一年下の弟の大学受験が終わった。
うまくいけばけんちゃんと同じ道を進むことになる、はず。
今まで応援してくださった皆さんありがとうございました。特にけんちゃんね。
受験生の面倒を見ていて時々感じるのは、自分とは何と受験勉強に向いてない人間なのだろうということ。
自分の模試の成績は大体においてよかったけれど、受験に対する体系的な勉強方法というものが全く身についてない(つまり必要ないのではないかと思う)し、弟が何の問題集をどんなペースでやっているかというような勉強方法にすら興味が出なかった。
受験を終えてすぐの僕が教えるのは至極妥当に思えるし、僕らの受験には家の負担がかかっているのに申し訳ないなぁと後ろめたく感じつつも、自力で勉強して順調に自力で成績を上げてくれることを期待してしまっていた。
多分僕にはどうしようもないから。
何大学の数学や英語や物理や化学がどういう傾向でどういう問題が出て出なくて最近は難化だの易化だのいう話をされると、適当に相槌を打ちながら内心あ゛ーーもーそんなのどーでもいいよーーとか思っている自分に気付いてしまう。
受験勉強なんて虚学以外の何モノでもない、各人の好き勝手な方法で勉強できれば本当は一番いいと昔から思いこんでいる。
僕の場合なら、センターレベルの世界史は大好きだったので朝から晩まで机にしがみついて年表を作って、それでも自分の体系化の至らなさにやきもきしたりして、次の日は分厚い化学辞典を開けてまた朝から晩まで化合物を集めて分類しまくる。
世の中にはこんなにたくさんの物質があって、しかもそれぞれの研究がなされているんだなーと改めて実感する。
物理と数学は自分で状況を設定して問題を解く。それで充分。
毎度毎度同じような調子の文章を読むだけの入試英語にもそろそろ飽きてきたので諸印欧語に手を出してみて、類似と差異のありように驚く。
やがて比較言語学とか文献学とか日本語学に関心が至る。
英語は英語で語彙をキープしておきたいので、思い切って語根単位で自分だけのシソーラスを作ってみる。
そこには他外国語の相当語句も書き込んであるのがベストだが、そこまでの余裕はさすがになかった。
くだらない語呂合わせよりは間違いなく楽しいのだが、果たしてどれだけの人がわかってくれるというのだろう。
絶対出ないのに。出るわけないのに。
だが受験に出るか出ないかなんてどうでもよかった。
全ての知識は何らかの形でつながっていて、そして無駄にならない知識など世の中にない。
それが学びの本質であり、何でもかんでも無駄だ、無関係だと切り捨てるのは子供のやることだ(優先順序をつけるという行為は重要だけど)。
それが信念だった。
ただあまりに無計画なのでこんな人間が医学を志さなくて本当によかったと思うが、遊びながら面白いなと思うことだけを吸収していつの間にか受かってしまったし、この方法(というか態度)が自分には一番しっくりきた。
自分の勉強は是非とも受験生に薦めたいし、こんな勉強が好きな人がいたら喜んでアドバイスするんだけどそうそう甘くもないらしく、時間に追われている当人たちにとって本当に効果があるのかといわれると正直引っ込むしかない。
そもそも受験勉強なんて2年や3年もかけるものではないのだから。
その数倍の時間をかけ、中1から塾に行くなんてなどと笑われても黙ってマイペースでやってきた自分にとっては悲しいかな、世間の要求する効率などは本来縁遠い世界に思える。
大学に入ってバイトを考え出したとき、歪な傾向対策と極度のパターン化に占有されたせちがらい受験産業にいつまでも関わりたくなかったのだが、本音としてこの社会で生きるためにお金は喉から手が出るほど欲しいし、教える経験とよくいう説得にも二理三理あるので、どこかの個別指導にいってみるという選択肢はとうとう最後まで消去できなかった。
S台なんて給料はいいらしいし一番手頃だ(受験時代も優遇されてたし)。
いつでもチャンスはあったのに、彼らの思考体系があまりに把握できない自分はちゃんと続けていけるのかと恐くて踏み切れず(金をもらって教えるというプレッシャーにも耐えられると思わなかった)、それなりに楽な仕事ができるだけのステータスを全く生かさずに結局一年ぼーっと暮らしてしまった。
学生なのに働いていない馬鹿らしさ、学生が働かなければいけない馬鹿らしさに苦悩し、未だ逃げ続けている。
でも幸い一番やりたかった類の仕事が見つかりそうで、この状況にも終止符を打てるかもしれない。やっと割り切れる。
結局自分の馬鹿話になってしまったが、まだ終わっていない友人もいるし、とにかく朗報を待ち続けよう。
今日受験の終わった皆さん、ほんとにお疲れ様でした。そしておめでとう。
しようと思ってできることではないし、することではないよね。