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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

バナナさんへ

2013年12月26日 | 歴史

 「日本は台湾を中華民国に引き渡してはいません。」というご指摘、ありがとうございます。

 日本は、敗戦により、台湾を清国の後継である中華民国に引き渡したと書いてしまいましたが、これは正確ではなく、バナナさんがご指摘のように、「放棄した」というのが正しいのでしょう。私はサンフランシスコ講和条約を読んではいませんから、反論という気持ちもありません。

 おそらく、バナナさんは、台湾問題についてはかなりの見識をおもちの方のようで、中華民国による台湾領有に疑問をもっているようにも感じました。日本が単に放棄しただけなら、中華民国、つまり国民党による台湾領有は違法ということなのでしょうか。

 バナナさんのご指摘をうけて、バナナさんはどいう人なのかと考えています。台湾問題を専門に研究している方のようであり、想像をたくましくすれば、日本にいる台湾人なのかもしれないなどと考えたりもします。

 あれこれ想像しながら、台湾人の心について改めて考えました。

 台湾は、主に中国大陸から移住してきた人達がつくった国ですが、おおよそ300年以上も中国大陸から分離して発展してきたわけであり、中国人とは違うという意味で明確な「民族意識」が芽生えています。

 若林正丈著の「蒋経国と李登輝(現代アジアの肖像5)」には、この台湾人の「民族意識」についてわかりやすく説明されているので引用してみます。(P228)

 若林氏は、まず、この「民族意識」が典型的な台湾人の観点である、といいます。

 「この民族意識は、戒厳令解除のはるか以前から、台湾意識か中国意識かという議論がなされる以前から、台湾生まれで台湾育ちの知識人と話をすれば、すぐわかったことだ。」といいます。

 「ただし、その意識は主流のメディアに載ることのないマイナーな言説として扱われ、時には危険視されたといいます。しかし、李登輝は、台湾人なら誰でもが普通にもつこの意識を、中華民国総統や中国国民党主席の身分で、おおっぴらに述べることにより、体制のメジャーな言説の中に一気に組み入れてしまった。」と述べています。

 しかし、この民族意識を李登輝がどうの、メディアがどうのと難しくいう必要はないように思います。私の台湾出身の妻は、マスコミなどで台湾が中国と一緒くたに表現されることに大いに反発します。

 妻はこういいます。「中国と一緒にしないでよ!」です。これが、日常的にも、高度に政治的な意味でも、台湾人の本音なのです。

 バナナさんが、このようなことまで考えているかどうかわかりませんが、バナナさんのご指摘を受けて、なんとなく上に述べたようなことを考えてしまいました。

以上

 


二つの中国

2013年09月10日 | 歴史

 二つの中国とは、中華民国と中華人民共和国のことだ。

 今から70年前、この二つの中国は、中国大陸で武力抗争していたが、戦後はもっぱらスポーツの分野で対立している。オリンピックとかスポーツの国際大会で対立するので、スポーツの分野での問題かというと、そうではなく、立派な政治問題なのである。

対立の中身を見てみると、

1956年(メルボルンオリンピック)

 台湾は中華民国の国旗を掲揚した。すると北京の中共は怒って引き揚げてしまい、不参加となった。この後、IOCは、台湾選手の胸のマークは「China」ではなく、「Taiwan」と表示することを義務付ける。

 当時は、蒋介石が健在で、国連の常任理事国には「中華民国」が存在していた。この頃の中華民国は、中共との力の差は歴然としていたが、大陸反攻を目指して、鼻息だけは荒く、台湾だなどと、一地方の名称が自分の国を表わすなどは、我慢できない状態であった。

1958年(アジア大会)

 この時は、IOCの方針に基づいて、「中華民国」を「台湾」と表示し、選手の胸には「Taiwan]のマークが付いていた。しかし、中国大陸の正当な後継者を標榜する国民党は、IOCや国連が中共の言いなりになって、あれはだめ、これはだめと言ってくることに腹がたって仕方がない状態であった。

1960年(ローマオリンピック)

 台湾は、ボイコットを示唆して、「台湾」という表示を「中国」または、「中華民国」に変更することを要求したが、拒否される。この大会では、アミ族出身の「楊伝広」が十種競技で銀メダルを獲得している。しかしながら、国際的には、中共の存在が増していくのと反対に、台湾は影は薄くなっていく。

1964年(東京オリンピック)

 日本は、台湾が「China」と表示をすることを認めなかった。中共の存在はあらゆる場面で無視できないほど大きくなっていたからだろう。

 では、国の表示はどうするか?・・・・・・・  苦悩する台湾は、アメリカが提案する「chinese Taipei」を受け入れ、ようやく一応の解決を見た。台湾の国民党の幹部は、歯がゆい思いであったろうが、台湾生まれの若者たちの多くは、そんなことは少しも気にしなくなっていた。この頃から、自分を「中国人」ではなく、「台湾人」と呼びたがる人達が増えてきていたからだった。

 台湾は国際情勢の中でますます孤立化を深めてはいたが、東京オリンピックには参加した。聖火がギリシャから香港を経て、9月6日に台北に到着したときは、台北第一の大通り「中山北路」は人波であふれ、歓迎の爆竹が鳴ったという。

 この頃の中共の考え方は、「台湾チームは、中国の一部である台北という都市から来たチームであることは認めるが、中華民国という国を認めたわけではないので、国旗も国歌の演奏も認めない。」というものだった。これは当時の党主席「小平」の路線であったが、台湾の国民党にしてみれば、「それはこっちのセリフだ!」と言いたいところだったろう。

 1972年、ニクソンの訪中後、国連の常任理事国には中華民国に代わって、中共が加わり、日本も中共の政治的、経済的な存在を認めざるを得ず、同年田中首相のときに、中共と国交を回復し、同時に中華民国台湾とは、国交を断絶した。

 しかし、国交は断絶したが、台湾と日本の経済や文化の交流は以前にもまして盛んになり、大陸などとは比べ物にならないくらい、よりよいパートナーになっている。

2012年(ロンドンオリンピック)

 経済的に独自の発展を遂げている台湾にとっては、孫文や蒋介石の「中華民国」ではなく、まして毛沢東の「中共」でもない、第三の選択肢として「台湾」と表示するほうが国民感情にあっているようだ。

 以前は、「中華民国」にこだわっていたために「台湾」という表示を素直に受け入れなかったが、現在では、台湾独立という気運がみなぎっており、さらに名よりも実を重視する成熟した台湾人が増えているため、国民感情も変化しているようだ。少し前までは、国名なんてどうでも好いと考える人がおおかったが、現在は台湾にしたいと考える人が多くなっているように思える。

以上

 


モーナ・ルダオ(7)

2013年07月04日 | 歴史

1930年10月27日 決起後のモーナ・ルダオ                                                        

                                           

  霧社公学校で134人の日本人を殺害した後、村に戻ったモーナ・ルダオは、若者たちを集めて演説した。戴國の「台湾霧社蜂起事件 研究と資料」から引用してみよう。

「君らの要求により起った。だが、日本の力は大きいから、君らの生命の将来に希望はない。しかし、起ったのだから、最後まで戦うんだ。この戦いは勝つことがない。しかし、今、起たなかったら、我々の将来は、いつまでも続く奴隷生活だ。山には改革が必要なのだ。」

 これはもう、革命家の心情だ。そう考えれば、中華民国政府がモーナ・ルダオを民族の英雄として立派な慰霊碑を建てていることが理解できる。

 この時、モーナ・ルダオの首には二千円の賞金が付けられていた。この時代、千円あれば、台北に家が一軒建ったという。その首を狙って、同族が動いていた。

 日本に味方しているタウツアやトロックの姿が見え隠れしている。うかつなところで殺されれば、彼らに首を取られて、笑い物にされる。セーダッカの総頭目として、それは絶対避けなければならないことだった。

 決起した頭目たち、ホーゴ社のタダオ・ノーカン、ワリス・チリ、が戦死し、自分も花々しく戦って死にたいと苦悶する。

このあたりは、アウイヘッパハの「証言 霧社事件」を引用しよう。

モーナルダオは、長男のタダオ・モーナを呼んで、自決の覚悟を打ち明け、後事を託した。

 「私は死ななければならない。今日から、お前がマヘボ社の頭目である。敵は、明日行動を起こすだろう。ウツウチクの森を厳重に警戒しろ。敵は多分、ブットツの我々のイモ畑を狙うだろう。新頭目として、勇敢に戦ってくれ。」

 モーナ・ルダオは岩窟を出て、一族が避難している自分の耕作小屋に戻り、一族に死を命じた。

 原住民にとって死は、祖先のもとに行くことなのだ。虹の架け橋をわたり、懐かしい父母に逢うことができると信じている。俺も後から行くから、先に行って待っていてくれということなのだ。自殺は、大きな樹を利用する原始的な方法だ。後に、この地域を捜索した日本軍は、50名以上の首つり死体を発見している。

 命令に背いた者は、鉄砲で撃ち殺し、死体は火を放って小屋ごと焼き払った。ただ、すぐには先祖のもとには行きたくなかった娘のマホン・モーナと10数名の原住民が、死を恐れて逃亡し、日本軍に投降している。

1930年12月1日(48歳)     家族の死を確認後、モーナ・ルダオは険しい岩壁をよじ登り、自分の死体が誰にも見つけられないように、人跡未踏の奥地に分け入り、銃を口にくわえて自殺している。血気盛んな壮丁の行動にのまれた男の最後だった。

 この時のモーナ・ルダオを、西南戦争当時の「西郷隆盛」のようだという人もいる。薩摩に残った不平武士を見捨てることができず、西郷は反乱軍に担がれて、戦闘中に陣没している。勝海舟のいい方をすれば、西郷は不平武士に自分の体をくれてやったのだ。モーナルダオも、決起には消極的であったが、結局、悲壮な思いで立ちあがった。

 このあたりは、まさに日本の戦国時代の武将の最後ではないか。タイヤル族の武人のイメージは日本の武士道に通じるものがあり、霧社事件に作戦参謀として参加した台湾軍参謀の服部大佐は、その報告書の中で、来たるべき南方作戦には、この山地族の身体能力とジャングルでの行動力を評価し、兵隊としてつかうことの有効性を論じている。

 モーナルダオの白骨化した遺体が発見されたのは、数年後、猟をしていた原住民が見つけたという。検死の結果、銃口を口にあてがい、脳天に向かって、引き金を引いたものと認められた。

 遺体は台湾大学に引き取られ、しばらく標本として保管されていたが、その後霧社にもどされ手厚く葬られた。


モーナ・ルダオ(6)

2013年06月26日 | 歴史

 モーナ・ルダオが蜂起した理由

 

日本人統治者から受けたさまざまな屈辱に耐えられなかった。

1、理不尽な出役で苦しんだこと。

 セーダッカ族の蜂起の直接の原因となるのは、霧社小学校寄宿舎新築工事の出役になるのであろうか。霧社の官憲は、建築用資材として、ウツウチク山(マヘボ富士)から樹木を伐採させ、それを霧社まで運ばせた。

 搬送については、建築用の木材が傷つかないように、肩に担がせたが、峻険な山道では命をかける重労働になった。もともと、原住民は木材を運ぶ時は、習慣として地面を引きずるが、それを厳として禁止したことになるが、これは強制労働を超えて、あくどい苦役になった。

 この時期の官憲は、吉村巡査殴打事件のことや、官命を無視するモーナ・ルダオを処分するため、何らかの問題を起こさせようとして、意図的に圧迫していたようだ。

 モーナ・ルダオが官憲の仕打ちに耐えかねて、何か問題を起こせば、それを理由に処分(抹殺?)しようと考えていたようだ。

 たとえば、木材の担送をセーダッカ族に行わせて、地ならしなどの軽作業は他部族にやらせて差別し、また、賃金の支払いについては、セーダッカについては支払いを遅らせたり、ピンはねしたりして、物質的、精神的に圧迫していった。

 この人間性を無視し、牛馬のように取り扱われれば、セーダッカでなくても怒るのが当然だろう。霧社事件を研究していた台湾大学の許介鱗博士の言葉をかりれば、抗日蜂起は「悲壮な人間宣言だった」ということになる。

2、質の悪い警察

 その頃の巡査は、なぐる、ける、どなるが一般的でひどかった。もともと山地人を「生蕃」といって、人間と見ていなかったのだから、その扱いは当然ともいえるが、山地へ来る巡査は、平地で悪いことをしたとか、日本内地ではつかいものにならなかったような男が、左遷されてくるとかで、よい人材が集まらなかったようだ。

 セーダッカから最も憎まれた男、佐塚愛佑警部は、霧社事件の7か月前に霧社分室に着任。霧社事件の引き金となった「霧社小学校寄宿舎の建築」をはじめた時の責任者であった。セーデッカ族を差別して苦役を命令し、ピンはねをした張本人ということになる。

 事件後、佐塚警部が自宅としていた官舎の床下から、大量の百円札や五十円札、銀貨などが出てきたという。

 佐塚警部は、事件当日に殺害されているが、遺体はズボンが脱がされ、男の象徴が切り取られて口の中に押し込まれていたという話も残っている。

 モーナ・ルダオが、日本内地旅行で得た感想、

「内地の警官は優しいのに、なぜ山地の警官は意地悪で、乱暴なのか」というこたえがそこにある。

 仮定の話でいえば、もし、山地の巡査が、内地の警察官のように優しかったら、霧社事件は起こらなかったともいえるだろう。

3、政略結婚

これも非人間的政策だ。頭目の娘を選んで結婚をする。頭目にしてみれば、自分の娘の夫の頼みごとであれば、断れない。そういう人間の弱みに付け込む政策だった。資料から見える主な政略結婚は下記のとおりだ。

佐塚 愛佑(警部 霧社分室)ーーーヤワイタイモ(マシトバオン社の頭目の娘)

下山治平(台中警部補)ーーーピッコタウレ(マレッパ社頭目の娘)

近藤勝三郎(脳牧場の経営)---イワリー・ロバオ(パーラン社頭目の娘)、

                       オビン・ノーカン(ホーゴ社頭目の娘)

近藤儀三郎(警官、勝三郎の弟)---テワス・ルダオ(モーナ・ルダオの妹)

近藤義三郎は、1916年、兄の近藤勝三郎は1918年、にそれぞれ政略結婚の妻を捨てて花蓮に逃げている。


モーナ・ルダオ(5)

2013年06月23日 | 歴史

1930年10月7日 吉村克己巡査殴打事件

                             

 この事件は、霧社事件が起こる20日前、モーナ・ルダオの長男、タダオ・モーナが、些細なことから喧嘩になり、吉村巡査に暴行をふるった事件であった。

 話は横道にそれるが、タイヤル族の名前のつけ方は、父親の名前の前の部分を子供につける習わしである。子供につける前の部分は自由だが、その後には、必ず父親の名前がつけられる。長男タダオ・モーナは、モーナ・ルダオの「モーナ」付けられており、子供であることが明確になる。

 モーナ・ルダオには、5人の子供がおり、次男は、バッサオ・モーナ、三男はヘロワン・モーナ、四男はワリス・モーナ、長女は、マホン・モーナという。父系社会になるのだろうし、姓名の区別もないようである。ちなみに、長女のマホン・モーナを除いて、すべて霧社事件で命を落としている。

 さて、殴打事件が、事件の詳細は、ピホ・ワリス著の「霧社緋桜の狂い咲き」からの引用でみてみよう。ピホ・ワリスはその時16歳、事件現場にいたわけではないので、人から聞いた話ということになる。

 その日は、新郎ウトン・ルビと新婦ルビ・パワンの結婚式があり、これからモーナ・ルダオの家で披露宴が開かれようとしていた。折から、吉村克己巡査がウツウチク造材地(日本人はそこをマヘボ富士と呼んだ)へ赴く途中、マヘボ社のモーナ・ルダオの家の前を通過した。ある本には、新婦のルビ・パワンが美人であったため、吉村巡査はつい見とれてしまったとの記述もある。

  その時、長男のタダオ・モーナは宴会用の牛肉を切っていたが、吉村巡査を見つけると、血のついた手を洗わずに飛び出してゆき、吉村巡査の手をつかまえて、ぜひ披露宴に参加するように誘った。吉村巡査は元来、原住民の酒宴の不潔さを嫌悪しており、血がついた手で掴まれ、自分の制服が汚れたのを見ると、思わず「触るな!」と言わんばかりに、もっていたステッキ(警棒)でタダオ・モーナを打ってしまった。

 タダオ・モーナにしてみれば、せっかくの親切心が警棒で返されたので、憤慨して格闘になった。そこへ、弟のバッサオ・モーナが出てきて、二人で吉村巡査を地面に叩き伏せて、足蹴りなどをしたという。

  歴史とは難しいもので、事件の当事者のタダオ・モーナと吉村巡査は、霧社事件で死亡し、また喧嘩を見た人も生存していないので、実際何が、どのように起こったのかを知るのは困難だが、この事件について記録している、もう一人の生存者「アウイヘッパハ」の「証言 霧社事件」ではどうなっているかを、見てみよう。

 アウイヘッパハは当時14歳、もちろん喧嘩の現場にいたわけではないので、すべて人から聞いた話である。

それによれば、

 その日が、結婚式の宴会が行われていたことまでは同じだが、こちらでは、吉村巡査は宴会に誘われたが、原住民の不潔さを嫌悪していたため、タダオ・モーナが血で汚れた手で「黄色く濁ったドブロク(粟酒)」と「豚肉」を差し出したところ、吉村巡査はステッキ(警棒)でたたき落としたという。タタオ・モーナの好意と尊厳は、恥辱に変じて、激情したタダオは吉村巡査の背中を打ち返したという。

 人から聞いた話というのは、こんなに違うのかと考えてしまう。ピホ・ワリスの話では、「牛肉の血で衣服が汚れた」となっているが、アウイヘッパハの方は、「黄色く濁ったドブロクと豚肉を嫌ったこと」になっている。

 事件から何十年も経過し、さらに人から聞いたことなどは、このくらい変化してしまうということを肝に銘じよう。とはいえ、吉村巡査とタダオ・モーナが喧嘩をして、大きな遺恨を残したことは紛れもない事実ではあるが。

 事件後、父親のモーナ・ルダオは穏便に済ませようとして、吉村巡査が駐在する、ウツウチク造材地に、慣例により粟酒3本をもって何度か謝罪に行ったが、日本側官憲は受け付けないばかりか、逆に叱責を受ける。

 モーナ・ルダオは息子に厳罰が下るかもしれないと考え、将来頭目の地位を継ぐべき長男が、誰かにとって代わられる心配もしたようである。著者のピホ・ワリスは、この事件が「霧社事件」引き金になった大きな原因の一つと結んでいる。

 この時、日本官憲は、この機会を利用して、問題を起こす元凶のモーナ・ルダオを処分してしまおうと考えていたが、頭のいいモーナ・ルダオは一斉蜂起して、その機先を制したともいえる。

 ちなみに、霧社事件が起こった当日の未明、タダオ・モーナはウツウチク造材地に駐在する吉村巡査の寝込みを襲い、その首をとってしまう。タダオ・モーナは、その恨みを真っ先に晴らしてしたことになる。

続