
写真は、別府のパンパンのボス的な存在だったというクレイジー・メリーさん。あまりにも普通の奥さま風なスナップ写真だ。
──クレイジー・メリーの伝説から紹介しよう。父の著『ドキュメント戦後史 別府と占領軍』にはこうある。
クレージーメリーと呼ぶ名物女が居た。クレージーメリーが動くと軍の動向が分る、といわれ、艦隊が入港する前になると、どこからともなくフラリと現れた。駅前で犬とショーをしたり、兵隊にギブミーマネーと手を出してねだったり、気違いか正気か分らぬ不思議な女だった。ポン引やハウス業者などはよく顔を覚えていて人なつこい笑顔で「兄さん」と後拶するところなどは、満更狂っていたとは思えぬ節もあった。彼女は数年間サンフランシスコで米兵と結婚生活を送ったという幸福な時もあったと聞くが、その彼氏が朝鮮で戦死したという報を受けると、ピストルを空に向けてぶっぱなしながら流川通りを歩き、MPと警察に追われて、秋葉神社の床下に二晩隠れていたという逸話をもっている。
──エピソードと写真とのギャップがすごすぎる。でも、きっとそんな時代だったのだ。もう一人のパンパン、ミス・ベップを紹介しよう。
パンパンガールの中には自分でリンタクの自家用車をもったものもあり、通称ミス・ベップと呼ばれた女は、シャネル五番の香水をつけ、香りのいゝ白檀の扇子をそよがせながらリンタクの上から、下士官以上の白人に秋波を送った。浮世小路にあった彼女の部屋はレースのカーテン、豪華なベッド、そして四季の花に飾られていたが、大学生になる一人きりの弟が帰郷(?)したときには、化粧をおとし、日頃の職業を感じさせぬ貞淑(?)な姉に変身した。
──そうなのだ。一言で語れるような人なんていない。人の心には両面性(アンビバレンス)があるように、いやいや、人の存在そのものが多面的なのだ。
僕の父は、パンパンハウスを経営していたことがあった。パンパンとは戦後の占領期、米兵を相手にした街娼である。パンパンハウスとは、米兵相手の置屋のようなものだ。父がパンパンハウスを始めたのは、朝鮮戦争勃発翌年の昭和26年だという。
別府にも昭和二十一年の暮あたりからパンパンハウスが雨後の筍のように出来はじめ、最盛期には市内に百数十軒、パンパンガールは八百人から千人近くもいた。それらのハウスは大抵その店の経営者の名前をつけたものが多く、長田ハウス、井上ハウス、ジョージハウス等々と呼ばれた。
──父のパンパンハウスの名前は何だったのだろう。父は佐賀忠男という。佐賀ハウスじゃどこかの県名だし、忠男ハウスだろうか? いや、なんだか柔らかくないし、外国人には難しいだろう。その時、ふと感じた。「テネシーワルツ」の主人公は恵子と譲二だった。どちらも物語上の名前だけれど、きっとジョージハウスだったのではないだろうか。ヒッチコックが自分の監督作品にこっそり登場するように、父は著作本の中に、実名のヒントをさりげなく、というより見え見えの感もあるが、入れていることが多い。うん。なんだか確信してきた。きっとジョージハウスだ。もし違っていたらごめんなさい。
貸席もそうであったが、黒人兵と白人兵のテリトリーがはっきりとしており、例えば浜脇貸席街が黒人なら、北部貸席街は白人、ハウスも黒人の入るハウスには白人は寄りつかなかった。又兵隊と下士官はそうはっきりした区別はなかったが、将校達はハウスを使わず、もっぱらクラブやキャバレー等でダンサーをパートナーとした。昭和二十四年四月、夜の女の衛生状態が悪いとして、軍政部は米兵を外出禁止とした。二十五年六月、朝鮮戦争が始まると、通称「朝鮮ボケ」といわれる帰休兵が、小倉あたりから流れ込み、ハウスは俄然活況を呈することになる。つまり、日本円の勘定もおぼつかない兵隊を相手に、雲助よろしく身ぐるみ剥ぐリンタク屋、金だけせしめてドロンを決め込むパン助、交通公社のクーポンをもっている兵隊を、ホテルとだましてハウスに連れ込むポン引等がおりトラブルが絶えなかった。
ハウスとリンタク又はポン引きの分け前は折半というのが一番多く、その残りから実際の女の懐に入るのは四分六分か五分五分で、兵隊の支払った金の約四分の一という残酷さであった。
──クレイジー・メリーとミス・ベップの話に戻す。彼女たちのようなスター級のパンパンは、きっとフリーのパンパンガールだったのだろう。二人についての父の記述と今回掲載したクレイジー・メリーの写真を丸ごと引用している本があった。檀原照和『白い孤影 ヨコハマメリー』ちくま文庫、2018だ。ヨコハマメリーとは「はまのメリーさん」とも呼ばれ、横浜の中心街に出没した伝説の娼婦だ。顔は白粉をべたりと塗り、フリルのついたドレスを纏っていたという。
檀原氏は同著で、ミス・ベップについて「まるで「皇后陛下」と呼ばれたメリーさんのようではないか。いや運転手つきの輪タクを持っていたというのだから、メリーさん以上だろう」と書いている。
クレイジー・メリーとミス・ベップが登場する実録小説もある。鬼塚英昭『海の門 別府劇場哀愁篇』成甲書房、2014(最初は2002年に自費出版)だ。鬼塚氏は別府在住の作家で2016年に亡くなられている。同著にはなんと、鬼塚氏が子供のころにミス別府をチラッと見たことがあって「その美貌を今も忘れない」とある。父は鬼塚氏の8学年先輩だから、父はきっとチラッとではなく、二人のパンパンガールをじっくりと目撃したか、実際に会話の一つも交わしたことがあるのかもしれない。なお、鬼塚氏の著作では「クレイジー・マリー」「ミス別府」と表記されている。
さて父は、二人の逸話を紹介した後にこう続ける。
パンパンガールの中にはアル中、ポン中をはじめ、けんか早い女等様々な女が居たが、皆生活力のたくましい気のいい女達であった。
──これが、父がパンパンガールに送った視線だ。その視線は、美輪明宏にも通じるものがあるのではないかと思っている。美輪明宏が1977年7月23日に東京・郵便貯金ホールで行った「銀巴里生活25周年記念リサイタル」は、『老女優は去りゆく─美輪明宏のすべて +2』ソニー・ミュージックダイレクト、2013に収められている。美輪さんは「街の皇太后」を歌った後で言う。
「娼婦たちでも大変心のやさしい人もいます。別に彼女は身分もお金も何にもないけれど、(略)でも、彼女たちは世界中の人を騙して、戦争を起こしたり、人の会社を潰したり、また、いろんなことをやる悪い人たちよりも、よっぽど純粋な、単純だけど、きれいな魂を持ってる場合があります。みんなお人好しが多かったようです。私が立川でポン引きやってる頃だって、そういう人たちが随分いました。私が、ラーメンをご馳走になって、うん、そうかい腹減ってるのかい、食いな、食いな、そういうパン助たちもいました。で、彼女たちの歌をたくさん歌っているのは、そういう愛すべきところがあるからです」
──立川も別府も基地の街だ。父のパンパンハウス話に戻ろう。
ハウスの中には口唇性交だけを看板とする所謂フレンチハウスと呼ばれるハウスが二、三軒あったが、イエロースツールと呼んだ日本の女の性病を心配する兵隊に、このハウスは馬鹿うけにうけた。
アメリカ兵の夫婦がこのフレンチハウスの門をくぐったりしたのを聞いたことがあるが、一体どんな遊びをしたのか?
しかし、これらのハウスも兵隊のカケには泣かされたようで売春防止法で前借金はパーになるし、兵隊の帰国ではカケは倒されるし、泣きっ面い蜂で最後は散々な有様だったようだ。
──他人ごとのように書いているけど、その多くは、父の実体験なのだろうと思う。そういえば、美輪明宏が丸山明宏として世に出るきっかけになった「メケ・メケ」も、金もくれずに逃げる男に捨てられる娼婦の話だ。「船をめざした走る男/叫ぶ女をすてて/メケメケ/バカヤロー情なしのケチンボ/メケメケ/手切れのお金もくれない/あきらめて帰ろ/やがて月も出る海」
以上のようなバタフライと違い、特定のGIと契約を結び、月々何がしかの手当てをもらって部屋借りをしている女をキープといった。山の手の閑静な住宅街に多く、中には結婚してアメリカに渡航した者も居たが、国際結婚の成功例は極めて少なかったようである。
──クレイジー・メリーの伝説から紹介しよう。父の著『ドキュメント戦後史 別府と占領軍』にはこうある。
クレージーメリーと呼ぶ名物女が居た。クレージーメリーが動くと軍の動向が分る、といわれ、艦隊が入港する前になると、どこからともなくフラリと現れた。駅前で犬とショーをしたり、兵隊にギブミーマネーと手を出してねだったり、気違いか正気か分らぬ不思議な女だった。ポン引やハウス業者などはよく顔を覚えていて人なつこい笑顔で「兄さん」と後拶するところなどは、満更狂っていたとは思えぬ節もあった。彼女は数年間サンフランシスコで米兵と結婚生活を送ったという幸福な時もあったと聞くが、その彼氏が朝鮮で戦死したという報を受けると、ピストルを空に向けてぶっぱなしながら流川通りを歩き、MPと警察に追われて、秋葉神社の床下に二晩隠れていたという逸話をもっている。
──エピソードと写真とのギャップがすごすぎる。でも、きっとそんな時代だったのだ。もう一人のパンパン、ミス・ベップを紹介しよう。
パンパンガールの中には自分でリンタクの自家用車をもったものもあり、通称ミス・ベップと呼ばれた女は、シャネル五番の香水をつけ、香りのいゝ白檀の扇子をそよがせながらリンタクの上から、下士官以上の白人に秋波を送った。浮世小路にあった彼女の部屋はレースのカーテン、豪華なベッド、そして四季の花に飾られていたが、大学生になる一人きりの弟が帰郷(?)したときには、化粧をおとし、日頃の職業を感じさせぬ貞淑(?)な姉に変身した。
──そうなのだ。一言で語れるような人なんていない。人の心には両面性(アンビバレンス)があるように、いやいや、人の存在そのものが多面的なのだ。
僕の父は、パンパンハウスを経営していたことがあった。パンパンとは戦後の占領期、米兵を相手にした街娼である。パンパンハウスとは、米兵相手の置屋のようなものだ。父がパンパンハウスを始めたのは、朝鮮戦争勃発翌年の昭和26年だという。
別府にも昭和二十一年の暮あたりからパンパンハウスが雨後の筍のように出来はじめ、最盛期には市内に百数十軒、パンパンガールは八百人から千人近くもいた。それらのハウスは大抵その店の経営者の名前をつけたものが多く、長田ハウス、井上ハウス、ジョージハウス等々と呼ばれた。
──父のパンパンハウスの名前は何だったのだろう。父は佐賀忠男という。佐賀ハウスじゃどこかの県名だし、忠男ハウスだろうか? いや、なんだか柔らかくないし、外国人には難しいだろう。その時、ふと感じた。「テネシーワルツ」の主人公は恵子と譲二だった。どちらも物語上の名前だけれど、きっとジョージハウスだったのではないだろうか。ヒッチコックが自分の監督作品にこっそり登場するように、父は著作本の中に、実名のヒントをさりげなく、というより見え見えの感もあるが、入れていることが多い。うん。なんだか確信してきた。きっとジョージハウスだ。もし違っていたらごめんなさい。
貸席もそうであったが、黒人兵と白人兵のテリトリーがはっきりとしており、例えば浜脇貸席街が黒人なら、北部貸席街は白人、ハウスも黒人の入るハウスには白人は寄りつかなかった。又兵隊と下士官はそうはっきりした区別はなかったが、将校達はハウスを使わず、もっぱらクラブやキャバレー等でダンサーをパートナーとした。昭和二十四年四月、夜の女の衛生状態が悪いとして、軍政部は米兵を外出禁止とした。二十五年六月、朝鮮戦争が始まると、通称「朝鮮ボケ」といわれる帰休兵が、小倉あたりから流れ込み、ハウスは俄然活況を呈することになる。つまり、日本円の勘定もおぼつかない兵隊を相手に、雲助よろしく身ぐるみ剥ぐリンタク屋、金だけせしめてドロンを決め込むパン助、交通公社のクーポンをもっている兵隊を、ホテルとだましてハウスに連れ込むポン引等がおりトラブルが絶えなかった。
ハウスとリンタク又はポン引きの分け前は折半というのが一番多く、その残りから実際の女の懐に入るのは四分六分か五分五分で、兵隊の支払った金の約四分の一という残酷さであった。
──クレイジー・メリーとミス・ベップの話に戻す。彼女たちのようなスター級のパンパンは、きっとフリーのパンパンガールだったのだろう。二人についての父の記述と今回掲載したクレイジー・メリーの写真を丸ごと引用している本があった。檀原照和『白い孤影 ヨコハマメリー』ちくま文庫、2018だ。ヨコハマメリーとは「はまのメリーさん」とも呼ばれ、横浜の中心街に出没した伝説の娼婦だ。顔は白粉をべたりと塗り、フリルのついたドレスを纏っていたという。
檀原氏は同著で、ミス・ベップについて「まるで「皇后陛下」と呼ばれたメリーさんのようではないか。いや運転手つきの輪タクを持っていたというのだから、メリーさん以上だろう」と書いている。
クレイジー・メリーとミス・ベップが登場する実録小説もある。鬼塚英昭『海の門 別府劇場哀愁篇』成甲書房、2014(最初は2002年に自費出版)だ。鬼塚氏は別府在住の作家で2016年に亡くなられている。同著にはなんと、鬼塚氏が子供のころにミス別府をチラッと見たことがあって「その美貌を今も忘れない」とある。父は鬼塚氏の8学年先輩だから、父はきっとチラッとではなく、二人のパンパンガールをじっくりと目撃したか、実際に会話の一つも交わしたことがあるのかもしれない。なお、鬼塚氏の著作では「クレイジー・マリー」「ミス別府」と表記されている。
さて父は、二人の逸話を紹介した後にこう続ける。
パンパンガールの中にはアル中、ポン中をはじめ、けんか早い女等様々な女が居たが、皆生活力のたくましい気のいい女達であった。
──これが、父がパンパンガールに送った視線だ。その視線は、美輪明宏にも通じるものがあるのではないかと思っている。美輪明宏が1977年7月23日に東京・郵便貯金ホールで行った「銀巴里生活25周年記念リサイタル」は、『老女優は去りゆく─美輪明宏のすべて +2』ソニー・ミュージックダイレクト、2013に収められている。美輪さんは「街の皇太后」を歌った後で言う。
「娼婦たちでも大変心のやさしい人もいます。別に彼女は身分もお金も何にもないけれど、(略)でも、彼女たちは世界中の人を騙して、戦争を起こしたり、人の会社を潰したり、また、いろんなことをやる悪い人たちよりも、よっぽど純粋な、単純だけど、きれいな魂を持ってる場合があります。みんなお人好しが多かったようです。私が立川でポン引きやってる頃だって、そういう人たちが随分いました。私が、ラーメンをご馳走になって、うん、そうかい腹減ってるのかい、食いな、食いな、そういうパン助たちもいました。で、彼女たちの歌をたくさん歌っているのは、そういう愛すべきところがあるからです」
──立川も別府も基地の街だ。父のパンパンハウス話に戻ろう。
ハウスの中には口唇性交だけを看板とする所謂フレンチハウスと呼ばれるハウスが二、三軒あったが、イエロースツールと呼んだ日本の女の性病を心配する兵隊に、このハウスは馬鹿うけにうけた。
アメリカ兵の夫婦がこのフレンチハウスの門をくぐったりしたのを聞いたことがあるが、一体どんな遊びをしたのか?
しかし、これらのハウスも兵隊のカケには泣かされたようで売春防止法で前借金はパーになるし、兵隊の帰国ではカケは倒されるし、泣きっ面い蜂で最後は散々な有様だったようだ。
──他人ごとのように書いているけど、その多くは、父の実体験なのだろうと思う。そういえば、美輪明宏が丸山明宏として世に出るきっかけになった「メケ・メケ」も、金もくれずに逃げる男に捨てられる娼婦の話だ。「船をめざした走る男/叫ぶ女をすてて/メケメケ/バカヤロー情なしのケチンボ/メケメケ/手切れのお金もくれない/あきらめて帰ろ/やがて月も出る海」
以上のようなバタフライと違い、特定のGIと契約を結び、月々何がしかの手当てをもらって部屋借りをしている女をキープといった。山の手の閑静な住宅街に多く、中には結婚してアメリカに渡航した者も居たが、国際結婚の成功例は極めて少なかったようである。
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