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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

桜大好きさんへ

2014年07月12日 | 台湾の自然

コメントありがとうございます。

 台湾にはいたるところに桜が植えられていますが、これは日本人が好む桜を台湾人が大切に育てているからで、日本大好きの台湾人の心の現れだと思います。

 武陵農場には行かれたでしょうか?私は去年の三月末頃一泊しましたが、桜は散っていました。しかし、その農場は山全体が果樹園になっており、特にりんごの種類は多く、白い花が咲いていました。秋の収穫時期に行けたらなおすばらしいと思っています。

 仁愛郷にある霧社桜も有名です。そこも散った後に行き桜の花は見られませんでしたが、そこの桜の花は赤い色ということで、霧社の緋桜といわれています。そこは、その昔原住民による日本人の大量虐殺があったところで、赤い桜は血の色を想像させるようです。

 どうも台湾の桜の開花は、やはり南方にあるためでしょうか、日本より1から2カ月早いようでです。台湾の桜を見るならば2月頃なのでしょうね。

以上


蒋経国を撃った男(3)

2014年04月15日 | 記憶

 暗殺が失敗して、逮捕された後について、 

黄文雄が撃った弾は蒋経国の頭上をかすめただけであったが、狙撃という手段は、よほどのプロでない限り難しいことなのであろう。しかし、もしもの話であるが、暗殺が成功していたらどうだったのかと想像してみる。つまり、あの時蒋経国が暗殺されていたら、その後の台湾はどうなったかという問題である。

 蒋経国は特務のボスで恐怖政治の元凶であったが、台湾に民主主義をもち込んだ柔軟な精神もあわせもっていた。そういう意味で、この暗殺が失敗したことは、台湾の歴史にとっては幸運であったともいえる。

 なぜならば、蒋経国は、民主化の第一歩として、自分の後継者は蒋家から出ることはないと宣言したが、こんなことが云えるのは蒋介石の息子だからであり、蒋家以外の人間には到底言えることではない。さらに、台湾生まれの李登輝を見つけて、副総統にまで抜擢したが、これも経国以外の外省人では、権力闘争にはしってしまい、台湾人を国民党の中枢にもってくることはできなかったであろう。

 蒋経国がいなければという仮定のこたえは、台湾の民主化はもっと後になっていただろう、ということになる。それでは、暗殺計画はまったく無意味であったかというと、そうではなく、蒋経国の頭脳に何らかの影響を与えたことは充分に考えられる。

 さて、暗殺未遂事件に戻るが、

 蒋経国の暗殺未遂により、鄭自才と黄文雄は、検察に拘置されていたが、鄭は事件の約1カ月後に保釈金9万ドルで解放され、その2ヶ月後に黄も11万ドルで保釈された。法廷闘争については、黄文雄は、有罪を認めるが、鄭自才は無罪を主張することにした。鄭についての挙証責任は、検察にあるとして、鄭を有罪にするには検察側が証拠を探さねばならなかった。

 それにしても、アメリカの検察は、この事件をそれほど重要視していない感じをうける。殺人未遂とはいえ、蒋経国を傷つけたわけではなく、また、事件の背景には「台湾人の人権」問題が絡んでいたからであろうか。簡単に保釈を認めているのは、殺人未遂とはいえっても、犯人は粗暴犯ではなく、アメリカ留学の経歴をもつ台湾人のエリートであったからであろう。

 さて、有罪の決め手になると思われる証人は、拳銃を鄭に渡した陳栄成であった。鄭自才は、台独連盟の責任者である蔡同栄に連絡をして、陳に逃げるように云ったが、時すでに遅く、すばやい警察の動きにより、陳は逮捕された。陪審裁判の結果、黄文雄、鄭自才、陳栄成の3人はすべて有罪となり、量刑については、後日決定することになった。

 陪審員による評決があった当日、黄文雄と鄭自才は、顧問弁護士に量刑のことなどを相談しながら、逃亡することを決めていたので、刑期宣告については出廷しないことにしたというと、お好きにどうぞと云われた。

 この後、黄文雄と鄭自才は逃亡して、潜伏生活をおくる。黄文雄は1996年に台湾に帰るまで潜伏生活は続くが、このインタビューは鄭自才に対して行われたものであり、黄文雄の逃亡生活についての詳細は記されていない。

 1971年7月、刑期宣告の法廷が開かれた時には、鄭自才は、他人のパスポートでアメリカを脱出し、スイスに入国していた。そこで「スイス台湾同郷会」会長の黄瑞娟の紹介で、弁護士にスイスへの政治亡命の可能性を探ったが、スイスとアメリカは友好関係にあり、スイスへの庇護をもとめるのは難しいとの回答であった。このスイス人弁護士は、鄭自才に同情し、自宅に招待して豪華な食事で接待し、事件を詳細に分析したうえで、スウェーデンを亡命先として推薦してくれたという。

 鄭自才はスイスを出国してスウェーデンに入国する。ストックホルムのYMCAに宿泊しながら、彭明敏と連絡をとり、さらにスウェーデン人のベルナルド教授に連絡した。ベルナルド教授は、「国際特赦組織」のメンバーで、彭明敏のスウェーデン亡命を手伝ってくれた人物である。

 鄭自才はスウェーデンの居住権を取得していたが、1972年6月、アメリカから鄭の引き渡し要求をうける。鄭はハンガーストをして抗議したが、スウェーデン政府は、二つの条件を出して、鄭の引き渡しを認めた。その条件とは、国民党に引き渡さないこと、刑期が終わったら、スウェーデンに帰して定住を認めることであった。宣告された刑期は、2年数か月くらいだったようで、1974年の年末には、スウェーデンに帰ることができた。

 鄭自才は、スウェーデンに8年、その後カナダに8年住み、その間に呉清桂と再婚していた。この間の事情はついて鄭は話していないので、詳細は不明だが、前妻の黄晴美が住むアメリカには戻れないため、夫婦はそれぞれ別の道を歩みはじめたのであろう。

 事件から20年が経ち、1990年の台湾は蒋家の支配は終わり、台湾生まれの李登輝が総統になり、民主主義の道を歩みはじめていた。それまで、国民党政権下でブラックリストに載せられて、帰国が認められなかった人たちが、台湾に帰りはじめていた。

 1991年1月、妻、呉清桂の父親が亡くなった時、彼女もブラックリストに載せられていたが、喪に服するために帰台を認められた。そのため長期にわたって国外生活を続けていた鄭自才も、台湾に戻ることを希望、同年6月、正規の手続きをとらずに台湾に帰った。国家安全法に違反する不法入国ではあったが、逃げ隠れしない堂々とした帰国であった。逮捕後、台北地裁での判決は、懲役1年、高裁に控訴したが棄却され、執行猶予はつかず、1年の懲役刑が確定した。1年後の1993年、57歳の鄭自才は、晴れて自由の身になった。

 完 


蒋経国を撃った男(2)

2014年04月11日 | 記憶

 1970年1月、世界規模で「台湾独立連盟」が結成された時、当然、鄭自才もその組織に参加していた。

 間もなく、蒋経国がアメリカを訪問するという情報を得たとき、鄭自才はすぐに暗殺を思いついたが、それは海外にいる多くの台湾人がごく自然に思いつくアイデアでもあった。国民党の政権を倒すには、早い話がトップを消してしまえばいいという考えだが、それも警備が厳しい台湾国内では難しいが、国外であればチャンスがあると、誰もが考えた。

 何故、暗殺という極端な行動を思いついたかについては、1960年代という時代背景と密接な関係があったと、鄭自才はいう。ベトナム戦争に反対する学生運動が盛り上がり、長髪にした過激な学生は、反戦を叫んでアメリカ政府を非難した。鄭は、はやりの反戦ソングなどを聴きながら、学生が必死に平和を訴える現場を見て、行動意欲を掻き立てられたのだと思う。日本でも「ベ平連」の運動や安保反対闘争などで、学生や市民が官憲と衝突していた時代であった。

 民族自決の闘争は、ベトナム戦争だけではなかったと、鄭自才はいう。パレスチナとイスラエル、北アイルランとイギリスなどの紛争もあった。パレスチナはイスラエルから独立することを願い、北アイルランドはイギリスからの独立するために過激な行動をしていた。祖国の独立のために、多くの人が命をかけて戦っているのを見て、自分も台湾のために闘うのは当然だと考えた。

 蒋経国の暗殺計画を最初に具体的な問題として提出したのは鄭自才であった。海外にいる台湾人であれば、思いつくことではあったが、実際に行動することは別次元の問題であった。鄭自才の非凡なところは、自分を犠牲にしてもやる価値があると判断したことであろう。

 計画の第一の加入者は、当時、鄭自才と同じマンションに住んでいた妻の兄の黄文雄であり、そこに妻の晴美と台湾独立連盟の責任者である「頼文雄」が加わり、蒋経国暗殺計画は、この4人ですすめられた。

 インタビューの時、「あなたの妻はこの計画を知っていましたか?」という質問に対して、「知っているどころか、この計画の一番理解者であった。」と、鄭自才は回想している。

 そして、、夫からこの計画を打ち明けられた妻の晴美が、反対するどころか、大いに賛同してくれたのを見て、台湾女性は偉大であると感じたという。鄭は、自分がこの計画の中で死ぬことがあっても、語学の堪能な妻は、二人の子供を立派に育てるだけの能力があると感じていた。この時、鄭自才と妻の晴美の間には二人の子供がいた。かわいい子供は大事であるが、子供の将来を考えれば、台湾の将来はそれ以上に大事であった。

 暗殺計画はさらに具体化していく。

 鄭自才は台独連盟の秘書長であったが、ルイジアナに住んでいる台独派の一人陳栄成が拳銃をもっていることを知り、彼に拳銃を都合してもらうことを依頼する。陳は、2丁の拳銃と弾薬を、鄭が住んでいるニューヨークのマンションにもってきた。陳は拳銃がどのような目的に使われるかは知っていたが、暗殺計画には参加しなかったと鄭自才は回想している。

 射撃の練習は、ニューヨークのロングアイランドの人気のない浜辺で行ったという。鄭は仲間数人とともに、低い灌木が茂っている砂地にコカコーラのビンを置き、それを標的にして練習したという。

 1970年4月18日、蒋経国がカリフォルニアに着いた。全米各地から台独連盟の仲間がロスアンジェルスに集まり、デモをして蒋経国に怒りをぶつけた。4月20日、蒋経国はワシントン郊外のアンドリュー空軍基地に移動するが、そこにも60名位の台独派が、反蒋のプラカードをもって待っていた。プラカードには、「我々は沈黙する台湾人の代表だ。台湾人は自由と民主が欲しい。」と書かれていた。

 この後、蒋経国はニューヨークに移動することになっていたが、移動日の4月24日には、同じように示威運動を行う予定であったが、鄭自才は、その日に暗殺を実行する覚悟を決めた。

 4月23日、鄭を含めた4人の暗殺グループは、最後の打ち合せを行なった。打ち合せの焦点は、拳銃をどうやって現場に持ち込むか、誰がどのようにして撃つかなどの役割についてだった。まず、拳銃の持ち込みは、黄晴美が何かに包んでもっていくことになったが、誰が撃つかについては、鄭自才と黄文雄がそれぞれ志願したが、結局、黄文雄に決まった。

 黄文雄の志願の理由は、自分は結婚していないし、妻子もいないからというものだった。鄭自才は、妹の晴美と結婚して、二人の子供がおり、鄭に万が一のことがあれば犠牲が大きいからという理由だった。黄文雄の妹を思う優しい気持が現われていた。

 4月24日、蒋経国はニューヨーク市郊外の空港に降り立つと、専用車で市内に向かった。その日の予定は、正午頃、五番街のプラザホテルの前で、アメリカで商工業を営む台湾人に対してスピーチをすることだった。ホテルの前の広場では、30人くらいの台湾人が集まり、国民党の独裁政治に対して、抗議の集会を開いていた。

 その日の午前中、鄭自才、黄文雄、黄晴美の3人は、車でマンハッタンに到着していた。前日の打ち合せにしたがい、蒋経国を撃つ行動にはいった。黄は、拳銃を忍ばせながら群衆の中に溶け込み、鄭は、デモをする群衆に混じってビラを配りながら、敵情を観察していた。

 正午頃、蒋経国の専用車がプラザホテルの前に到着した。鄭自才は、後部座席にいた蒋経国が、ビラを配っている自分を見たような気がしたと、回想している。車から降りた蒋経国は、ニューヨーク市の制服を着た警察官やガードマンに囲まれて、ホテルに向かってゆるい石段を上がりはじめた。不審な人間がいれば、すぐにわかる状況であった。

 蒋経国がゆるい石段を上りきって、おどり場の先のホテルの入口に向かって歩き、回転ドアにさしかかった時、黄文雄は撃った。弾は、蒋経国の頭の上20cm位のところを通過したが、銃声による大混乱の中で黄は地面に叩き伏せられ、2発目を撃つことはできなかった。

 ビラを配っていた鄭は、黄が倒されてのを見て、とっさに援けようとしたため、現場の警察に殴られて倒れ、頭に流血する傷を負った。鄭は、地面に組み伏せられた黄に近づかなければ、捕まることなかったが、現場に黄だけを残して去ることができなかった。二人は逮捕されて手錠をかけられ、車に押し込まれて警察局に移送された。

 鄭自才は、頭に傷を負っていたので、病院に連れて行かれたが、その時、鄭は着ていたレインコートの中に、事前に準備した弾丸が一発残っているのに気がついた。それをどう処理したらいいかと考えていたが、ちょうどその時、黒人女性が押す洗濯物が入ったカートがそばを通ったので、とっさにそこに弾丸を入れてしまい、証拠として発見されずに済んだ。

 その日の午後、二人は検察局に送られて、拘留の決定を受けた。

続く

 


蒋経国を撃った男(1)

2014年04月08日 | 記憶

  蒋経国を狙撃したのは、台湾独立派の黄文雄であるが、暗殺は黄を含めた4人のグループで計画された。

 私は当初この黄文雄は日本で著作活動している台湾人と同一人物かと考えたが、まったく別人であった。ネットで黄文雄と検索すると詳細が判明、年齢も近いうえに、同じ台湾独立派に属しており、確かに間違いやすいと説明されていた。

 事件にかかわった黄文雄は1937年生まれだから、現在76歳、インターネットフリー百科事典によれば、ながい逃亡生活から解放されて1996年台湾に帰国し、1998年には、台湾人権促進委員会の会長に就任し、2000年には陳水扁政権で、中華民国総統府国策顧問も務めている。台湾人にとっては、隠れたヒーローなのだ。

 蒋経国の暗殺未遂は、よく知られている事件だが、実際何がどのようにして起きたのか、わたし自身よく知らなかったが、調べてみると、台湾人の独立にかける熱い思いがつたわってくる。

 4人のメンバーは、暗殺計画の発案者の「鄭自才」、その妻の「黄晴美」、晴美の実兄「黄文雄」、それに全米台湾独立連盟の責任者「頼文雄」であり、事件当時34歳の鄭自才と黄兄妹は、ピッツバーグ大学の留学生であった。

 はなしはまず暗殺グループの発起人というべき「鄭自才」から始めなければならない。というのもこの計画は当時アメリカにいた鄭自才により発案されており、彼の前半生そのものが台湾人の心そのもののように思えるからだ。

 2007年4月に台湾独立派の許維徳博士と数名の人達が、蒋経国暗殺未遂事件について、鄭自才にインタビューしているが、この文章はその内容に基づいている。会話は、台湾語(福建語、閩南語)でなされたものを、許維徳博士が北京語の文章に翻訳している。

 鄭自才は1936年、台南生まれ、7人兄弟の次男である。小学校の3年までは日本語の教育を受けたが、終戦後は国民党による北京語での教育を受ける。中学校、そして高等学校に相当する建築関係の専門学校を経て、1955年、名門の成功大学の建築科に入学する。卒業に際して、成績は優秀だったため、先生になってはどうかという要請をうけるが、条件として国民党に加入することが必要であったため、正義感の強い鄭は、拒否している。当時は、教員などの公務員になるには、国民党員になることが絶対条件であった。国民党員にならなかったため、突然不採用の通知を受けた鄭自才は、「国民党体制」に大きな疑念と不満をいだいた。

 では、なぜ国民党に入党しないことが正義かといえば、当時の状況は、国民党による白色テロが横行し、多くの知識人が理由もなく殺されていた時代であり、鄭は、そのような国民党に入党することは台湾人に対する裏切り行為に思えたに違いない。

  1959年に成功大学卒業、兵役のため、海軍陸戦隊に入隊する。その頃を、鄭自才は苦い思い出として語る。「兵隊のときは、国民党員(外省人)にいじめられた。高等教育を受けた人間が、無教育の国民党員に、教育や訓練の名目でひどい扱いをされた」という。いじめとは、たとえば、炎天下の熱いコンクリート上で、腕立て伏せを何回もやらされるというようなことだったらしい。

 この不平等感は、単なる不満にとどまらず、鄭の心の中で、政治的な信念にまでなっていく。

 鄭は新設の「中原理工学院」の助教授に就任し、同時に不満だらけの台湾を離れて、アメリカ留学を目指す。 アメリカ留学を考えた頃の心境をこう語っている。

 「60年代は苦悶の時代であった。 ほとんどの大学生が台湾から出国したいと考えていた。兵役についているとき、多くの学生は留学の申請をしており、申請書の書き方を話し合っていた。何でもいいから台湾を離れて、国民党の環境から脱出したいと考えていた。」

 この後、鄭はアメリカのピッツバーグのカーネギー理工大学に奨学金を得て留学の許可を得る。母親は貴金属を質屋に入れるなどして旅費を捻出し、1962年8月、鄭はチャーター便でアメリカに渡った。

 アメリカで生活をはじめた鄭は、間もなく日本で発行された雑誌「台湾青年」を読み、台湾独立についての主張に共鳴する。たとえば、多くの台湾人が習慣的に北京語を話すことにも疑問を感じていた。何故、台湾語を話さない、北京語は外来政権の言葉ではないかと、いうわけだ。鄭自才は、インタビューには台湾語で答えているが、台湾人が北京語を話すことと台湾語を話すこととは、意味が違うと感じたと答えている。中国人とは違うという意味で、台湾人の民族意識が明確に現れていた。

 この頃はアメリカでも人権運動が盛んであった。白人と黒人の貧富の差や白人による黒人に対する差別や虐待など、民主主義の社会であるアメリカにも多くの問題があった。そのような社会の中で、黒人の人権を守るため活躍していたマルティン・ルーサー・キング牧師の組織的な示威活動を見て、鄭自才も、台湾のために何かをしなければならないと考えるようになった。

 1963年、留学して2年目に「台湾独立連盟」に加入した。その翌年、同じようにカーネギー理工大学に留学していた黄晴美と結婚する。同年、晴美の兄、黄文雄も奨学金を得て、ピッツバーグ大学に留学している。鄭自才と黄文雄は一歳違いの義兄弟になった。1965年に長女を出産、2年後には長男も生まれている。

 1969年、アメリカ、カナダ、ヨーロッパそれに日本の台湾独立派の会議がニューヨークで開催され、翌年には世界規模で「台湾独立連盟」が成立した。

 間もなく鄭自才は、蒋経国がアメリカを親善訪問するという情報を入手し、経国暗殺を考えるようになった。

続く


李登輝とファウスト(2)

2014年03月17日 | エッセー

李登輝が自分を「ファウスト博士」になぞらえたとすれば、氏にとっての「悪業」とは何なのであろうか?

 まず、台湾人一般にいえることでもあるが、李登輝の生い立ちは非常に特殊な環境の中にあり、それが思想や嗜好の基礎になっている。1923年(大正12年)に生まれたとき、台湾は日本の統治下にあり、戦後、氏が22歳になったときには台湾は中国一部になり、中国人として生きなければならなくなった。

 李登輝の悩みは、台湾人の自分が日本語を話し、日本人のように振る舞うことの矛盾、かといって、大陸から移ってきた質の悪い中国人に統治されることへの不満などにより、自分の人生をどのように肯定してよいかわからない状態であったと、自ら告白している。

 このような特殊な環境を考慮しながら、李登輝が考えた自分の「罪業」を想像すると、次のような事柄が考えられる。

1、台湾人であるのに、日本人として生きようとしたこと。

2、祖父はアヘンを販売、父は日本警察の配下の巡査として働くという特権をもっていた。

3、共産党に加入したこと。

4、蒋経国を撃った「台湾独立派」の黄文雄との交際

5、意に反して国民党に入党、自分の真意を隠して、ひたすら蒋経国に忠誠を装い、彼の信頼を得ようとしたこと。

以上の5つの「罪業」について考えてみた。 

1、台湾人であるのに日本人として生きようとしたことについて

 日本統治時代に生まれ、日本人により日本語で教育を受け、戦争中は皇民化運動と称して、徹底的に日本人になることを強いられたことは、どのように考えても屈辱の歴史ではないだろうか。異民族に統治されたことのない私たち日本人には想像を超えた苦しい時代であったに違いない。

 そのような時代のなかで生きた台湾人には二通りのタイプがいた。一つは、積極的に日本人になろうとした人達、もう一つは、民族的な自尊心を忘れず台湾人であり続けようとした人達である。

 その分類でいえば、李登輝は積極的に日本人になろうとしたタイプであった。李登輝が受ける批判の一つではあるが、彼は一般の台湾人よりも、かなりはやい時期に日本名「岩里政男」に改名していたし、日本人として生きることに抵抗は感じていなかったようだ。

 「李登輝・その虚像と実像(戴国著)」によれば、李登輝は公学校に上がる時、したがって7歳くらいのときに日本名に変えさせられたという。巡査(日本の警察)をしていた父親「李金龍」の日本名は「岩里龍男」であり、親が日本名を名のっているのだから、その子供に日本名をつけるのは当然であったろう。父親は、台湾人ならば避けて通る警察犬のような職業について日本から恩恵を受けていたので、いち早く日本名を名乗って台湾人に見本を示そうとしたのであろう。

 もう一つのタイプを調べてみると、李登輝が感じたであろう「罪業」の意識がわかってくる。台湾独立運動の中心的な存在であった彭明敏は、東京大学に留学し、戦後は台湾大学に再入学するなど、李登輝とほぼ同じような経歴をもっているが、彼は日本名に改姓しなかっただけでなく、李登輝と異なり学徒動員として兵役につくことも拒否した。

 彭明敏のように民族的な自尊心を保持し続けた人間から見れば、李登輝の日本贔屓は異常であり、李自身も心の片隅には、それを「悪業」とみる自責の念はあったと想像できる。とはいっても、彼はそんな些細なことにはこだわらず、台湾を日本のような国にすることに一生懸命ではあるが。

 2、祖父はアヘンを販売し、父は巡査であったこと

 現在のように個人主義の時代からすれば、祖父や父親がどのような仕事をしようとも、子供に責任はないことは明らかだが、民族的な自尊心はどうなっていると問われれば、後ろめたい気分になることはあるだろう。日本が台湾統治をはじめた頃は、アヘンが蔓延していたが、後藤新平はこの悪習に対処するために、アヘンの専売制をはじめた。祖父はその権利をどのようにして手に入れたか不明だが、それで生計を立てていた。アヘンを売って生活することを快く思う人はいないであろうし、また、巡査であった父親の職業についても、民族的な自尊心があれば、同胞に銃を向けるような職業にはつけないはずだという批判には、返答に困るであろう。

 李登輝自身は持ち前の明るさで、家族の暗い過去などを隠すことなく、おおっぴらに話すが、決してそれを肯定しているのではなく、「台湾人として生まれた悲哀」として受けとめて、自分たちの国をつくるための情熱にかえている。

3、共産党に入退したこと。

 台湾大学に入学した後、資料によれば李登輝は二度、共産党に入退を繰り返している。その時期は、おそらく1946年の台湾大学入学後であり、1947年に起こった228事件の前であろう。加入の動機は、質の悪い国民党に幻滅したこと、大陸での国共内戦は、共産党に有利に展開し始めており、やがて台湾も解放されるのではないかと噂があったことなどであろう。

 しかし、李登輝は正式な共産党の党員になったというのではなく、参加したのは中国共産党台湾大学支部の読書グループであった。そのため、228事件後の国民党による白色テロ時代には生命の危険を感じ、しばらくは母の実家に避難していたという。

 マルクス主義に興味を持ち、共産党に接近したのは、低俗な外来政権である国民党に対する反感から生じたことではあったが、その後意に反して国民党に入党し、蒋経国に忠誠を尽くす自分の姿に矛盾を感じたことであろう。

4、蒋経国を狙撃した「台湾独立派」の黄文雄との交際

 青年時代の李登輝は、台湾は独立すべきであると、ごく自然に考えていた。その考えは、李登輝に限ったことではなく、多くの台湾人がごく普通にもっている感情であった。明末から清の時代に台湾への流入がはじまったが、その後の300年、中国大陸から分離して独自に発展してきた台湾人には、中国人とは違うという意味で、明確な民族意識が生まれていたのだ。

 1968年、李登輝はアメリカのコーネル大学に留学するが、そこで後に蒋経国の暗殺を企てた黄文雄に出会った。年長の李登輝は金銭的に余裕もあり、留学生を自宅に招いて食事などを振る舞ったが、その中に黄文雄も交じっていた。黄はその頃成立していた「台湾独立連盟」に属しており、祖国に対する熱い思いを李登輝にぶつけたに違いない。黄は、理由もなく人を殺すような粗野な人間ではなく、国を思い家族を思う優しい青年なのである。李登輝は黄の話を聞いて大いに共感したに違いない。

 1970年4月24日、黄文雄はアメリカを親善訪問していた蒋経国を狙撃する。暗殺は未遂に終わったが、李登輝にとっては、台湾独立に向けて大いに語り合ったであろう黄文雄が、まさか蒋経国の暗殺を実行するとは思っていなかったであろうが、黄文雄の思いは痛いほどわかっていたはずだ。

 蒋経国を撃った黄文雄との交際を問題視されながらも、騙し透かしの手で切り抜け、どうにか蒋経国の信任をうけて、1971年10月、正式に国民党員になるのであるが、薄氷を踏む思いであったに違いない。

5、国民党に入党後、自分の真意を隠して蒋経国に忠誠を装ったこと。

 ここからが李登輝の真骨頂である。彼が自分をファウスト博士になぞらえたとすれば、総仕上げの舞台であった。李登輝は、時が来るまで、自分の真意をひたかくしに隠して、野心のない学者政治家を必死に演じ続けた。台湾人のための国をつくるための最良の方法は、国民党を変えてしまうことだった。

  司馬遼太郎の「台湾紀行」に李登輝との対談が載っている。「あなたのような方が政治の舞台に現れたのは偶然なんですか?」という質問に対して、李登輝は、つぎのようにこたえた。「農業問題が難しいときにぼくが呼ばれた。私は、日本の学問や農業問題しか考えない男で、政治的なことには興味がなさそうに見えたんじゃないのかな。」

  李登輝が国民党に入党したのは、1971年だから、蒋経国と初めて対面したのはその頃であろうと思われる。当時、蒋経国は国防部長であり特務のボスだから、緊張したに違いない。

 蒋経国にしても、李登輝が自分の暗殺を企てた台湾独立派と交際していた事実は知っていただろうが、李を見ると、司馬遼太郎の表現をかりれば、山から切り出した大木に目鼻を付けたような男で、とても大それたことをしそうな人間には見えなかったに違いない。もちろんそれは李登輝の計算された演技であり、このチャンスをしっかりとつかむために、ひたすら農業問題しか興味のない学者ばかに徹した。

 さらに、司馬遼太郎の質問、「李登輝さんは一介の学者だったのに、よく政治のノウハウを身につけられましたね。ステーツマンであると同時に、ポリティカルな、どろどろしたことまで。」

 李登輝はこたえる。「わたしは子供のころから敏感だもの。敏感さをどう抑えるかをいつも考えてきた。」司馬遼太郎の鋭い質問に、おもわず本音がでた瞬間であろう。そんな芸当はお手のものというところだろう。

 司馬遼太郎がいう、「ポリティカルな、どろどろしたこと。」とは、目的のためには、相手を欺き、苦しいことを耐え忍ぶことのように思える。まさか、嘘も方便の政治家によくなれましたね、とは云えなかったであろうから。

 李登輝が考えたであろう「罪業」もすべては台湾人のためであれば、ファウスト博士が許されたように自分も許されると感じたのであろう。

 国民党員になってから17年を経た1988年、蒋経国の死と共に、台湾人として初めて総統の地位を継承し、初期の目的が達成されたとき、李登輝は誰はばかることもなく、本音を語るようになった。

以上