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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

蒋経国を撃った男(3)

2014年04月15日 | 記憶

 暗殺が失敗して、逮捕された後について、 

黄文雄が撃った弾は蒋経国の頭上をかすめただけであったが、狙撃という手段は、よほどのプロでない限り難しいことなのであろう。しかし、もしもの話であるが、暗殺が成功していたらどうだったのかと想像してみる。つまり、あの時蒋経国が暗殺されていたら、その後の台湾はどうなったかという問題である。

 蒋経国は特務のボスで恐怖政治の元凶であったが、台湾に民主主義をもち込んだ柔軟な精神もあわせもっていた。そういう意味で、この暗殺が失敗したことは、台湾の歴史にとっては幸運であったともいえる。

 なぜならば、蒋経国は、民主化の第一歩として、自分の後継者は蒋家から出ることはないと宣言したが、こんなことが云えるのは蒋介石の息子だからであり、蒋家以外の人間には到底言えることではない。さらに、台湾生まれの李登輝を見つけて、副総統にまで抜擢したが、これも経国以外の外省人では、権力闘争にはしってしまい、台湾人を国民党の中枢にもってくることはできなかったであろう。

 蒋経国がいなければという仮定のこたえは、台湾の民主化はもっと後になっていただろう、ということになる。それでは、暗殺計画はまったく無意味であったかというと、そうではなく、蒋経国の頭脳に何らかの影響を与えたことは充分に考えられる。

 さて、暗殺未遂事件に戻るが、

 蒋経国の暗殺未遂により、鄭自才と黄文雄は、検察に拘置されていたが、鄭は事件の約1カ月後に保釈金9万ドルで解放され、その2ヶ月後に黄も11万ドルで保釈された。法廷闘争については、黄文雄は、有罪を認めるが、鄭自才は無罪を主張することにした。鄭についての挙証責任は、検察にあるとして、鄭を有罪にするには検察側が証拠を探さねばならなかった。

 それにしても、アメリカの検察は、この事件をそれほど重要視していない感じをうける。殺人未遂とはいえ、蒋経国を傷つけたわけではなく、また、事件の背景には「台湾人の人権」問題が絡んでいたからであろうか。簡単に保釈を認めているのは、殺人未遂とはいえっても、犯人は粗暴犯ではなく、アメリカ留学の経歴をもつ台湾人のエリートであったからであろう。

 さて、有罪の決め手になると思われる証人は、拳銃を鄭に渡した陳栄成であった。鄭自才は、台独連盟の責任者である蔡同栄に連絡をして、陳に逃げるように云ったが、時すでに遅く、すばやい警察の動きにより、陳は逮捕された。陪審裁判の結果、黄文雄、鄭自才、陳栄成の3人はすべて有罪となり、量刑については、後日決定することになった。

 陪審員による評決があった当日、黄文雄と鄭自才は、顧問弁護士に量刑のことなどを相談しながら、逃亡することを決めていたので、刑期宣告については出廷しないことにしたというと、お好きにどうぞと云われた。

 この後、黄文雄と鄭自才は逃亡して、潜伏生活をおくる。黄文雄は1996年に台湾に帰るまで潜伏生活は続くが、このインタビューは鄭自才に対して行われたものであり、黄文雄の逃亡生活についての詳細は記されていない。

 1971年7月、刑期宣告の法廷が開かれた時には、鄭自才は、他人のパスポートでアメリカを脱出し、スイスに入国していた。そこで「スイス台湾同郷会」会長の黄瑞娟の紹介で、弁護士にスイスへの政治亡命の可能性を探ったが、スイスとアメリカは友好関係にあり、スイスへの庇護をもとめるのは難しいとの回答であった。このスイス人弁護士は、鄭自才に同情し、自宅に招待して豪華な食事で接待し、事件を詳細に分析したうえで、スウェーデンを亡命先として推薦してくれたという。

 鄭自才はスイスを出国してスウェーデンに入国する。ストックホルムのYMCAに宿泊しながら、彭明敏と連絡をとり、さらにスウェーデン人のベルナルド教授に連絡した。ベルナルド教授は、「国際特赦組織」のメンバーで、彭明敏のスウェーデン亡命を手伝ってくれた人物である。

 鄭自才はスウェーデンの居住権を取得していたが、1972年6月、アメリカから鄭の引き渡し要求をうける。鄭はハンガーストをして抗議したが、スウェーデン政府は、二つの条件を出して、鄭の引き渡しを認めた。その条件とは、国民党に引き渡さないこと、刑期が終わったら、スウェーデンに帰して定住を認めることであった。宣告された刑期は、2年数か月くらいだったようで、1974年の年末には、スウェーデンに帰ることができた。

 鄭自才は、スウェーデンに8年、その後カナダに8年住み、その間に呉清桂と再婚していた。この間の事情はついて鄭は話していないので、詳細は不明だが、前妻の黄晴美が住むアメリカには戻れないため、夫婦はそれぞれ別の道を歩みはじめたのであろう。

 事件から20年が経ち、1990年の台湾は蒋家の支配は終わり、台湾生まれの李登輝が総統になり、民主主義の道を歩みはじめていた。それまで、国民党政権下でブラックリストに載せられて、帰国が認められなかった人たちが、台湾に帰りはじめていた。

 1991年1月、妻、呉清桂の父親が亡くなった時、彼女もブラックリストに載せられていたが、喪に服するために帰台を認められた。そのため長期にわたって国外生活を続けていた鄭自才も、台湾に戻ることを希望、同年6月、正規の手続きをとらずに台湾に帰った。国家安全法に違反する不法入国ではあったが、逃げ隠れしない堂々とした帰国であった。逮捕後、台北地裁での判決は、懲役1年、高裁に控訴したが棄却され、執行猶予はつかず、1年の懲役刑が確定した。1年後の1993年、57歳の鄭自才は、晴れて自由の身になった。

 完 


蒋経国を撃った男(2)

2014年04月11日 | 記憶

 1970年1月、世界規模で「台湾独立連盟」が結成された時、当然、鄭自才もその組織に参加していた。

 間もなく、蒋経国がアメリカを訪問するという情報を得たとき、鄭自才はすぐに暗殺を思いついたが、それは海外にいる多くの台湾人がごく自然に思いつくアイデアでもあった。国民党の政権を倒すには、早い話がトップを消してしまえばいいという考えだが、それも警備が厳しい台湾国内では難しいが、国外であればチャンスがあると、誰もが考えた。

 何故、暗殺という極端な行動を思いついたかについては、1960年代という時代背景と密接な関係があったと、鄭自才はいう。ベトナム戦争に反対する学生運動が盛り上がり、長髪にした過激な学生は、反戦を叫んでアメリカ政府を非難した。鄭は、はやりの反戦ソングなどを聴きながら、学生が必死に平和を訴える現場を見て、行動意欲を掻き立てられたのだと思う。日本でも「ベ平連」の運動や安保反対闘争などで、学生や市民が官憲と衝突していた時代であった。

 民族自決の闘争は、ベトナム戦争だけではなかったと、鄭自才はいう。パレスチナとイスラエル、北アイルランとイギリスなどの紛争もあった。パレスチナはイスラエルから独立することを願い、北アイルランドはイギリスからの独立するために過激な行動をしていた。祖国の独立のために、多くの人が命をかけて戦っているのを見て、自分も台湾のために闘うのは当然だと考えた。

 蒋経国の暗殺計画を最初に具体的な問題として提出したのは鄭自才であった。海外にいる台湾人であれば、思いつくことではあったが、実際に行動することは別次元の問題であった。鄭自才の非凡なところは、自分を犠牲にしてもやる価値があると判断したことであろう。

 計画の第一の加入者は、当時、鄭自才と同じマンションに住んでいた妻の兄の黄文雄であり、そこに妻の晴美と台湾独立連盟の責任者である「頼文雄」が加わり、蒋経国暗殺計画は、この4人ですすめられた。

 インタビューの時、「あなたの妻はこの計画を知っていましたか?」という質問に対して、「知っているどころか、この計画の一番理解者であった。」と、鄭自才は回想している。

 そして、、夫からこの計画を打ち明けられた妻の晴美が、反対するどころか、大いに賛同してくれたのを見て、台湾女性は偉大であると感じたという。鄭は、自分がこの計画の中で死ぬことがあっても、語学の堪能な妻は、二人の子供を立派に育てるだけの能力があると感じていた。この時、鄭自才と妻の晴美の間には二人の子供がいた。かわいい子供は大事であるが、子供の将来を考えれば、台湾の将来はそれ以上に大事であった。

 暗殺計画はさらに具体化していく。

 鄭自才は台独連盟の秘書長であったが、ルイジアナに住んでいる台独派の一人陳栄成が拳銃をもっていることを知り、彼に拳銃を都合してもらうことを依頼する。陳は、2丁の拳銃と弾薬を、鄭が住んでいるニューヨークのマンションにもってきた。陳は拳銃がどのような目的に使われるかは知っていたが、暗殺計画には参加しなかったと鄭自才は回想している。

 射撃の練習は、ニューヨークのロングアイランドの人気のない浜辺で行ったという。鄭は仲間数人とともに、低い灌木が茂っている砂地にコカコーラのビンを置き、それを標的にして練習したという。

 1970年4月18日、蒋経国がカリフォルニアに着いた。全米各地から台独連盟の仲間がロスアンジェルスに集まり、デモをして蒋経国に怒りをぶつけた。4月20日、蒋経国はワシントン郊外のアンドリュー空軍基地に移動するが、そこにも60名位の台独派が、反蒋のプラカードをもって待っていた。プラカードには、「我々は沈黙する台湾人の代表だ。台湾人は自由と民主が欲しい。」と書かれていた。

 この後、蒋経国はニューヨークに移動することになっていたが、移動日の4月24日には、同じように示威運動を行う予定であったが、鄭自才は、その日に暗殺を実行する覚悟を決めた。

 4月23日、鄭を含めた4人の暗殺グループは、最後の打ち合せを行なった。打ち合せの焦点は、拳銃をどうやって現場に持ち込むか、誰がどのようにして撃つかなどの役割についてだった。まず、拳銃の持ち込みは、黄晴美が何かに包んでもっていくことになったが、誰が撃つかについては、鄭自才と黄文雄がそれぞれ志願したが、結局、黄文雄に決まった。

 黄文雄の志願の理由は、自分は結婚していないし、妻子もいないからというものだった。鄭自才は、妹の晴美と結婚して、二人の子供がおり、鄭に万が一のことがあれば犠牲が大きいからという理由だった。黄文雄の妹を思う優しい気持が現われていた。

 4月24日、蒋経国はニューヨーク市郊外の空港に降り立つと、専用車で市内に向かった。その日の予定は、正午頃、五番街のプラザホテルの前で、アメリカで商工業を営む台湾人に対してスピーチをすることだった。ホテルの前の広場では、30人くらいの台湾人が集まり、国民党の独裁政治に対して、抗議の集会を開いていた。

 その日の午前中、鄭自才、黄文雄、黄晴美の3人は、車でマンハッタンに到着していた。前日の打ち合せにしたがい、蒋経国を撃つ行動にはいった。黄は、拳銃を忍ばせながら群衆の中に溶け込み、鄭は、デモをする群衆に混じってビラを配りながら、敵情を観察していた。

 正午頃、蒋経国の専用車がプラザホテルの前に到着した。鄭自才は、後部座席にいた蒋経国が、ビラを配っている自分を見たような気がしたと、回想している。車から降りた蒋経国は、ニューヨーク市の制服を着た警察官やガードマンに囲まれて、ホテルに向かってゆるい石段を上がりはじめた。不審な人間がいれば、すぐにわかる状況であった。

 蒋経国がゆるい石段を上りきって、おどり場の先のホテルの入口に向かって歩き、回転ドアにさしかかった時、黄文雄は撃った。弾は、蒋経国の頭の上20cm位のところを通過したが、銃声による大混乱の中で黄は地面に叩き伏せられ、2発目を撃つことはできなかった。

 ビラを配っていた鄭は、黄が倒されてのを見て、とっさに援けようとしたため、現場の警察に殴られて倒れ、頭に流血する傷を負った。鄭は、地面に組み伏せられた黄に近づかなければ、捕まることなかったが、現場に黄だけを残して去ることができなかった。二人は逮捕されて手錠をかけられ、車に押し込まれて警察局に移送された。

 鄭自才は、頭に傷を負っていたので、病院に連れて行かれたが、その時、鄭は着ていたレインコートの中に、事前に準備した弾丸が一発残っているのに気がついた。それをどう処理したらいいかと考えていたが、ちょうどその時、黒人女性が押す洗濯物が入ったカートがそばを通ったので、とっさにそこに弾丸を入れてしまい、証拠として発見されずに済んだ。

 その日の午後、二人は検察局に送られて、拘留の決定を受けた。

続く

 


蒋経国を撃った男(1)

2014年04月08日 | 記憶

  蒋経国を狙撃したのは、台湾独立派の黄文雄であるが、暗殺は黄を含めた4人のグループで計画された。

 私は当初この黄文雄は日本で著作活動している台湾人と同一人物かと考えたが、まったく別人であった。ネットで黄文雄と検索すると詳細が判明、年齢も近いうえに、同じ台湾独立派に属しており、確かに間違いやすいと説明されていた。

 事件にかかわった黄文雄は1937年生まれだから、現在76歳、インターネットフリー百科事典によれば、ながい逃亡生活から解放されて1996年台湾に帰国し、1998年には、台湾人権促進委員会の会長に就任し、2000年には陳水扁政権で、中華民国総統府国策顧問も務めている。台湾人にとっては、隠れたヒーローなのだ。

 蒋経国の暗殺未遂は、よく知られている事件だが、実際何がどのようにして起きたのか、わたし自身よく知らなかったが、調べてみると、台湾人の独立にかける熱い思いがつたわってくる。

 4人のメンバーは、暗殺計画の発案者の「鄭自才」、その妻の「黄晴美」、晴美の実兄「黄文雄」、それに全米台湾独立連盟の責任者「頼文雄」であり、事件当時34歳の鄭自才と黄兄妹は、ピッツバーグ大学の留学生であった。

 はなしはまず暗殺グループの発起人というべき「鄭自才」から始めなければならない。というのもこの計画は当時アメリカにいた鄭自才により発案されており、彼の前半生そのものが台湾人の心そのもののように思えるからだ。

 2007年4月に台湾独立派の許維徳博士と数名の人達が、蒋経国暗殺未遂事件について、鄭自才にインタビューしているが、この文章はその内容に基づいている。会話は、台湾語(福建語、閩南語)でなされたものを、許維徳博士が北京語の文章に翻訳している。

 鄭自才は1936年、台南生まれ、7人兄弟の次男である。小学校の3年までは日本語の教育を受けたが、終戦後は国民党による北京語での教育を受ける。中学校、そして高等学校に相当する建築関係の専門学校を経て、1955年、名門の成功大学の建築科に入学する。卒業に際して、成績は優秀だったため、先生になってはどうかという要請をうけるが、条件として国民党に加入することが必要であったため、正義感の強い鄭は、拒否している。当時は、教員などの公務員になるには、国民党員になることが絶対条件であった。国民党員にならなかったため、突然不採用の通知を受けた鄭自才は、「国民党体制」に大きな疑念と不満をいだいた。

 では、なぜ国民党に入党しないことが正義かといえば、当時の状況は、国民党による白色テロが横行し、多くの知識人が理由もなく殺されていた時代であり、鄭は、そのような国民党に入党することは台湾人に対する裏切り行為に思えたに違いない。

  1959年に成功大学卒業、兵役のため、海軍陸戦隊に入隊する。その頃を、鄭自才は苦い思い出として語る。「兵隊のときは、国民党員(外省人)にいじめられた。高等教育を受けた人間が、無教育の国民党員に、教育や訓練の名目でひどい扱いをされた」という。いじめとは、たとえば、炎天下の熱いコンクリート上で、腕立て伏せを何回もやらされるというようなことだったらしい。

 この不平等感は、単なる不満にとどまらず、鄭の心の中で、政治的な信念にまでなっていく。

 鄭は新設の「中原理工学院」の助教授に就任し、同時に不満だらけの台湾を離れて、アメリカ留学を目指す。 アメリカ留学を考えた頃の心境をこう語っている。

 「60年代は苦悶の時代であった。 ほとんどの大学生が台湾から出国したいと考えていた。兵役についているとき、多くの学生は留学の申請をしており、申請書の書き方を話し合っていた。何でもいいから台湾を離れて、国民党の環境から脱出したいと考えていた。」

 この後、鄭はアメリカのピッツバーグのカーネギー理工大学に奨学金を得て留学の許可を得る。母親は貴金属を質屋に入れるなどして旅費を捻出し、1962年8月、鄭はチャーター便でアメリカに渡った。

 アメリカで生活をはじめた鄭は、間もなく日本で発行された雑誌「台湾青年」を読み、台湾独立についての主張に共鳴する。たとえば、多くの台湾人が習慣的に北京語を話すことにも疑問を感じていた。何故、台湾語を話さない、北京語は外来政権の言葉ではないかと、いうわけだ。鄭自才は、インタビューには台湾語で答えているが、台湾人が北京語を話すことと台湾語を話すこととは、意味が違うと感じたと答えている。中国人とは違うという意味で、台湾人の民族意識が明確に現れていた。

 この頃はアメリカでも人権運動が盛んであった。白人と黒人の貧富の差や白人による黒人に対する差別や虐待など、民主主義の社会であるアメリカにも多くの問題があった。そのような社会の中で、黒人の人権を守るため活躍していたマルティン・ルーサー・キング牧師の組織的な示威活動を見て、鄭自才も、台湾のために何かをしなければならないと考えるようになった。

 1963年、留学して2年目に「台湾独立連盟」に加入した。その翌年、同じようにカーネギー理工大学に留学していた黄晴美と結婚する。同年、晴美の兄、黄文雄も奨学金を得て、ピッツバーグ大学に留学している。鄭自才と黄文雄は一歳違いの義兄弟になった。1965年に長女を出産、2年後には長男も生まれている。

 1969年、アメリカ、カナダ、ヨーロッパそれに日本の台湾独立派の会議がニューヨークで開催され、翌年には世界規模で「台湾独立連盟」が成立した。

 間もなく鄭自才は、蒋経国がアメリカを親善訪問するという情報を入手し、経国暗殺を考えるようになった。

続く


林森北路

2013年03月25日 | 記憶
 台北駅の東側に南北にはしる「中山北路」は、日本の植民地時代、ヨーロッパの街並みを目指してつくられた道幅が50メートルを超すスケールの大きなメインストリートだ。
 
 植民地時代の善悪は別として、その当時の日本人は台湾を日本の理想のパートナーにするため、政治家はもちろん、国を守る軍人、台湾人を教育するための先生などが意気込んで植民地台湾に乗り込んでいった頃の産物なのだ。
 
 それはともかく、「中山北路」の100m位東側に「林森北路」がある。林森北路は、植民地時代もそうだったろうし、現在もそうなのであるが、日本人のさまざまな欲望を満たしてくれるナイトライフの繁華街なのだ。台湾が男性天国などといわれた時代もあったが、多くの日本人が何かを求めて闊歩した街なのである。

 蒋経国が健在で辣腕をふるっていた頃、私は一度だけ、林森北路にあるナイトクラブに連れられて行ったことがる。華やかなネオンの輝く建物のドアを開けると、小姐(フロアレディ)たちが、「いらっしゃいませ」を駆け寄ってきたことを思い出す。店の名前はたしか「旅」といったが、今もあるのだろうか?

 もちろん飲んだくれの男たちを相手にするのだから、それくらいのあい嬌はあたりまえだろうが、小姐たちはみな若くて、日本の会社の新人の女子社員のように見えた。彼女たちは太ももまでスリットの入ったチャイナドレスを着て、明るい笑い声が響く店内は夢のようだ。彼女たちの多くは、和服の日本女性が下着をつけないように、チャイナドレスの下には何も付けないという知識を聞かされており、カウンターの高い椅子に腰かけて足を組んだりすると、さらに奥まで見えるようでどきりとしたことを思いだす。

 彼女たちはテーブルに着くと、「カンペイ」といってアルコールを口にするが、お仕事それだけではない。その夜を共にする相手をさがして、せいいっぱいの愛嬌を振りまくのだ。
私も誰にしようかと品定めをする。それにしても女子学生のような若い小姐が、当時の相場でいえば靴一足のくらいの値段で自分のものになることが信じられないようだった。
 
 酔っていた私は誰でもよかったので、というよりもみなかわいく見えたので、そばに来た小姐とずっと話していた。彼女は日本語を話すことができた。話題は、出身は何処とか、なぜこんなところで働いているのかなどとありきたりの会話だったような気がする。

 彼女は生れは高雄だといい、お金をためて日本で勉強をしたいと言っていた。台湾では高雄や台南のような南方の出身を誇るような風潮があると知ったのは後のことだが、彼女は高雄から出てきたことを誇るようにはなしていたことを思い出す。

 しばらくして、仲間がそれぞれの相手を見つけて店を出る頃になった。私はその娘とばかり話していたので、連れ出すならその娘しかいない。私はなんとなく気が進まなかった。その小姐が嫌いなわけではなかった。むしろ素朴な感じで、そんな若い子を連れ出すことに罪悪感を感じてしまったのだ。

 問題はそこからだった。その小姐の話によると、自分を連れ出してくれないと、仕事のできないダメな女になり、店を辞めさせられたりするかもしれないという。私はそのはなしを聞いていて、もっともだと思い、仲間の小姐たちが連れ出されていくのに、誰にも指名されずに店に残ることは、彼女にとって悲しいことに違いないと思われた。わたしは規定の料金を支払うと、たいへん嬉しそうなその娘と腕を組んで、林森北路の夜の街をホテルに向かって歩いたことを思い出す。

 ルポライターの鈴木 明が高雄市を取材で訪れた時に、出逢った娘に恋をしたことは、以前に書いたことがあるが、その当時台湾に行った男たちの多くは、似たような体験をしたのであろう。時代が、素朴でかわいい女の子たちが、ネオンの輝く街に行かざるを得ない状況があったからだろう。