今朝、会社に行くために
四条通を自転車で走っていました。
(河原町~烏丸)
烏丸の交差点で信号待ちをしていると
たすきをかけた親父が走ってきて
「ここ自転車で走ったらいかんよ」と。
へ?
四条通りの歩道は走ったらいかんのは
知ってたけど(最近知ったけど)
四条通もあかんの?
「標識あるやろ、見えんの」
と言われて、みると
標識が歩道の上から釣ってある。
「これ、歩道を走ったらあかんてことちがうん」
「ちゃうちゃう、道路標識やで。車道もあかんのや」
釈然としない。
だいたい、運転免許持ってない人が
これで意味はわかるのか?
と思っていたら、
次の一言でカチンときた。
「京都の人やったら、みんなしっとるよ」
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
ゆ~たな~~~~~~!!!
み
ん
な
てか、
ほんまやな~!!!
と、口には出しませんでしたが
異様にカチンときました。
そのおじさんは、
そういうことを守るのが仕事なのでしょう。
だから、そういうことには詳しくて
それが「常識」以前の「あたりまえ」
だから、それを理解していない人がおかしい、
となるわけです。
そして、僕たちも
色んな仕事をしていたり、趣味を持っていると
そこに集中していると、
いろんな「あたりまえ」ができてきます。
そして、その当たり前の目をもって
周りを観るので、知らない人がおかしく見えたりすることもあります。
僕も、ココロの世界で生きてるのと
あとは、前職の運送の世界での常識が長いこと、
そして、関西の常識が長いことで
それで、
その物差しで周りを図ろうとしてしまいます。
「オチ」がないといかん、とか
「なんでそこで突っ込み入れんねん」とか(笑)
はい
自分の常識は
他人の非常識
自分の物差しで
他人を測らないようにしよう、ということを思った朝でした。
ちなみに
京都の人
四条通り、自転車で走ったらいかんって知ってた? ←まだこだわっとる
>「京都の人やったら、みんなしっとるよ」
そう言われたらカチンときますよね。
でも、自分も意識せず相手にそんな言い方をしてはいないか? ドキッとしました。
相手がスッと納得するには、この場合どう言うとよかったのだろう。
いろいろ考えさせられました。
「不確かな自分自身」が「確かな自分」へと変化してまだ2週間たらずなため、うまれたての赤ん坊と同じようによちよちと慣れない自分と歩いている感じです。
確実に安心と信頼が増した自分の常識は、以前抱いていた常識とは変わっており、新たに自分の常識を日々創っています。
自分の常識は、簡単に変化していくものです。
「自分の物差しで他人を計る」という自分の中の常識をとっぱらい、「自分の自己を大切にするように他人の自己も大切にする」という常識に変えたいと思います。
ありがとうございました。
かしこ
なるほど、「あたりまえ」はおしつけてはいけないと感じました。さて、では「あたりまえ」を受け取るときは…っと考えて、やはり「有り難し」と受け取ることなのだと、気づかせていただきました。