絆の法則

澤谷 鑛

ほう、そうか?

2011-06-13 | Weblog
諏訪千春


今日は、前回紹介した白隠禅師について、私が感動したお話を、自分自身の為に、記しておこうと思います。

「ほう、そうか?」

日本のある町に白隠という禅の老師が住んでいた。彼は人々の尊敬を集めており、大勢の人が彼の教えを聞きに集まってきていた。
あるとき、寺の隣の十代の娘が妊娠した。怒り狂った両親に、子どもの父親は誰だと問い詰められた娘は、とうとう白隠禅師だと答えた。 両親は激怒して白隠のもとに怒鳴り込み、
「娘は白状したぞ、お前が父親だそうだな」、となじった。
白隠は、「ほう、そうか?」と答えただけだった。

噂は町中どころか近隣の地域にまで広がった。
禅師の評判は地に落ちた。だが禅師は意に介さなかった。
誰も説法を聞きに来なくなった。だが禅師は落ち着き払っていた。

赤ん坊が生まれると、娘の両親は禅師のもとへ連れてきた。
「お前が父親なんだから、お前が面倒を見るがいい」
禅師は赤ん坊を慈しみ、世話をした。

一年経ち、慙愧に耐えられなくなった娘が両親に、実は赤ん坊の父親は近所で働く若者だと白状した。両親はあわてて白隠禅師のもとへ駆けつけ、申し訳なかったと詫びた。
「ほんとうにすまないことをしました。赤ん坊を引き取らせてもらいます。娘が、父親はあなたではないと白状しましたんで」
「ほう、そうか?」
禅師はそう言って、赤ん坊を返した。

禅師は偽りにも真実にも、悪い知らせにも良い知らせにも、「ほう、そうか?」とまったく同じ対応をした。彼は、良くても悪くてもいまという瞬間の形をそのまま認めて、人間ドラマには加わらなかった。彼にとってはあるがままのこの瞬間だけがある。
起こる出来事を個人的なものとして捉えない。彼は誰の被害者でもない。
彼はいまこの瞬間に起こっている出来事と完璧に一体化し、それゆえに起こった出来事は彼に何の力も振るうことができない。起こった出来事に抵抗しようとするから、その出来事に翻弄されるし、幸福か不幸かをよそから決められることになる。

赤ん坊は慈しまれ、世話をされた。
抵抗しないという力のおかげで、悪い出来事が良い結果になった。
つねにいまという瞬間に求められたことをする禅師は、時が来たら赤ん坊を手放したのだ。

エックハルト・トール 『ニュー・アース』より


・・・
私自身について。
思っていた以上に、こころが痛んでいたようです。
この一ヶ月、いろいろと前向きな捉え方を試みたりもしたけれど、
なにかまだ無理をしてしまっているようで、
ふとしたきっかけで、その痛みが強く、蘇る。

ヒナン、ハイセキ、ムシ、ソガイ、コドク・・・

ネガティブな感情に押しつぶされそうになって、身体中が痛み、泣きはじめる。

「どうしたら傷つかずに、人の間で生きられるのだろう」

  起こる出来事に、抵抗しない、
  起こる出来事を、個人的なものとして捉えない、

そのしなやかさと平安を、私もきっと今、ものにしよう。

 

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6 コメント

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場に応じ、人に応じ・・。 (厘)
2011-06-13 05:18:55
諏訪千春さん、こんばんは。昨日記事のことを、思い浮かべながら書いてみますね。実はこの記事、ある方の日記で、読みました。少し向き合って書いてみようと思います。

このような状態に、心があれたらいいなという思いと、実際には、なかなか、そこまではなれていない人が多いこと。我が家は、主人が鬱病を患い、現在、休職しています。少し前まで、主人は、私の言い方がちょっと勘に触ると、病気もあってか、「お前が!お前が俺をイライラさせるから!!」と、私に喰ってかかってきたものでした。「それは、あなたの心の問題でしょう?」いつか誰かに言われたその言葉を、主人に心の中で発していた訳です・・。そして自分は、明るく冷静でいるようにしていると、主人、だんだん症状がひどくなるんですね。「あ、これ・・。私が別のところで展開している関係と逆だ・・。」と、気がついて・・。主人の攻撃を、まともに受けてみたんです。そこには、悲しみがいっぱい詰まっていて。本当は、主人だってこんなこと言う自分には、なりたくないんだって思って・・。やっぱり、主人にこうさせた部分が、自分にもあったなと思って。そうすると、主人が数日のうちに、快復に向かっていきました。今では、にこにこ表情も柔らかいです。

昨日の記事を思い起こしながら・・・。

白隠禅師の「ほう、そうか?」の言葉の裏には、自分の器を空っぽにするための修行の過程を抜きにしては、語れないのではないかな?と・・。自分の我と向き合い尽くし、そうして空っぽになった境地で発する言葉だからこそ、何にもとらわれないのであって、例えば、自分が付け焼刃で、これを真似したって、相手の怒りに油を注ぐだけではないかと。

一足飛びには、そこには行けないのであって、自分の周りの人を鏡としながら、相手に謙虚に学ぶ姿勢が・・。今の自分には、一番、必要なことではないかと・・。それは、自分が嫌う人に対しても同じなのであって・・。相手が悪いという前に、やはり、相手の行動に反応し、被害者意識を持った我が心を、顧みるべき・・。相手と自分の間に、被害者意識と加害者意識が交錯し、泥沼に嵌っていき、それが、はじける形で終息した今、そんなことを思います。ともすると、まだ「相手が・・!」そう、言いたくもなる自分に、敢えて、そんな言葉をかけています。

禅ということ・・。精神を集中するということ・・。
自分の気持ち、相手の気持ち、ひとつひとつ共感してほどいていくのも方法かもしれないけれど・・。禅の世界というのは、そういう、とらわれない世界に、スッと移行できる鍵があるのかもしれませんね。そんなことを思いつつ・・。

場に応じ、人に応じ・・。必要なことを、感じられる自分であるようにと・・。思いました。ありがとうございます。
繰り返し (秋さくら)
2011-06-13 13:33:33
このお話は、場所をかえ、何度も目にします。
つまりそれだけ、わたしに必要な学びなのだということなんですね、きっと(^^)
今日、またこのお話に触れられたことに感謝いたします。
ありがとうございました。
すべては目の前足元から。 (さくらみるく)
2011-06-13 23:06:29
諏訪さん。

2日にわたり記事を堪能させていただきました。
心から感謝申し上げます。

なぜ、「ほう、そうか?」と言えないのか。
何を守ろうとしているのか。
それを見つめるときに、自分のすべてがガラス張りにさらされるような感じがします。
これ以上に、自分を透明に澄み渡らせる問は無いように感じます。
本当に感謝です。こんな幸せはありません。
ここ1カ月、ずっとこの記事を思いめぐらす中で、
どれほどの幸せを得てきたことかわからないのですね。


先日、こんな話を聞きました。


目の前の状況はすべて自分の心が展開していること。
それはまるで、自分の後ろから強い光が当てられて、映写機がスクリーンに自分の心を映し出しているようなものである。

でも、ここで問題があって、ほとんどの人はそのスクリーンにあまりにも心を奪われて夢中になるあまりに、スクリーンに密着してしまっている。
ぴたっと密着するあまりに、スクリーンに映る映像のあまりの悲惨さや痛さ辛さも強烈に感じて悶え苦しんでいる。

そんなに密着しなくてもいい。
あなたが、いるべき場所、観客席にまで退いてください。


そんな話でした。


退けば、視界が広がります。
自分のことしか見えていない状態から、周囲の人までが見えてくる。

白隠禅師は自分の立場を超えてどこまで広く目の前の状況を視野に入れていたのか。
どこまで退いていたのかと思います。
わが身を破滅させるようなスキャンダルにすら傷つかないほどですから、ハンパではありませんね。


退くことで広く見ることは可能になるでしょう。
しかし、禅師はそのために努めて退こうとしたのでしょうか。
そうでもないように感じるのですね。

もしかしたら、本当に何も考えていなかったのだろうか。
そう騙されてしまいそうなほどに徹底している禅師の姿。
もはや努力でもなく、企みでもない。
息をするような自然さですべてを受け入れているのですね。
自然界を構成する一因に徹して無私、無我の境地を生きておられる。


わたしたちはみな、生きていく上で悩み苦しみ、
そこから解放されたいと願います。
悟りを得たいと願います。
そのために、どこに行こうというのでしょうか。
本当は、どこにいく必要も無い。
悟りは、知恵は、今置かれている所にしかない。
目の前足元にしかないのですね。
どこまで足を伸ばして学んでも、いくらお金を積もうとも
最後に戻ってくるのは、自分が歩むようにとオーダーメイドの緻密さで整えられた「置かれている場」であり
そこから始めるのでなければ、本物などつかめるはずが無いのですね。

そして、どんな難しい理屈を学んでも、それが救いになるかどうかはまったく別の話であり
本当は、「ほう、そうか?」というたった一言ですべては足りるのかもしれません。
本当は、それほどにシンプルな話なのかもしれないのですね。


素晴らしい記事を、ありがとうございました。
どうぞこれからも、ぜひ続けてブログにお越しください。
諏訪さんのコメントを拝見できることを、楽しみにしています。
心から感謝を込めて。
あっ そう (もも )
2011-06-13 23:08:38
素敵な記事をありがとうございました。

4/24の澤谷先生の講座で、昭和天皇が長らく従事されたパン職人の話しを<あっ。そう。>と相手の気持ちを全て受け入れながら伺った。

・・・という話しを思い出しました。

1カ月いろいろと悩み、苦しまれたのですね。

その結果2日間の記事を生み出された。

濁りがなく、綺麗で、真実に満たされた世界を・・・。


どうぞ、ご無理なさらずに、疲れたら、いつでも又遊びに来て下さいね。
微妙な心理 (厘 )
2011-06-13 23:09:51
伝える側というのは、伝えようとした、その時から、一貫して同じことを言っているものでしょう…。

そこには、言葉が足りなかったり、或いは、エゴが外れていない部分もあるかもしれません。ただ、伝えようとする、そのこと自体、相手への愛情なくしてはできないこと…。それを絡みつく執着と取るか、何かを伝えようとしていると取るか…。それは、その人の幅によるもの…。そう思います。自分に厳しく言えば、相手がどれだけわかるか…。その見極め…。その見極めがなければ、結果、双方が傷つく訳ですが、諦めた頃、伝わるのがまた、真理というものかもしれません。ありがとうございます。
両親への感謝 (厘 )
2011-06-14 04:02:03
続けてのコメント、誠に失礼致します。改めて振り返り、私が何故、こういう思いをしなければならなかったか…。母と私の関係のデトックスに他ならなかった。そうです…。私は、母に伝えようとしてきましたが、母は聞く耳を持たず、あなたはしつこい、面倒くさいと、一蹴し続けた…。伝えようとした気持ちは、母への愛に他ならなかったけれど…。母は、そんなことがわからなくても、貴い存在であり、私は、そこを見るべきであった。

映画のスクリーンというけれど…。自分の思いの世界がそのまま展開しているなど、最初からわかっていたこと…。我であろうと何であろうと、生身の人と人のぶつかりあいから、人は学ぶ…。敢えて、そこに賭けてみたまでのこと…。

ここまで泥沼になるとは、さすがに思わなかったけれど…。

ここに至り、相手が気づくも気づかぬも、どうでもいいのであり…。

伝えようとするのでなく、自分で気づき拡大向上していく相手を、信頼して見守るという境地に、近づける自分でありたいと願いました。ありがとうございます。

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