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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

さよなら 再見

2013年10月02日 | 

 小説「さよなら 再見」は、台湾人作家「黄春明」が、自分の苦い思い出を書いた自伝的小説だ。

 時期は1978年頃のことで、日本ではバブルがはじまり景気がよく、円高を背景に、多くの日本人が海外へ出て行った。

 この「さよなら 再見」は、当時のサラリーマンが、ツアーを組んで台湾に「買春」に行ったことがテーマになっている。これを書いた黄春明はその頃台北で広告会社に勤めており、社長の命令で、日本人の買春の案内役をさせられてしまった。心の中では、台湾の若い女性の体をむさぼる日本人を憎みながらも、仕事でその案内をしなければならない葛藤が、この小説を書くにいたった動機だろう。

 その当時、台湾を訪れた日本人の生態を知るにはいい小説だと思うので、興味があれば読んでほしいと思うが、私の興味はその当時、どのくらいの相場で台湾女性が取引されていたか気になったので、そのあたりのことを書いておこうと思う。

 1978年当時の為替レート(当時は、1米ドル=300円位だった。)

 1米ドル=38元(台湾元)  1元=8円(日本円)

 遊び方は、当時も今もそれほど変わりはなく、宿泊したホテルに女性を呼ぶのが一般的だろうが、この小説では、7名のグループだったため、やり手のおばさんがいるそれ専用のホテルに宿泊している。夕食の席に女たちを呼んで、一杯やりながら品定めをして、気に入った相手がいたらその場で予約をして、後ほど予約した女性が部屋を訪れるという段取りだ。

 小説の舞台は礁渓温泉、宜蘭市の北にある東海岸の町だ。北投温泉はその道では有名だが、礁渓温泉も日本時代からなかなかの観光地なっている。相手をする女たちは、この小説で描かれているように16歳くらいから20歳くらいの娘たちなのだから、少々くたびれた日本の水商売の女にはない新鮮さがあり日本人に人気があったのであろう。

 1978年頃の台湾は、戒厳令がしかれ、経済的にはそれほど発展してはおらず、庶民の暮らしはまだまだ貧しく、男相手の商売に身を落とす少女が多かったという時代背景がある。

 さて、その相場だが、一般的な価格より高めに設定する「日本人相場」があったことを知っておこう。

休憩(シウチー 短時間) 通常200元   (日本人300元)   約2,400円

停泊(ティンポウ 宿泊) 通常300元   (日本人500元)   約4,000円

 これらはあくまで推測であり、ぼられて1,000元(8,000円)位とられることもあり得ただろう。しかし、当時の日本と比べれば、格段に安い買い物であったことは確かだ。

 ちなみに、宿泊の場合、女が部屋に来るのは夜中の12時頃で、待ち切れずに早めに呼ぶ場合は、追加で200元くらいとられたようである。女たちは、真夜中までは、飲み客相手にホステスとして働き、体を売るのはそれ以後で、重労働であったようだ。

このとき、案内をしていた黄さんについて、あくまで小説の中でのはなしではあるが、

 黄さんは、自分も日本人と同じように女を抱こうかどうかについて悩む。その娘の名は「阿珍」といい、おそらく16、7歳くらいなのだろう、顔の半面にいれずみような「あざ」がある。彼女は、日本人に呼ばれた女たちの中に混じっていたが、自分の顔にあざがあるのを気にして、宴会の場に入らないで壁に寄りかかり、ぼんやり指を弄んでいる。それを黄さんが見つけて、かわいそうにと思い、彼女の手をそっと握って、「私は、あんたがいいよ、入りなさい。」といってしまったのだ。

 「阿珍」は、驚き喜び、宴会の場では、黄さんのそばに坐ってかいがいしくサービスする。彼女は夜になれば、黄さんはきっと自分を指名してくれるに違いないと思っている。黄さんは、その娘を部屋に呼ぶか否かで迷っていたのだ。

 黄さんの気持ちは複雑だった。阿珍を呼びたくないのは、彼女が不美人だからではなく、こんな商売に身を落とさざろう得ない境遇の娘を、弄ぶ気持ちになれなかったのだろう。だからといって、彼女を呼ばなければ、彼女は嫌われたと思って、がっかりするだろうし、収入も減る。それはそれでかわいそうなことであった。

 そこで黄さんは、やり手のおばさんに「彼女に5百元あげたいと思うんだ。彼女に今夜私のところに来ないでいいと言ってくれ。」といって、5百元を渡すと、やり手おばさんは「100元で充分」といって、400元を返す。そんなやりとりをしたあと、結局「阿珍」に200元をあげることで話がついた。

 その当時、こういうことは、よくあったことでもある。遊ぶつもりが、娘の純真さに負けて、なにもせずに帰ってくるとか、遊びのつもりが、本気で好きになったり、さらには、日本に連れて帰って結婚してしまうようなことも珍しくはなったようだ。

 その当時、台湾の娘たちが身を売るのは、多くは社会的な貧困が原因であり、それだけに純真な娘たちが多かったのである。

以上