絆の法則

澤谷 鑛

「THE ZEN」 自己をならうということ

2013-08-29 | 

竹本 祐介

「自覚」という言葉があります。よく「社会人としての. 自覚を持とう」などと使われます。
yahoo辞書によると「1.自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。2.仏教用語で、自ら覚りをえること。」と書いてあります。
 このことが、はっきりと分かっていれば何も困らないと思いますが、えてして人間というものは自分を知らないが為に間違いを犯します。結果「こんなはずじゃ・・・」とか「わかっちゃいるけど・・・」とか「またやってしまった・・・」とか思うこととなります。
 潜在意識が原因とも言えますが、潜在意識は隠れた意識なので、気づく事ができません。また顕在意識でわかっているつもりでも、他人にしか見えない自分もいます。さらに忘れてしまった自分もいると思います。先ずは、わかる範囲で自分の事を「はっきり知る」ことにより自分軸と言うものが出来てくるのだと思います。

 サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルルトとハリーインガムが提唱したマトリックス表を用いた「ジョハリの窓」と言う自己分析のツールがあります。近年では大手企業の新入社員研修などでも活用されているようです。

この「ジョハリの窓」とは

「他人は気付いていて自分にはわからない」→盲点の窓
「自分では良く知っているが他人には見せていない」→秘密の窓
「自分も他人も良く知っている」→開放の窓
「他人にも自分にもわからない」→未知の窓

 という4つの窓にわかれて自己分析をしていくと言うものです。
 改めて自分を見つめ直し、他人に見えている自分を教えてもらい、さらに自己開示とフィードバックによって「開放の窓」を広げることが成長に繋がるとされています。

 さてこの「ジョハリの窓」に近いことを「禅」でも唱えております。いやジョハリの窓よりも踏み込んでいると思います。

  仏言、それ授記に多般あれども、しばらく要略するに八種あり。

                       (道元禅師『正法眼蔵』「授記の巻」)

一者 自己のみ知りて、他は知らず。
二者 衆人ことごとく知りて、自己は知らず。
三者 自己衆人、ともに知る。
四者 自己衆人、ともに知らず。
五者 近くのものは気づき、遠くのものは気づかず。
六者 遠くのものは気づき、近くのものは気づかず。
七者 近くのもの、遠くのもの、ともに気がつく。
八者 近くのもの、遠くのもの、ともに気づかず。

 一者~四者まではまったく「ジョハリの窓」と同じで、五者以降は他者に対しての事だと思われます。ここで言う遠近は物理的な距離だけでなく、精神的な距離もさしていると思います。ジョハリの窓では自己を焦点に考えていた事が、道元は他者との関わりにも関連付けて考えています。

 

 

 また『正法眼蔵随聞記』では「四つの句」を用いて因果についても説明しています。

一 冥機冥応 見えない所で行われたことに、見えない報いが起きること。
二 冥機顕応 見えない所で行われたことが、見える報いを生むこと。
三 顕機冥応 見える所で行われたことに、見えない報いが起きること。
四 顕機顕応 見える所で行われたことが、見える報いを生むこと。

 ここで言う「報い」とは正しいことや悪いことではなく、単なる現象としての結果と理解した方がよいでしょう。行動をおこせば必ず何処かに「果」が現われると言う事です。偶然に思える出来事にも必ず「因」があるとも言えます。潜在意識下での願いを把握するために、過去に起こった事を検証するのに役立つと思います。

 このように「禅」では単なる自己を知ることに留まらず、自分以外のものとの関係や、因果を用いてそれを駆使し、「自己をならうということ」を探求しています。

 一番最初にご案内した「自覚 : 自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。」これは仏教用語で言う「自覚」即ち自ら覚りを得る事に繋がって行く事になるのだと思います。
 まずは自分の現状を知り、改善すべき所は直し、さらに五感を研ぎ澄ませて、もの・ことにあたり、未知の自分(潜在能力など)を見出し、他者との関わりの中で自分を役立てる事に繋げていきましょう。


参考書籍 花岡光男『道元明明百草の夢』(リフレ出版) 雑誌『日経おとなのOFF』(日経BP社)

今後のセミナー・カウンセリングのお知らせ
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☆☆ THE ZEN ~ZEN mind,Beginner’s mind~ ☆☆

●Vol.1 【自己をならうということ】  東京開催 8月31日(土)
●Vol.2 【万法に証せらるということ】 東京開催 9月29日(日)
●一泊研修会inおごと温泉 【「空」じる力~心のデトックス~】
 琵琶湖畔 おごと温泉 旅館「木もれび」一泊3食付
(1室4名相部屋となります。勿論男女別部屋です) 

澤谷先生は30年間カウンセリングを続ける中でこの「禅」の教えに
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「THE ZEN」 禅と林檎

2013-08-27 | 
 竹本 祐介  
 
 禅は「成功とは何ぞや」、「しあわせとは何ぞや」を教えてくれます。  
 
 宝くじが当たって人生が狂う人が、いると言う話をよく聞きます。多くの財を持つと言う事が必ずしも、しあわせな人生につながるとは限らないのだと思います。  
 僕は1966年生まれで高度成長期と共に育ち、20代の頃にバブル経済を経験しています。同世代に共通する「バブリーな価値観」と言うものがあるような気がします。 具体的には、「好きな事を仕事にして、沢山の収入を得て、セレブな生活をする事」に執着しています。実際にバブルの時代にはそれを実現した人が沢山いました。実現出来なかった人も、その価値観を捨てられないままに、歳をとってしまいました。その後の時代にもヒルズ族などがもてはやされ、同じような価値観を持つ人を産みだしてきました。    
 しかし、お金に執着すると、人間は堕落してしまいます。高収入を得た人も、高収入を目指す人も同じだと思います。 この「バブリーな価値観」は傲慢な態度や、逆に卑屈な態度を生み出し、人間関係を崩壊させて行きます。  
 僕はこの「バブリーな価値観」を実現する為に会社を経営し、「大嫌いな仕事をして、お金に困り、家庭が崩壊」挙句の果てに会社を倒産させてしまいました・・・。  
 成功哲学等で語られる「サラリーマンは奴隷、独立起業せよ」とか「小さな会社の社長も結局は奴隷、人を動かさないと」など、これは「バブリーな価値観」からの考え方だと思います。サラリーマンがいなければ社会は成り立たないし、しあわせなサラリーマンもいます。 やり甲斐をもって職人に徹している小さな会社の社長だっています。
 セルフイメージを上げ(自己限定の解除)、コンフォートゾーン(潜在意識にある価値観)を広げる事なども、成功哲学の鉄則になっていますが、「バブリーな価値観」のまま実践すると危険です。  
 
 セルフイメージを上げ、コンフォートゾーンを広げる前に、先ずは足元を固める事。「doing / having(行動すること、得ること)」ではなく「being(存在そのもの)」に価値を置く事です。「being」に価値を置くとは、自分が生かされている事に感謝し、日常にしあわせを見出す事。その前提のうえで、今やれる事に全力を出し、夢中になってコツコツと、目の前の課題をクリアして行く事。その先に、大きな目標を持つ事も、小さな目標で満足する事も、人それぞれ自由です。これは「禅」の教えです。(『正法眼蔵』「全機の巻」)  
 高収入を目指したり、起業して会社を大きくする事を目標にする事が悪い事だとも思っていません。その志ざしや、目的、価値観が「しあわせな人生の実現をサポートする事」になっていれば間違いが起こらないと思います。
 
  「しあわせな人生の実現をサポートする事」とはまさしく大乗仏教である「禅」の教えです。
 
 
   
 
 Apple社の創業者、スティーブ・ジョブズ氏が若いうちから、仏教の『禅』を熱心に学んでいたというのは、有名な話です。
 『ジョブズは生まれてすぐに養子に出され、養父母に育てられたそうです。「自分は要らない人間だったのではないか」と悩んだ時期もあったと言います。その悩みや苦しみが青年期に吹き出し、彼は人間的に成長しようともがき、悟りの道を求めたのでしょう』(ジョブズと親交のあった秋葉禅師談) 若き日のジョブズが禅の教えを学び、のちに数々の奇蹟を生み出して行く事になります。  
 
 Apple社が大きな成功を収めた後、多くの社員は裕福になり、変わったとジョブズは言っています。中には、ジョブズから見て堕落したとさえ感じた人もあったようです。そのような状況の中で、ジョブズは「金で人生を台無しにされたりなんかしないぞ」と自分に誓ったそうです。
 そしてApple社が大企業に成長し億万長者になった後も、米カリフォルニア州パロアルトの質素な家に住み続けました。仏教や禅の説示がきっかけとなり、それらの言葉を生かして生活を送っていたのでしょう。
 
 もう「好きな事を仕事にして、沢山の収入を得て、セレブな生活をする事」を成功の定義とするのはやめましょう。
 
 結果(成果)を求めて行動する事は不毛な事です。  
 ジョブズ氏の名言のひとつに、「Journey is the reward」ということばがあります。これは、「結果が目的なのではなく、旅(道のり)こそが、報酬である」という意味。この考えは、道元禅師のことばからきているようです。 「仏道に入りては、仏法のために諸事を行じて、代はりに所得あらんと思ふべからず。皆無所得なれとのみ勧むるなり」(『正法眼蔵随聞記』より)  禅の修行そのものが「悟り」なのだから、結果(報酬)を求めることなく、修行の行程そのものを大切にしましょう。禅の考え方は、ジョブズ氏のビジネススタイルにも深く関わっていたんですね。
 
参考書籍 『禅と林檎』(宮帯出版社)、雑誌『日経おとなのOFF』(日経BP社)

続々・葛藤

2013-06-04 | 

おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

本日は2008年1月12日の記事から抜粋させていただきます。


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「ところで、達磨(だるま)が門人四人と問答した具体的な話をご存じの方は、教えてほしいものだ」

 これは、1月8日(火)のブログのコメントに書かれた三崎謙治さんのものです。この問いにお応えしなければ、と思って前置きが長くなってしまいました。

 達磨大師が門人たちに言った。
「法を伝える時が将に来た。悟り得たことを言ってみよ」
 すると道副(どうふ)がこう言った。
「私の今の所見は、文字に囚われず、しかも文字から離れず、時に応じて、それを活用して生きることです」
「汝(なんじ)は吾が皮を得た」

 尼総持(にそうじ)は次にこう言った。
「私の今の所解は、阿難(あなん)尊者が阿シュク如来の国土を一見して、さらに二度と見ようとなさらなかった心境です」
「汝は吾が肉を得た」

 道育(どういく)は続いてこう言った。
「地水火風などの現実は空(くう)であり、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)の五蘊(ごうん)は本来ありません。従って私の見處は、現実は空ということです」
「汝は吾が骨を得た」

 最後に慧可(えか)は、達磨の前で参拝して、また自分の席に帰り、無言のままで立った。すると達磨はこう言った。
「汝は吾が髄を得た」

 その後、達磨は慧可に法を伝え、袈裟(けさ)を授けました。

 さて、ここで参学してみよう。というわけです。
 達磨大師が「汝は吾が皮肉骨髄(ひにくこつずい)を得たり」とは、釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)の言葉です。門人四人の得度しえたのは、心身を超越した「皮肉骨髄」だと言えます。脱落心身(とつらくしんじん=悟りそれ自体)という「皮肉骨髄」です。知識や独断で判断してはなりません。だが仏法を心得ない者には、師は弟子の悟りがそれぞれに違うから、皮肉骨髄と違って評価をするのだと考えます。皮肉は骨髄よりも浅いから深い慧可が髄を得たのだと言います。このように言うのは、まだ仏祖の道を知らず正しい教えを伝えられていない者であるのです。

 知るべきです。師の言われた皮肉骨髄は深い浅いの問題ではありません。これらの人の見解に優劣があるにしても、師は「吾を得たり」つまり「その通り」ということなのです。
 例えば、釈迦が蓮華(れんげ)の花をひねって大衆に示したときも、迦葉(かしょう)のみに衣鉢(いはつ)を伝えられた。しかし釈迦は集まったすべての人に等しく教えたのです。説法は初めからひとつです。それに対する答えは必ずしも一つではなく、四人ならば四通りの答えを出すだろう。それでよいのであって、師の教えは一つであり、その一つが色々に別れて表現されるのです。これで終わりということはありません。

 知るべきです。達磨が慧可に言うときも、「汝は吾が皮を得た」と言うことができます。それでも達磨は慧可に法を伝えるはずです。それは「皮を得た」とか「髄を得た」とかの優劣の問題ではないからです。また道副・道育・尼総持などのために答えるときにも、「汝は吾が髄を得た」と言ってもよいのです。髄だけが本物で皮は偽物ということはないと知らなければなりません。「得たり」という言葉の意味を深く参究しなければなりません。

 師と弟子が一体となるのが「得たり」です。何が一体となるのか。師と弟子の心がぴったりと一つです。この有様が仏祖の「葛藤」であり、この「葛藤」が「皮肉骨髄」です。釈迦が蓮華の花をひねって目をしばたたかれました。これが「葛藤」なのです。迦葉が破顔微笑(はがんみしょう)しました。これが「皮肉骨髄」なのです。

 さらにまた参究することです。葛藤の種、すなわち脱體(とつたい・本物=実=真)の中には、現実の殻を打ち破るすばらしい力があるのです。そこで「葛藤」をめぐって煩悩(ぼんのう)が絡み合い枝葉華果(しようけか)が入り乱れ、お互いに絡み合い纏わりあっているのですが、やがてその中から仏祖が現成(げんじょう)するのです。これが「公案現成(こうあんげんじょう)」することなのです。

「葛藤の巻」は、さらなる参究がまだまだ続いています。


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本日のオフィシャルブログでは、

澤谷先生の

「続・恕」

七田先生の

「『いのちの教育の物語』を出版!」

「澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー」in 東京(6/2)感想文」

を掲載させて頂いてます。

どうぞご覧下さい。

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『いのちの教育の物語』発刊! (6月7日予定)

このたび創立25周年の歴史と全国450箇所の教室を抱える七田チャイルド
アカデミー特別顧問であり、創立35周年を迎える(株)しちだ・教育研究所の
代表取締役社長である七田 厚先生との共著
『いのちの教育の物語』(七田 厚・澤谷 鑛共著/南方新社/1,680円(税込))
を発刊(6月7日予定)させていただく事になりました。

http://www.kou-sawatani.com/

「出版記念講演会」を開催します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

京都 6月16日(日) 13:00~16:00 キャンパスプラザ京都 4F 第四講義室
名古屋6月29日(土) 13:00~16:00 ウインクあいち 9F 904号室
東京 7月21日(日) 13:00~16:00 TKP信濃町ビジネスセンター ホール2

 *京都・東京会場は、七田 厚先生と澤谷 鑛の講演があり、
  名古屋会場は、澤谷 鑛単独の講演会となります。

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「澤谷 鑛 & 横山奈津子 スペシャルコラボセミナー」in 京都
     ~しあわせな人生を創造する~

◎日時◎ 7月27日(土)13:00~16:00
◎会場◎ キャンパスプラザ京都 2F 第一会議室

受付開始しました。
http://www.kou-sawatani.com/sem-130727js.html

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続・葛藤

2013-06-02 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

本日は2008年1月11日の記事から抜粋させていただきます。


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【UZONE】
深い世界で、ちょっとボクには難しいです。

【ウルトラの父】
昔を思い出します。
thank you!(参究)
先生らしくて素晴らしいです!!

【あんあん】
深い世界ですね……今まさに私は心の葛藤中ですが。
どうにかこんな気持ちにならぬよう……よい意識に向けているはずなんですが……

【フーデイア】
先生のお言葉は有り難く本当に深みがあります。
今まで中庸しか知りませんでした。ありがとうございます。

 私は、mixi(ミクシィ)もやっています。1月8日(火)にブログにアップした「葛藤」を同じ日にmixiにもアップしました。そのコメントです。

【UZONE】さんのコメントは、ある意味で象徴的です。
【UZONE】さんは、「深い」世界を感じたのです。ということは、「深い」世界が分かるから「深い」世界と書いた、ということですね。しかし、「難しい」と言います。と言うことは、「深い」世界が分かるのに「難しい」ということですが、どういうことなのでしょうか? ここに「思惟(しゆい)」の世界と「思考」の世界との相違点が見いだせるように思えます。

 経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせる「思考」の方法では、「難しい」ということです。しかし、浄土の荘厳(しょうごん)を明らかに見る「思惟(しゆい)」の方法では、「深い」と感じているのです。
【UZONE】さんのみならず、【あんあん】さんも、【フーデイア】さんも感じていることです。【ウルトラの父】さんも勿論感じていることなのですが、心のデトックスで中学生の時代に小児喘息を克服した体験を持っている人ですから、感得・体得というよりも悟得していると言っていいでしょう。
「思考」の世界には「論理」がついて回りますが、「思惟」の世界には「情緒」が軸となっているように思います。

 文学を好んでいた私には、数学はきっちりと答は出るが、その答は抽象的で具体性がなく、表現としては大変面白味のないものになるように思えました。過去を顧みて「数学は好きだがテストの点数は充分に取れない」と思っていたことと関係があるのかも知れない、などとも思ったものです。
 数学や物理は法則によって成り立っているが、その法則性というものを考えると面白いことに気づくことがあります。これは学生時代に考えたことです。

 1+1=2

 は、抽象概念上の真理であり、抽象的であるがゆえに具体性はなく、表現としては真理ではあっても真実とはほどとおいといわなければなりません。
 具体的にこの数式を書き直してみると、

 一個の林檎と一個の蜜柑は、ひとつの林檎とひとつの蜜柑

 となります。真「理」と真「実」の違いが明確に分かります。
 すなわち、「1」は抽象概念であり、その具体的なものは「一個の林檎」であり「一個の蜜柑」といえます。それも、「一個」が囓ってあったり、大きかったり、小さかったりするものを一括して抽象概念で括ることになります。
 真理や理論や論理の「理」だけを操作すると、抽象的な世界の展開をみることが出来ますが、真実や事実の「実」の世界とはほどとおくなると思われます。

 では、ひっくり返してみるとどうなるか?

 2=1+1

 は、正しいけれども正しくありません。なぜなら、例えば、
 2=0.5+1.5
 だけでなく、無限の数式が成り立つからです。
 0.7+0.8 も 2 と認識する可能性すらあります。
 それは、無限の真実や事実の「実」の世界の展開を暗示しています。

 ある書物に数学者の藤原正彦さん(お茶の水女子大学理学部教授)が、こんなことを書いていました。

 十年ほど前に、スタンフォード大学の教授が私の家に遊びに来ました。秋だったのですが、夕方ご飯をたべていると、網戸の向こうから虫の音が聞こえてきました。その時この教授は、「あのノイズは何だ」といいました。スタンフォードの教授にとっては虫の音はノイズ、つまり雑音であったのです。
 その言葉を聞いた時、私は信州の田舎に住んでいたおばあちゃんが、秋になって虫の音が聞こえ、枯葉が舞い散り始めると、「ああ、もう秋だねえ」と言って、目に涙を浮かべていたのを思い出しました。



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本日のオフィシャルブログでは、

ざむ姫さんの

「なんとなく避けているのは、恐怖からかもしれない。」

今井 良さんの

「誕生日にプレゼント」

を掲載させて頂いてます。

どうぞご覧下さい。

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澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー in 東京本日開催!!

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飛び入り参加も歓迎します!!

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『いのちの教育の物語』発刊! (6月上旬予定)

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名古屋6月29日(土) 13:00~16:00 ウインクあいち 9F 904号室
東京 7月21日(日) 13:00~16:00 TKP信濃町ビジネスセンター ホール2

 *京都・東京会場は、七田 厚先生と澤谷 鑛の講演があり、
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◎日時◎ 7月27日(土)13:00~16:00
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葛 藤

2013-06-01 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

本日は2008年1月8日の記事から抜粋させていただきます。


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年末(2007年12月27日)に 澤谷 鑛 オフィスの桑名正典さんと打ち合わせをしました。
 席上、桑名さんが、
「ブログのコメンテーターをやらせて貰っていて、自分の意見と食い違う場合があるときに言いたいと思うのですが、それは自らを押しつけることになるのかな、とも思うのです」
 と言いました。
「桑名さん、その“葛藤(かっとう)”は大切です。皆さんと共に歩みながら自らの道を歩む、という自覚を持ったということですよ」
 と私は言いました。

 道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』には「葛藤の巻」があります。

 聖者たちは、煩悩(ぼんのう)=迷いが藤蔓(ふじづる)のように絡み合っている心を浄化し、その根源を断ち切るために学ぶのですが、葛藤によって葛藤を断ち切ることを学びません。葛藤の本質がまつわりつくものであることを知らなければなりません。葛藤をもって葛藤につながるということを知る人は少ないのです。師と弟子がつながり続くことは葛藤なのです。では、葛藤とは何なのか。
 先師如浄禅師は「瓢箪(ひょうたん)の蔓は瓢箪に絡み合う」といわれました。仏祖が仏祖に参究(さんきゅう)し、仏祖を悟るのです。仏性が仏性に共鳴し、以心伝心して、仏心が仏心を伝えるのです。

「葛藤の巻」のはじめには、このようなことが書かれています。
 因縁因果を説く仏教にあって、因縁因果を超えた世界を示しているように思います。

 どうもこれは、経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせる「思考」の方法ではなく、浄土の荘厳(しょうごん)を明らかに見る「思惟(しゆい)」の方法を知らなければならないのでしょう。

 例えば、「流れる不動」という言葉で「思惟」してみましょう。
「流れる」は動いていることですが、「不動」は動かないことです。正反対のもの、矛盾するものが心にひっかからないで理解されることです。「流れる」と「不動」がそのままひとつとして理解されるということです。
 昔の日本の哲学者が「絶対矛盾の自己同一」という言葉だった、と記憶していますが、使いました。『維摩経(ゆいまきょう)』によくある「不二門(ふじもん)」といわれるふたつがふたつでなく、不二である、ひとつである、と理解されるものです。

 芭蕉の俳諧の研究に使われる「不易流行(ふえきりゅうこう)」「流行不易(りゅうこうふえき)」なども近いのかも知れません。
 不易流行――永遠に変わらないものを求めると次から次へと新しいものを創造する――風雅の誠を責めるものは新しみを求める、と言います。
 流行不易――新しいものを求めると永遠に変わらないものにつきあたる、と言います。
「不易流行」の句と「流行不易」の句があるわけですが、表現はまったく別の経緯でなされます。しかし、「不易」と「流行」は不二であると言えます。

 さて、『正法眼蔵』の「葛藤の巻」は、ブログのコメンテーターの本質を浮き彫りにする達磨(だるま)大師と門人四人・慧可(えか)・道育(どういく)・尼総持(にそうじ)・道副(どうふ)の問答に入っていくのですが、そのことは説明せずに桑名さんにはコメンテーターの本質を伝えました。




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本日のオフィシャルブログでは、

澤谷先生の

「100本の薔薇」

を掲載させて頂いてます。

どうぞご覧下さい。

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澤谷 鑛 ヒューマンライフセミナー in 東京開催!!

6/2中央区立産業会館10:00~16:00

ヒューマンライフセミナー in 東京は5月、7月の開催がありません。
今回席が少ないので、この機会を逃さずに、今すぐお申し込みください。

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『いのちの教育の物語』発刊! (6月上旬予定)

このたび創立25周年の歴史と全国450箇所の教室を抱える七田チャイルド
アカデミー特別顧問であり、創立35周年を迎える(株)しちだ・教育研究所の
代表取締役社長である七田 厚先生との共著
『いのちの教育の物語』(七田 厚・澤谷 鑛共著/南方新社/1,680円(税込))
を発刊(6月上旬予定)させていただく事になりました。

http://www.kou-sawatani.com/

「出版記念講演会」を開催します。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

京都 6月16日(日) 13:00~16:00 キャンパスプラザ京都 4F 第四講義室
名古屋6月29日(土) 13:00~16:00 ウインクあいち 9F 904号室
東京 7月21日(日) 13:00~16:00 TKP信濃町ビジネスセンター ホール2

 *京都・東京会場は、七田 厚先生と澤谷 鑛の講演があり、
  名古屋会場は、澤谷 鑛単独の講演会となります。

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「澤谷 鑛 & 横山奈津子 スペシャルコラボセミナー」in 京都
     ~しあわせな人生を創造する~

◎日時◎ 7月27日(土)13:00~16:00
◎会場◎ キャンパスプラザ京都 2F 第一会議室

受付開始しました。
http://www.kou-sawatani.com/sem-130727js.html

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(5)

2013-05-07 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

ブログ読者の皆様、いつも購読戴きありがとうございます。事務局の竹本祐介です。

皆様ゴールデンウイークはどのように過ごされましたでしょうか?
僕は10数年ぶりに地元に帰ってみました。
千葉県船橋市にあるマンモス分譲団地なのですが、ここに5歳から成人するぐらいまで住んでいました。

久しぶりに訪れた故郷は定期的な改装をしている為かとても綺麗で、当時の感覚が鮮明に戻ってきました。
当時の感覚と言うより過去に戻ってしまったような感じもしたし、過去から未来にタイムスリップしてきた感じもしました。

澤谷先生にその話をしたところ、

「日々接している日常空間とその異空間に感じたものは一緒だ」

と言ってました・・・


僕が置き去りにしてきた過去が今も変わらずに、そこにあった気がします。
異空間ではなく、同じ空間である事を認識する為に、僕にしなくてはいけない事がまだあるような気がします。

大型連休が終わり、今日からまた通常どうりの生活が始まります。
僕にとっては誕生月です。一番好きな新録の季節にワクワクしています。
5月病なんて言葉がありますが、今、目の前にある幸せに感謝して顔晴っていれば大丈夫!!

万が一5月病にかかってしまったら、澤谷先生のセミナーに来て元気を取り戻して下さい。

各会場にてお待ちしています。


さて本日は2012年2月6日のブログから抜粋させていただきます。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(5)

 文殊(もんじゅ)菩薩と無著(むぢゃく)禅師とは、互いに時代がことなるから、このように現実に相見えることはないはずです。
 無著禅師が初めて文殊のお寺に行ったとき、道が遠く行き着くまでに日が暮れました。近くに古いお寺があり、一夜泊めてもらいました。その寺の老いた和尚は、仏教の造詣が深く、ほとんど徹夜で、無著は教えられることが多かったといいます。
 翌朝、無著禅師が出かけようとすると、その寺の和尚は、一人の童子を見送らせました。門外に出たとき、無著禅師は童子に聴きました。
「このお寺はなんといお寺ですか? そして和尚はなんという高僧ですか?」
 童子は、紋の左右に立っている仁王を指して、
「仁王の後ろを見なさい」
 といいます。なにがあるのかと無著が目を凝らした瞬間、すべての姿が消え、そこは広い雑草のおおい茂る野原であったといいます。その古いお寺の和尚は、文殊菩薩であって、神通力によって無著禅師をねぎらったのだ、とわかったというのです。
 前回の文殊と無著の対話のあとに、ある書には、夢の中でのこの問答の続きが載っています。

 門外に出たとき、無著は童子に尋ねます。
「和尚は前三三後三三といわれましたが、それはどれほどの数をいわれたのでしょうか?」
 童子は無著禅師に、
「大徳!」
 と大きな声で叫びました。無著禅師は、自分を尊敬して「大徳!」と呼びかけたのだと受け取り、「はい」と応じました。童子は、
「大徳の大というのはどれほどの大きさだと思いますか?」
 と問います。無著は自分の徳の大きさを観ようとしたとき、童子もお寺も消えて、目が覚めたのでした。
 徳の大小、セミナー聴聞者の多少の問題ではない、何がほんもので何がにせものなのか、何が真実で何が夢の中のものなのか、それらを見分ける眼を持つことが大切である。と同時に、しあわせな人生の実現をサポートするため、縁ある人を出来る限り結集するというのは、ほんとうの大徳なのでしょう。

 そこで、三つの眼で考えてみることにします。
 ひとつは「見の目」とも呼ばれる肉眼です。
 もうひとつは「観の目」と呼ばれる心の眼です。心は、心ころころと絶え間なく変わるので心だと笑いながら言った人がいましたが、徹底して澄むこともできるし、濁ることもできるのが、この眼です。澄んだ心で自分と対面すれば、道元のいう仏向上の存在に出会うと言うことになるのでしょう。その心は、澄んで仏向上心と呼ばれるものなのでしょう。
 三つ目の「眼」は、【垂示】に「頂門上に眼あり」と書かれていますが、両眼の他に額にもうひとつの眼があるというのです。現実世界に起こる前の心の世界の兆しを観るというものです。
「観の目」のどれほど澄んだものなのか? はたまたどれほど濁ったものなのか? 見極める眼をいいます。心眼とか隻眼という言葉があります。
「心眼」とは、辞書によると、
「心の目によって目に見えない真実を見抜く力のことである。武術においては重要視される。漫画や小説などのフィクションやオカルトでは超能力の一種であるかのように扱われている。具体的には目や耳などの感覚器で知覚することが出来ない情報を経験と想像力で推論することによって見えない物の具体的な形質や挙動を把握すること、また科学的な推論に基づいて見えない物の本質を理解する能力のことである。武術においては相手の挙動を予測して行動することで相手を制することを心眼で見切ったなどと表現している。」
 とあります。
「見の目」でみると想像上の動物である龍など見えるはずがありません。しかし、「観の目」でみると龍にも蛇にも、蛇も大小・無毒有毒もみえてきます。今、という時空間において、龍なのか蛇なのか? 聖なのか俗なのか? を見極める眼をいいます。

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本日オフィシャルブログでは、

澤谷 鑛先生の

「カップルでもおかしくない歳の差だもんな」

を掲載させて頂いてます。

AM10:00より

山口 悟さんの

「孫兵衛の話」

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どうぞご覧下さい。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(4)

2013-05-06 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。


本日は2012年2月5日のブログから抜粋させていただきます。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(4)


 さて、「本則」の文殊(もんじゅ)菩薩と無著(むぢゃく)禅師の対話は、このようにあります。

「最近はどちらにおられましたか?」
 と文殊が問います。すると無著が、
「南方におりました」
 と答えます。
「南方では、どのように仏法の教化(きょうげ・人を教え導き、望ましい方向に進ませること)が維持されていますか?」
「末法(仏教の退廃期)の坊主たちは、戒律をそれでも少しは守っています」
「どれほどの人々が集まりますか?」
「300人集まったり、500人集まったりです」
 今度は無著が問います。
「ところであなたの方の仏教はどのように維持されていますか?」
「凡夫も聖人も一緒に住んでいます。誰も押しのけたりはねのけたり、仲間はずれにしないで、龍も蛇も、どちらがどちらやらゴチャ混ぜです」
「どれくらいの人が集まられますか?」
「前の方に三三、後ろの方に三三です」

 もう5年もつき合っている人から、昨年の11月下旬に、
「先生のセミナーを任せてもらえませんか? 先生の内容ならもっと沢山の人が集まると思うのです。今年中に連絡させていただきますから……」
 ということで別れましたが、大晦日までなんの連絡もありませんでした。新年早々は無粋なので12日に連絡しましたが、彼は忙しいらしく、スカイプも出ず、携帯も留守電です。14日にやっと話すこととなりました。
「東京のセミナーをもう5年間もやってきています。勿論、これからもつづけますが、あなたがやられるところは信頼してお任せしますよ。私もそれ以外はいままで通りやりますけれどもね」
「考えたのですが、ブランディングが必要ですね。ホームページにしても、ミクシィにしても、フェイスブックにしても……。1年くらいかかりますね。その1年くらいブランディングに力を入れるということで……私に任せて下さい」
「商品価値を上げるというわけですね。すばらしいビジネス感覚ですね。ところで、あなたがブランディングされてたくさんセミナーに集まった実績を教えて下さい。その人は何をどのようにしてすばらしい成果が出たのか」
 彼は口を噤んでしまいました。
「5年間、やってきたセミナーのリズムにまず乗ってもらって、そこからブランディングなり、コマーシャリズムなりを考えて変革していくのであればいいのですが……養成講座も来期は5年目に入りますが、私ひとりでは目の届く限界があります。これから養成講座のシステムも変革して、もっとたくさんの人が受講できるようにしたいと思っています。養成講座は、1年1ヶ月の期間を費やしますから、もっともっと深まるようにしたいですね。いつでも信頼してお任せしますから、やるときは云ってください」

 ところで「前三三後三三」というのは、面白いですね。三三五五という風に聴衆がバラバラに座っていて寂しい感じがします。
 塾やセミナーで講座を開いていくときは、寂しい感じの人数のときがあります。そんなときの聴聞者に釈迦の十大弟子だとかキリストの十二弟子とかがあらわれたらしいのです。

 昨年の12月初旬の日曜日、ある人にゲスト講師として話してもらえないか、といわれ、了承して会場にいってみると4名の参加者でした。その人は、自分の1泊のセミナーの最後に私の講演を聞かせたいと思ったのです。勿論、私はのびのびとしながら一所懸命に話ました。すると4名とも大変興味をもっていただき、皆さん、初めてお会いした人でしたが、そのうちの一人は私の「養成講座に入りたい」と言われ、来期の養成講座5期生となられ、3月1日から1年1ヶ月、学ばれることとなりました。

 徳の大小、セミナー聴聞者の多少の問題ではない、と文殊はいっているように聞こえます。龍蛇の問題もどのように捉えればよいのでしょうか?

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本日オフィシャルブログでは、矢野惣一さんの

親はなぜ子どもが泣くのを嫌がるのか

を掲載させて頂いてます。

どうぞご覧下さい。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(3)

2013-05-05 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

本日は2012年2月4日のブログから抜粋させていただきます。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(3)


 さて、スピリチュアルなカウンセラー・VENTOさんから、今年は辰年ですが、『碧巖録(へきがんろく)』の「第三十五則 文殊前三三(もんじゅぜんさんさん)」に龍が出てくるのを知っていますか? とのメールが届いた話に戻ります。
「垂示」に、

 垂示に云く、龍蛇(りゅうじゃ)を定め、玉石を分かち、緇素(しそ)を別ち、猶豫(ゆうよ)を決す。

 とあります。
 目の前のものがほんものをあらわす龍であるのか、それともただの蛇であるのか、はたまた人間をまどわす蛇であるのか、玉石を混ぜ合わせ白黒を曖昧にしてはならず、ひとり疑いためらってぐずぐずしてはならず、善悪の判断をキッチリと決めなければならない、ということです。

 頂上上に眼(まなこ)あり、

 とこの「垂示」はつづくのですが、これは、両眼のほかに額にもうひとつの眼があるということのようだ。両眼は「見の目」で現実を見る眼ですが、もうひとつの眼は、現実に起こる以前の心に兆しを観るということのようだ。「観の目」とか「心眼」ということなのだろうか。

 国立大学の准教授で理学博士の美崎真也(仮名)氏をカウンセリングしたとき、こんなことを話したことがあります。

「スピリチュアルな友人のカウンセラー・VENTOさんは、〈観の目〉は瞑想……いわゆるメディテーションのようなものか? というのです。そして目というのだから、ヒンドゥー教のシバ神に象徴される第三の目ということか? と問うのです」
「シバ神の第三の目……?」
「ええ。シバ神といえば第三の目が出来た物語があります。シバ神は瞑想をよくします。一度やりだすと数百年はあっという間に経ってしまう。そこで妻はあまりに放っておかれて寂しくなり、ある日、手で背後からシバ神の目を覆ってしまうのです。すると世界は真っ暗になり、全世界は滅亡の危機に陥ったのです」
「……」
「そのとき眉間が開き、もう一つ目ができ、その目から強烈な光が放たれ世界を救ったのだそうです。興味をそそる面白い物語だとスピリチュアルな友人のカウンセラーはいいます。そのシバ神は破壊の神といわれ、リグ・ヴェーダ聖典の物語では暴風雨神ルドラを前身とし、破壊的な風水害をもたらしますが、同時に土地に水をもたらして植物を育てる、とあるようです。いわゆる世界の寿命が尽きたとき、世界を破壊、すなわち、浄化し、次の世界創造に備える役目をする神のようですね」
「デトックスに関係がありそうですね」
「そうですね。第三の目は、〈観の目〉であり〈心眼〉なのではないか? とスピリチュアルな友人のカウンセラーは言います。私は、確かに〈心眼〉は心で現実を見切ると思いますが、〈観の目〉は、澄み切った心が澄み切ったがためにみずからの存在と出会ってしまう、と思うのです」
「認識論と存在論ですね」
「そうですね。日常生活では、ものそのものを見ているというよりも、時計を見るのは時間を知るためのもの、椅子は座るためのもの、林檎はたべるためのもの……と利用しているだけで、自分に対して利用価値があるかないかに終始します。そのものをつくづく眺めたことのある人は少ないわけです。美しい菫の花と言葉にしただけで、もう花の形も花びらの色も見るのをやめてしまう。大切なのは、言葉にならないものを感ずることなのですけれどもね」
「ものを部分に分けて、要素に分けていくやり方は、ものの性質を知ろうとする知識や学問の道に通じますが、感ずるということを否定するつもりはありませんが……」
「この感ずるというのは、分析したものの姿を壊す方向とまったく別で、養い育てなければ衰弱して了うもので、分解して理解するのではなく、全体をひと目で感ずるものなのです」

 さて、「本則」には、

 殊云く凡聖同居(ぼんしょうどうご)、龍蛇混雑。

 文殊菩薩がいいました。凡夫も聖人も一緒に住んでいる。誰も押しのけ、退けることなく、龍も蛇も混ぜこちゃで何がほんもので何がにせものか、それを見分ける肉眼を越えたひとつの隻眼(せきがん・ものを見抜く眼識。すぐれた識見。また、独自の見識。)が大切なのです。と。

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本日オフィシャルブログでは、悦月さんの

価値観の違い

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(2)

2013-05-04 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

本日は2012年2月3日のブログから抜粋させていただきます。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(2)


 さて、『碧巌録』の「第一則 聖諦(しょうたい)第一義」の「本則」ですが、『本則』というのは禅の公案(こうあん)といわれるものです。優れた禅者の言行を記して参禅学道の課題としたものを公案といいます。
『碧巌録』には百則の公案を書き抜いて編纂されています。その第一則は、梁(りょう)の武帝(ぶてい)が達磨(だるま)大師に問う物語なのです。
 天竺(インド)から支那(中国)に達磨大師がはるばるやってきた。仏教に熱心な武帝は、鄭重(ていちょう)に達磨を招き入れました。
「私は即位以来三年、今日まで多くの寺院を造り、写経をし、僧侶たちを篤くもてなしてきましたが、これらの行いにいかなる功徳があるでしょうか?」
 と武帝が問うと、
「みな功徳無し」
 と達磨は応えます。武帝は、
「何が根拠で功徳が無いといえるのですか?」
「人間も天人も煩悩(ぼんのう)のあるものである。功徳が欲しいと寺を造ったりしてみても、その心の中は、見苦しい。功徳が欲しい、ご利益が欲しい、名誉が欲しい、お金が欲しい、というのであれば、欲しいという執着と煩悩以外のなにものでもない」
 執着と煩悩のもとを積み重ねているのだから、善い行いの姿をしていながら、その影のようなものであって、そんなものは有って無きが如し、と達磨は言ったのです。
 すると武帝は、やはりまだ功徳が欲しいのか、聞きました。
「ほんとうの功徳とはどんなものですか?」
「上智(じょうち)圓明(えんめい)にして體(たい)自(おのずか)ら空寂(くうじゃく)、是の如きの功徳は世を以て求むべからず」
 達磨は、私の知恵はからいではない澄み切った神智で、執着や煩悩の波のない湖面にまんまるくて明るい透きとおった満月が映るように、そのままのはからいのない神智が映るのです。この世の功徳を願っているようなことでは、求めることのできないものだと言うのです。
 達磨は、「體自ら空寂」というわけですが、肉体が象徴するこの世、また欲しいや功徳の象徴する心の世界がなくなる、というのです。小林秀雄は、無私とは私をなくすことではなく、無私という自在にはたらく心を得ることと「無私の精神」でいっていますが、功徳のないのがまさに功徳ということでしょうか。
 達磨は、上智という言葉を使っているのですが、神智ということです。仏教に神の智慧が出てくるのがおもしろいと思いました。
「如何なるか是れ聖諦第一義」
 と武帝は聞きます。では、みずみずしいまっさらさらな濁りのない悟りとは何であるのか? 教えて下さい。といったのです。達磨は、
「廓然無聖(かくねんむしょう)」
 という。晴れ渡った青空のように一点の雲もないように聖なるものも、悟りもない。聖だ、悟りだ、功徳だ、とひっかかってはならない。
 すると武帝は、聖なるものも悟りもない、にひっかかってしまいます。
「何もないというがここに悟った聖者のあなたがいるではないか?」
「識らず」
 と達磨は答えます。武帝は達磨の境地にまで行けなかったのです。問答にならない。問いと答えがちぐはぐなのです。境地が違うのです。問答無用と達磨は揚子江を渡って魏(ぎ)の国に行きました。
 武帝は達磨という高徳の僧をこの国からさらせるのではなかった、と使者を遣わしたのですが、達磨は帰って来ませんでした。
 執着や煩悩や悟りや功徳など、何もつかむものがなければ、そこにからりと晴れた青空に清風が吹き、実に爽やかに自由自在の境地があらわれる。そこにはそのままで、すでにその聖諦(しょうたい)があるではないか、というのです。日常生活の中に聖諦(さとり)がある、というのです。

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本日オフィシャルブログでは、廣さんの

悦月さんの「清い水」

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(1)

2013-05-03 | 
おはようございます。

みずみずしくきよめられたまっさらさらの朝が訪れました。新しい朝です。希望の朝です。

本日は2012年2月2日のブログから抜粋させていただきます。

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碧巌録 ~辰年に龍を考える~(1)

 スピリチュアルなカウンセラー・VENTOさんから、今年は辰年ですが、『碧巖録(へきがんろく)』の「第三十五則 文殊前三三(もんじゅぜんさんさん)」に龍が出てくるのを知っていますか? とのメールが届きました。

『碧巌録』は、中国の仏教書です。どのような本かといえば、中国に雲門禅師(雲門文偃・うんもんぶんえん)というお坊さんがいましたが、「日々是好日」という有名な言葉を残した人ですね。その雲門禅師の再来といわれた雪竇禅師(雪竇重顕・せっちょうじゅうけん・雪竇山の重顕禅師・980―1054)が、禅を学びたい多くの人々の参考書として、公案(禅宗で優れた禅者の言行を記して参禅学道の課題としたもの。修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと)を百則を集めて頌(じゅ・批評の註釈の意味を含む詩の一種)を付した『雪竇頌古(じゅこ)』に、もっと時代がすすんで圜悟禅師(圜悟克勤・えんごこくごん・1063―1135)が自在に評釈を加えた書が『碧巌録』で、別名『佛果圜悟禅師碧巌録(ぶっかえんごぜんじへきがんろく)』とも『碧巌集』とも呼ばれるものです。特に臨済宗において尊重される代表的な公案集で全10巻あります。雪竇禅師が亡くなり、その後に圜悟禅師が生まれていますので、時空を超えた共著といえます。

『碧巌録』となぜ名づけたのか。編纂所であったお寺(霊泉院)の前に岩があり、それが青(碧)い岩(巌)で碧巌だったという説もありますが、そのお寺に掲げてあった扁額に「碧巌」の二文字が書かれていたので、『碧巌録』というのだそうです。

 禅の書籍の中で『碧巌録』と『無門関』は、よく知られていますが、『碧巌録』は難解で『無門関』より難しいといわれています。私にはどちらも難解なのですが。

 VENTOさんのいう『碧巌録』「三十五則 文殊前三三」の前に、「第一則 聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)」を見てみました。
 圜悟禅師が書き加えられた「垂示」に、「本則」は雪竇禅師が選び、それに「頌」をつけたものです。「本則」と「頌」には「著語(ちゃくご)」という短評が圜悟禅師によりつけられています。
「垂示」というのは、問題を出すにあたり、あらかじめ問題の要点とか着眼点を示すものです。
 本題に入る前に、圜悟禅師が学ぼうとする人たちに垂示していわれるのは、

「山を隔てて煙を見て、早く是れ火なることを知り、牆(かき)を隔てて角を見て、便(すなわ)ち是れ牛なることを知る。」

 すなわち、それくらいすばやく本質をさとる心をもっていなければならない、というのです。煙を見て煙りだ、角をみて角だ、とわかるくらいでは、ほんものをみたということにはならない。煙は煙草なのか、落ち葉を焚く煙なのか、食事をつくる煙なのか、火事の煙なのか、見極める力がなくてはならない、というわけです。そこに火があり、その煙りの元の火は何かまで、擧(こ)一明(みょう)三、一を擧(あ)げて三を明(さと)るほどの明敏さがなければならない、というのです。
 角は、牛の角なのか、鹿の角なのか、山羊の角なのか。それも、牆がなければ道を往来するいきいきとしたすべての姿が見えるはずです。牆のためにすべての姿が見えず、断片的にみえるその認識では駄目だというものです。
「山を隔て」と「牆を隔て」の山と牆は、感覚の牆壁(しょうへき)ということになります。外界からの光・音・におい・味・寒温・触などの刺激を感じる働きと、それによって起こる意識です。視覚・聴覚・嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚や、温覚・冷覚・痛覚などがそのままほんものをみる牆壁になっているというわけです。

 それを取り除いてみえる世界とはどんな世界なのか?

「月の性、本来沒性(もつしょう)無し、唯須彌山(しゅみせん)に障(ささ)へられて出沒(しゅつもつ)するが如く見ゆ」

 と『涅槃経(ねはんぎょう)』にあります。

 月には本来、沈み込む性格などありはしない。須彌山という山があるがために、出沒するように見えるだけである。本来のほんものがみえなくて、不確かな感覚にささえられている、というのです。

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仏向上とねじり花♪

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