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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

モーナ・ルダオ(7)

2013年07月04日 | 歴史

1930年10月27日 決起後のモーナ・ルダオ                                                        

                                           

  霧社公学校で134人の日本人を殺害した後、村に戻ったモーナ・ルダオは、若者たちを集めて演説した。戴國の「台湾霧社蜂起事件 研究と資料」から引用してみよう。

「君らの要求により起った。だが、日本の力は大きいから、君らの生命の将来に希望はない。しかし、起ったのだから、最後まで戦うんだ。この戦いは勝つことがない。しかし、今、起たなかったら、我々の将来は、いつまでも続く奴隷生活だ。山には改革が必要なのだ。」

 これはもう、革命家の心情だ。そう考えれば、中華民国政府がモーナ・ルダオを民族の英雄として立派な慰霊碑を建てていることが理解できる。

 この時、モーナ・ルダオの首には二千円の賞金が付けられていた。この時代、千円あれば、台北に家が一軒建ったという。その首を狙って、同族が動いていた。

 日本に味方しているタウツアやトロックの姿が見え隠れしている。うかつなところで殺されれば、彼らに首を取られて、笑い物にされる。セーダッカの総頭目として、それは絶対避けなければならないことだった。

 決起した頭目たち、ホーゴ社のタダオ・ノーカン、ワリス・チリ、が戦死し、自分も花々しく戦って死にたいと苦悶する。

このあたりは、アウイヘッパハの「証言 霧社事件」を引用しよう。

モーナルダオは、長男のタダオ・モーナを呼んで、自決の覚悟を打ち明け、後事を託した。

 「私は死ななければならない。今日から、お前がマヘボ社の頭目である。敵は、明日行動を起こすだろう。ウツウチクの森を厳重に警戒しろ。敵は多分、ブットツの我々のイモ畑を狙うだろう。新頭目として、勇敢に戦ってくれ。」

 モーナ・ルダオは岩窟を出て、一族が避難している自分の耕作小屋に戻り、一族に死を命じた。

 原住民にとって死は、祖先のもとに行くことなのだ。虹の架け橋をわたり、懐かしい父母に逢うことができると信じている。俺も後から行くから、先に行って待っていてくれということなのだ。自殺は、大きな樹を利用する原始的な方法だ。後に、この地域を捜索した日本軍は、50名以上の首つり死体を発見している。

 命令に背いた者は、鉄砲で撃ち殺し、死体は火を放って小屋ごと焼き払った。ただ、すぐには先祖のもとには行きたくなかった娘のマホン・モーナと10数名の原住民が、死を恐れて逃亡し、日本軍に投降している。

1930年12月1日(48歳)     家族の死を確認後、モーナ・ルダオは険しい岩壁をよじ登り、自分の死体が誰にも見つけられないように、人跡未踏の奥地に分け入り、銃を口にくわえて自殺している。血気盛んな壮丁の行動にのまれた男の最後だった。

 この時のモーナ・ルダオを、西南戦争当時の「西郷隆盛」のようだという人もいる。薩摩に残った不平武士を見捨てることができず、西郷は反乱軍に担がれて、戦闘中に陣没している。勝海舟のいい方をすれば、西郷は不平武士に自分の体をくれてやったのだ。モーナルダオも、決起には消極的であったが、結局、悲壮な思いで立ちあがった。

 このあたりは、まさに日本の戦国時代の武将の最後ではないか。タイヤル族の武人のイメージは日本の武士道に通じるものがあり、霧社事件に作戦参謀として参加した台湾軍参謀の服部大佐は、その報告書の中で、来たるべき南方作戦には、この山地族の身体能力とジャングルでの行動力を評価し、兵隊としてつかうことの有効性を論じている。

 モーナルダオの白骨化した遺体が発見されたのは、数年後、猟をしていた原住民が見つけたという。検死の結果、銃口を口にあてがい、脳天に向かって、引き金を引いたものと認められた。

 遺体は台湾大学に引き取られ、しばらく標本として保管されていたが、その後霧社にもどされ手厚く葬られた。


モーナ・ルダオ(6)

2013年06月26日 | 歴史

 モーナ・ルダオが蜂起した理由

 

日本人統治者から受けたさまざまな屈辱に耐えられなかった。

1、理不尽な出役で苦しんだこと。

 セーダッカ族の蜂起の直接の原因となるのは、霧社小学校寄宿舎新築工事の出役になるのであろうか。霧社の官憲は、建築用資材として、ウツウチク山(マヘボ富士)から樹木を伐採させ、それを霧社まで運ばせた。

 搬送については、建築用の木材が傷つかないように、肩に担がせたが、峻険な山道では命をかける重労働になった。もともと、原住民は木材を運ぶ時は、習慣として地面を引きずるが、それを厳として禁止したことになるが、これは強制労働を超えて、あくどい苦役になった。

 この時期の官憲は、吉村巡査殴打事件のことや、官命を無視するモーナ・ルダオを処分するため、何らかの問題を起こさせようとして、意図的に圧迫していたようだ。

 モーナ・ルダオが官憲の仕打ちに耐えかねて、何か問題を起こせば、それを理由に処分(抹殺?)しようと考えていたようだ。

 たとえば、木材の担送をセーダッカ族に行わせて、地ならしなどの軽作業は他部族にやらせて差別し、また、賃金の支払いについては、セーダッカについては支払いを遅らせたり、ピンはねしたりして、物質的、精神的に圧迫していった。

 この人間性を無視し、牛馬のように取り扱われれば、セーダッカでなくても怒るのが当然だろう。霧社事件を研究していた台湾大学の許介鱗博士の言葉をかりれば、抗日蜂起は「悲壮な人間宣言だった」ということになる。

2、質の悪い警察

 その頃の巡査は、なぐる、ける、どなるが一般的でひどかった。もともと山地人を「生蕃」といって、人間と見ていなかったのだから、その扱いは当然ともいえるが、山地へ来る巡査は、平地で悪いことをしたとか、日本内地ではつかいものにならなかったような男が、左遷されてくるとかで、よい人材が集まらなかったようだ。

 セーダッカから最も憎まれた男、佐塚愛佑警部は、霧社事件の7か月前に霧社分室に着任。霧社事件の引き金となった「霧社小学校寄宿舎の建築」をはじめた時の責任者であった。セーデッカ族を差別して苦役を命令し、ピンはねをした張本人ということになる。

 事件後、佐塚警部が自宅としていた官舎の床下から、大量の百円札や五十円札、銀貨などが出てきたという。

 佐塚警部は、事件当日に殺害されているが、遺体はズボンが脱がされ、男の象徴が切り取られて口の中に押し込まれていたという話も残っている。

 モーナ・ルダオが、日本内地旅行で得た感想、

「内地の警官は優しいのに、なぜ山地の警官は意地悪で、乱暴なのか」というこたえがそこにある。

 仮定の話でいえば、もし、山地の巡査が、内地の警察官のように優しかったら、霧社事件は起こらなかったともいえるだろう。

3、政略結婚

これも非人間的政策だ。頭目の娘を選んで結婚をする。頭目にしてみれば、自分の娘の夫の頼みごとであれば、断れない。そういう人間の弱みに付け込む政策だった。資料から見える主な政略結婚は下記のとおりだ。

佐塚 愛佑(警部 霧社分室)ーーーヤワイタイモ(マシトバオン社の頭目の娘)

下山治平(台中警部補)ーーーピッコタウレ(マレッパ社頭目の娘)

近藤勝三郎(脳牧場の経営)---イワリー・ロバオ(パーラン社頭目の娘)、

                       オビン・ノーカン(ホーゴ社頭目の娘)

近藤儀三郎(警官、勝三郎の弟)---テワス・ルダオ(モーナ・ルダオの妹)

近藤義三郎は、1916年、兄の近藤勝三郎は1918年、にそれぞれ政略結婚の妻を捨てて花蓮に逃げている。


モーナ・ルダオ(5)

2013年06月23日 | 歴史

1930年10月7日 吉村克己巡査殴打事件

                             

 この事件は、霧社事件が起こる20日前、モーナ・ルダオの長男、タダオ・モーナが、些細なことから喧嘩になり、吉村巡査に暴行をふるった事件であった。

 話は横道にそれるが、タイヤル族の名前のつけ方は、父親の名前の前の部分を子供につける習わしである。子供につける前の部分は自由だが、その後には、必ず父親の名前がつけられる。長男タダオ・モーナは、モーナ・ルダオの「モーナ」付けられており、子供であることが明確になる。

 モーナ・ルダオには、5人の子供がおり、次男は、バッサオ・モーナ、三男はヘロワン・モーナ、四男はワリス・モーナ、長女は、マホン・モーナという。父系社会になるのだろうし、姓名の区別もないようである。ちなみに、長女のマホン・モーナを除いて、すべて霧社事件で命を落としている。

 さて、殴打事件が、事件の詳細は、ピホ・ワリス著の「霧社緋桜の狂い咲き」からの引用でみてみよう。ピホ・ワリスはその時16歳、事件現場にいたわけではないので、人から聞いた話ということになる。

 その日は、新郎ウトン・ルビと新婦ルビ・パワンの結婚式があり、これからモーナ・ルダオの家で披露宴が開かれようとしていた。折から、吉村克己巡査がウツウチク造材地(日本人はそこをマヘボ富士と呼んだ)へ赴く途中、マヘボ社のモーナ・ルダオの家の前を通過した。ある本には、新婦のルビ・パワンが美人であったため、吉村巡査はつい見とれてしまったとの記述もある。

  その時、長男のタダオ・モーナは宴会用の牛肉を切っていたが、吉村巡査を見つけると、血のついた手を洗わずに飛び出してゆき、吉村巡査の手をつかまえて、ぜひ披露宴に参加するように誘った。吉村巡査は元来、原住民の酒宴の不潔さを嫌悪しており、血がついた手で掴まれ、自分の制服が汚れたのを見ると、思わず「触るな!」と言わんばかりに、もっていたステッキ(警棒)でタダオ・モーナを打ってしまった。

 タダオ・モーナにしてみれば、せっかくの親切心が警棒で返されたので、憤慨して格闘になった。そこへ、弟のバッサオ・モーナが出てきて、二人で吉村巡査を地面に叩き伏せて、足蹴りなどをしたという。

  歴史とは難しいもので、事件の当事者のタダオ・モーナと吉村巡査は、霧社事件で死亡し、また喧嘩を見た人も生存していないので、実際何が、どのように起こったのかを知るのは困難だが、この事件について記録している、もう一人の生存者「アウイヘッパハ」の「証言 霧社事件」ではどうなっているかを、見てみよう。

 アウイヘッパハは当時14歳、もちろん喧嘩の現場にいたわけではないので、すべて人から聞いた話である。

それによれば、

 その日が、結婚式の宴会が行われていたことまでは同じだが、こちらでは、吉村巡査は宴会に誘われたが、原住民の不潔さを嫌悪していたため、タダオ・モーナが血で汚れた手で「黄色く濁ったドブロク(粟酒)」と「豚肉」を差し出したところ、吉村巡査はステッキ(警棒)でたたき落としたという。タタオ・モーナの好意と尊厳は、恥辱に変じて、激情したタダオは吉村巡査の背中を打ち返したという。

 人から聞いた話というのは、こんなに違うのかと考えてしまう。ピホ・ワリスの話では、「牛肉の血で衣服が汚れた」となっているが、アウイヘッパハの方は、「黄色く濁ったドブロクと豚肉を嫌ったこと」になっている。

 事件から何十年も経過し、さらに人から聞いたことなどは、このくらい変化してしまうということを肝に銘じよう。とはいえ、吉村巡査とタダオ・モーナが喧嘩をして、大きな遺恨を残したことは紛れもない事実ではあるが。

 事件後、父親のモーナ・ルダオは穏便に済ませようとして、吉村巡査が駐在する、ウツウチク造材地に、慣例により粟酒3本をもって何度か謝罪に行ったが、日本側官憲は受け付けないばかりか、逆に叱責を受ける。

 モーナ・ルダオは息子に厳罰が下るかもしれないと考え、将来頭目の地位を継ぐべき長男が、誰かにとって代わられる心配もしたようである。著者のピホ・ワリスは、この事件が「霧社事件」引き金になった大きな原因の一つと結んでいる。

 この時、日本官憲は、この機会を利用して、問題を起こす元凶のモーナ・ルダオを処分してしまおうと考えていたが、頭のいいモーナ・ルダオは一斉蜂起して、その機先を制したともいえる。

 ちなみに、霧社事件が起こった当日の未明、タダオ・モーナはウツウチク造材地に駐在する吉村巡査の寝込みを襲い、その首をとってしまう。タダオ・モーナは、その恨みを真っ先に晴らしてしたことになる。

続 


モーナ・ルダオ(4)

2013年06月20日 | 歴史

 1920年 サラマオ事件後、

                                                                        

 

 モーナルダオは自分の村の悲惨な状況を打破することを考えていたようだが、日本の軍事力を知っているので、うかつに反抗はできない。むしろ、蜂起を叫ぶ血気盛んな若者を抑えるような立場になっていた。

 1925年(昭和元年 モーナ・ルダオ 43歳)、

  林えいだい著の「民衆側の証言」によれば、モーナ・ルダオは、霧社に行くとき、遊びがてら、ピッコタウレの家によく立ち寄ったという。ピッコタウレは下山治平の現地妻で、4人の子供をもうけていることはすでに書いた。

 ピッタコウレは、下山治平の妾であったが、治平は特別な愛情をもっていたようで、自分が日本に帰った後も、ピッコタウレと子供たちの生活が困らないように、生活費の面倒をみている。1914年生まれの長男下山 一(中国名 林光明)は、日本人とタイヤル族との混血になるが、台湾在住であり、存命とすれば、現在98歳くらいになる。

 この頃、原住民の女性にとって、日本人と結婚することは、ステイタスシンボルになっていたようで、少し偉くなったような気がしたようである。ピッコタウレのように日本人と結婚した原住民女性は、日本髪を結い、和服を着て、もちろん日本語を話し、日本女性のように振る舞っていたという。

 モーナ・ルダオがピッコタウレの家に行くと、出された塩鱒を肴にして米酒を飲み機嫌がよかったという。この時、夫の下山治平は日本に帰った後ではあったが、恐らくピッコタウレは、和服に日本髪を結っていたはずである。

 モーナ・ルダオはセーダッカ族の昔話を語り、酔いに任せて、13歳の時に首狩りをしたことを自慢したという。サラマオ蕃討伐の時には、下山治平と一緒に参加し、逆襲されて額に傷負ったことなども話したという。

とはいっても、 

 タイヤル族同士を戦わせた日本のやり方を非難して、それは大きな間違いであると怒った時の目が忘れられないと、ピッコタウレが言ったという。

 また、妹のテワス・ルダオを連れていくこともあったという。テワスもピッコタウレのように和服を着て、流暢な日本語を話したという。原住民の女性が和服を着て日本語を話している光景は、想像しにくいが、テワスのマヘボ社とピッコタウレのマレッパ社とは、同じタイヤル族だが、少し言葉が異なり、日本語の方が話しやすいとう状況もあったようである。

 テワス・ルダオは夫の近藤儀三郎に捨てられて、失意のうちに生れ故郷の「マヘボ社」に戻り、壮丁と再婚していたが、モーナ・ルダオは近藤のやり方を非常に怒っていたという。


モーナ・ルダオ(3)

2013年06月19日 | 歴史

 日本内地旅行をしたモーナ・ルダオのその後について。

                                           

 1920年(38歳)、「サラマオ事件」が起きている。原住民の反抗形態や日本軍の鎮圧したやり方が、霧社事件に似ている。

 サラマオ藩は、現在の台中県和平郷梨山にあった。梨山は台中から花蓮に抜ける東西横貫公路の中間点の山岳地帯で、山の斜面には果樹園が広がっていたという。その当時、梨山小さな街で、険しい山を行く人達にとっては、一息つける休憩地として栄えていた。現在は、「梨山賓館」という伝統的な中国様式の立派なホテルが建っているが、往時のような賑わいはなく、山間の静かな街という感じである。

 さて、アウイヘッパハが書いた「証言  霧社事件」によれば、1920年頃この地方にインフルエンザが流行、原住民から多数の死者がでて蕃情が悪化したという。原住民からすれば、このように多くの死者が出るのは、日本人が我々の土地に侵入して好き勝手なことをしているからであり、一刻も早く日本人を追い出せと、彼らの神「ウットフ」が怒っているということになる。

 この後、サラマオの藩人は、武装蜂起して、駐在所を襲撃、警部補の長久保栄左エ門以下、日本人19人を殺傷したというのが、「サラマオ事件」であった。

 サラマオ蕃が蜂起した時、当初モーナ・ルダオはサラマオと呼応して抗日蜂起をしようと計画したが、未然に発覚して、モーナ・ルダオは罪を問われそうになる。この時、日本は一計を案じて、モーナルダオを直接処罰しないで、サラマオ蕃討伐に加わるならば、その罪を免じようともちかけたらしい。このあたりの経緯は詳しい資料がないので不明だが、結局、モーナ・ルダオのマヘボ社は、日本軍と共にサラマオ討伐の奇襲隊として行動することに同意する。

 台中警部補の下山冶平は、サラマオ事件の討伐隊長として指揮をしている。下山冶平は、マレッパ族の頭目の娘「ピッコタウレ」を現地妻として4人の子供をもうけている。

  サラマオ事件については、「霧社の反乱 民衆側の証言」(林えいだい著)に詳しく書かれているが、息子の下山 一は、討伐成功後、父の治平が5個の首を下げて凱旋したのを見ている。女や子供の首もあり、首はあごの付け根から切り取り、麻縄で結んであり、半開きの目はどろんとして、思い出してもぞっとする光景だったという。

  モーナ・ルダオは、下山治平の指揮下でサラマオ討伐にあたり、戦闘のなかで逆襲され、額に傷を負ったという記述もある。

 「夷をもって夷を制す」という戦術は、山中の戦闘に優れた蕃人に対抗するには、同じ蕃人をもってするのを得策と考えたからだった。日本軍は蕃人を味方にするために、いろいろな便宜をあたえたりしたが、モーナ・ルダオの場合は、罪を免除するということで味方につけたようだ。

 このタイヤル族同士を戦わせるという戦術は、霧社事件が起きた時にも用いられ、モーナ・ルダオは同族サラマオ藩の首を切った報いを受けることになる。

サラマオ事件以後、モーナ・ルダオは要注意人物として、警察からマークされるようになる。

続