goo blog サービス終了のお知らせ 

台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

李登輝とファウスト(2)

2014年03月17日 | エッセー

李登輝が自分を「ファウスト博士」になぞらえたとすれば、氏にとっての「悪業」とは何なのであろうか?

 まず、台湾人一般にいえることでもあるが、李登輝の生い立ちは非常に特殊な環境の中にあり、それが思想や嗜好の基礎になっている。1923年(大正12年)に生まれたとき、台湾は日本の統治下にあり、戦後、氏が22歳になったときには台湾は中国一部になり、中国人として生きなければならなくなった。

 李登輝の悩みは、台湾人の自分が日本語を話し、日本人のように振る舞うことの矛盾、かといって、大陸から移ってきた質の悪い中国人に統治されることへの不満などにより、自分の人生をどのように肯定してよいかわからない状態であったと、自ら告白している。

 このような特殊な環境を考慮しながら、李登輝が考えた自分の「罪業」を想像すると、次のような事柄が考えられる。

1、台湾人であるのに、日本人として生きようとしたこと。

2、祖父はアヘンを販売、父は日本警察の配下の巡査として働くという特権をもっていた。

3、共産党に加入したこと。

4、蒋経国を撃った「台湾独立派」の黄文雄との交際

5、意に反して国民党に入党、自分の真意を隠して、ひたすら蒋経国に忠誠を装い、彼の信頼を得ようとしたこと。

以上の5つの「罪業」について考えてみた。 

1、台湾人であるのに日本人として生きようとしたことについて

 日本統治時代に生まれ、日本人により日本語で教育を受け、戦争中は皇民化運動と称して、徹底的に日本人になることを強いられたことは、どのように考えても屈辱の歴史ではないだろうか。異民族に統治されたことのない私たち日本人には想像を超えた苦しい時代であったに違いない。

 そのような時代のなかで生きた台湾人には二通りのタイプがいた。一つは、積極的に日本人になろうとした人達、もう一つは、民族的な自尊心を忘れず台湾人であり続けようとした人達である。

 その分類でいえば、李登輝は積極的に日本人になろうとしたタイプであった。李登輝が受ける批判の一つではあるが、彼は一般の台湾人よりも、かなりはやい時期に日本名「岩里政男」に改名していたし、日本人として生きることに抵抗は感じていなかったようだ。

 「李登輝・その虚像と実像(戴国著)」によれば、李登輝は公学校に上がる時、したがって7歳くらいのときに日本名に変えさせられたという。巡査(日本の警察)をしていた父親「李金龍」の日本名は「岩里龍男」であり、親が日本名を名のっているのだから、その子供に日本名をつけるのは当然であったろう。父親は、台湾人ならば避けて通る警察犬のような職業について日本から恩恵を受けていたので、いち早く日本名を名乗って台湾人に見本を示そうとしたのであろう。

 もう一つのタイプを調べてみると、李登輝が感じたであろう「罪業」の意識がわかってくる。台湾独立運動の中心的な存在であった彭明敏は、東京大学に留学し、戦後は台湾大学に再入学するなど、李登輝とほぼ同じような経歴をもっているが、彼は日本名に改姓しなかっただけでなく、李登輝と異なり学徒動員として兵役につくことも拒否した。

 彭明敏のように民族的な自尊心を保持し続けた人間から見れば、李登輝の日本贔屓は異常であり、李自身も心の片隅には、それを「悪業」とみる自責の念はあったと想像できる。とはいっても、彼はそんな些細なことにはこだわらず、台湾を日本のような国にすることに一生懸命ではあるが。

 2、祖父はアヘンを販売し、父は巡査であったこと

 現在のように個人主義の時代からすれば、祖父や父親がどのような仕事をしようとも、子供に責任はないことは明らかだが、民族的な自尊心はどうなっていると問われれば、後ろめたい気分になることはあるだろう。日本が台湾統治をはじめた頃は、アヘンが蔓延していたが、後藤新平はこの悪習に対処するために、アヘンの専売制をはじめた。祖父はその権利をどのようにして手に入れたか不明だが、それで生計を立てていた。アヘンを売って生活することを快く思う人はいないであろうし、また、巡査であった父親の職業についても、民族的な自尊心があれば、同胞に銃を向けるような職業にはつけないはずだという批判には、返答に困るであろう。

 李登輝自身は持ち前の明るさで、家族の暗い過去などを隠すことなく、おおっぴらに話すが、決してそれを肯定しているのではなく、「台湾人として生まれた悲哀」として受けとめて、自分たちの国をつくるための情熱にかえている。

3、共産党に入退したこと。

 台湾大学に入学した後、資料によれば李登輝は二度、共産党に入退を繰り返している。その時期は、おそらく1946年の台湾大学入学後であり、1947年に起こった228事件の前であろう。加入の動機は、質の悪い国民党に幻滅したこと、大陸での国共内戦は、共産党に有利に展開し始めており、やがて台湾も解放されるのではないかと噂があったことなどであろう。

 しかし、李登輝は正式な共産党の党員になったというのではなく、参加したのは中国共産党台湾大学支部の読書グループであった。そのため、228事件後の国民党による白色テロ時代には生命の危険を感じ、しばらくは母の実家に避難していたという。

 マルクス主義に興味を持ち、共産党に接近したのは、低俗な外来政権である国民党に対する反感から生じたことではあったが、その後意に反して国民党に入党し、蒋経国に忠誠を尽くす自分の姿に矛盾を感じたことであろう。

4、蒋経国を狙撃した「台湾独立派」の黄文雄との交際

 青年時代の李登輝は、台湾は独立すべきであると、ごく自然に考えていた。その考えは、李登輝に限ったことではなく、多くの台湾人がごく普通にもっている感情であった。明末から清の時代に台湾への流入がはじまったが、その後の300年、中国大陸から分離して独自に発展してきた台湾人には、中国人とは違うという意味で、明確な民族意識が生まれていたのだ。

 1968年、李登輝はアメリカのコーネル大学に留学するが、そこで後に蒋経国の暗殺を企てた黄文雄に出会った。年長の李登輝は金銭的に余裕もあり、留学生を自宅に招いて食事などを振る舞ったが、その中に黄文雄も交じっていた。黄はその頃成立していた「台湾独立連盟」に属しており、祖国に対する熱い思いを李登輝にぶつけたに違いない。黄は、理由もなく人を殺すような粗野な人間ではなく、国を思い家族を思う優しい青年なのである。李登輝は黄の話を聞いて大いに共感したに違いない。

 1970年4月24日、黄文雄はアメリカを親善訪問していた蒋経国を狙撃する。暗殺は未遂に終わったが、李登輝にとっては、台湾独立に向けて大いに語り合ったであろう黄文雄が、まさか蒋経国の暗殺を実行するとは思っていなかったであろうが、黄文雄の思いは痛いほどわかっていたはずだ。

 蒋経国を撃った黄文雄との交際を問題視されながらも、騙し透かしの手で切り抜け、どうにか蒋経国の信任をうけて、1971年10月、正式に国民党員になるのであるが、薄氷を踏む思いであったに違いない。

5、国民党に入党後、自分の真意を隠して蒋経国に忠誠を装ったこと。

 ここからが李登輝の真骨頂である。彼が自分をファウスト博士になぞらえたとすれば、総仕上げの舞台であった。李登輝は、時が来るまで、自分の真意をひたかくしに隠して、野心のない学者政治家を必死に演じ続けた。台湾人のための国をつくるための最良の方法は、国民党を変えてしまうことだった。

  司馬遼太郎の「台湾紀行」に李登輝との対談が載っている。「あなたのような方が政治の舞台に現れたのは偶然なんですか?」という質問に対して、李登輝は、つぎのようにこたえた。「農業問題が難しいときにぼくが呼ばれた。私は、日本の学問や農業問題しか考えない男で、政治的なことには興味がなさそうに見えたんじゃないのかな。」

  李登輝が国民党に入党したのは、1971年だから、蒋経国と初めて対面したのはその頃であろうと思われる。当時、蒋経国は国防部長であり特務のボスだから、緊張したに違いない。

 蒋経国にしても、李登輝が自分の暗殺を企てた台湾独立派と交際していた事実は知っていただろうが、李を見ると、司馬遼太郎の表現をかりれば、山から切り出した大木に目鼻を付けたような男で、とても大それたことをしそうな人間には見えなかったに違いない。もちろんそれは李登輝の計算された演技であり、このチャンスをしっかりとつかむために、ひたすら農業問題しか興味のない学者ばかに徹した。

 さらに、司馬遼太郎の質問、「李登輝さんは一介の学者だったのに、よく政治のノウハウを身につけられましたね。ステーツマンであると同時に、ポリティカルな、どろどろしたことまで。」

 李登輝はこたえる。「わたしは子供のころから敏感だもの。敏感さをどう抑えるかをいつも考えてきた。」司馬遼太郎の鋭い質問に、おもわず本音がでた瞬間であろう。そんな芸当はお手のものというところだろう。

 司馬遼太郎がいう、「ポリティカルな、どろどろしたこと。」とは、目的のためには、相手を欺き、苦しいことを耐え忍ぶことのように思える。まさか、嘘も方便の政治家によくなれましたね、とは云えなかったであろうから。

 李登輝が考えたであろう「罪業」もすべては台湾人のためであれば、ファウスト博士が許されたように自分も許されると感じたのであろう。

 国民党員になってから17年を経た1988年、蒋経国の死と共に、台湾人として初めて総統の地位を継承し、初期の目的が達成されたとき、李登輝は誰はばかることもなく、本音を語るようになった。

以上


李登輝とファウスト

2014年01月10日 | エッセー

 ファウストはゲーテが書いた悲劇のことだが、読書家の李登輝は、旧制高校の頃、この悲劇をよく読んだという。

 1981年、李登輝が台湾省主席のときに、この悲劇がオペラとして公演されたことがあった。その時、李登輝はこのオペラを台湾市民は理解できるのかと不安に感じたというが、意に反して、オペラは好評を得て、さらに翌年には再上演され爆発的な人気を得たのをみて、我々の社会には愛と希望が満ち溢れている証拠だと喜んだという。

 なぜ、李登輝が若い頃に読んだ「ファウスト」に対して特別な思いを抱き、台湾の市民がオペラを通してそのテーマを理解したことに大きな喜びを感じたかについては説明が必要であろう。

 まず、ゲーテ作の悲劇「ファウスト」のストーリイを知る必要があるが、簡単にいえば、キリスト教における「愛とは何か」についての物語ということになる。

 ファウスト博士は、哲学、科学、天文学などを通して「生きる意味」を理解しようとするが、それらの学問を究めてはみたが、満足はできず、さらなる欲望を満たすために、悪魔であるメヒィストフェレスと契約を交わします。

 その契約とは、悪魔であるメヒィストフェレスが、魔術などをつかって、あるゆる快楽をファウスト博士に提供し、その結果、ファウスト博士が何もする気が起きなくなるほどに満足したら、悪魔に自分の魂をあげてもよいという内容だった。

 ファウスト博士は悪魔メヒィストフェレスに向かってこういいます。「もし、おれがあらゆる快楽に満足した結果、ある刹那に向かって、『とまれ、お前は本当に美しい 』と言ったら、この命はお前にくれてやる」。つまり、自分の魂は悪魔のものになってもかまわないというものだった。

 私自身この物語(新潮世界文学全集)を読んでみたが、わかりにくいことが多い。特に、ファウスト博士がある刹那に向かって「お前は本当に美しい。」と叫ぶときの「ある刹那」の意味がわかりにくい。文の流れからいえば、「ある刹那」とは、悪魔が提供した快楽の絶頂のようであり、その瞬間を「お前は、本当に美しい。」と言った、という意味のように思える。しかし、実際には、ファウスト博士は心を入れかえて、理想の国づくりを目指すが、未完成ではあるが、その理想の国を思い描いて、「お前は本当に美しい」といったのだった。

 はなしをもとに戻しますが、

 男にとって最高の遊びの一つが女であるのは、古今東西変わりはなく、ファウスト博士は悪魔メヒィストフェレスの手引きにより、美しいグレートフェンをものにして、子供までつくってしまう。かれの悪事は根が深く、彼女を手に入れる過程で、彼女の母親と兄を殺してしまいます。これ以上の快楽、そして悪行を想像できるでしょうか。

 しかし、ファウストはそれらの悪事の過程では、「お前は、本当に美しい。」と叫ぶことはありませんでした。

 第二部になっても、ファウストの悪行は続きます。悪魔の手引きにより、またもやへレナというギリシャの伝説の美女を死者の国から呼び戻し、彼女を懐妊させてしまう。ファウストの欲望は止まるところを知りません。  

 それでも飽き足らないファウストは、さらに魔法でお金をつくり、戦争に加担して多くの人々に苦しみを与え、さらに罪もない老夫婦を殺害してその土地を奪うなど、ファウストの悪行は際限もなく続いていく。

 しかし、そんなファウストにも、心の変化が起きます。

 ファウストは大きな土地を手に入れますが、高齢になっていたファウストは心を入れかえて、その土地を開拓して人々が安心して豊かに暮らせる土地をつくろうとします。しかし、悪魔であるメフィストフェレスの妨害にあい、完成に至らないばかりか、失明してしまいます。

 しかし、齢をとり、しかも盲目になったファウストはあきらめず、土地の開拓を、自分の人生の最後で最高の仕事と考えて努力する。

 ファウスト博士は夢想する。

 開拓された土地は、緑が多く、よく肥えていて、人も家畜も心地よく、自由な生活を送ることができるので多くの人が移り住むだろう。外では海が荒れ狂うだろうが、中の土地は楽土なのだ。海が力づくで土地を噛み取ろうとしても、中の民が力を合わせて守るだろう。その土地には様々な危険があるが、子供も大人も老人も、自由と平和を守るために闘いながら歳月を送るだろう。

 ファウスト博士は、そこで生きる人々を想像しながら、、自由な土地の上に自由な民とともに生きたいと願う。いつの日かそんな世界が実現したとすれば、自分の魂が悪魔に奪われようとも、自分がつくった地上の生活の痕跡は滅びることはないであろうと考え満足する。もしそういう瞬間が、訪れたとしたら、その瞬間に向かって呼びかけたい。

そして、ファウスト博士は、ついに叫んでしまう。   「とまれ、お前はいかにも美しい」  と。

 それはファウスト博士が想像した幸福であったが、想像ではあっても、悪魔との約束である「とまれ、お前はいかにも美しい」という禁句を口にしたとたんに息絶えてしまう。

 悪魔メフィストフェレスは、ファウスト博士との賭けに勝ち、彼の魂を奪おうとした時、天空から天使たちが舞い降りてきて、ファウストの魂を天上に連れて行ってしまう。

 天使たちは、「絶えず努力して、励む者を、われらは救うことができる」と合唱する。

 結論としては、キリスト教の愛は、どのような悪行をはたらいても、心を入れかえて努力すれば、救われることを教えており、それが悲劇「ファウスト」テーマであった。

 以上が、ゲーテ作の悲劇「ファウスト」のストーリイだが、李登輝がこの「ファウスト」を好むのは、自分をファウスト博士になぞらえたからであろう。ファウスト博士が心を入れかえて、開拓しようとした土地は、李登輝にとっては「台湾」なのであり、李登輝はファウスト博士がしたように、自分も台湾を自由な人々が、自由に暮らせる台湾人の国にしたいと考えたからであろう。

 「ファウスト」について、李登輝は「台湾の主張」で次のように書いている。

 「この作品でゲーテが語っているのは、罪が深くとも、真摯に生きた者を救う深甚な神の愛にほかならない。そしてまた、現実にゲーテはワイマール公国の宰相になって政治を行なったから、自らの人生とワイマールへの実感的な思いでもあったろう。」(台湾の主張 P37)

 また、「私がキリスト教を信じることによって得た最大のものは、愛という問題だった。そして、その愛とは、結局自分の人生を肯定的にみるということに他ならなかった。」とも書いている(台湾の主張 P36)。

 「ファウスト」という作品は、思想的にゲーテの自伝的なものだという見方もあり、ワイマール公国の宰相なったゲーテは理想の国づくりを目指して精魂を傾けた思われる。一方、政治家の道を歩み始めた李登輝も、同じような境遇のゲーテに共感し、もう一度繰り返していえば、台湾を自由な人々が、自由に暮らせる国にしようと考えたのだろう。

 李登輝が、そのような理想を抱いたのはおそらく台湾省主席になった時であろう。じっと我慢をすれば、国民党のトップにたどりつくのも不可能ではない。もしそれが実現したら、その時は、この国の体制を根本的に変えてみたいと考えたのであろう。

 李登輝は、現在の台湾を思うとき、ゲーテの「ファウスト」のように、「止まれ、お前はいかにも美しい」と口に出したくなることがある、という(台湾の主張 P222)。

 「台湾の主張」を出版したのは、1999年で、蒋一族の支配は終焉、民主化が進んだ時ではあったが、李登輝は、さらなる美しさを台湾に求めたのであろう。

 李登輝が、美しい台湾という理想を抱いたのは、おそらく台湾省主席の頃ではないかと前に書いたが、李登輝が自分をファウスト博士になぞらえたとすれば、李登輝にとっての「悪行、つまり罪」とは何かについて考えてみたい。

以上


徴兵制

2013年03月24日 | エッセー
 台湾に徴兵制があるのは、台湾に関心がある人なら周知のことだが、これが2014年には廃止されて、志願制になるという。

 これを教えてくれたのは、「現代台湾を知るための60章」という本であった。著者は「亜洲奈みづほ」、いちおう日本人らしいが、珍しい名字であり、ペンネームかなとも考えてしまうが、その台湾に関する知識と愛情の深さは並大抵ではなく、日本生まれの台湾人かなと思わせるものがある。
 
 その本によれば、それまで2年間であった徴兵期間が、すでに1年間になっているという。さらに、来年の2014年には、全員志願兵になる予定だというが、そんなことに気がつかなかった自分が恥ずかしいが、そんな報道もなかったような気がするが、私が見過ごしたか、報道関係が無視したかどちらかだろう。

 近々台湾に行くので確かめてこようと思う。


誰も書かなかった台湾(3)

2013年01月12日 | エッセー
 鈴木明はその著書で「高砂族には美人がいる。」という、日本人の間に伝わる伝説に触れている。原住民に関する古い文献には、若い女性が多く写っているが、多くは特徴のある美人だという。わたし自身この情報に興味をもち、その美人というのはどのような顔かたちをしているのか見てみたくなり、日本の植民地時代の古い本を調べてみた。

 その美人の写真のひとつは、「霧社討伐写真帖」という1930年(昭和5年)に起きた「霧社事件」の直後に出版された雑誌に掲載されていた。霧社事件とは、山地原住民が日本政府の植民地政策に反抗して蜂起し、100人を超える日本人を殺害した事件のことである。

 その事件はともかく、その「霧社討伐写真帖」には、三人のタイヤル族の娘がならんで写っている写真がある。左にいるのが「バカン・ワリス」とう18歳くらいの娘、その妹の「ウマ・ワリス」が右側で妹は姉より多少背が高い、そして真中にその友達と思われる少し小柄な娘がいるが、名前は不明だ。これらの16歳から18歳位の娘たちは、黒髪を後ろに束ね、長袖の上着とズボンをはき、胸から下に前掛けのような手織の赤い蕃布を巻いており、三人とも裸足である。ネックレスをしているのは一応正装しているということだろうか。写真を前にして少し緊張しているのか笑顔はないが、確かにかわいいし、成長すればかなりな美人になる面影がある。日本人の間に伝わる「美人伝説」というのは、これらの美少女のことをいうのかなと思った。

 台湾の原住民の多くはマレー・ポリネシア系の流れをくむ民族といわれているが、台湾北部に住むタイヤル族は多少違っており、日本人に近い祖先をもつとも考えられている。見方によれば、日本美人としても十分通用する容姿であることは間違いない。

 山地現住民と日本人との共通性について、日本の台湾統治初期に発行された雑誌に面白い記事があるので、次項で紹介しよう。          以上          

誰も書かなかった台湾(続)

2013年01月07日 | エッセー
 鈴木氏が見聞した範囲ではあるが、選挙についての内容が面白い。もちろん、その内容は1970年代のことなので、現在もそうであるかどうかはわからないので、機会があれば調べてみたいとも思う。

 鈴木氏のルポの内容にもどろう。
台湾の主な選挙は、県・市長選挙と省議員選挙があるという。日本でいえば、知事選挙とつい先ごろ行われた衆議院選挙のようなものと考えればいいだろう。

 選挙がはじまると、人々は思い思いの候補者を見つけて、その家に駆けつけるという。
「あんたに投票するよ。」いう訳なのだ。
候補者も酒などを用意して接待するという。このように買収や供応は公然化しており、地方にいけばさらに激しくなるという。そして、一票にいくらの値段をつけるのは、候補者ではなく、投票する人だという。
 但し、都市部では、買収や供応のはなしは聞かれないという。理由は、都市は地方から出てきた人達が多くて横のつながりが少ないこと、またインテリは政治に興味がないことのようだ。

 また、日本と違うのは、選挙ボスや暴力団が存在しないことだという。
この点について鈴木氏は、確信的に、
「台湾には強力な政府はあるが、暴力団はないし、強力なポン引き組織はあるが、暴力組織はない。」といいきっている。

 暴力団が存在しないという鈴木氏の見解には、にわかに納得できないが、やはり調べてみる必要はあると思う。竹連パンなどという大陸の流れをくむ暴力組織を聞いたことがあるが、どうなのだろうか?

 蒋介石が亡くなったのは、1975年4月だから、その頃までは強力な独裁政治が続いていたので、日本のやくざのような暴力組織は身動きがとれなかったともいえるが、実態はどうだろうか?

 蒋介石死後は、息子の蒋経国が実権を握るが、蒋経国は戒厳令を解除するなどして民主国家をめざす。蒋経国は、自分の死後は蒋家の独裁を望まなかったため、1988年その死とともに独裁国家は終焉し、台湾は名実ともに民主国家の仲間入りをする。

 この歴史を逆に考えれば、蒋家の独裁により、身動きのとれなかった暴力組織が、蒋家の滅亡とともに動きだしたとも考えられる。現在はどうなっているのだろうか?    以上