私の父は、仕事や付き合いを優先して、あまり家庭的な人ではありませんでした。
また、障害児の兄が興奮して暴れるたびに、兄を叩きました。
そんな姿がいやで、私は父のことが大嫌いでした。
ですから、思春期には父とはいつも緊張関係にありました。
一発触発状態と言ったほうがいいかもしれません。
そんな親子でしたから、私が結婚後も、夫の目の前で父と喧嘩になることも珍しくありませんでした。
父は夫のことを息子ができたみたいに、一緒に話すのを喜んでいましたし、夫は夫で父が私の悪口を言うのを面白がっていたようなのですが、本当に仲が悪かったんです。
でも、こんな父を尊敬することがあります。
それは、父は障害児の父親であることを公言していて、恥とは思っていなかったことです。
当時、障害児といえば、「シンショウ」とか「ヨウゴ」と呼ばれて、現在ほど障害者に対して世間が理解を示してくれるような時代ではありませんでした。
障害児を抱えてそのことを悔やんで母子心中したという話も珍しくなかった時代です。
そんな時代に、父は兄のことを堂々と話していました。
父は何度かヘッドハンティングで転職しましたが、そのときにも障害児の息子がいることを公言し、転勤がないことを条件にしていたといいます。
どうも兄と離れるのがさびしかったらしいのですが・・・。
こんな父は、どのような境遇の人に対しても平等でした。
相手は大金持ちであろうが貧乏人であろうが、国籍が違おうが戸籍がどうであろうが、全く気にする人ではなかったのです。
たしか、子供の頃、人権教育で「国籍や戸籍などで人を差別してはいけない」と習ったと思いますが、そんなことは我が家では当たり前になっていたのです。
ただ、母の実家が名士の家柄で、母の親きょうだいがそれを自慢するので、母に「お前の親きょうだいはおかしい」と言っていました。
(そのおかげで、障害児の兄はいないことにされてしまったのですが・・・。)
父は黙っていましたが、家族を愛していたのだと思います。
父はとっても不器用でしたが、本当に意味での優しさを隠していたのでしょう。
こんな父は数年前に亡くなりました。
父には言えなかった言葉がひとつあります。
ありがとう、お父さん・・・・
親きょうだいのことを書いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/sayakayamase
障害者と関わることでいろいろ教えられることもの多いと思います。
家族に障害者がいるということは、それだけ濃厚な人生を経験させていただいているのだと思います。
やっぱり母が言っていたように、兄は「福子(ふくご)」かもしれません。
お兄様とまあちゃんさまとのこと、とてもよくわかります。お父様のこと、
私のブログでコメントお返事させていただきました。
障害児(者)のピュアな感情は、私たちのテスターみたいなものだと思っています。こちらが「ブレて」いると、すぐに反応する。こちらがなにかにとらわれていると、彼らも落ち着かなくなってくれます(笑)。
余計なことを考えず、「今ここに、君と一緒にいるよ」と寄り添っていると彼らも私も落ち着いてくる。
そんな感じですねー。
よかったらまたお立ち寄りください。
映画とか趣味とかくだらないことも書いているので「なにこれ?」と思われることもあると思いますが
たまにまじめなことも日記に書きますので、気長に気楽にお付き合いください。
ありがとうございました。
違うことといえば、私の場合、母が先に亡くなりました。
父ともっと仲良くしておけば、よかったと思います。
父は黙っていても私のことを応援してくれていたんです。でも、仲が悪くて・・・。
結局、母や母の親戚から、兄が障害者であることを理由に私の進みたい道を断念させられてしまいました。これは今でも悔しいですね。
障害者のきょうだいの有無に関係なく、自分の進みたい道を進むべきだと思います。
お父さんってそんなものなのでしょうか?
父が亡くなってからどうしてもっと良い関係を築いておかなかったのかと後悔することがあります。
ブログ、ぜひうかがわせていただきます。
まあちゃんさんのお母様の人生と
ウチの母の人生があまりにも
似ていますね。と驚いていましたが、
父もお父様とそっくりです。
父は黙っていましたが・・・
父はとても不器用でしたが・・・・
全くそのとうりです。
母が倒れてきっちり2年後に
アットいうまに母より先に
逝ってしまいました。
私何度も空に向かい叫びました
「お父さん。まだまだ話すことあるのよ」
でも、どーしてか夢にも出てこない。
私のブログにも時々障害児のことをのせています。今日の日記と9月24日の日記です。私のはお気楽に書いているブログですが、ときどき真剣に障害児のことも書きますのでよかったらご覧ください。
また訪問いたします。