澤谷 鑛
仏向上と仏向上心
道元禅師は、人間の存在の本質を「仏向上(ぶっこうじょう)」といい、それを現実的に現すものとして「仏向上心」と『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』に著しました。
完成されたものが完成されたままに拡大・向上を遂げる「仏向上」の世界を認識できる心を「仏向上心」というのですね。
もっとシンプルに考えると、私たちの存在が主体であるならば、肉体は客観的な道具であり、心は主観的な道具といえるでしょう。
「仏向上」が本来の私たちであり、現実を創り出す道具として、肉体や心があるのですね。
母と子
初めての子どもが生まれた時、人間はすごい力を持っている、と感じました。お乳を飲むことでした。誰が教えたわけでもないのに赤ちゃんはお乳を吸うのです。
その時、卒琢同時(そったくどうじ)という言葉が思い浮かびました。卒とは、ひよこが卵の中で吮(す)う声のことで、啄とは、にわとりのお母さんが外から殻を噛むことだと辞書に書かれています。
自分の嘴(くちばし)で卵の殻を楽に生まれるように突っつくのですが、確実に卵の中のひよこの嘴に当てるのだそうです。
赤ちゃんにとって、お乳を飲むことは「しあわせ」であり、「進歩・向上」することであり、「自由」なことです。これは外から付け加えられたものではなく、元々赤ちゃんに内在していたということです。人間は赤ちゃんの時から、それらを持っているのですね。
無心にお乳を飲む子どもを見ながら、おだやかにほほえんでいる家内が印象的でした。
その子が成人し、結婚し、初めての子どもを生んだ時、子どもにお乳を与える姿に、家内がこの子と重なり、この子が赤ちゃんと重なりました。
心の正体
心というのは、私たちの抱える現実と同じで不変ということはありません。心はコロコロと変わります。その心を何とかしようとしても、何ともならずコロコロと変わります。この心を安定させるためには、心を相手にしてもなんにもなりません。安定したと思ってもコロコロと変わるのですから、その心は、何時不安定になるかわかりません。
おそらく、心を安定させるための努力は永遠に不安定の中で行われることで、安定させるためには、心がどちらを向いて何を感じるか、すなわち、心の志向性の目的にこそ、心を安定させるポイントがあるのではないでしょうか。
本来もたないものだからこそ
私たちは、恨み・憎しみ・恐怖・不安・怒り・自分自身をとがめる思い、また罪の自責の思いなどが、何故起こるのでしょうか。それは、恨み・憎しみ・恐怖・不安・怒り・自分自身をとがめる思い、また罪の自責の思いなどは、私たちが本来持たないものだからなのです。持たないものだからこそ、その感じが起こるのです。というと、不思議な感じがするかも知れませんね。
手についた墨
私たちの手に墨がつくと「手が汚れたから手を洗おう」とします。手に墨がついて手を洗いたいと思うのは、本来の私たちに戻りたいからです。墨は手(私たち)ではないからなのです。デトックスするものは、私たちの心の中にあるものですが、私たちではありません。本来、墨が私たちのものであるなら、洗いたいとは思わないでしょう。手を洗い墨が流れ落ちて手が綺麗になるのは、墨が私たちではなく別物だからです。
しかし、墨は別ものなのだから、手には汚れはないのだから、洗う必要はない、という理論も成り立ちそうですが、本来汚れているのなら洗いたいとは思わないでしょう。手を洗い、墨が流れ落ちて手がきれいになるのは、それが本来の私たちだからです。だから、私たちは本来清浄であるからこそ、デトックスし浄める必要がある、とも言えるのです。
水は永遠に濁らない
では、デトックスするものを持たない私たちという存在はどのように認識したらよいのでしょうか。ここに「水は永遠に濁らない」という論が出てくるのです。
本来の私たちである手は、H2O(水)であり、墨(濁り)がついても、墨は私たちではなく、実は墨がついたままの手も、手は水であり、墨は濁りであるから、手は濁りなき水であり、墨の濁りとは別であるといえます。
本来清浄(濁りなき水)であるがゆえに、濁りの自責の思いが起こる、ということが解れば、「永遠に濁らない水」という私たちの存在と「濁りの自責の思い」という私たちの心の問題とは、まったく別物であるということも分かります。
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わたしも子どもにお乳を与えるのは、予想していた以上に素晴らしい時でした。
わたしの母は、わたしを産んでまもなく乳腺炎になり断乳してしまったそうです。
里帰りしていた時だったので、父は授乳の姿を見なかったのだなぁと思いました。
わたしが子どもに授乳していると、母がとても興味深そうに楽しそうに覗き込んでいました。
夫は授乳の姿を見て、神々しいと言いました。
生まれたばかりでまだ弱々しい赤ん坊なのに、とても力強い生命力を感じ、お互いの命のエネルギーが循環し合っているような感覚でした。
愛に満たされているのを感じ、とてもしあわせでした。
しか心の底では、このしあわせは失われるのかもしれないという恐怖が湧き上がっていました。
妊娠中から、この子はもしかして命を落としてしまうかもしれない・・・
深く愛してしまったら、わたしは立ち直ることができないだろう・・・
だから、深く愛してはいけないと思っていました。
それは出産後も変わりませんでした。
今ご文章を読ませていただいて、はっきりと自覚できました。
自分と子どもの命を尊く感じ、愛おしく感じ、しあわせを感じているのが本来の自分なのだとわかります。
しあわせは失われる、という恐怖心は潜在意識についている墨なのだとわかります。
そして、この恐怖心は、母の兄を生んだ後まもなく夫が戦死してしまった祖母の思いなのではないか、と感じています。
わたしの母の不安や寂しさは、母の幼少期の祖母の思いが潜在意識に刻まれていったからなのかもしれません。
こうして気づいて手放していけば、心の墨は落ちていくのでしょうか。
どんな状態の自分であっても、いつもまっさらさらの命を生きることができるのですね。
まっさらさらな命を尊び、愛おしみ、しあわせを感じることをいっぱいいっぱい満喫して生きていきたいです。
ありがとうございました。
よくご自分と相対しておられると思います。心を深めておられますね。それは、とてもリアリティのある表現をされているからわかるのですが、みずからの人生、その実生活、すなわち自己抜きの発言ではないからですね。きっと多くの方々にNAOさんの言葉は響いていると思います。あなたが心を深められた分だけ深く発信されているのですから。
あなたが赤ちゃんの時代のお母さん、そしてお父さん、NAOさんからのお父さん、お母さんへの思いはあるでしょうが、お父さん、お母さんのあなたに対する思いはどうだったのでしょうか。
奇しくも、ご主人があなたのお子さんに授乳する姿に「神々しい」といわれたのは、象徴的で、それは、あなたが赤ちゃんのときのご両親のほんものの気持ちなのですね。たとえ授乳できなくても、ご両親にとってはあなたは神々しかったのです。それはあなたのお子さんに対するお気持ちでもわかるでしょう。
そして、恐怖や不安ですが、それはのびのびといきいきと育つということをもともと知っているわけで、知っているから恐怖や不安という不完全が見えてくる。もともと知っているいのちの輝きこそ、基礎であり基本なのですね。
手についた墨の認識は間違いありませんから、のびのひといきいきと楽しく喜んで生きていってください。
心の志向性の目的にこそ、心を安定させるポイントがある。
心を仏向上に向ければ、拡大・向上を遂げる。
心を人間の本質、人間の存在の本質(=仏向上)に向ければ、完成されたものが、完成されたままに拡大・向上を遂げる。
「仏向上」の世界を認識し、安定するのですね。
人間の本質(=仏向上)は、水であり、永遠に濁らない。
人間の本質(=仏向上)をみつめる時間(今の私にとっては写経する時間)を毎日創ろうと思います。
ありがとうございました。
かしこ
どのような目的を実現するために心を使っているのかとなれば、一路の道があらわれ、心は目的に向かって弓が引かれたに充実するのでしょう。心も身体も人間の存在或いは実在の道具と言っていいでしょう。心は主観的な道具であり、身体は客観的な道具です。しかし、道具だからといい加減には扱えません。道具は手入れが大切です。
わたしについている墨は、相当ひどく、もともとどんな手だったのかわからなくなっているような気がします。みんなと同じように手を洗ったら、やっぱり黒かった。その事実を認識するのがこわくて、手が洗えない状況に今いるように思います。
もともと黒いとおもうことが、現実を引き寄せているのでしょうか。
水は濁らない。ひとつの例外もないならば、信じたいと思います。
心を安定させる努力は永遠に不安定のなかで行われる。
このことばが、すごく心に響きます。ぴったりくる感じです。まさに、不安のなかで、少しでも成長したい、子どものために頑張りたいと生きています。わたしの人生のなかに、子どもという存在がいてくれる。そして、いつもわたしをしあわせな方向へと導いてくれている。神さまからのプレゼントのように感じています。
水は濁らない。太陽の陽を受け、キラキラ輝く水になりたいとおもいます。あせらず、一歩づつですね。
ありがとうございました。
「水は濁らない。ひとつの例外もないならば、信じたいと思います。」
と書かれていますね。これは、信じるか? 信じないか? というような問題ではなく、科学的などの言葉を出さずとも当たり前のことです。
珈琲はH2Oという水に珈琲が混ざり、珈琲の色と香りが出ています。紅茶もH2Oという水に紅茶が混ざり、紅茶の色と香りが出ています。緑茶然りですね。
しかし、どんなに濃い珈琲も薄いアメリカンも、その珈琲の水はあくまでもH20であり、濁りません。珈琲の色に染まるのは、水が染まったのではなく、珈琲が混ざって珈琲の色がみえているのですね。珈琲の色をみているわけであって水の色をみているわけではありません。
だから、信ずる信じないではなく、リアルなものなのです。
それから、「心を安定させる努力は永遠に不安定のなかで行われる。 」ということを知ると、「心を安定させる努力は永遠に不安定のなかで行われる。 」ことが安定した中で進みます。不安定にみずからの心が引きずられなくなるからです。
そう、焦らず、一歩づつ進んでください。水は永遠に濁りません。太陽の光を受け、キラキラ輝く水は、エンジェルさんが生まれたときからすでにそうだったのですから。勿論、お子さんも。ご両親も。別れたご主人も。あなたのまわりのすべての人もです。