李登輝が自分を「ファウスト博士」になぞらえたとすれば、氏にとっての「悪業」とは何なのであろうか?
まず、台湾人一般にいえることでもあるが、李登輝の生い立ちは非常に特殊な環境の中にあり、それが思想や嗜好の基礎になっている。1923年(大正12年)に生まれたとき、台湾は日本の統治下にあり、戦後、氏が22歳になったときには台湾は中国一部になり、中国人として生きなければならなくなった。
李登輝の悩みは、台湾人の自分が日本語を話し、日本人のように振る舞うことの矛盾、かといって、大陸から移ってきた質の悪い中国人に統治されることへの不満などにより、自分の人生をどのように肯定してよいかわからない状態であったと、自ら告白している。
このような特殊な環境を考慮しながら、李登輝が考えた自分の「罪業」を想像すると、次のような事柄が考えられる。
1、台湾人であるのに、日本人として生きようとしたこと。
2、祖父はアヘンを販売、父は日本警察の配下の巡査として働くという特権をもっていた。
3、共産党に加入したこと。
4、蒋経国を撃った「台湾独立派」の黄文雄との交際
5、意に反して国民党に入党、自分の真意を隠して、ひたすら蒋経国に忠誠を装い、彼の信頼を得ようとしたこと。
以上の5つの「罪業」について考えてみた。
1、台湾人であるのに日本人として生きようとしたことについて
日本統治時代に生まれ、日本人により日本語で教育を受け、戦争中は皇民化運動と称して、徹底的に日本人になることを強いられたことは、どのように考えても屈辱の歴史ではないだろうか。異民族に統治されたことのない私たち日本人には想像を超えた苦しい時代であったに違いない。
そのような時代のなかで生きた台湾人には二通りのタイプがいた。一つは、積極的に日本人になろうとした人達、もう一つは、民族的な自尊心を忘れず台湾人であり続けようとした人達である。
その分類でいえば、李登輝は積極的に日本人になろうとしたタイプであった。李登輝が受ける批判の一つではあるが、彼は一般の台湾人よりも、かなりはやい時期に日本名「岩里政男」に改名していたし、日本人として生きることに抵抗は感じていなかったようだ。
「李登輝・その虚像と実像(戴国著)」によれば、李登輝は公学校に上がる時、したがって7歳くらいのときに日本名に変えさせられたという。巡査(日本の警察)をしていた父親「李金龍」の日本名は「岩里龍男」であり、親が日本名を名のっているのだから、その子供に日本名をつけるのは当然であったろう。父親は、台湾人ならば避けて通る警察犬のような職業について日本から恩恵を受けていたので、いち早く日本名を名乗って台湾人に見本を示そうとしたのであろう。
もう一つのタイプを調べてみると、李登輝が感じたであろう「罪業」の意識がわかってくる。台湾独立運動の中心的な存在であった彭明敏は、東京大学に留学し、戦後は台湾大学に再入学するなど、李登輝とほぼ同じような経歴をもっているが、彼は日本名に改姓しなかっただけでなく、李登輝と異なり学徒動員として兵役につくことも拒否した。
彭明敏のように民族的な自尊心を保持し続けた人間から見れば、李登輝の日本贔屓は異常であり、李自身も心の片隅には、それを「悪業」とみる自責の念はあったと想像できる。とはいっても、彼はそんな些細なことにはこだわらず、台湾を日本のような国にすることに一生懸命ではあるが。
2、祖父はアヘンを販売し、父は巡査であったこと
現在のように個人主義の時代からすれば、祖父や父親がどのような仕事をしようとも、子供に責任はないことは明らかだが、民族的な自尊心はどうなっていると問われれば、後ろめたい気分になることはあるだろう。日本が台湾統治をはじめた頃は、アヘンが蔓延していたが、後藤新平はこの悪習に対処するために、アヘンの専売制をはじめた。祖父はその権利をどのようにして手に入れたか不明だが、それで生計を立てていた。アヘンを売って生活することを快く思う人はいないであろうし、また、巡査であった父親の職業についても、民族的な自尊心があれば、同胞に銃を向けるような職業にはつけないはずだという批判には、返答に困るであろう。
李登輝自身は持ち前の明るさで、家族の暗い過去などを隠すことなく、おおっぴらに話すが、決してそれを肯定しているのではなく、「台湾人として生まれた悲哀」として受けとめて、自分たちの国をつくるための情熱にかえている。
3、共産党に入退したこと。
台湾大学に入学した後、資料によれば李登輝は二度、共産党に入退を繰り返している。その時期は、おそらく1946年の台湾大学入学後であり、1947年に起こった228事件の前であろう。加入の動機は、質の悪い国民党に幻滅したこと、大陸での国共内戦は、共産党に有利に展開し始めており、やがて台湾も解放されるのではないかと噂があったことなどであろう。
しかし、李登輝は正式な共産党の党員になったというのではなく、参加したのは中国共産党台湾大学支部の読書グループであった。そのため、228事件後の国民党による白色テロ時代には生命の危険を感じ、しばらくは母の実家に避難していたという。
マルクス主義に興味を持ち、共産党に接近したのは、低俗な外来政権である国民党に対する反感から生じたことではあったが、その後意に反して国民党に入党し、蒋経国に忠誠を尽くす自分の姿に矛盾を感じたことであろう。
4、蒋経国を狙撃した「台湾独立派」の黄文雄との交際
青年時代の李登輝は、台湾は独立すべきであると、ごく自然に考えていた。その考えは、李登輝に限ったことではなく、多くの台湾人がごく普通にもっている感情であった。明末から清の時代に台湾への流入がはじまったが、その後の300年、中国大陸から分離して独自に発展してきた台湾人には、中国人とは違うという意味で、明確な民族意識が生まれていたのだ。
1968年、李登輝はアメリカのコーネル大学に留学するが、そこで後に蒋経国の暗殺を企てた黄文雄に出会った。年長の李登輝は金銭的に余裕もあり、留学生を自宅に招いて食事などを振る舞ったが、その中に黄文雄も交じっていた。黄はその頃成立していた「台湾独立連盟」に属しており、祖国に対する熱い思いを李登輝にぶつけたに違いない。黄は、理由もなく人を殺すような粗野な人間ではなく、国を思い家族を思う優しい青年なのである。李登輝は黄の話を聞いて大いに共感したに違いない。
1970年4月24日、黄文雄はアメリカを親善訪問していた蒋経国を狙撃する。暗殺は未遂に終わったが、李登輝にとっては、台湾独立に向けて大いに語り合ったであろう黄文雄が、まさか蒋経国の暗殺を実行するとは思っていなかったであろうが、黄文雄の思いは痛いほどわかっていたはずだ。
蒋経国を撃った黄文雄との交際を問題視されながらも、騙し透かしの手で切り抜け、どうにか蒋経国の信任をうけて、1971年10月、正式に国民党員になるのであるが、薄氷を踏む思いであったに違いない。
5、国民党に入党後、自分の真意を隠して蒋経国に忠誠を装ったこと。
ここからが李登輝の真骨頂である。彼が自分をファウスト博士になぞらえたとすれば、総仕上げの舞台であった。李登輝は、時が来るまで、自分の真意をひたかくしに隠して、野心のない学者政治家を必死に演じ続けた。台湾人のための国をつくるための最良の方法は、国民党を変えてしまうことだった。
司馬遼太郎の「台湾紀行」に李登輝との対談が載っている。「あなたのような方が政治の舞台に現れたのは偶然なんですか?」という質問に対して、李登輝は、つぎのようにこたえた。「農業問題が難しいときにぼくが呼ばれた。私は、日本の学問や農業問題しか考えない男で、政治的なことには興味がなさそうに見えたんじゃないのかな。」
李登輝が国民党に入党したのは、1971年だから、蒋経国と初めて対面したのはその頃であろうと思われる。当時、蒋経国は国防部長であり特務のボスだから、緊張したに違いない。
蒋経国にしても、李登輝が自分の暗殺を企てた台湾独立派と交際していた事実は知っていただろうが、李を見ると、司馬遼太郎の表現をかりれば、山から切り出した大木に目鼻を付けたような男で、とても大それたことをしそうな人間には見えなかったに違いない。もちろんそれは李登輝の計算された演技であり、このチャンスをしっかりとつかむために、ひたすら農業問題しか興味のない学者ばかに徹した。
さらに、司馬遼太郎の質問、「李登輝さんは一介の学者だったのに、よく政治のノウハウを身につけられましたね。ステーツマンであると同時に、ポリティカルな、どろどろしたことまで。」
李登輝はこたえる。「わたしは子供のころから敏感だもの。敏感さをどう抑えるかをいつも考えてきた。」司馬遼太郎の鋭い質問に、おもわず本音がでた瞬間であろう。そんな芸当はお手のものというところだろう。
司馬遼太郎がいう、「ポリティカルな、どろどろしたこと。」とは、目的のためには、相手を欺き、苦しいことを耐え忍ぶことのように思える。まさか、嘘も方便の政治家によくなれましたね、とは云えなかったであろうから。
李登輝が考えたであろう「罪業」もすべては台湾人のためであれば、ファウスト博士が許されたように自分も許されると感じたのであろう。
国民党員になってから17年を経た1988年、蒋経国の死と共に、台湾人として初めて総統の地位を継承し、初期の目的が達成されたとき、李登輝は誰はばかることもなく、本音を語るようになった。
以上