サバ奈子

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厚沢部町 野外彫刻

2023-06-25 08:21:21 | 野外彫刻

厚沢部町の鶉ダムオートキャンプ場の管理センターに入って、「碧血碑ってどこにあるのでしょう?」と聞いてきました。

北海道デジタル彫刻美術館によると、厚沢部町には野外彫刻は碧血碑しかないことになっていますが、画像がなく、どんなものか全くわかりません。

この施設はkanpo融資施設とのことでした。このモニュメントも少し気になった。kanpoと書いてある。

ざっくりと場所を聞いて、車を進める。トンネル前の小路を入る。

拓魂流汗之碑
この上台地に見える碑は、第二次大戦後の開拓の苦労を偲んで建てられました。
終戦後の海外引揚者、戦災者、復員者などは衣食住にありつけない貧困の時代でした。この対策として緊急開拓入植制度が設けられ、その受入れ先が農村村で、本町にも七地区287戸(旧字、上俄虫17、安野呂28、鶉96、西鶉18、峠下12、城ノ岱30、館86)が入植して、昭和20年から10年余にわたって開墾に従事しました。
入植者は厳しい開墾作業に耐えて懸命に努力しましたが、土地条件も悪く、その上、道路の未整備、水道や電気がないなど生活環境も悪く、大きな負債を抱え悲惨な生活が続けていました。一方では工業などが急速な発展をとげたため、離農者が続出して離農跡地の荒廃化が進みました。
多くの離農者は当時の苦労に想いを馳せ、子孫の伝えたいとの願いから、碑をが建てられました。

案内板があったので、道を進む。

職員さんが「石の階段がある」と言っていたので、登ってみる。

石碑があったが、

拓魂流汗之碑
どうも目的のものと違う気がする。

このあと、あっさぶの道の駅で、鶉ダムカードをもらう予定だったので、ついでに鶉ダムを見に行くことにする。

ダムの展望台の小公園に碧血碑を見つける。

地図を見るとこんな感じ。

由来
眼科の稲倉石は明治元年松前軍が徳川脱走軍と激突した古戦場である。大正八年松前出身の北海道庁岸蛎崎知次郎氏が松前軍戦没英霊弔意のため本碑を建立した。それより鶉山道往来の人々の足をとどめる場所となったいま「鶉ダム」建設により碑は水底に没することになり先人の真情を偲び此の地に移した。
昭和五十一年十一月
厚沢部町長 沢口松雄

碧血碑

史蹟 稲倉石古戦場
箱館戦争当時、この辺りを稲倉石とよび、北と南から断崖絶壁が迫りその峡谷に山道と鶉川の急流がありました。
未完成で無防備と言ってよい松前藩館城にとっては、この場所は重要な砦でした。そのため松前藩は今井興之丞を隊長に100名余の兵と4門の砲座を構え、自然の要害に加え20メートル余に丸太の柵を築き、網で中吊りにした丸太を落下して攻撃をくいとめる仕掛けも作り守備を固めていました。
11月12日(新暦12月26日)の交戦には幕府脱走軍隊長松岡四朗次郎隊200名余の兵は正面隊と左方の山をよじ登った隊に分かれ、山頂から塞門を真下に銃撃する奇襲作戦をとったため、不意をつかれた松前郡(今井隊長不在であった)は、立木、柵木を盾に4時間余にわたって奮戦するも弾薬が無くなり、陣屋に碑を放って退却したのです。
この敗戦が、館城の運命を救いがたいものにしたと言われています。
福山城陥落史には、最も熾烈を極めた激戦地はこの地と記されており大正8年8月松前出身の蠣崎知次郎ほか有志が、この古戦場に碧血碑を建立して、戦没者藩士の英霊を弔いました。

テーブルとベンチもあり、小公園になっている。

函館方面から来たら、トンネルの手前にあります。

鶉ダムです。

ダム湖です。

稲倉石古戦場 碧血碑
北海道檜山郡厚沢部町峠下

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