暗殺が失敗して、逮捕された後について、
黄文雄が撃った弾は蒋経国の頭上をかすめただけであったが、狙撃という手段は、よほどのプロでない限り難しいことなのであろう。しかし、もしもの話であるが、暗殺が成功していたらどうだったのかと想像してみる。つまり、あの時蒋経国が暗殺されていたら、その後の台湾はどうなったかという問題である。
蒋経国は特務のボスで恐怖政治の元凶であったが、台湾に民主主義をもち込んだ柔軟な精神もあわせもっていた。そういう意味で、この暗殺が失敗したことは、台湾の歴史にとっては幸運であったともいえる。
なぜならば、蒋経国は、民主化の第一歩として、自分の後継者は蒋家から出ることはないと宣言したが、こんなことが云えるのは蒋介石の息子だからであり、蒋家以外の人間には到底言えることではない。さらに、台湾生まれの李登輝を見つけて、副総統にまで抜擢したが、これも経国以外の外省人では、権力闘争にはしってしまい、台湾人を国民党の中枢にもってくることはできなかったであろう。
蒋経国がいなければという仮定のこたえは、台湾の民主化はもっと後になっていただろう、ということになる。それでは、暗殺計画はまったく無意味であったかというと、そうではなく、蒋経国の頭脳に何らかの影響を与えたことは充分に考えられる。
さて、暗殺未遂事件に戻るが、
蒋経国の暗殺未遂により、鄭自才と黄文雄は、検察に拘置されていたが、鄭は事件の約1カ月後に保釈金9万ドルで解放され、その2ヶ月後に黄も11万ドルで保釈された。法廷闘争については、黄文雄は、有罪を認めるが、鄭自才は無罪を主張することにした。鄭についての挙証責任は、検察にあるとして、鄭を有罪にするには検察側が証拠を探さねばならなかった。
それにしても、アメリカの検察は、この事件をそれほど重要視していない感じをうける。殺人未遂とはいえ、蒋経国を傷つけたわけではなく、また、事件の背景には「台湾人の人権」問題が絡んでいたからであろうか。簡単に保釈を認めているのは、殺人未遂とはいえっても、犯人は粗暴犯ではなく、アメリカ留学の経歴をもつ台湾人のエリートであったからであろう。
さて、有罪の決め手になると思われる証人は、拳銃を鄭に渡した陳栄成であった。鄭自才は、台独連盟の責任者である蔡同栄に連絡をして、陳に逃げるように云ったが、時すでに遅く、すばやい警察の動きにより、陳は逮捕された。陪審裁判の結果、黄文雄、鄭自才、陳栄成の3人はすべて有罪となり、量刑については、後日決定することになった。
陪審員による評決があった当日、黄文雄と鄭自才は、顧問弁護士に量刑のことなどを相談しながら、逃亡することを決めていたので、刑期宣告については出廷しないことにしたというと、お好きにどうぞと云われた。
この後、黄文雄と鄭自才は逃亡して、潜伏生活をおくる。黄文雄は1996年に台湾に帰るまで潜伏生活は続くが、このインタビューは鄭自才に対して行われたものであり、黄文雄の逃亡生活についての詳細は記されていない。
1971年7月、刑期宣告の法廷が開かれた時には、鄭自才は、他人のパスポートでアメリカを脱出し、スイスに入国していた。そこで「スイス台湾同郷会」会長の黄瑞娟の紹介で、弁護士にスイスへの政治亡命の可能性を探ったが、スイスとアメリカは友好関係にあり、スイスへの庇護をもとめるのは難しいとの回答であった。このスイス人弁護士は、鄭自才に同情し、自宅に招待して豪華な食事で接待し、事件を詳細に分析したうえで、スウェーデンを亡命先として推薦してくれたという。
鄭自才はスイスを出国してスウェーデンに入国する。ストックホルムのYMCAに宿泊しながら、彭明敏と連絡をとり、さらにスウェーデン人のベルナルド教授に連絡した。ベルナルド教授は、「国際特赦組織」のメンバーで、彭明敏のスウェーデン亡命を手伝ってくれた人物である。
鄭自才はスウェーデンの居住権を取得していたが、1972年6月、アメリカから鄭の引き渡し要求をうける。鄭はハンガーストをして抗議したが、スウェーデン政府は、二つの条件を出して、鄭の引き渡しを認めた。その条件とは、国民党に引き渡さないこと、刑期が終わったら、スウェーデンに帰して定住を認めることであった。宣告された刑期は、2年数か月くらいだったようで、1974年の年末には、スウェーデンに帰ることができた。
鄭自才は、スウェーデンに8年、その後カナダに8年住み、その間に呉清桂と再婚していた。この間の事情はついて鄭は話していないので、詳細は不明だが、前妻の黄晴美が住むアメリカには戻れないため、夫婦はそれぞれ別の道を歩みはじめたのであろう。
事件から20年が経ち、1990年の台湾は蒋家の支配は終わり、台湾生まれの李登輝が総統になり、民主主義の道を歩みはじめていた。それまで、国民党政権下でブラックリストに載せられて、帰国が認められなかった人たちが、台湾に帰りはじめていた。
1991年1月、妻、呉清桂の父親が亡くなった時、彼女もブラックリストに載せられていたが、喪に服するために帰台を認められた。そのため長期にわたって国外生活を続けていた鄭自才も、台湾に戻ることを希望、同年6月、正規の手続きをとらずに台湾に帰った。国家安全法に違反する不法入国ではあったが、逃げ隠れしない堂々とした帰国であった。逮捕後、台北地裁での判決は、懲役1年、高裁に控訴したが棄却され、執行猶予はつかず、1年の懲役刑が確定した。1年後の1993年、57歳の鄭自才は、晴れて自由の身になった。
完