さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【「神」は千変万化する】

2020-06-25 10:58:56 | 仏教講座
往生も浄土もいらないなどと、正気の沙汰ではないと思われるかもしれませんが、これ、正気になったから言えるんですね。
セクトの利益に忖度する「教義」というものを全否定して、普通に、極正常な立場から、「教理」を学んでいきたいと思います。


そもそも、仏典というものは、99%の方便(どっちでもいいこと)と1%の真理(大切なこと)で成り立っています。
割合は適当に言ってますけどね。
中には100%方便というものも少なくありません。
方便の山の中から、真理を掘り出すのが、宗教を学ぶということです。
真理が掘り出せたら、後は、自分で方便をくっつけていけばいいわけですよ。
まあ、お坊さんでなければ、方便をくっつける必要はありませんけどね。


この、腐るほどある「方便」というものが、なかなか曲者なのです。
善良な方便と、悪質な方便があると言っても良いでしょう。


善良な方便とは、人を段階的に真理へと導くための手練手管ですね。
手段は問われません。
最終的に「真理」へと導くことができるなら、「騙し」も「脅し」もOKです。
必要悪というやつかもしれません。


一方、悪質な方便とは、「人を真理へと導く」という目的を持たない方便です。
目的は様々です。
セクトに人を集めるためだったり、ライバル(別セクト)を蹴落とすためのネガティブキャンペーンであったり、セクトもしくは個人に富を集めるためであったり、権力への忖度であったりと、およそ仏教にはふさわしくないドロドロしたものが溢れています。


でも、これ、仕方のないことなんですね。
どんな仏典にも、それを作った作者(作グループ)が存在します。
では、なぜ、彼らは、その仏典を作ったのか?
それは、自分(たち)に何らかの利益をもたらす為に、ですね。


これ、簡単な話です。
損するためには作らない。
損得無しで作るのというのも疑わしい。(何かある)
得するから作る。
自然なことですね。


高尚な仏道修行者には私利私欲など無かったんだ、と、お考えの方、それは、仏道修行者が人間ではないと言っているのと同じですよ。
差別発言です。
仏道修行者も人間です。


特に、仏教のようにセクトが林立してしまうと、そこに当然、競争原理が働きます。
セクト同士の仁義なき戦いが、昔も今も、そこかしこで繰り広げられ続けているわけです。
特定抗争宗教法人とかのカテゴリーを作って、公安警察に監視していただきたいとすら思います。


そういうことですから、悪質な方便は「人を真理へと導く」機能を持たないどころか、時には、人を真理から遠ざけてしまうこともあります。
謂わば、まやかしです。
まやかしで始まり、まやかしで終わるような、セクトによるセクトのための宗教書、たくさんありますよね。


とにもかくにも、仏典を学ぶには、まず、徹底的に方便を見極めることが肝要です。
そして、悪質な方便を切り捨て、善良な方便を辿って行く。
すると、驚くほどシンプルな「真理」と遭遇することができるんですよ。


そんな風にして抽出した「真理」を骨格として並べてみると、
「あれ?????」
と、気が付くことがあるはずです。


気付かなければ、毒されているということなので、毒を抜いて、学び直してください。
私は毒しか吐かないので、あてにされても困りますが、正しく学べば気付きます。
「あれ?一緒じゃね?」
と、いうことに。


何と何が一緒なのかと言えば、もう、おわかりだと思いますが、
「仏教も他宗教も変わらないんじゃね?」
ということですね。
勉強不足なので断言はできませんが、私、これ、浄土真宗と他宗との関係においても、同じことが言えるのではないかと想像しております。
ほんと、想像だよ。


少なくとも、浄土教やキリスト教・イスラム教など、「すべての人類を救うことができる神(仏)」、つまりは「造物主」を信仰対象として設定しているグローバル宗教は、
「つまるところ同じ」
と言っても、過言ではないと思います。
違っているのは「方便」です。
表現方法や受け取る感性の違いですよね。
それでも、圧倒的に方便部分の方が多いので、全く別物であるかのように見えるのです。


阿弥陀さん、というお名前だって方便ですからね。
私たちが「阿弥陀如来」と呼ばせていただいている「何か」を、別の人たちは違う名前で呼んでいるかもしれないし、それでも誰も困らないわけです。
だから、ぜひ、皆さんにも、「一緒なんだからいいじゃん!」というフレキシブルな姿勢で、仏教や他宗教.を学んでいただきたいと思います。
便利ですから。
何が便利かと言うと、「真宗教学」よりも圧倒的に豊かで緻密なキリスト教やイスラム教の「神学」の成果を、方法論も含めて、躊躇なく利用できるようになることです。
たぶん、千年分くらい、向こうの方が進んでますよ。
それに、キリスト教やイスラム教の方便に学ぶ(パクる)ことができるようにもなります。
簡単に整合させられますからね。
内緒話ですけど、「新約聖書」の文章なんて、ほぼそのまま、法話に使えますよ。
私は、使ったことはないけれども。


いずれにせよ、「セクト=利権」ですから、学ぶ時には、そこを離れた自由な精神で学ばなければならないということです。
そうでないと、受け入れるべきことが受け入れられないまま、刷り込みだけ受けて、学べば学ぶほど阿呆になったりもしますからね。
お気を付けください。


念のため申し述べておきますが、「一緒なんだからいいじゃん!」とは言え、私がキリスト教徒になるなんてことは、生涯ありませんからね(たぶん)。

私の信仰の対象(私にとっての造物主)は、あくまでも、生涯唯一仏、阿弥陀さんです(たぶん)。
他の神様、仏様は、一人残らず、敬愛するお友達です。
それは、私が、親鸞聖人を通して阿弥陀さんと出遭い、お釈迦様と出遭い、そこで、阿弥陀如来に生かされて生きる私というものに、気付かせていただけたからです。
だから私は、仏教徒であり、親鸞浄土教徒であり続けたいと思います。
真宗門徒ではありませんよ、門徒はセクトの構成員ですから。
僧侶としてセクトと関わることがあったとしても、セクトにアイデンティファイされることがあったとしても、学者としての私は、ノンセクトを貫こうと思います。
その視点から、学び、考え、物を言おうと思います。


(見真塾サルブツ通信Vol.0020より)


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