「霧社緋桜の狂い咲き」という本がある。
著者は、「霧社事件」を起こしたセデック族の数少ない生き残りであるピホ・ワリスが、その事件で生き残った人たちから聞いた話をまとめたものだ。
ピホ・ワリスは1914年(大正3年)生まれ、日本名は「中山 清」、中国名は「高永清」と体制が変わるごとに名前が変わっている。戦後は、台湾省議員になったり、仁愛郷にある蘆山温泉で旅館を経営したりしているが、そのかたわら、山地原住民の貴重な体験を聞いて、一冊の本にして出版したのがこの本だ。内容的には、重複する話があったり、不正確な点がままあるが、慣れない日本語でまとめたことを考えれば、立派というものだろう。
その中に「深山のロマンス」という話がある。日本人女性と山地原住民の若者との一夜の出来事であるが、面白いのでとりあげてみた。
時期は、書いてないので正確ではないが、おそらく霧社事件(1930年)以前だろうと思われ、おそらく1920年から1930年(大正から昭和のはじめ)頃のことだろう。山地はほぼ平定されて、山岳地帯のいたる所に駐在所が建設され、警察行政が浸透し、山にはそれなりの平穏が訪れていた頃だ。
場所は、南投県のようで、台中から中央山脈向かう途中の山岳地帯だと思われる。その地域はブヌン族のテリトリーで、話に出てくる原住民の青年もブヌン族である。一方、日本人女性は、山地の駐在所に勤務する巡査の若い奥さんだ。
ある時、その若い奥さんは病気になり、台中市にある総督府立の台中病院に行って、1ヶ月くらい入院治療をした。病気が治って、夫がいる駐在所に帰ることになるが、そこは標高3,000m位の山岳地帯であり、車などない時代だから、たいへんな道のりである。
若奥さんは、台中を出発して、水裡坑で一泊したが、翌日は20kmを超える山道を登らなければならず、警察電話で自分を背負ってくれる原住民の男を一人、出向かいに派遣してくれるように夫に連絡した。
ブヌン族の青年が水裡坑に来たのは、翌日の夕方頃であった。その日は、そこの旅館に宿泊した。
翌朝、若奥さんは、ブヌン族の青年が背負う籠に乗って、夫が待つ駐在所に向けて出発した。途中、幾つかの駐在所に立ち寄り、茶などを飲んで休息した。標高2000m位まで上り、最後の駐在所を過ぎて、夫が待つ駐在所は、もう目と鼻の先くらいのところまできた。
標高はさらに高くなり、3000mほど、道も急坂で、雲が下に見える。道の両側は大森林、猿が飛び回り、山鳥が舞うという場所だ。
夕方になりかけている。ブヌン族の青年は、若奥さんを乗せた籠を背負って、胸の着くような急坂を登り続けた。途中、少し開けた場所があったので、奥さんを降ろして、ため息とともにその場に座り込んだ。
若奥さんは、あと2km位だから、このまま行こうと催促した。しかし、ブヌン族の青年は、「もう、きつい。」と片言の日本語で言った。そして、右手を出して、拇指と人差指で輪をつくり、左手の人差指でその輪を刺した。
若奥さんは、言葉が通じないので、何事かと思ってブヌン族の青年の顔をみた。その青年の、いつもの円い眼が、ほほ笑むように細く長くなって、色気たっぷりであった。
その意味を理解した若奥さんは、当惑した。青年は、なめした熊の毛皮をハッピのようにきているだけなので、胸には汗が流れるのがみえた。
はて、どうしたものだろう。若奥さんは、思案の末、青年の体を冷やせば、彼の気持ちも変わるだろうと考え、いまきた道を1kmくらい下った所に冷たい水が湧いていたことを思い出し、
「汗でいっぱいだから、この下の湧水のところに行って、体の汗を洗ってきなさい。」といった。
すると、ブヌン族の青年は、それを「体をきれいにすれば、してもいいよ。」の意味だと理解し、喜び勇んで、飛び跳ねるように下りて行った。
若奥さんは、一秒を何時間の思いで待っていたが、夕闇は濃くなるばかり、青年は何分もしないうちに戻ってきて、「さあ、約束だ。」と言わんばかりに実行を迫った。
若奥さんは、元気な青年を見て、自分の思惑が外れたことにイラつきながら、もう一度状況を考えてみた。青年の言いなりになって、原住民に身を任せるのは、我慢ならないが、かといって、拒否して、山中にほったらかされては、生命の危険がある。
青年がその気になったのは、自分の口から出た言葉だからしかたがないと思いなおし、いやいやながら体を許した。
ことが済むと、ブヌン族の青年は、若奥さんを大喜びで背負って、夕闇の中を歩きだし、坂道は大きな声を出して登り、やっと駐在所に着いたのは暗くなってからであった。
ブヌン族の青年は、無料の「出役」だから、「さよなら」と言うと、そのまま自分の家に帰って行った。
さて、若奥さんは、苦悶してその晩は一睡もできなかった。翌朝、巡査である夫に昨夜の出来事を話すと、夫は激怒して、使いを出し、昨日の青年を呼び出した。
おそるおそる駐在所に入ってきた青年を、巡査は両手を後ろにして縛りあげ、竹刀で打ちすえた後、「強姦罪」として、7日間の拘留を与えた。
しかるに、ブヌン族の青年は、一言の抗議をするでもなく、黙って刑に服したという。原住民にとって、支配者である日本人は、怖い存在であったが、日本女性もまた、特別な存在であった。ブヌン族の青年にとって、そんな罰は、日本婦人を抱いたことに比べれば、大したことではなかったのだった。
この原住民の青年が、何となくユーモラスでかわいく思えてしまうが、どうでしょうか。
以上