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台湾大好き

台湾の自然や歴史についてのエッセーです。

桜大好きさんへ

2014年07月12日 | 台湾の自然

コメントありがとうございます。

 台湾にはいたるところに桜が植えられていますが、これは日本人が好む桜を台湾人が大切に育てているからで、日本大好きの台湾人の心の現れだと思います。

 武陵農場には行かれたでしょうか?私は去年の三月末頃一泊しましたが、桜は散っていました。しかし、その農場は山全体が果樹園になっており、特にりんごの種類は多く、白い花が咲いていました。秋の収穫時期に行けたらなおすばらしいと思っています。

 仁愛郷にある霧社桜も有名です。そこも散った後に行き桜の花は見られませんでしたが、そこの桜の花は赤い色ということで、霧社の緋桜といわれています。そこは、その昔原住民による日本人の大量虐殺があったところで、赤い桜は血の色を想像させるようです。

 どうも台湾の桜の開花は、やはり南方にあるためでしょうか、日本より1から2カ月早いようでです。台湾の桜を見るならば2月頃なのでしょうね。

以上


台湾の杉並木(福寿山農場)

2013年04月11日 | 台湾の自然
 台湾に杉並木があるのを見て驚いたことを書いておこう。杉並木ですぐ思い出すのは、「日光の杉並木」であるが、台湾の杉並木も規模は小さいが、ほとんどそれに似た形でつくられている。距離は総延長で6~7Km位、紛れもない杉の並木が両側に並んでいる。道は舗装されており、車がすれ違うのがやっと位の道幅だ。

 その杉並木は「福寿山農場」への道筋にある。福寿山農場は、台中県和平郷、梨山という街の近郊にあるのだが、梨山の標高は1,700m位、福寿山農場はそこからさらに上を目指し、標高2,000m位の高原に広がっている。

 わたし達は車で福寿山農場を目指して急な山の斜面を上がっていると、その杉並木が突然現れてきた。誰かが、「これ日光の杉並木に似ているね。」いった。そう言われてみれば、日光の杉並木ほどは太くはないが、立派な杉が両側に並んで続いている。こんな山奥に、こんな並木をつくるとは、モノづきな奴もいるものだ、などと思いながら、この不思議な光景を眺めていた。

 一体誰が作ったのか?その疑問は農場に着くと解決した。この福寿山農場は、蒋介石の意志で国民党の兵士が開発したのだという。開発は1954年頃というが、1954年といえば、国民党が共産党との戦いに敗れて、台湾に逃げ込んでから間もない頃だ。蒋介石と共に台湾に転がり込んできた兵士は、100万人ほどもいたというが、戦争の危機はあったものの、その後は大規模な戦闘はなかったので、仕事のない兵士を使って開発したのだという。

 開発にあたったのは、息子の蒋経国、彼は父親の好みをよく理解していた。想像するに、蒋介石は日本に留学した時、日光などを訪れている。そこで見た杉並木、陽光を遮り日陰をつくり、そこを歩く人に癒しの空間を与えてくれる杉の並木をいたく気に入ったに違いない。暑い台湾にこんな並木があったらいいなと考えただろうことは容易に想像がつく。

 息子の蒋経国は、親父のご機嫌をとるべく杉並木をせっせとつくったらしいのだ。杉の種類は「柳杉」といい、一部は日本から輸入したともいう。

 福寿山農場の管理センターは一階にきれいなレストラン、二階には国際会議でもできそうな大きな会議室などがある二階建ての堅固な建物だ。その前には大きな駐車場、そしてその一角には杉の並木に隠れるようにして、伝統的な中山服姿の蒋介石の立像があった。
 その立像には、
         「永懐徳澤」

 という文字が彫ってある。建てたのは、蒋介石が亡くなった後だ。その意味は、「生前の徳を忘れないほしい」という意味らしい。国民のことはいざ知らず、蒋経国にとっては、やはり父親はいい親爺だったのである。

以上

合歓山

2013年04月10日 | 台湾の自然
 合歓山は、台中市と花蓮市を結ぶ東西横貫公路の中間点、中央山脈のなかに聳えている。車で行ける最高点「武嶺」から少し下った地点にその登り口がある。名前は北京語で「フーファンサン」というが、わたしは合歓木(ねむのき)に因んで「ねむさん」と呼んでいる。
 
 合歓山はいくつかの山の総称で、そのなかの最高峰(未確認だが)の合歓山北峰(3,422m)のほか合歓山東峰(3,417m)、合歓山西峰(3,145m)の群峰なのだ。わたしは、この山に来るのは二度目だが、山の名前がロマンチックであり、温かさを感じるので、誰がこんな名前を付けたのかと疑問に思っていた。その疑問が、今回の旅でとけた。

 付近に住む台湾人の話であるが、日本が植民地統治をはじめた頃、山地原住民との戦いの連続であった。特にタイヤル族やセーダッカ族の居住地であった合歓山地帯は、東西を結ぶ要路であり、その攻略は必須の目標であった。日本軍はいくつかの地方から山頂を目指して進撃した。一つは台中から、もう一つは花蓮から、さらにもう一方は埔里方面からであったという。それらの各軍が出逢ったところが、合歓山付近であり、出逢った喜びに因んで「合歓山」と名づけたという。

 したがって、合歓山の名付け親は日本人であるが、台湾には日本の地名に因んだ地名がたくさんある。たとえば、美濃(台南の東方50km位)は、陶器の産地で、日本の美濃焼の伝統がある。また、鶴岡は紅茶の産地、紅茶の箱に「鶴岡」と書いてあると、山形県の鶴岡市と勘違いしてしまいそうだ。そのほか、白川、豊原、板橋などがあるが、植民地時代、台湾に来た日本人が、自分の生れた地名に因んで名づけたのであろう。

以上
 

武嶺(車で行ける最高点)

2013年04月08日 | 台湾の自然
 武嶺(ウーリン北京語)は、台湾における車で行ける最高点である。標高3,275m、東西横貫公路、台中市から中央山脈を横切って、花蓮市につながる国道の最高地点の名前だ。雲上とはこういう場所をいうのであろう、きれいな青空が見えていたかと思うと、あっという間に雲が下から湧き、濃い霧の中で何も見えなくなる。ここへ来るのは、すべてマイカー族だ。

 ちなみに日本で一般車両で行ける最高点を調べてみた。いくつかあってどこが最高点かはっきりしないので、いくつかあげてみる。
 渋峠(草津志賀道路、群馬長野県境) 2,172m
 富士山五合目            2,300m位
 乗鞍岳(エコーライン)       2,702m(現在、通行禁止)

 最高点と思われる乗鞍岳エコーラインと比べても、500mも高いので、台湾の中央山脈の威容が想像できるだろう。
 
 武嶺には広めの駐車場があり、少し離れた崖のそばにトイレがある。トイレは水洗でありきれいで気持ちがよい。駐車場の一角に高台があり、そこから360度見渡すことができる。近くには合歓山東峰(3,417m)が雲間に見え隠れしており、登頂は難しくないようだ。三月の下旬で気温は昼で6度くらい、防寒着は必要だ。

 高台には、さくさんの人達が上り最高点を表す標識の前で記念写真を撮っている。近くにある説明書きには、日本植民地時代、ここで日本軍と山地原住民の激戦があったと書いてあった。日本は台湾中部をを東西に結ぶ道路の建設を目指したが、原住民は自分たちの聖地に侵入する異民族に激しく抵抗した。この時の部族は好戦的で、しかも首狩りで有名なタイヤル族や太魯閣族だった。しかし、近代兵器をもつ日本軍と鉄砲と弓矢しか持たない原住民との戦いの勝敗は明らかで、まもなく原住民は征服された。

 100年ほど前、徒歩で中央山脈を越えた日本人の苦労は如何ばかりかと考えながら、遥かな山並みを眺めていた。明治の人達は、すぐこの未開発の国が好きになり、自分たちの国、つまり日本と同じような国にするために努力したのだ。台湾の人達は、日本人のこの掛け値なしの国づくりの中でつくられた、鉄道、ダム、道路などを今でも高く評価してくれている。

以上

阿里山の犬

2012年11月27日 | 台湾の自然
 20年ほど前、阿里山に登った時のことです。

 阿里山は台湾中部の山系で、高原のリゾート地であり、日本でいえば上高地のようなところでしょうか。標高2000mの高地には、高原を簡単に案内してくれる軽便鉄道があり、ホテル・売店・レストランが軒を連ね、暑い台湾の癒しの空間でもあります。また、そこは台湾の最高峰「玉山」へ通じるルートでもあり、多くの山好きが通り過ぎるところでもあります。

 あたりはうっそうとして巨木が生い茂り、なかでも樹齢二千年を超すヒノキの老木は「神木」と呼ばれ、その巨大さに圧倒されますが、その樹木そのものが台湾の悠久の歴史を静かに語っているような気がしてきます。

 わたしは台湾の妻の家族と共に、車で阿里山を目指したが、嘉義市を過ぎて山道をのぼり、やがて近くの林の中から蝉の声が聞こえる緑が美しい場所で車を止めました。そこには緩やかな斜面に渓流が流れ、それをはさむようにコテージのような山荘が点在しています。そこで友人が所有している山荘を借りて一泊しました。

 たしか八月であったと思いますが標高が高いので涼しく、山荘近くの散策路などを歩くのは何とも爽快でしたが、林の中を歩いていて気になったのは野犬が多いことでした。人が行くと20匹位のグループが近づいてくるので、集団で襲われでもしたらと考えると気味が悪くもありました。

 わたしは妻と二人で、林を避けて広い道路に出て近くにあるという廟に行ってみることにしました。案内図をみるとその廟は小高い丘の上にあるらしい。上りはじめて気がついたのですが、少し前に一匹の白い犬がいることでした。はじめはたまたまそこにいるのだろうと思っていましたが、すこし歩いては立ち止まってこちらをみている。雌犬で痩せた小柄な犬でしたが、私たちが近付くと、また山頂を目指すように歩きはじめる。何度か繰り返されるうちに、その犬は私たちを案内しているように思えました。
 
 おもわず餌でもあげようと背負いのザックを探したが、こういう時に限って肉系の食べ物がない。ビスケットのようなものを出して、犬の鼻先にもっていくと、においを書いただけで食べようとはせずに、歩きだしてしまう。やがて、祠のような小さな無人の廟につく、私たちは台湾流のお参りをして近くのベンチで腰をおろしましたが、そのあいだ犬も日陰で寝そべって休んでいました。

 少ししてから、帰ろうとして丘を下りはじめると、犬は来た時と同じように私たち前をあるいていく。その頃には、その犬に親近感をもつと同時に、犬は私たちを案内していることを確信するようになりました。

 やがて、もと来たところに戻ると、その犬はくるりと向きをかえ尾っぽを振りながら、林の中に歩き去って行きました。
 翌朝、そこから阿里山にむかって出発し、「玉山」のふもとにある登山センターまで足を延ばしてから家に戻ってきました。

 戻ってから気になるのはあの犬のことです。できるならば、もう一度阿里山のふもとまで行ってあの犬を探し出し、日本へ連れて帰りたくなったからです。しかし、現実にはそんなことはできることではなく、残念な気持ちで日本へ帰りました。

 あの犬は今頃どうしているだろうかなどと考えながら、数年が過ぎました。

 ある時、事情により台湾生れの女の子を養女にすることになったわけですが、その娘が成長して10歳くらいになった頃でしたが、10数年前に阿里山のふもとで出会った犬が、この娘になって私たちのもとに来たのではないかと思うようになりました。もちろん私は輪廻転生を信じる宗教家ではありませんし、ものごとには確実な証明がなければ信じられない性質ですので、生まれ変わりなどまともに信じることはできません。しかし、あの時の犬が娘になったという考えが、頭から離れなくなりました。

 ある時、娘に、お前が生まれる前、阿里山に行き、そこで出会った犬の話をしたところ、犬が大好きの娘は、その話を素直にきいて、「自分はもと犬だったんだ。」と信じるような感じでいます。娘が、もらい子つまり養女であることは一言もいってはいませんが、その娘は今14歳、いつか、それを話すべき時が来るのかもしれません。   以上