわれていたと、書かれているが、それは認識不足もいいところであろう。

 霧社蕃の現実は、道路をつくれ、山林を伐採しろ、小学校などの寄宿舎を建設しろなどと、強制出役などがあり、さらに労賃はごまかされ、原住民の娘は弄ばれるなどで、人間扱いされない最悪の条件であった。だから、日本人に反抗して事件が起きたのであり、山地行政は非常にまずかったのである。

 これに反して、アミ族は野球をして、日本遠征までしている。文化や生活レベルの差が歴然としているが、その差はどうして生まれたのであろうか。

 おそらく、巡査などの行政官の資質によるところが大きかったのではないだろうか。台湾の中でも山岳地帯は、僻地扱いで、左遷されてきたり、食い詰めた人たちが流れてきたりで、まともな行政政策が行なわれなかったからであろう。

 アミ族の野球の話が、霧社事件との比較になってしまったが、何気ない出来事にも深い意味があることを考えてしまう。

以上

 


台湾蛮族図絵

2013年08月21日 | 台湾の中の日本

 「台湾蛮族図会」という雑誌がある。

 これは1896年(明治29年12月)に発行された風俗画報という雑誌の臨時増刊号だ。日本の台湾領有が1895年だから、その翌年に特集した雑誌である。台湾の植民地開発をすすめるなかで、首狩り族として恐れられている、台湾原住民の実態を調査したものだった。

 その当時、台湾には大きく分けて、4種類の人種がいた。まずは17世紀頃から大陸から移住した中国系台湾人がいた。、次は台湾に紀元前から住み着いていた原住民、これは二つの種類に分けられる。まずは、「生蕃」といって文明人とほとんど交流をもたず、山岳地帯に独自の生活圏をもっていた種族で、首狩りの風習があり、もう一種族は、原住民でありながら、台湾人などと交流をもち、文明を受け入れて生活している種族で「熟蕃」と呼ばれていた。そこに新たな統治者として日本人が住むようになったわけだ。

 日本人は台湾全土を開発しようとして少しずつ奥地に侵入する、そうはさせじと「生蕃」は武器をもって立ち向かう。原住民と日本人とのすさまじい闘争は日常的に起きていたのだろう。

 「台湾風俗絵図」の解説を読むと、その事件は1896年(明治29年)1月に台北で起きた。「土匪が四方に蜂起し・・・」云々と書いているが、いわゆる多数の「生蕃」が武器をもって台北城を襲うという事件が起きた。その頃、台北には四方を城壁で囲んだ城があったが、現在もその名残がある。それは、ともかくとして、

 日本軍は城から撃って出てこれを敗走させた。そのなかで、生蕃のリーダーらしき者が追撃されて、「馬來社」という原住民のに逃げ込んだという。しかし、その生蕃のリーダーにとっては運が悪かったことに、そこは「熟蕃」のであり、その事情を知った民は、生蕃のリーダーを捕えて日本軍の守備隊に引き渡し、しきりにその首を切れと促したという。

 そのリーダーは捕縛されていたが、「その縛法、奇なり」という。両手を前にひき揃えて、藤蔓で肘から手首までがっちりを巻き締め、もう一つの藤蔓で輪をつくり、それを首にはめて手綱とし、その手綱をもって引きまわしたという。それは「猿」を扱うに等しい状態で、手綱をもった原住民は、鞭を手に持ち、その鞭で叩きながら、とらえたリーダーを進退させる光景は、人間業とは思えなかったという。

 当時は日本人は、「生蕃」を人間扱いはしなかったが、原住民同士でも、敵の部族の人間は、家畜くらいにしか見ておらず、いとも簡単に命を奪い、その扱いは想像を超えているようだ。

 さらに読んでみると、「日本人」と「生蕃」、「生蕃」と「熟蕃」の殺し合いは生々しく、それは憎しみのぶつけ合いであり、凄まじい報復合戦であった。

 台湾領有後、日本は生蕃の居住地を1年に1里というから、約4kmずつ侵奪していった。その前線には隘勇(アイユウ)や隘丁(アイテイ)がいた。隘勇は軍人で大尉位のものがなったというから、台湾軍の日本人であったであったろうし、、隘丁はその配下の兵士で、普段は農耕に従事しているが、敵の襲撃あれば武器をもって戦うという屯田兵であった。

 隘丁には、その多くが「熟蕃」たる原住民がなったという。前線には城郭のような砦を築き、土塀をつくって「生蕃」の襲撃に備えた。このような砦を生蕃の居住地を取り囲むように幾つも造り、それらの砦をつないだ線を「隘勇線」と呼び、毎年少しずつ前進させたという。

 この隘丁が「生蕃」を殺すやり方が凄まじい。夜中に、多数でひそかに生蕃の村落を囲み、老若男女の区別なく、ことごとく縛り上げて、耳や鼻をそぎ落とし、腕を切り落として、足を断ち、頭は切り落とさずに、森の中に捨て置いたという。このように一つの村を全滅させることもたびたびあったという。

 したがって、「生蕃」の隘丁になった「熟蕃」に対する憎しみは、並大抵のものではなく、その仕返しは眼を覆いたくなるような惨状であった。同じ原住民のくせに、日本人にこびへつらい、同族に銃を向けるとは何事かというところだろう。

 その報復の一例が載っている。武装した多数の「生蕃」が隘丁として働いていた「熟蕃」一家を皆殺しにした事件であった。

 事件の直後、現場をみて、「その残忍なること見るに忍びない。」と書いている。一家の主夫婦とその子供二人、主人の兄弟二人の6人の「首なし死体があったという。死体は大木にあおむけに縛られおり、鈍刀をもって首を切ること、数度に及び、顎に切りつけたり、胸にあたったりして、ようやく首を落としたような痕跡があったという。主人の死体は、さらに手を殺ぎ、足を断っており、憎しみがことのほか深かったようだとある。

 この隘丁たる「熟蕃」は、一家で樟脳製造を目的として、生蕃地域内に忍び入り、樟樹を伐採したり、生蕃がつくった作物を残らず盗ってしまい、また歩哨などをして、近づく「生蕃」を狙撃していたため、「生蕃」では、予めその一家せん滅を決定していたという。

日本が領有を始めたころの台湾は、なんとも凄まじい闘争の地であったようだ。

以上