さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【生かされて生きることの意味 その2】

2020-06-24 08:16:30 | 仏教講座
今日も生きてますか?


さて、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
まあ、皆さんに限れば大丈夫だと思いますが、これ、
「世界は俺のためにある」感がありますねえ。


「自我」は野放しにされていると肥大し、やがて世界が「自分(のもの)」となる。
と、言われておりますが、宗教(信仰)が、その厄介な「自我」というものを抑制する役割を持っているという見方もあります。
まあ、そうかな、と思います。


そんな宗教の役割とは、真逆とも思える、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
というフレーズですが、これ、自分という視点からであって、「自分以外のもの」という逆の視点に立てば、
「俺たちのおかげで、生きていられるんだからな。」
ということになります。


さらに踏み込めば、
「俺たちはお前の命を支えているが、お前はどうなんだ?」
「お前は、誰かの支えになれているのか?」
という問いが、常に突き付けられているんだと考えてもいいでしょう。


このあたり、常にセットで理解してください。
「世界は俺のためにある」=「俺は世界のためにある」
ですからね。
重すぎて背負えません。


ところで、今、あなたの目の前に、あなたの大嫌いな人がいるとします。
嫌でしょうが、できるだけリアルに想像してください。
って、俺の顔想像してんじゃねえぞ、フナ!!!!!
失礼しました。
思い浮かんでますか?
嫌ですね。
私も嫌です。


しかし!
その「誰か」も、あなたの命を支えてくださっている、阿弥陀さんの構成員なんですよ。
あなたが、生きていられることを喜んでいるのであれば、生きていたいと願っているのであれば、目の前の「誰か」は、憎むべき敵ではなく、感謝すべき恩人です。
「ありがとう」
と、感謝しなければなりません。
それが筋というものです。


私は嫌ですよ。
感謝なんかしませんよ。
私、仏様じゃありませんから。


でもでもでもでも!
ほんの一瞬でも、
「憎むべき敵ではなく、感謝すべき恩人」
という正論が挟まると、「憎い」「嫌い」という「負の感情」が揺らぎませんか?
マイナススパイラルにブレーキが掛かりませんか?
私はそこで、力任せにアクセルを踏み込む方ですが、止まれる方は止まってください。
その方が、確実にお得ですから。


「負の感情」は、絶対に人を幸福にはしてくれません。
当たり前のこと言ってますね、私。
「負の感情」が、少なければ少ないほど、人生の幸福度は上がります。
しかし、「負の感情」は無くなりません。
人間ですから。
で、
「無くならないなら、減らせばいいじゃん。」
と、いうのが、浄土教の立ち位置ですね。


「マイナスを減らし、プラスを増やし、差し引きプラスを目指そう!」
これが、仏教用語で言う、「抜苦与楽(ばっくよらく)」ということです。
そのための具体的方法論として、私たちに提示されているのが、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
つまり、「一人のため」という自覚を持つということ。
「生かされて生きる身」であると自覚して生きること、と、考えてもいいかもしれません。
阿弥陀さんの御利益ですね。
阿弥陀様と出会えばもれなくいただける、でも、出会えないといただけません。


出会うまでがたいへんなんですよ、もう、本当に。
これ、前にも書きましたね。


ややこしくなるので、今回はたとえ話をあまりしませんでしたが、それぞれ、いろんなシチュエーションで考えてみてくださいね。


「阿弥陀さんの構成員」なんてことを呟いてしまいましたので、次回は「有限(主として人間)」と「無限(阿弥陀如来)」との関係性などについて考えてみることにいたしましょう。

(見真塾サルブツ通信Vol.0018より)


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