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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

台湾新幹線(高鉄)

2013年10月11日 | 旅行

 台湾では、新幹線のことを「高速鉄道」、略して「高鉄」と呼んでいる。開業は、2007年、これまで順調に運営されている。

 日本の新幹線と比べての話だが、車内の内装はシンプルで、座席は、2列と3列で中央に通路があり、なんとなくガランとした感じだ。天井近くに手荷物を置く棚があり、その近くには三菱電機の社名広告がある。電気設備などは、三菱電機で施工したのだろうか。日本の新幹線の車内には、このような車内広告があっただろうかと考えてみるが、思い出さない。

 桃園空港から高雄近くの左営まで乗車した時のことを書いておこう。

 空港から新幹線の高鉄桃園駅までは、バスで20分位、料金は30台湾ドルだ。レートは、1台湾ドルを3.2円で計算すると、日本円で100円位になる。

 高鉄桃園駅から左営駅までは、1,330台湾ドルだから、約日本円で4,300円位だ。日本でいえば、東京から名古屋くらいの距離であり、運賃は3分の1位の感じだろう。航空機の料金は約6,000円位だから、新幹線のほうが割安である。

 これまでは台北と高雄の往復は航空機を利用するのが一般的だったが、新幹線ができてからは、鉄道を利用する人が増えているのもうなづける。そのため、国内航空運賃を引き下げる動きがあり、価格競争が起きている。

 台中近くを通過するときに、車内の時速計をみると、時速262km位でていたから、日本の新幹線と変わらない高速だ。車体は日本製だし、新幹線そのものが日本の技術でつくられているのだから、当たり前の話ではあるが。ただ、案内書には、新幹線は、日本、ドイツ、フランスの技術提携でつくられたと書いてあるので、たとえば、ドイツやフランスなどはどのような技術を提供しているのか知りたいものである。

 スタッフについては、乗車券のチェックなどする車掌は女性であったが、車内販売は若い男性が担当していた。日本とは反対だが、この方が合理的な感じもする。

車内販売の値段を書いておこう。おおよそ日本の半値くらいであろうか。

焼肉弁当         NT120 (390円)

缶ビール          NT40 (130円)   

コーヒー          NT40 (130円)

ミネラルウオーター    NT25 (80円)

 桃園空港から高雄の左営までは、バスの乗り継ぎを含めて、約2時間位であった。私たちが日本人であるのを知ると、駅員さんがことさら親切になったような気がするのは、気のせいであろうか。

 それにしても台湾の発展は素晴らしい。そして、どこに行っても住民は笑顔で迎えてくれるし、生き生きとして生活している人々を見るのが楽しくてしかたがない。

以上

 


メーク ラブ(make love)

2013年10月04日 | エピソード

「霧社緋桜の狂い咲き」という本がある。

  著者は、「霧社事件」を起こしたセデック族の数少ない生き残りであるピホ・ワリスが、その事件で生き残った人たちから聞いた話をまとめたものだ。

 ピホ・ワリスは1914年(大正3年)生まれ、日本名は「中山 清」、中国名は「高永清」と体制が変わるごとに名前が変わっている。戦後は、台湾省議員になったり、仁愛郷にある蘆山温泉で旅館を経営したりしているが、そのかたわら、山地原住民の貴重な体験を聞いて、一冊の本にして出版したのがこの本だ。内容的には、重複する話があったり、不正確な点がままあるが、慣れない日本語でまとめたことを考えれば、立派というものだろう。

 その中に「深山のロマンス」という話がある。日本人女性と山地原住民の若者との一夜の出来事であるが、面白いのでとりあげてみた。

 時期は、書いてないので正確ではないが、おそらく霧社事件(1930年)以前だろうと思われ、おそらく1920年から1930年(大正から昭和のはじめ)頃のことだろう。山地はほぼ平定されて、山岳地帯のいたる所に駐在所が建設され、警察行政が浸透し、山にはそれなりの平穏が訪れていた頃だ。

 場所は、南投県のようで、台中から中央山脈向かう途中の山岳地帯だと思われる。その地域はブヌン族のテリトリーで、話に出てくる原住民の青年もブヌン族である。一方、日本人女性は、山地の駐在所に勤務する巡査の若い奥さんだ。

 ある時、その若い奥さんは病気になり、台中市にある総督府立の台中病院に行って、1ヶ月くらい入院治療をした。病気が治って、夫がいる駐在所に帰ることになるが、そこは標高3,000m位の山岳地帯であり、車などない時代だから、たいへんな道のりである。

 若奥さんは、台中を出発して、水裡坑で一泊したが、翌日は20kmを超える山道を登らなければならず、警察電話で自分を背負ってくれる原住民の男を一人、出向かいに派遣してくれるように夫に連絡した。

 ブヌン族の青年が水裡坑に来たのは、翌日の夕方頃であった。その日は、そこの旅館に宿泊した。

 翌朝、若奥さんは、ブヌン族の青年が背負う籠に乗って、夫が待つ駐在所に向けて出発した。途中、幾つかの駐在所に立ち寄り、茶などを飲んで休息した。標高2000m位まで上り、最後の駐在所を過ぎて、夫が待つ駐在所は、もう目と鼻の先くらいのところまできた。

 標高はさらに高くなり、3000mほど、道も急坂で、雲が下に見える。道の両側は大森林、猿が飛び回り、山鳥が舞うという場所だ。

 夕方になりかけている。ブヌン族の青年は、若奥さんを乗せた籠を背負って、胸の着くような急坂を登り続けた。途中、少し開けた場所があったので、奥さんを降ろして、ため息とともにその場に座り込んだ。

 若奥さんは、あと2km位だから、このまま行こうと催促した。しかし、ブヌン族の青年は、「もう、きつい。」と片言の日本語で言った。そして、右手を出して、拇指と人差指で輪をつくり、左手の人差指でその輪を刺した。

 若奥さんは、言葉が通じないので、何事かと思ってブヌン族の青年の顔をみた。その青年の、いつもの円い眼が、ほほ笑むように細く長くなって、色気たっぷりであった。

 その意味を理解した若奥さんは、当惑した。青年は、なめした熊の毛皮をハッピのようにきているだけなので、胸には汗が流れるのがみえた。

 はて、どうしたものだろう。若奥さんは、思案の末、青年の体を冷やせば、彼の気持ちも変わるだろうと考え、いまきた道を1kmくらい下った所に冷たい水が湧いていたことを思い出し、

「汗でいっぱいだから、この下の湧水のところに行って、体の汗を洗ってきなさい。」といった。

 すると、ブヌン族の青年は、それを「体をきれいにすれば、してもいいよ。」の意味だと理解し、喜び勇んで、飛び跳ねるように下りて行った。

 若奥さんは、一秒を何時間の思いで待っていたが、夕闇は濃くなるばかり、青年は何分もしないうちに戻ってきて、「さあ、約束だ。」と言わんばかりに実行を迫った。

 若奥さんは、元気な青年を見て、自分の思惑が外れたことにイラつきながら、もう一度状況を考えてみた。青年の言いなりになって、原住民に身を任せるのは、我慢ならないが、かといって、拒否して、山中にほったらかされては、生命の危険がある。

 青年がその気になったのは、自分の口から出た言葉だからしかたがないと思いなおし、いやいやながら体を許した。

 ことが済むと、ブヌン族の青年は、若奥さんを大喜びで背負って、夕闇の中を歩きだし、坂道は大きな声を出して登り、やっと駐在所に着いたのは暗くなってからであった。

 ブヌン族の青年は、無料の「出役」だから、「さよなら」と言うと、そのまま自分の家に帰って行った。

 さて、若奥さんは、苦悶してその晩は一睡もできなかった。翌朝、巡査である夫に昨夜の出来事を話すと、夫は激怒して、使いを出し、昨日の青年を呼び出した。

 おそるおそる駐在所に入ってきた青年を、巡査は両手を後ろにして縛りあげ、竹刀で打ちすえた後、「強姦罪」として、7日間の拘留を与えた。

 しかるに、ブヌン族の青年は、一言の抗議をするでもなく、黙って刑に服したという。原住民にとって、支配者である日本人は、怖い存在であったが、日本女性もまた、特別な存在であった。ブヌン族の青年にとって、そんな罰は、日本婦人を抱いたことに比べれば、大したことではなかったのだった。

 この原住民の青年が、何となくユーモラスでかわいく思えてしまうが、どうでしょうか。

以上

 

 

 


さよなら 再見

2013年10月02日 | 

 小説「さよなら 再見」は、台湾人作家「黄春明」が、自分の苦い思い出を書いた自伝的小説だ。

 時期は1978年頃のことで、日本ではバブルがはじまり景気がよく、円高を背景に、多くの日本人が海外へ出て行った。

 この「さよなら 再見」は、当時のサラリーマンが、ツアーを組んで台湾に「買春」に行ったことがテーマになっている。これを書いた黄春明はその頃台北で広告会社に勤めており、社長の命令で、日本人の買春の案内役をさせられてしまった。心の中では、台湾の若い女性の体をむさぼる日本人を憎みながらも、仕事でその案内をしなければならない葛藤が、この小説を書くにいたった動機だろう。

 その当時、台湾を訪れた日本人の生態を知るにはいい小説だと思うので、興味があれば読んでほしいと思うが、私の興味はその当時、どのくらいの相場で台湾女性が取引されていたか気になったので、そのあたりのことを書いておこうと思う。

 1978年当時の為替レート(当時は、1米ドル=300円位だった。)

 1米ドル=38元(台湾元)  1元=8円(日本円)

 遊び方は、当時も今もそれほど変わりはなく、宿泊したホテルに女性を呼ぶのが一般的だろうが、この小説では、7名のグループだったため、やり手のおばさんがいるそれ専用のホテルに宿泊している。夕食の席に女たちを呼んで、一杯やりながら品定めをして、気に入った相手がいたらその場で予約をして、後ほど予約した女性が部屋を訪れるという段取りだ。

 小説の舞台は礁渓温泉、宜蘭市の北にある東海岸の町だ。北投温泉はその道では有名だが、礁渓温泉も日本時代からなかなかの観光地なっている。相手をする女たちは、この小説で描かれているように16歳くらいから20歳くらいの娘たちなのだから、少々くたびれた日本の水商売の女にはない新鮮さがあり日本人に人気があったのであろう。

 1978年頃の台湾は、戒厳令がしかれ、経済的にはそれほど発展してはおらず、庶民の暮らしはまだまだ貧しく、男相手の商売に身を落とす少女が多かったという時代背景がある。

 さて、その相場だが、一般的な価格より高めに設定する「日本人相場」があったことを知っておこう。

休憩(シウチー 短時間) 通常200元   (日本人300元)   約2,400円

停泊(ティンポウ 宿泊) 通常300元   (日本人500元)   約4,000円

 これらはあくまで推測であり、ぼられて1,000元(8,000円)位とられることもあり得ただろう。しかし、当時の日本と比べれば、格段に安い買い物であったことは確かだ。

 ちなみに、宿泊の場合、女が部屋に来るのは夜中の12時頃で、待ち切れずに早めに呼ぶ場合は、追加で200元くらいとられたようである。女たちは、真夜中までは、飲み客相手にホステスとして働き、体を売るのはそれ以後で、重労働であったようだ。

このとき、案内をしていた黄さんについて、あくまで小説の中でのはなしではあるが、

 黄さんは、自分も日本人と同じように女を抱こうかどうかについて悩む。その娘の名は「阿珍」といい、おそらく16、7歳くらいなのだろう、顔の半面にいれずみような「あざ」がある。彼女は、日本人に呼ばれた女たちの中に混じっていたが、自分の顔にあざがあるのを気にして、宴会の場に入らないで壁に寄りかかり、ぼんやり指を弄んでいる。それを黄さんが見つけて、かわいそうにと思い、彼女の手をそっと握って、「私は、あんたがいいよ、入りなさい。」といってしまったのだ。

 「阿珍」は、驚き喜び、宴会の場では、黄さんのそばに坐ってかいがいしくサービスする。彼女は夜になれば、黄さんはきっと自分を指名してくれるに違いないと思っている。黄さんは、その娘を部屋に呼ぶか否かで迷っていたのだ。

 黄さんの気持ちは複雑だった。阿珍を呼びたくないのは、彼女が不美人だからではなく、こんな商売に身を落とさざろう得ない境遇の娘を、弄ぶ気持ちになれなかったのだろう。だからといって、彼女を呼ばなければ、彼女は嫌われたと思って、がっかりするだろうし、収入も減る。それはそれでかわいそうなことであった。

 そこで黄さんは、やり手のおばさんに「彼女に5百元あげたいと思うんだ。彼女に今夜私のところに来ないでいいと言ってくれ。」といって、5百元を渡すと、やり手おばさんは「100元で充分」といって、400元を返す。そんなやりとりをしたあと、結局「阿珍」に200元をあげることで話がついた。

 その当時、こういうことは、よくあったことでもある。遊ぶつもりが、娘の純真さに負けて、なにもせずに帰ってくるとか、遊びのつもりが、本気で好きになったり、さらには、日本に連れて帰って結婚してしまうようなことも珍しくはなったようだ。

 その当時、台湾の娘たちが身を売るのは、多くは社会的な貧困が原因であり、それだけに純真な娘たちが多かったのである。

以上

 

 


李登輝(1)

2013年09月21日 | 

李登輝 この人から新しい台湾がはじまったといっても過言ではないだろう。

 1923年(大正12年)1月15日生まれ、今年で90歳になっている。本籍は福建省永定県、祖先は閩西客家人に属するが、台湾に移住後長い年月を経たので台湾語(閩南語)しか話せない。但し、李登輝は日本時代に教育を受けているので、日本語は流暢に話す。

 著書「台湾の主張」で述べているように、1945年22歳まで日本人として教育を受けた李登輝は、源氏物語や平家物語などの日本の古典をはじめとして、西田幾多郎の「禅の研究」や和辻哲郎の「風土」など多くの書物を読んでおり、日本人以上に日本的な心を理解していることを知る必要があるように思える。

 学歴は、台北高校から京都大学(農業経済学を専攻)に留学しているので、太平洋戦争中は日本で過ごしたはずである。京都大学時代には日本文学、西洋文学それに中国の思想にいたるまで広範な読書遍歴を行なっているが、マルクス主義に興味を持ったのもその時期で、マルクスやエンゲルスの本を読み漁ったという。

 戦後、台湾に戻り、台湾大学に入学しているが、この時期に共産党の地下組織に加わったのは、京都大学時代のマルクスなどの読書の影響であろう。しかし、マルクス主義を学んだことで、李登輝の農業経済学の理論は、より一層高度で現実的なものになったようだ。

 その後、1965年にアメリカのアイオワ州立大学やコーネル大学に留学して農業経済学博士号を取得している。クリスチャンに興味をもったのはこの頃だろうか。なぜ、キリスト教に興味をもったかについては、李登輝自身の著作「台湾の主張」にも書いていないが、民主先進国アメリカの留学体験が大きかったのではないだろうか。帰国後、おそらく1970年頃と考えられるが、妻の曽文惠を伴って週に4~5回台北の教会に行って聖職者の話を聞ながら、神の存在を考えたという。

 想像をたくましくしていえば、国民党への入党を考えていた李登輝は、できるならば、国民党のトップと思想だけでなく、宗教も同じであるほうが、なにかと都合がいいと考えたからではなかろうか。当時のトップ蒋経国は青年時代にソ連に留学しており、マルクス主義の善悪をよく知っていたし、その宗教もロシア人の妻とおなじくキリスト教であったからだ。

  政治家としての出発点はは、1971年に国民党に入党したことに始まるだろう。1972年に行政院政務委員(農業政策担当)になったのを初めとして、1978年には台北市長に任命されたが、それは蒋経国が李登輝を育てるための人事だったといわれている。1981年に台湾省主席、1988年蒋経国が逝去すると、国民党の総統になった。台湾生まれの政治家が総統になったことで、以後台湾は民主化の道を歩むことになる。

 その意味では蒋経国も偉いといわざるを得ない。というのは、1985年12月の国民党の年次総会において、蒋経国は次期総統が蒋一族から出ることはないと言明したからである。新しい台湾をつくるには、新しい血が必要であることを一番痛感していたのは蒋経国であったろう。彼の英断がなければ、今でも蒋家の独裁政治が続いていたかもしれない。

 李登輝の政治理念

 明治以後の近代日本の発展を羨望するとともに、多元化された民主政治体制をもつアメリカや日本を理想の民主社会とみなしている。

 また、理想の民主社会を実現するには、健全なる野党が必要と判断しており、1986年9月に民主進歩党が結成されている。

 しかし、李登輝の計画からすれば、台湾の民主化はその手始めでしかない。彼の究極の目標は、台湾独立にあり、台湾人の、台湾人による、台湾人のための国をつくることであった。総統になった後、その目標は随所にあらわれてくる。

 たとえば、最近話題になっている「尖閣諸島」問題については、中国人留学生の前で「尖閣は日本領」といいきって、会場が騒然となったこともあった。

 中共のいうように「尖閣諸島」が中国のものなら、「台湾」も中国のものになってしまう。そうなれば自分の理想とは正反対の結果になってしまうので、あえて、「尖閣は日本領」ということにより、台湾の独自性を保とうとした、極めて政治的な判断であったように思う。

 しかし、李登輝は国民党に属していたが、そのあまりに台湾島重視の故に、総統退任後に党籍をはく奪されてしまう。

 だが、彼の理想は消えることなく、現在は「台湾団結連盟」を結成して、中華民国ではなく、「台湾」という国号を求める「正名運動」を推進している。彼は、今後の政策を次のように述べている。

 「蒋政権の長かった台湾は、国の立場が曖昧であったが、理想の国づくりには明確な目標が必要であり、台湾正名運動はその第一歩である。」

1、我々の国は「台湾」であり、中国ではない。

2、大陸の中華文明ではなく、台湾を主体にした教科書が必要である。

3、台湾の新憲法の制定。

4、国名を「台湾」または「台湾共和国」にする。

 この運動の余波として、蒋介石の号に因んだ「中正国際機場」が、「桃園国際機場」に改名された。民進党が政権をとった時に、この理想が実現するかもしれないと考えたが、トップの不祥事で政権が再び国民党に移り、李登輝の理想は少し遠のいているのが現状だ。

 現在の国民党は、名よりも実をとる方針であり、国名はどうでも「台湾」は独立しているのだから、過激なことは言わずに、大陸の中共とは経済交流などを通して適当に付き合っていくのが得策であると考えているようだ。

以上


ハロー・キティ

2013年09月15日 | 台湾の中の日本

 台湾において、「ハロー・キティ」のキャラクターは、日本好き族のシンボルになっているという。かわいい子猫のぬいぐるみなどとしても売られている。これを教えてくれたのは、「現代台湾を知るための60章」という本だ。

 著者は「亜洲奈みづほ」、日本人のような名前だが、なんとなくペンネームのような気もする。というのも、一昔前の台湾においては、台湾の歴史や政治について論評しようものなら、台湾国内はもちろん外国にあっても命の危険があったが、著者はその恐怖政治時代の記憶をもっているような気がするからだ。

 だから本を出版する時には本名を使わずに、ペンネームを使ったのではないか。もちろん、これは推測のことでしかないが、・・・・・。

 日本好きの度合いをもう少し見てみると、

 高校で公的に開講されている第二外国語のクラスは、1600位あるそうだが、そのうち「日本語」は最多で「69%」をしめており、次が「フランス語」だという。もちろん、第一外国語として、英語を学ぶ人が一番多いことを念のために言っておこう。

 さらに、世論調査では、「最も好きな外国は?」のこたえは、「52%」が日本で、第1位になっている。「日本大好き」人間は、台湾にも多いことをつけ加えておこう。

 台湾好きの人のために台湾の世界一をみてみると、次のようだ。但し、この記録は10年ほど前の数字であることを、お断りしておこう。

携帯電話普及率  117%(世界一)、日本は90%位だ。

胡蝶蘭の生産   世界市場の3分の2(世界一)を占めている。胡蝶蘭の原産国は、台湾だったのかと改めて驚いてしまう。

 世界一ではないが、そのほかの数字をみると、

 黒マグロ漁獲高  1位は日本(25万トン)、2位台湾(19万トン)。ちなみに、台湾で獲ったマグロの7割は日本へ輸出されている。

 台湾で獲れるウナギの9割が日本へ輸出されている。その量は日本の消費量の2割になるという。

 外貨準備高は世界4位で、4010億㌦(2012年)となっている。あの小さな島国の経済力はすごい。ちなみに、1位は中国(3.3兆㌦)、2位日本(1.3兆㌦)、3位ロシア(5.2憶㌦)となっている。

 また、京華城というショッピングセンタ-が台北にあるが、その規模はアジアでは最大規模であるという。私はまだ行ってはいないが、是非その最大規模の実際を見てみたいところだ。

 最後に、高等学校の学費が2014年度から「無償」になる予定だという。このへんは日本でも見習ってほしいと思う。

以上