絆の法則

澤谷 鑛

おくゆかしい

2015-05-19 | 牽引の法則
                               澤谷 鑛

 友人のカウンセラーVは、彼の父親が大学の講師で、学生にカウンセリングもしていた頃に親交があった。その頃彼は、高校生だったのを覚えている。彼の父親とのつきあいでVともつき合うようになった。

 あるとき、酒を酌み交わしながら、こんな話をしたことがある。
「Vさんのお父さんの友人が、私のことを“台風の目”だと呼んで、まわりのものを自分のペースに引きずり込んでしまう危険人物と言ったことがあって、“ボヤボヤしているとこっちの本音を引き出してしまうほどの危険人物”と言ったことがあるんだ」
 Vは、笑顔でこう言った。
「澤谷さんは、自分の立場からの意見は、はっきりと言うと父が生前、言っていました。辛辣に聞こえるのですよね、サラリーマン的な生き方の人には……」
「あなたのお父さんが、その場にいてね。“台風の目には力がないのですよ。台風の目のまわりですね、力があるのは。まわりの皆さんですよ”って言ってね。個人の力なんて大したことはない。そのまわりの人との関係において力が出る。だから、まわりの皆さんが大切、と聞こえました」
「確かに、いくら能力や実力を持っていても、それを発揮する場は、この時空間ですからね。自我の殻の中だけでは、自己満足かストレスを溜めるだけでしょうからね」
「そうなのですね。そのときお父さんは、“私も台風の目になりつつあります”と言われました。何の衒いもなく真面目な顔で話されるお父さんに、まわりから笑い声がもれました。たくまざるユーモアだと思いましたね」

「たくまざるユーモアですか?」
「この人生というものは、鏡の法則でいわれるように、みずからの心が鏡に映っているものなのですね。だから、鏡の法則は心の法則なのです。心が映っているのですから、完璧というものはありません。神が生きるのでも、仏が生きるのでもない。人が生きるのが人生ですからね。しかし、鏡に映る現実は、なんとも言えない“欠陥の面白さ”とか“欠陥のユーモア”というものが出て来ます。その欠陥は、欠落して何もないというようなものでなく、その奥に完全をひかえている部分的な欠落であるが故に面白いのですね」
「完全を識っているが故に不完全がわかるという、あの論理ですね。不完全が不完全をみても不完全と思わず、当たり前だからそのままにしている、という……」
「そうですね。奥行かしい。人生って、奥行かしい鏡に映る現実に囲まれて、奥へ行く。つまり、不完全の奥に完全があるから奥に行く。奥行かし。奥に行きなさい、と。つまり、人生は面白さ、ユーモアに囲まれて満喫しながらほんものに出会う旅のようなものなのかもしれません」
「なるほど」

「昔々、ある週刊誌にその週の俳句王が選ばれるページがあり、選ばれていた人が本名なのかペンネームなのかは知りませんが、豊田豊さんという実に福々しい名前の人で、選者は吉行和子さんでした」
「どんな句ですか?」
「“台風の目を棒で指し解説者”というものです。吉行さんは、なんとなく可笑しいので気に入ってしまった、とコメントしていました」
「面白いですね。解説者の予想通りに進路を取ることもあり、取らないこともあるでしょうね。解説者は台風ではありませんからね。台風に解説者の言葉を聞く耳があったら、素直に従ったり、反発したりするかも知れませんね。解説者の言葉を聞く人は、台風情報を知りたい人なのですね。当の台風には関係ないことですね」
「その解説者の解説を含めたVさん、あなたの解説が面白い!」
 Vの笑顔に、盃一杯の酒を私は飲み干して、続けた。
「もう一句、覚えているのは、“台風の目の真ん中に息をのむ”というものです。確か佳作だったと思うのですが……。小学生の頃、私は台風の目を経験したことがあります。少し前までの暴風雨とは、打って変わった静寂な世界が開けます。そしてまた、暴風雨となります。解説者の解説よりも実に息をのむ現実ですね。“台風の目を棒で指し解説者”は、ほんとうに台風の目を知っているのだろうか? と思いましたよ」
 カウンセラーのVは、笑いながら頷いた。

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