庭師バイトを終わって今日1週間ぶりに石徹白に帰ってきた。
さぞかし雪も積もっているだろうと、弥富にいる間に見ていた天気予報などの様子から思っていたが、実際は道路にはまるっきり残っていないのはともかく、屋根にも5cmくらい残っている程度で、あまりの少なさに拍子抜けでしたね。
ところで今回1週間ほど石徹白を離れて、いわば街中暮らしをしていたわけだけど、なんか年々街の価値観に違和感を覚えるようになってきた、あるいは街の人の変化に自分がついていけない感が強まってきたように思える。
特に思うのが、人がお互いを縛りあったり管理しあったりする傾向が強い。言ってみれば如何に間違いやトラブルや危険なことが起きないようにするか、とにかく問題の芽になりそうなことはとにかく摘んでいかなければならないといった意識だと思う。それはクレーマーだとか、モンスター・ペアレンツといった人種によって生み出されたとも言えるし、ある意味それらを生み出す要因にもなっているんだろう。少なくとも、そういった価値観を助長していることは間違いあるまい。
郡上にもそういった種類の人も確かにいあるが、決して主流ではないし、そういった考え方は〝行き過ぎだ”という意見のほうが一般的だと思う。
でも街ではすでにそういったものの見方や、そういった価値観のほうがむしろ主流な気がする。
僕が子供のころは全然問題とされもしなかったことでも、今は”あり得ない”ことということは多い。
今の日本人はお互いに自分たちの首を締めつつ生きているような気がずっとしている。わざわざ生きることを難しくしているような気がする。
そして、おそらく多くの街の人も、もちろん田舎の人も、そういった世の中の動きに辟易しているし、この行き過ぎを止めたい、出来れば時計の針を逆回しにしたい、とも思っていると思う。
でも、なぜそれができないのだろうか。
結局のところ、便利や効率といったものを追い求めることが、上記のような結果を招いているのだと思う。
石徹白のようなところは、便利や効率を追求するには物理的にあまりにも不的確な場所だったことによって、そういった価値観の世の中から切り捨てられた、あるいは、られようとしているワケだ。だから、幸か不幸か、昔ののような価値観、つまり便利さを追求することによって失われた価値観がいまでも残ってきたと言える。
これを文化ともいいかえれる。
しかし、文化は人の栄えるところでしか根付かないし、残らない。
石徹白の文化は存続は、人の価値観の変質よりも人口の減少を食い止めることにこそ掛っているのだ。
逆説的にいいかえれば、石徹白で石徹白らしく生活していけば、おのずと石徹白の文化は継承されていき、それは人として生きやすい世の中であるのではないだろうか。
*来年度は本格的に研修生を受け入れる計画です!自然栽培をサユールイトシロで実践してみたい人はもちろん、上記の独り言に何かピンと来ることがあれば、一度ご連絡ください。
今日も読んでいただきありがとうございます。
1日1クリック、よろしく!