さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【六道なんだもの】

2020-06-28 21:54:44 | 仏教講座
人生は苦しい。
苦しくないなんてまやかしなんだ。
それを、きちんと自覚したところからはじめましょう。
そこに立てるのが仏教の強さです。


ということで、本題に入ります。
私、「輪廻はしない」って言いましたよね?
実は、してるんですよ。


「死んで生まれ変わる」と言う「輪廻」はありません。
でも、「六道(天・人・阿修羅・餓鬼・畜生・地獄)」を回ることを「輪廻」と言うのであれば、それはあります。
私たち、クルックルックルックルと、回りまくっています。
いつ?どこで?
今、ここで。


死んだ後に生まれ変わるところが「六道」だという理解が多いようですが、「六道」は空想の産物ではありません。
というか、実のところ、「輪廻思想」と「六道思想」は、辻褄が合っていないと思うんですよ。
これ、細かくは触れません。
とにかく、死後の世界を想像して作られた、おとぎ話ですよ。
死ぬと「六道」のどこかに生まれ変わると言うのはね。


「六道」は、空想の産物ではなく、人間を観察し、分析した結果です。
生きている人間の在り様を、それぞれの世界で譬えたものが「六道」です。
だから、当てはまる世界が考えられるなら、別に、「六道」でなくても、十道でも二百五道でもかまいません。
実際、仏典の中では、五道説と六道説が混在してますしね。


それでは、説明させていただきます。
私の話をけっこう聞いてる方は耳にタコかもしれませんが、整理しておきましょう。


まず、「六道」を二つのグループに分けます。
1 煩悩に冒されていない状態「人」
2 煩悩に冒されている状態「天、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」


1は、人間のあるべき姿であるということができます。
「本来の私」であるとも言えますが、煩悩に冒されていないということからすると、「仏」に近い領域であると言えるかもしれませんね。
この辺りの解釈の仕方によっては、「人間は本来は仏である」というような、「仏性論(人間の中には成仏する種が内在しているという考え)」も出てくる余地がありますね。
とは言うものの、私たちに「煩悩に冒されていない」時が、それ程あるとも思えませんが。


2は、煩悩に狂い、「我を忘れている」だとか「自分を見失っている」状態だと考えていいと思います。
このグループ2を、さらに二つに分けます。
3「天」
4「阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」


3の「天」というのは、プラス方向に自分を失っている状態ですね。
「有頂天」という言葉が当てはまると思います。
天狗になったり、嬉しくて舞い上がったり、
「調子に乗るんじゃねえ!」
と、後でボカンとやられるパターンですよ。
幸せに酔っている、とも言えますね。
「こんなはずじゃなかった・・・・」
と、いうこと、よくありますね。


そもそも、人間が幸福感を覚えるのは、ほとんどの場合、「欲」が満たされた時ですね。
満たされて終わり、なら、それでいいのです。
「知足満足(足るを知り、そこに満足せよ)」
という言葉、見たことありますよね?
仏教ではよく使われている言葉です。
親鸞聖人ワールドでは、あまり使いませんけどね。


足りてますか?
足りてませんよね?
何が足りないのかと聞かれても困りますが、足りていません。


満足してますか?
満タンというのは、もう、それ以上入らないということですよね?
入れようとしてますよね?
まず、間違いなく、何か入れようとしてますよね?


それで良いのです。
人間ですから。


人間の「欲」は尽きることがありません。
ひとつ満たされた(錯覚ですよ)ところで、その欲がさらに大きくなったり、違う欲が、次から次へと湧いてきたりするだけです。
だから、「天」には長く留まれません。
有頂天になって舞い上がっても、すぐに墜落してしまいます。


「欲」であるとか、「願望」であるとか、まあ、色々な言い方はあると思いますが、「煩悩」が満たされることによる喜びは、長く続くことは無いということです。
一過性の幸福。
幻の幸福。
バブルな幸福。
そんな幸福が、永遠に続くかの如く錯覚し舞い上がる。
それが「天」という世界です。


浄土真宗では、よく、
「現世利益(神仏に御利益を願うこと)はダメだ!」
と、いう人がいるのですが、まあ、
「神仏にお願い事をしてはいけない」
ということですけれど。
本当に、よくおられます。
そう思い込んでおられる方々。
「先生、真宗は現世利益否定なんじゃないですか!」
と、門徒のおばちゃんに、詰め寄られたりしたこともあります。


家内安全だとか、縁結びだとか、病気平癒だとか、商売繁盛だとか、神仏にお願いしますよね?
「御利益信仰」だとか、言われたりもします。
それが駄目だとおっしゃるんです。


特に、浄土真宗のお坊さんに多いのが、「御利益信仰」を見下して、神社にお参りしている人なんかを、ナンセンスな馬鹿呼ばわりしている人ですね。
「御先祖供養」や「加持祈祷(厄払いとか)」をしている人のことも、迷信を信じる低俗な人々だと蔑んでいるようです。
何が原因なのかはわかりませんが、こういう坊主を作り出してしまったことを、反省し、拡大再生産しないことを誓う必要があります。


過ちを繰り返さないために、はっきりと言っておきますが、親鸞聖人は、御利益信仰を否定などしてはおられません。
そもそも、御利益もないのに、誰がお参りしますか?祈りますか?
人間のすることですよ?
煩悩に満ち満ちた人間のすることですよ?
「欲」以外に、祈る動機がありますか?


たとえ動機が「欲を満たすため」であったとしても、神仏に向かう、神仏に祈るのは尊いことです。
考えてみてください。
「困った時の神頼みでははいけない」だとか言いますが、本当に困った時に、「神仏」を思い出し、「神仏」にすがろうとする人間と、そんな時に「神仏」すら脳裏に浮かばない人間と、どちらが阿弥陀さんに近しいところにいると思いますか?
どちらに信仰心がありますか?


言わずもがな、ですね?
人では無理だと思えば、神様、仏様に頼むしかないでしょ?
最後には、そこへ行くでしょ?
まあ、最後でなくても行きますが、それでいいんです。
「神仏」にお願いしたくなったら、すればいいのです。
それで、願い事が叶えば、もっと信心深くなるかもしれません。


だ、けれども、と、話は突然「天」に戻ります。


願いが叶い、一時の幸福感が味わえたとして、それが永遠に続きますか?
それが、本当の幸せだと思いますか?
人間の欲望は尽きることがありません、願い事は次から次へと湧いてきます。
そんな欲にまかせて、お願い事を続けていくと、最終的には、御利益を求め続ける、御利益依存症になってしまいます。
それでは、却って、「神仏」のために苦しむことになりかねません。
つまり、即物的な御利益を求めても、せいぜい「天」にしか行けないよ、すぐに落っこちるよ、ということです。
だから、そこに留まってはいけないよ、というのが親鸞聖人の御教示されるところなんですね。


神仏を頼るのはかまわない、それが人間だから。
でも、そこに本当の幸せはありません。
頼るためでもいい、お願いするためでもいい、神仏と向き合う中で、本当の幸せに気付きましょう。
成仏(苦が無い)という本当の幸せに向かって、幸せを感じられる体質に、少しずつ変えられていきましょう。
神仏も、本当は、それを望んで、あなたのお願いをお聞きくださっているのです。
それが、阿弥陀様の御利益ですよ。
というのが、親鸞聖人のお考えです。


ちょっと、余計なところへ話が飛んだかもしれませんが、「天」というのが、良い所とは言えないということが、おわかりいただけましたでしょうか?
そもそも、「天」というのは、インド神話の神様たちのことです。
日本神話の神々も「天」だと考えて良いと思います。
読むと思うのですが、インド神話でも、日本神話でも、神様たち、ご苦労なさってますよね。
とても、幸せそうには思えません。
神様たちには「煩悩」があるんだよ。


次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0025より)


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