市川房江さんについての「まとめ」が簡潔なので、
ご紹介いたします。
そして、渋谷区民でした。
http://www.eonet.ne.jp/~m-hirose/ijinden/5gatu/0515.htm
市川房枝(1893~1981)婦人運動家 政治家
愛知県中島郡明地村、現在の尾西市に農業と養蚕業を営む両親のもとで3男4女の3女として生まれます。
父親は、酒もタバコも飲まず、女遊びもしない真面目な人でしたが、気が短くかんしゃく持ちで、握り拳や薪の棒でたびたび母親をなぐりつけたそうです。泣きながら母親をかばう幼い彼女に、母親は、「今までに何度里へ帰ろうと思ったか知れないが、おまえたち子供がかわいいから耐えているのだ。女に生まれたのが因果だから。」といっていたそうです。
「母の女の悲しみが、私の小さな体にしみついた。私の長い人生は母の嘆きを出発点に選んでしまったようである。」と晩年自伝の冒頭で語っているように、「何故女に生まれたのが因果なのか、何故女は我慢しなければならないのか」という疑問が、彼女の生涯を決定づけました。
このように、母には暴君でしたが、子供たちには、良い父親でした。自分の今の境遇が自分の無学のためだと嘆き「お前達は、みんな勉強をせよ、自分が一生懸命に働いて行きたい学校に行かせてやる」といつも言い聞かせていたそうです。その言葉どおり、彼女の兄弟姉妹は、病弱だった長女と早逝した次男を除いて全員が、この当時農業を営むものとしては分不相応ともいえる教育を受けることができました。
その後、師範学校を卒業し、高等小学校の教員を経て、現在の中日新聞の前身である名古屋新聞に勤務。その女性記者第一号となり活躍しましたが、上京を望み、わずか一年で退職しました。上京後、英語塾を主宰していた山田嘉吉・わか夫人のもとで英語を習いながら原稿書きを手伝っているうちに、「青鞜」の新しい女性たちと知りあいます。
1920年3月28日上野精養軒で「新婦人協会」を平塚雷鳥らと発会させ、以来女権拡張のために活躍しました。1924年久布白落実らとともに東京婦人会を中心に婦人参政権獲得同盟と改称しました。戦後いちはやく1945年11月に新日本婦人同盟を結成し会長となり、婦人参政権を得るや、日本婦人有権者同盟の会長に就任、参議院議員となり、売春防止法などの成立のために活躍しました。
選挙では常に法定費用をはるかに下回る費用で当選を重ね、清潔な選挙の代名詞となっています。1971年の選挙では落選してしまいましたが、1974年には全国区で193万票を得て復活しました。
晩年は、「平和なくして平等なく、平等なくして平和はない」というのが口癖だったといわれています。昭和56年2月11日。心筋梗塞で倒れるまで現役政治家として走り続けた彼女は、87才の生涯を終えました。その棺の中には、愛用の眼鏡、筆記用具とともに、「女子差別撤廃条約」のコピーが納められていたということです。
市川房枝は「新婦人協会」を平塚雷鳥らと発会させ、以来女権拡張のために活躍しましたが。論先行主義の平塚雷鳥に対して、市川は実践主義。理論や意識が先立ち、なかなか現実に結びつかなかった当時の婦人団体の中にあって、市川の運動家としての実行能力は重要な鍵でしたが、平塚は次第に批判的な態度をあらわにします。二人は決裂、市川は民主主義の本場でノウハウを学ぶために、当時婦人参政権が確立したばかりのアメリカへ単身渡ります。
平塚雷鳥は「婦人公論」に「新婦人教会の回顧」と題して、市川房枝に対して悪口雑言の限りを尽くし、分裂の原因を市川房江に押し付けています。
その婦選運動時代、「だいこんの花」「野中の一本杉」「もみくちゃの十円札」など様々なニックネームで呼ばれた市川房枝。飾らない素朴さ、口に出したことは必ず実行する、できなかったら責任をとる、という生来の人柄は、多くの女性たちの信頼を集めました。
昭和28年に行われた第三回参議院通常選挙。この選挙に於いて、市川房枝は、理想選挙を実践し、見事東京地方区第二位当選という快挙を成し遂げます。その理想選挙とは、「トラックもマイクも使わず、個人演説会も推薦人が立ち、運動の主力を法定のハガキとポスターに置き、候補者はラジオの政見放送と選挙公報に立候補受諾のことばを掲載する。」といったものでした。
最初は理想選挙の意味すら理解されませんでしたが、終盤この型破りの選挙を応援する有権者が増え、得票数19万1539票で二位当選。
この時の選挙費用なんと総計26万1038円。法定選挙費用155万9600円の約16パーセントでした。
悲願の参政権獲得。そして、周囲から参議院議員立候補をすすめられていた1947年、突然公職追放の通告を受けています。この事件では、占領軍に対して市川を中傷した者の存在が取りざたされましたが、市川は、生涯を通じて、「確証がないものは信じない」とひたすら耐えました。市川房枝という人は、世間の風評や中傷に対して、常にそんな潔さを持っていました。
しかし、一切の社会活動からしめだされる公職追放は、格子なき牢獄同然でした。講演や執筆を禁じられ、それで得ていたわずかな収入も絶たれます。家のまわりを耕して野菜をつくり、自給自足の生活。下駄に鼻緒をすげて内職し、豆炭やあめを売ったり、台所のゴミだけで飼えるからと、アヒルも飼ってみたり。もともと質素な生活だったのが、極貧に近い生活にまで落ち込みます。
住み込みで事務の手伝いをしていたミサオさんは、後に養女となるほど可愛がられていましたが、追放当時の市川を手記で振り返っています。
「政治に関係ない講演ならかまわないとのことでしたが、私に恋愛の話しを頼むわけにもいかんから、誰も頼んでこないよ、と笑っておられました。」
「何しろ万事に質素で、元津田塾大学学長の星野あい先生から教えてもらった、ひとりトランプ占いで夜中まで気晴らしをしていらした。」
「皆が道ばたで追放解除の署名運動をやってくれているらしい。すまないね、ありがたいね、と夕食の時ポツリとおっしゃった」など、ミサオさんにも決して「辛い」とは言わなかった市川ですが、後年、自伝の中で「死さえも考えた」と告白しています。
一方女性たちは、市川の追放決定後、直ちに追放解除の署名運動を繰り広げます。またたくまに17万。中にはアメリカ・カナダの女性指導者たちの名前もありました。それでも追放は3年7ヶ月続きました。
いつ終わるとも知れない追放に、「死さえも考えた」長く辛いトンネル。明かりをくれたのは、共に闘ってきた女性たちの市川へのあつい信頼でした。