中年男のエレジー 郷愁

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横井庄一さんに関する取材を受けて

2022年01月08日 07時51分58秒 | 日記

朝日新聞社の看板記事「天声人語」

朝日新聞の天声人語を執筆する論説委員Yさんから横井庄一さんの取材を受けました。

創刊140周年にびっくり

 私は新聞配達もしたことがありませんでしたが、大学3年次の昭和52年に朝日新聞販売店の店主として起業しました。両親や親族が全員反対する中で、横井庄一さんだけが「朝日新聞は信用できる」と後押ししてくれ、保証人にも名乗りをあげましたが、新聞社との契約時に横井さんの保証人は無理と言われ、私の推薦人として名を連ねてくれました。

 なにゆえに横井さんが朝日新聞を大好きだったかは後日記したいと思います。

 その当時に創刊100周年に向けた記念行事が続きましたが、取材時に差し出された名刺に記された創刊140年の書き込みから、年月の経過の早さとともに、自分の年齢と置かれた立場を実感させられました。

名古屋市博物館 名古屋市瑞穂区

本日の写真です。
 
 朝日新聞社から「横井庄一」さんについて取材依頼を受け、最近のテレビ番組や新聞記事が発見当時とは随分と違う脚色が見受けられるため、名古屋市博物館で生前の横井さんを知る元学芸員さんとともに取材を受けました。
 
 コロナ禍で記念館は2年近く休館状態になっており、久しく語ることもなく認知症気味の脳をリフレッシュするために、横井さんの経歴を読み直し、戸籍や幼少時一緒に生活した家族関係を整理すると、過去に報道された記事に大きな疑問が湧いてきました。
 
 生後3か月頃に離婚して実家である我が家に戻ってきた母親は、赤ちゃんの庄一さんを我が家に置いたまま住み込みで奉公に出てしまい、庄一さんは従姉妹になる私の祖母や伯母となる私の曾祖母ら3人と小学校5年生まで「大鹿庄一」として貧しい極貧の生活を送ります。
 
横井さんが「明日への道」に記した自分の生い立ちです。

 その頃、私はまだ幼くて、父と母との間にどういう事情があったのかわかりませんが、母は生れて三ヶ月にしかならない乳のみ児の私をおいて、実家に帰ってしまいました。
 洋服屋の父は、私のことなど構わないため、祖母 (父の母) が、近所に貰い乳をして歩いたあげく、たまりかねて母の里へ母の留守をねらって赤ん坊の私を置いて行く、一方母は、再婚に差しつかえると考えたのか、また私を父の方へ返しに行く、そんなことが何度かあった後、とうとう私は、最終的には母の方に引きとられて育てられました。
 その当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。

の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。

私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿 庄一をもじって、「オーシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 

 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」
 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません
                                 横井庄一手記「明日への道」

 添付した文章はグアム島から帰国した横井さんが記した明日への道の記事ですが、実際には生々しい事実は伏せられているものの、生まれた直後から母親とは小学校5年生になるまで別々の生活となり、再婚先の横井家に母親は庄一さんの存在を隠したまま嫁いでおり、子供が居なかったため連れてくるように言われて大正15年に横井家へ入りました。
 
 昨日過去の戸籍簿を見直して確認したところ、その後小学校と珠算学校を卒業して昭和5年に豊橋市の洋服店に住み込みで勤務していますが、大正15年に横井家に入りながら昭和7年になるまで横井家には入籍もされていません。
 
 過酷な幼少時の体験から、「母一人、子一人」とか、息子の戦死を否定する母の存在がグアム島で生き抜いた原動力と報道されてきましたが、現実には母親は戦後間際の昭和23年に横井さんの永代供養を寺に依頼し、昭和30年に立派なお墓も建立しています。

 「庄一は生きとる」との母親の一言は、戦後誰一人として味方の居なくなった横井家の親戚から追い払われないための方便であり、終戦時の昭和20年に30歳になっていた横井庄一さんと母親が一緒に暮らしたのは12歳以降の10年弱しかなく、グアム島で生き抜いた原動力は間違っても母親ではありません。

 世間常識では理解されない幼少時の極貧生活について、横井さんは第三者には誰にも口にすることはありませんでしたが、時々の出会いの中ではありますが、実家の長男である私には気を許したのか皆さんからは想像もできないと思われる幼少時の話を聞くことがありました。

 グアム島で発見されて50年が経過しようとしていますが、当時横井さんを取材した横井番と言われる新聞記者も皆無となり、本当の横井さんの心情や気持ちは伝わらないままに年月が経過している現実を、横井さんと親交のあった博物館の元学芸員さんの話からも確信した一日となりました。

 現代社会でも学校のいじめが問題になっていますが、横井さんの幼少時は「死ぬしかない」と思われるような罵詈雑言やいじめを受けており、親に置き去りにされた環境から生き抜いてきた横井さんだけに本音が聞けれれば、随分と現代社会に役立ったのかもしれません。

                                     1月7日の一言

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