「台湾蛮族図会」という雑誌がある。
これは1896年(明治29年12月)に発行された風俗画報という雑誌の臨時増刊号だ。日本の台湾領有が1895年だから、その翌年に特集した雑誌である。台湾の植民地開発をすすめるなかで、首狩り族として恐れられている、台湾原住民の実態を調査したものだった。
その当時、台湾には大きく分けて、4種類の人種がいた。まずは17世紀頃から大陸から移住した中国系台湾人がいた。、次は台湾に紀元前から住み着いていた原住民、これは二つの種類に分けられる。まずは、「生蕃」といって文明人とほとんど交流をもたず、山岳地帯に独自の生活圏をもっていた種族で、首狩りの風習があり、もう一種族は、原住民でありながら、台湾人などと交流をもち、文明を受け入れて生活している種族で「熟蕃」と呼ばれていた。そこに新たな統治者として日本人が住むようになったわけだ。
日本人は台湾全土を開発しようとして少しずつ奥地に侵入する、そうはさせじと「生蕃」は武器をもって立ち向かう。原住民と日本人とのすさまじい闘争は日常的に起きていたのだろう。
「台湾風俗絵図」の解説を読むと、その事件は1896年(明治29年)1月に台北で起きた。「土匪が四方に蜂起し・・・」云々と書いているが、いわゆる多数の「生蕃」が武器をもって台北城を襲うという事件が起きた。その頃、台北には四方を城壁で囲んだ城があったが、現在もその名残がある。それは、ともかくとして、
日本軍は城から撃って出てこれを敗走させた。そのなかで、生蕃のリーダーらしき者が追撃されて、「馬來社」という原住民のに逃げ込んだという。しかし、その生蕃のリーダーにとっては運が悪かったことに、そこは「熟蕃」のであり、その事情を知った民は、生蕃のリーダーを捕えて日本軍の守備隊に引き渡し、しきりにその首を切れと促したという。
そのリーダーは捕縛されていたが、「その縛法、奇なり」という。両手を前にひき揃えて、藤蔓で肘から手首までがっちりを巻き締め、もう一つの藤蔓で輪をつくり、それを首にはめて手綱とし、その手綱をもって引きまわしたという。それは「猿」を扱うに等しい状態で、手綱をもった原住民は、鞭を手に持ち、その鞭で叩きながら、とらえたリーダーを進退させる光景は、人間業とは思えなかったという。
当時は日本人は、「生蕃」を人間扱いはしなかったが、原住民同士でも、敵の部族の人間は、家畜くらいにしか見ておらず、いとも簡単に命を奪い、その扱いは想像を超えているようだ。
さらに読んでみると、「日本人」と「生蕃」、「生蕃」と「熟蕃」の殺し合いは生々しく、それは憎しみのぶつけ合いであり、凄まじい報復合戦であった。
台湾領有後、日本は生蕃の居住地を1年に1里というから、約4kmずつ侵奪していった。その前線には隘勇(アイユウ)や隘丁(アイテイ)がいた。隘勇は軍人で大尉位のものがなったというから、台湾軍の日本人であったであったろうし、、隘丁はその配下の兵士で、普段は農耕に従事しているが、敵の襲撃あれば武器をもって戦うという屯田兵であった。
隘丁には、その多くが「熟蕃」たる原住民がなったという。前線には城郭のような砦を築き、土塀をつくって「生蕃」の襲撃に備えた。このような砦を生蕃の居住地を取り囲むように幾つも造り、それらの砦をつないだ線を「隘勇線」と呼び、毎年少しずつ前進させたという。
この隘丁が「生蕃」を殺すやり方が凄まじい。夜中に、多数でひそかに生蕃の村落を囲み、老若男女の区別なく、ことごとく縛り上げて、耳や鼻をそぎ落とし、腕を切り落として、足を断ち、頭は切り落とさずに、森の中に捨て置いたという。このように一つの村を全滅させることもたびたびあったという。
したがって、「生蕃」の隘丁になった「熟蕃」に対する憎しみは、並大抵のものではなく、その仕返しは眼を覆いたくなるような惨状であった。同じ原住民のくせに、日本人にこびへつらい、同族に銃を向けるとは何事かというところだろう。
その報復の一例が載っている。武装した多数の「生蕃」が隘丁として働いていた「熟蕃」一家を皆殺しにした事件であった。
事件の直後、現場をみて、「その残忍なること見るに忍びない。」と書いている。一家の主夫婦とその子供二人、主人の兄弟二人の6人の「首なし死体があったという。死体は大木にあおむけに縛られおり、鈍刀をもって首を切ること、数度に及び、顎に切りつけたり、胸にあたったりして、ようやく首を落としたような痕跡があったという。主人の死体は、さらに手を殺ぎ、足を断っており、憎しみがことのほか深かったようだとある。
この隘丁たる「熟蕃」は、一家で樟脳製造を目的として、生蕃地域内に忍び入り、樟樹を伐採したり、生蕃がつくった作物を残らず盗ってしまい、また歩哨などをして、近づく「生蕃」を狙撃していたため、「生蕃」では、予めその一家せん滅を決定していたという。
日本が領有を始めたころの台湾は、なんとも凄まじい闘争の地であったようだ。
以上
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