1930年10月27日 決起後のモーナ・ルダオ
霧社公学校で134人の日本人を殺害した後、村に戻ったモーナ・ルダオは、若者たちを集めて演説した。戴國の「台湾霧社蜂起事件 研究と資料」から引用してみよう。
「君らの要求により起った。だが、日本の力は大きいから、君らの生命の将来に希望はない。しかし、起ったのだから、最後まで戦うんだ。この戦いは勝つことがない。しかし、今、起たなかったら、我々の将来は、いつまでも続く奴隷生活だ。山には改革が必要なのだ。」
これはもう、革命家の心情だ。そう考えれば、中華民国政府がモーナ・ルダオを民族の英雄として立派な慰霊碑を建てていることが理解できる。
この時、モーナ・ルダオの首には二千円の賞金が付けられていた。この時代、千円あれば、台北に家が一軒建ったという。その首を狙って、同族が動いていた。
日本に味方しているタウツアやトロックの姿が見え隠れしている。うかつなところで殺されれば、彼らに首を取られて、笑い物にされる。セーダッカの総頭目として、それは絶対避けなければならないことだった。
決起した頭目たち、ホーゴ社のタダオ・ノーカン、ワリス・チリ、が戦死し、自分も花々しく戦って死にたいと苦悶する。
このあたりは、アウイヘッパハの「証言 霧社事件」を引用しよう。
モーナルダオは、長男のタダオ・モーナを呼んで、自決の覚悟を打ち明け、後事を託した。
「私は死ななければならない。今日から、お前がマヘボ社の頭目である。敵は、明日行動を起こすだろう。ウツウチクの森を厳重に警戒しろ。敵は多分、ブットツの我々のイモ畑を狙うだろう。新頭目として、勇敢に戦ってくれ。」
モーナ・ルダオは岩窟を出て、一族が避難している自分の耕作小屋に戻り、一族に死を命じた。
原住民にとって死は、祖先のもとに行くことなのだ。虹の架け橋をわたり、懐かしい父母に逢うことができると信じている。俺も後から行くから、先に行って待っていてくれということなのだ。自殺は、大きな樹を利用する原始的な方法だ。後に、この地域を捜索した日本軍は、50名以上の首つり死体を発見している。
命令に背いた者は、鉄砲で撃ち殺し、死体は火を放って小屋ごと焼き払った。ただ、すぐには先祖のもとには行きたくなかった娘のマホン・モーナと10数名の原住民が、死を恐れて逃亡し、日本軍に投降している。
1930年12月1日(48歳) 家族の死を確認後、モーナ・ルダオは険しい岩壁をよじ登り、自分の死体が誰にも見つけられないように、人跡未踏の奥地に分け入り、銃を口にくわえて自殺している。血気盛んな壮丁の行動にのまれた男の最後だった。
この時のモーナ・ルダオを、西南戦争当時の「西郷隆盛」のようだという人もいる。薩摩に残った不平武士を見捨てることができず、西郷は反乱軍に担がれて、戦闘中に陣没している。勝海舟のいい方をすれば、西郷は不平武士に自分の体をくれてやったのだ。モーナルダオも、決起には消極的であったが、結局、悲壮な思いで立ちあがった。
このあたりは、まさに日本の戦国時代の武将の最後ではないか。タイヤル族の武人のイメージは日本の武士道に通じるものがあり、霧社事件に作戦参謀として参加した台湾軍参謀の服部大佐は、その報告書の中で、来たるべき南方作戦には、この山地族の身体能力とジャングルでの行動力を評価し、兵隊としてつかうことの有効性を論じている。
モーナルダオの白骨化した遺体が発見されたのは、数年後、猟をしていた原住民が見つけたという。検死の結果、銃口を口にあてがい、脳天に向かって、引き金を引いたものと認められた。
遺体は台湾大学に引き取られ、しばらく標本として保管されていたが、その後霧社にもどされ手厚く葬られた。
完