昔読んだ
三浦綾子さんのエッセイに、
人は、10のうち9いい事があっても、1悪い事があるとそればかりを言う
みたいな事が書いてあったのが、今でも忘れられません。
悪い事は1つしか起きていないのに、
9つはいい事が起きているのにも関わらず、
悪い1つが気になるのですね。
そして、不幸だと思うのです。
10分の9はいいことで満たされているはずなのに。
昔昔、
ただただ、自分の心の隙間を埋めたかった。
人付き合いが苦手で、そしていつも寂しい。
傷つくのが怖かった。
結婚がそれを埋められると思い込んでいました。
私は私がキライだったから、私の代わりに私を好きになってくれそうな人を探しました。
私はブスだからブスな男性を選べばいいと思ってました。
それで釣り合いが取れると思っていました。
浮気されるのだけは絶対嫌だと思っていました。
自分が見捨てられたら、立ち直れないと思っていました。
だから、外見の魅力の少ない男性を探しました。
その方が浮気に走らないと思い込んでいました。
相手の気持ちなんて考えませんでした。
だから、ホントに真剣に恋愛した事ってないかも…。
自分の寂しさを埋めたい
人に嫌われたくない
傷つきたくない
そのために先回りして色々考えておく
準備しておく
警戒しておく
おかげで「今を楽しむ」とか思った事ないと思います。
そして、自分は無価値だと思っていました。
美人でもないし
頭も良くないし
何か際立った特技もないし
人付き合いが苦手だし
こんな私に価値があるわけない、と思ってました。
あの頃、心屋さんの存在給の話を聞いたらきっと「私は0円だな」って思ったと思う。
こんな想いの中で昔は暮らしていましたし、結婚もこれが基準でしたから…
もう、自己責任ですね。
昔、
どうして自分の思い通りにいかないのだろうと悩んだ事がありました。
私の思う通りやっても、望んだ結果が得られない。
私が間違ってるの?
私がダメな子だから?
神様に見捨てられてる子だから?
そう思っていましたが、
なんでもかんでもが思い通りにいかないのが人生としても、それでも、
「自分の前提が間違っていたから」
これが一番大きな原因で、結局、それを知らせるためずっと、「違うよ違うよ」ってサイン出されていたんだと思います。
わかりにくいサインだから!
と腹も立ったけど、自分の凝り固まった心が物を見えなくしていたのだと思う。
子供が不登校になってから、色んな本を読んだり、講演聞いたり、ブログ読んだりして勉強してきて、その時その時の気付きはあったけど、なんていうか、今回はただひたすら、
もう、全部やめたい。
一からやり直したい。
もう、こんなもったいない生き方したくない。
気付くのに40数年かかってしまいました…。
http://s.ameblo.jp/ses-happy/entry-12210566577.html
削除されいています
happy さんのこの記事も好きです。
パチンコやお酒が好きな夫が理解できませんでしたが、そういう事なら、思う存分やればいいじゃんと思えるようになりました。
そしてそれは私も同じで、ちっちゃいちっちゃい事で、人から見たらくだらない事でも自分にとっては楽しい事を、たくさん思う存分楽しんでこの世を去りたい。
ただ楽しんで気持ちよくなって、幸せって思いながら暮らしたい。
とりあえず、自分を見つめる事にしました。
抽象的に言ってるんじゃないですよ。
物理的に見つめます。
とりあえず「手」
朝、お弁当に入れるためにプチトマトを洗う私の手
子供を学校に送るためにクルマのハンドルを握る私の手
ブログを書くために、スマホを触る私の手
なんでしょう
なんかドキドキ
怖いのかなー
嬉しいのかなー
慣れない事してるせいかなー
分かんないけど、
見つめるという行動は、私の考えていた効率的な行動を邪魔するものです。
スピードが落ちて生産性が下がる気がします。
これの次はあれをやって、それから…みたいな段取りが出来なくなるというか、段取りが狂うというか…。
そういった感覚のせいで不安になっているのかもしれません。
が、
いかに人生でどれだけの成果を残すか、何をいくつ成し遂げるかにこだわって生きている自分に行き当たります。
なんていうか、暇な時は何かしなきゃいけないと焦るみたいな…。
焦ってるだけで、特に何も成し遂げてませんけどね(^_^;)
なんかそんな事ブログに書いた気がしますよ、以前。
誰も怒らないんだからもっとのんびりしていてもいいんだ、とその時は思ったけど、
なんか、もう、とにかく自分を見つめて自分に愛情かけて、そこに生産性も合理性も何もなくていい。
そんな暮らし方を目指すのがいいのかなーと思います。