今日は「劇団どくんご」( http://www.dokungo.com/ )の東京公演を、小金井公園のいこいの広場に設営された特設テント劇場で観てきた。この劇団の存在はネットで見ていて、友人からも聞いていたが、僕自身演劇を見るということがほとんどなく、恥ずかしながら今まで「劇団どくんご」の芝居を観たことはなかった。ただ、友人から今年は全国ツアーをする予定があるというのを聴き、早速東京公演の予約をしたら運よく席が取れ、今日の観覧の運びとなった。小金井という場所には東京に住むようになって、実は初めて行った。田舎から東京に出てきて住んだところは、これまでほぼ山手線の内側だったので、東京は都市部の雰囲気しか知らない。自然が多く独特の区画で住宅地が並ぶ中を歩くと、何か都市部の秩序とは違った意味での「混沌」があるようで、少し不気味な雰囲気を感じなくもなかった。小金井公園に歩いていくと森がありそこを抜けると、いこいの広場に設営されたテントが見えた。
いこいの広場に行くと既に列ができており、20分ほど待っていると開場となって、テント内の席に進んだ。観客はどんどん増えていき、最終的には客席(ベンチ)に座れる人数なのでもちろん限界はあるが、すし詰めに近い状態まで人が増えた。熱気がすごく、人と人とが触れ合う中での観劇は、自らの身体性を意識せねばならず、それはそれで劇空間とはそういうものだろうと思わされた。芝居は、そのような熱気と人々が触れ合う距離感の中、僕自身は体が大きい方なので少し縮こまってはいたが、あっという間の二時間であった。先ほども言ったように僕は観劇をほとんどせず、芝居などもほとんど見ないため、演劇についてきちんとしたことは言えないのであるが、「劇団どくんご」の芝居は、構成がすごくしっかりしており、様々なシチュエーションがアドリブを含んで輾転と変わるのだが、それをじっくりと考えたり笑ったりしながら見られる作りになっているのである。
劇が始まる前に、俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言い、それは「意味」に収束されない身体性や、ナンセンスなシチュエーションが上演されるということなのだが、しかし、「差異と反復」というべき演劇上の構成は確かにきちんと存在していた。僕の見た所、演劇は「記憶」における「身体」や「場所」の「差異と反復」がとにかく即興的に上演されているように見えた。そこでは「記憶」が常に「欠落」として現れ、俳優たちはその〈記憶=欠落〉の周りで体を反復して動かしたり、また言葉を反復させて、そこに差異を生じさせようとする。〈記憶=欠落〉こそが、身体や言葉の「差異と反復」を生み出し、そこに即興的であり無秩序でありながらも、しっかりとした身体と言葉の構成が創造される。そのような俳優たちの「差異と反復」がテント内で「波」のように押し寄せたり引いたりするところは爽快だった。そして、そのような寄せては引くような「波」の「差異と反復」は、今回の芝居にも登場しており、一つのテーマであったといえると思う。
芝居の後半で、劇中に「物語の洪水」という比喩で、「物語」が流れていくシチュエーションが登場する。上にも書いたように、劇の最初に俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言ったわけで、「物語」というのはその「意味」そのものではないかと言いたくなるのだが、しかし、ここでの「物語」というのは、〈記憶=欠落〉と同じで、「物語」自体の欠落、即ち〈物語=欠落〉の流れなのだ。「物語という欠落」の流れに身を投じた俳優たちは、入れ代わり立ち代わり、その〈記憶=欠落〉の中で新たな記憶と言葉と身体性を発明しようと、アドリブで言葉を繋いで反復させていく。そのような「物語という欠落」の流れをテント内に作り、それを奔流させようという試みは、やはりきちんとした劇の〈構成〉がなければできないものだな、と思いながら見ていた。また、その俳優の「差異と反復」の芝居は、入れ代わり立ち代わり舞台に登場するので、演技が終わった俳優は舞台袖で待機しており、その待機している俳優が、今舞台上で演じている俳優をどういう目で見ているのだろうと思いながら見てみると、これもまた大変色々な想像ができる。待機している俳優が、舞台上の俳優及びそのシチュエーションのパレルゴン(額縁)になっており、その絵画的というか映画的というか、そういう芝居の構造も興味深かった。と、ここで気づいたが、今回の劇の一番最初に俳優が演じた芝居のシチュエーションは、まさしく絵画についての芝居であり、絵画が〈記憶=欠落〉を表現して、それが記憶の混濁と無秩序と重なり合いながら、俳優も狂っていくように見えるものであった。やはり劇の構成は一貫性があり、しっかりしたものだと思わされる。
友人に教えてもらい、「劇団どくんご」を見に行くことができてよかった。テントの中から出て、少し汗ばんだ体で小金井公園の真っ暗な森を抜けて帰るのは気持ちが良かった。
いこいの広場に行くと既に列ができており、20分ほど待っていると開場となって、テント内の席に進んだ。観客はどんどん増えていき、最終的には客席(ベンチ)に座れる人数なのでもちろん限界はあるが、すし詰めに近い状態まで人が増えた。熱気がすごく、人と人とが触れ合う中での観劇は、自らの身体性を意識せねばならず、それはそれで劇空間とはそういうものだろうと思わされた。芝居は、そのような熱気と人々が触れ合う距離感の中、僕自身は体が大きい方なので少し縮こまってはいたが、あっという間の二時間であった。先ほども言ったように僕は観劇をほとんどせず、芝居などもほとんど見ないため、演劇についてきちんとしたことは言えないのであるが、「劇団どくんご」の芝居は、構成がすごくしっかりしており、様々なシチュエーションがアドリブを含んで輾転と変わるのだが、それをじっくりと考えたり笑ったりしながら見られる作りになっているのである。
劇が始まる前に、俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言い、それは「意味」に収束されない身体性や、ナンセンスなシチュエーションが上演されるということなのだが、しかし、「差異と反復」というべき演劇上の構成は確かにきちんと存在していた。僕の見た所、演劇は「記憶」における「身体」や「場所」の「差異と反復」がとにかく即興的に上演されているように見えた。そこでは「記憶」が常に「欠落」として現れ、俳優たちはその〈記憶=欠落〉の周りで体を反復して動かしたり、また言葉を反復させて、そこに差異を生じさせようとする。〈記憶=欠落〉こそが、身体や言葉の「差異と反復」を生み出し、そこに即興的であり無秩序でありながらも、しっかりとした身体と言葉の構成が創造される。そのような俳優たちの「差異と反復」がテント内で「波」のように押し寄せたり引いたりするところは爽快だった。そして、そのような寄せては引くような「波」の「差異と反復」は、今回の芝居にも登場しており、一つのテーマであったといえると思う。
芝居の後半で、劇中に「物語の洪水」という比喩で、「物語」が流れていくシチュエーションが登場する。上にも書いたように、劇の最初に俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言ったわけで、「物語」というのはその「意味」そのものではないかと言いたくなるのだが、しかし、ここでの「物語」というのは、〈記憶=欠落〉と同じで、「物語」自体の欠落、即ち〈物語=欠落〉の流れなのだ。「物語という欠落」の流れに身を投じた俳優たちは、入れ代わり立ち代わり、その〈記憶=欠落〉の中で新たな記憶と言葉と身体性を発明しようと、アドリブで言葉を繋いで反復させていく。そのような「物語という欠落」の流れをテント内に作り、それを奔流させようという試みは、やはりきちんとした劇の〈構成〉がなければできないものだな、と思いながら見ていた。また、その俳優の「差異と反復」の芝居は、入れ代わり立ち代わり舞台に登場するので、演技が終わった俳優は舞台袖で待機しており、その待機している俳優が、今舞台上で演じている俳優をどういう目で見ているのだろうと思いながら見てみると、これもまた大変色々な想像ができる。待機している俳優が、舞台上の俳優及びそのシチュエーションのパレルゴン(額縁)になっており、その絵画的というか映画的というか、そういう芝居の構造も興味深かった。と、ここで気づいたが、今回の劇の一番最初に俳優が演じた芝居のシチュエーションは、まさしく絵画についての芝居であり、絵画が〈記憶=欠落〉を表現して、それが記憶の混濁と無秩序と重なり合いながら、俳優も狂っていくように見えるものであった。やはり劇の構成は一貫性があり、しっかりしたものだと思わされる。
友人に教えてもらい、「劇団どくんご」を見に行くことができてよかった。テントの中から出て、少し汗ばんだ体で小金井公園の真っ暗な森を抜けて帰るのは気持ちが良かった。