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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

メーク ラブ(make love)

2013年10月04日 | エピソード

「霧社緋桜の狂い咲き」という本がある。

  著者は、「霧社事件」を起こしたセデック族の数少ない生き残りであるピホ・ワリスが、その事件で生き残った人たちから聞いた話をまとめたものだ。

 ピホ・ワリスは1914年(大正3年)生まれ、日本名は「中山 清」、中国名は「高永清」と体制が変わるごとに名前が変わっている。戦後は、台湾省議員になったり、仁愛郷にある蘆山温泉で旅館を経営したりしているが、そのかたわら、山地原住民の貴重な体験を聞いて、一冊の本にして出版したのがこの本だ。内容的には、重複する話があったり、不正確な点がままあるが、慣れない日本語でまとめたことを考えれば、立派というものだろう。

 その中に「深山のロマンス」という話がある。日本人女性と山地原住民の若者との一夜の出来事であるが、面白いのでとりあげてみた。

 時期は、書いてないので正確ではないが、おそらく霧社事件(1930年)以前だろうと思われ、おそらく1920年から1930年(大正から昭和のはじめ)頃のことだろう。山地はほぼ平定されて、山岳地帯のいたる所に駐在所が建設され、警察行政が浸透し、山にはそれなりの平穏が訪れていた頃だ。

 場所は、南投県のようで、台中から中央山脈向かう途中の山岳地帯だと思われる。その地域はブヌン族のテリトリーで、話に出てくる原住民の青年もブヌン族である。一方、日本人女性は、山地の駐在所に勤務する巡査の若い奥さんだ。

 ある時、その若い奥さんは病気になり、台中市にある総督府立の台中病院に行って、1ヶ月くらい入院治療をした。病気が治って、夫がいる駐在所に帰ることになるが、そこは標高3,000m位の山岳地帯であり、車などない時代だから、たいへんな道のりである。

 若奥さんは、台中を出発して、水裡坑で一泊したが、翌日は20kmを超える山道を登らなければならず、警察電話で自分を背負ってくれる原住民の男を一人、出向かいに派遣してくれるように夫に連絡した。

 ブヌン族の青年が水裡坑に来たのは、翌日の夕方頃であった。その日は、そこの旅館に宿泊した。

 翌朝、若奥さんは、ブヌン族の青年が背負う籠に乗って、夫が待つ駐在所に向けて出発した。途中、幾つかの駐在所に立ち寄り、茶などを飲んで休息した。標高2000m位まで上り、最後の駐在所を過ぎて、夫が待つ駐在所は、もう目と鼻の先くらいのところまできた。

 標高はさらに高くなり、3000mほど、道も急坂で、雲が下に見える。道の両側は大森林、猿が飛び回り、山鳥が舞うという場所だ。

 夕方になりかけている。ブヌン族の青年は、若奥さんを乗せた籠を背負って、胸の着くような急坂を登り続けた。途中、少し開けた場所があったので、奥さんを降ろして、ため息とともにその場に座り込んだ。

 若奥さんは、あと2km位だから、このまま行こうと催促した。しかし、ブヌン族の青年は、「もう、きつい。」と片言の日本語で言った。そして、右手を出して、拇指と人差指で輪をつくり、左手の人差指でその輪を刺した。

 若奥さんは、言葉が通じないので、何事かと思ってブヌン族の青年の顔をみた。その青年の、いつもの円い眼が、ほほ笑むように細く長くなって、色気たっぷりであった。

 その意味を理解した若奥さんは、当惑した。青年は、なめした熊の毛皮をハッピのようにきているだけなので、胸には汗が流れるのがみえた。

 はて、どうしたものだろう。若奥さんは、思案の末、青年の体を冷やせば、彼の気持ちも変わるだろうと考え、いまきた道を1kmくらい下った所に冷たい水が湧いていたことを思い出し、

「汗でいっぱいだから、この下の湧水のところに行って、体の汗を洗ってきなさい。」といった。

 すると、ブヌン族の青年は、それを「体をきれいにすれば、してもいいよ。」の意味だと理解し、喜び勇んで、飛び跳ねるように下りて行った。

 若奥さんは、一秒を何時間の思いで待っていたが、夕闇は濃くなるばかり、青年は何分もしないうちに戻ってきて、「さあ、約束だ。」と言わんばかりに実行を迫った。

 若奥さんは、元気な青年を見て、自分の思惑が外れたことにイラつきながら、もう一度状況を考えてみた。青年の言いなりになって、原住民に身を任せるのは、我慢ならないが、かといって、拒否して、山中にほったらかされては、生命の危険がある。

 青年がその気になったのは、自分の口から出た言葉だからしかたがないと思いなおし、いやいやながら体を許した。

 ことが済むと、ブヌン族の青年は、若奥さんを大喜びで背負って、夕闇の中を歩きだし、坂道は大きな声を出して登り、やっと駐在所に着いたのは暗くなってからであった。

 ブヌン族の青年は、無料の「出役」だから、「さよなら」と言うと、そのまま自分の家に帰って行った。

 さて、若奥さんは、苦悶してその晩は一睡もできなかった。翌朝、巡査である夫に昨夜の出来事を話すと、夫は激怒して、使いを出し、昨日の青年を呼び出した。

 おそるおそる駐在所に入ってきた青年を、巡査は両手を後ろにして縛りあげ、竹刀で打ちすえた後、「強姦罪」として、7日間の拘留を与えた。

 しかるに、ブヌン族の青年は、一言の抗議をするでもなく、黙って刑に服したという。原住民にとって、支配者である日本人は、怖い存在であったが、日本女性もまた、特別な存在であった。ブヌン族の青年にとって、そんな罰は、日本婦人を抱いたことに比べれば、大したことではなかったのだった。

 この原住民の青年が、何となくユーモラスでかわいく思えてしまうが、どうでしょうか。

以上

 

 

 


霧社の花

2013年08月31日 | エピソード

 バカン・ワリスは、台湾原住民の村「霧社」では誰もが認める美人だった。

 1908年生まれ、モーナ・ルダオと同じ「マヘボ社」出身、その可憐な容姿で「霧社の花」といわれていた。「霧社事件」当時、22歳、事件の中を逃げ延びて生き残った数少ない原住民の一人だ。

 タイヤル族やセデック族を語る時、どうしても「霧社事件」を引合いにださざるを得ないが、それは100人を超える日本人を殺した「霧社事件」が大きな出来事であったからであり、反対に、もしこの事件が起きていなければ、「バカン・ワリス」も「モーナ・ルダオ」も歴史の舞台には登場せず、我々もその存在を知ることはなかったはずだ、とも思われるからである。

 1990年、「台湾 霧社に生きる」の著者、柳沢通彦はその本の中で、インタビューした「下山 一」が「バカン・ワリス」に会ったときのことを書いているが、その時バカン・ワリス82歳になっていたが、下山 一は彼女を見て「初々しい山の娘が、そのまま歳をとったようだ。」と感想をもらしている。美人は歳をとってもどこかその面影が残っているものなのである。

 ちなみに、下山 一(中国名 林光明 1914年生まれ)は、霧社に駐在していた警部補「下山治平」と原住民の妻「ピッコタウレ」との間にできた子供であり、存命とすれば100歳近く、埔里市に住んでいる。霧社事件後、セデック族は、台中県の川中島に強制移住させられたので、バカン・ワリスもそこで暮らしていた。下山 一は、柳沢の依頼で会いに行ったと思われるが、彼女は、孫たちに囲まれて暮らしており、日本語はほとんど忘れてしまっていたが、、代わりに山の歌をうたってくれたという。

 どのような美人か気になるところだが、幸いなことにその写真が残っていた。写真は「霧社討伐写真帖」という、「霧社事件」を記録した雑誌に載っていた。国会図書館にでも行けばみられるであろうが、「霧社の三美人」と題された写真には、バカン・ワリスを真ん中にして、その両側に妹の「ウマ・ワリス」ともう一人の娘が写っていた。年齢はティーンエイジの頃と思われ、民族衣装を着た三人は、すらりとしたかわいい山の娘たちだ。確かに、ほんとうに美人でかわいい。

 さて、そのバカン・ワリス、結婚したが、1年ほどで離縁されてマヘボ社の実家に帰ってきた。男たちが、そんな美人をほっとかないのは、古今東西変わらないが、そのバカンに痛く心を奪われたのが、「モーナ・ルダオ」の長男の「タダオ・モーナ」だった。

 タダオ・モーナは何とかして「バカン・ワリス」を得ようとしたが、妻もいれば子供もいる。まして、頭目の長男であれば、世間の目も厳しい。自分が独身で、他の男とバカンの奪い合いをするのであれば、早く首をとったほうが勝ち、ということになるのであるが、そういうわけにもいかない。タダオ・モーナは、夫と別れたばかりのバカン・ワリスの後ろ姿を見て、悶々とした日を過ごしていた。

  ピホ・ワリスによれば、タダオ・モーナのこのむしゃくしゃした気持ちが、「霧社事件」を起こした大きな要因の一つであると「霧社緋桜の狂い咲き」という本の中で書いている。1929年から1930年頃のことであろうが、日本人警察の非道な扱いに対して、反乱を起こす計画が進行中であり、その実行を強く主張したのがタダオ・モーナだった。彼の内には、バカンワリスのこと、また吉村巡査に暴行をはたらいたことで、官憲に目をつけられていることなどが、悩みとしてあった。

 彼の行きどころのない悩みが爆発したのは、1930年10月27日の未明だった。日本人殺害計画は、その日に予定されている運動会で実行する手筈であったが、タダオ・モーナは、まず手始めに、造材地にいる吉村巡査や近くの駐在所に勤務している杉浦巡査の首を切って喊声をあげた。日本人134人の命を奪った「霧社事件」のはじまりだった。

 この後、タダオモーナは、父モーナ・ルダオの後を継いで勇敢に闘うが、やがて日本軍に追いつめられてしまう。弾薬や食糧がない状態で仲間がつぎつぎ自決していく。そこへ日本軍に投降した妹のマホン・モーナが日本軍の降伏勧告の使者となってタダオ・モーナのところにやってくる。タダオ・モーナはその話を聞いて「投降」ということも考えたが、日本人が自分を許すことは絶対あり得ない。セデックの勇者として闘いの場で死ぬしかないと考えていた。しかし、死ぬにしても、のどが渇き腹が減った状態では死ぬに死ねない。

 そこで、タダオ・モーナは、仲間とともに投降するからと嘘をいい、妹のマホン・モーナに酒を要求する。やがて酒が届くと、部下とともに飲み、立ち上がり、歌いながら踊りだした。歌の内容は、死んだ妻や息子たちのことだ。要は、自分ももうすぐそちらに行くから、待っててくださいという悲しい内容だ。マホン・モーナはそれを聞いて、兄は投降する気がないことを悟る。

 踊り終わると、妹のマホン・モーナに向かって「自分の土地は全部お前にやる。」との遺言を残し、数人の部下とともにマヘボの森に消えてゆき、酔いの醒めないうちに縊死を遂げたという。

 タダオ・モーナのバカン・ワリスへの片思いだけが「霧社事件」の原因ではないが、それにしても悲しい恋の結末ではないでしょうか。

以上