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大鹿一族の歴史探訪

大鹿姓発祥の歴史から、一族の流れを探訪し、現代の大鹿までをつなぎます。 ー古事記から現代までー

三重県鈴鹿市 大鹿三宅神社を探して

2023-04-18 08:54:16 | 日記

大鹿三宅神社

三重県鈴鹿市池田町14

石標

鳥居

境内

拝殿

本殿

 
今から20年ほど前に、伊勢の古族大鹿氏と由縁のある古墳とともに散在する大鹿三宅神社を訪れており、昨日はそれ以来となる訪問となりましたが、ネット上で表示される「大鹿三宅神社」に到着したものの、以前に訪れた場所とは全く違っていました。
  

それでも、正真正銘の大鹿三宅神社ではありましたが、20年前に訪れた場所を探して再度ネット検索すると、鈴鹿市国府町の三宅神社が表示され、「国府」ということで椿大神社から走ってきた道を戻って三宅神社へ走りました。

 

三宅神社

三重県鈴鹿市国府町1609

三宅神社の神額

境内

本殿

山ノ神

拝殿

 

 

ただし、ここも以前訪れた「大鹿三宅神社」ではありませんでした。


神館神明社

三重県鈴鹿市神戸町2-18-30

鳥居

拝殿

本殿

昨日の写真です。
 
そんな訳で3ヶ所目に訪れた神館神明社は、大鹿の大の字も判らない神社だったため、周りのお寺をまわり、神社の隣にお住まいのご夫人に連絡を取ってもらい確認すると、かつての十日市町にあった「大鹿三宅神社」をここにまとめて合祀した神社とわかりました。
 
こうなると20年前に訪れた大鹿三宅神社が何処に存在するか全く判らなくなり、再度鈴鹿市を訪れて大鹿(おおか)氏の基本から調べることにしました。
 
「大鹿は三宅から来た」という伝承と、私の住む津島市の下切町に現存する「大鹿」家に残された、古に現在の鈴鹿地方から海路で津島市に来たと記された古文書から、現在の鈴鹿市にある三宅町周辺から来たと考えるのが自然で、ここに存在する三宅神社が20年前に訪れた場所であることを祈るばかりです。
 
「三宅」とは古代朝廷の直轄地である「屯田(みやけ)」に由来すると見られ、鈴鹿市三宅町の方が鈴鹿の屯倉および式内社「三宅神社」の所在としては妥当と思われます。
 
一方で、四日市市に近い鈴鹿市の国分町にある伊勢国分寺跡や、木田町には大鹿山1号墳や古墳群とともに鈴鹿市考古博物館が存在するため、今から千五百年以上前の古族大鹿氏や、第30代敏達天皇の孫で大鹿の血脈となる舒明天皇や天智天皇の時代から勉強しなおす必要も実感させられました。
 

大鹿のルーツを調べている人が、現地に問い合わせると「愛知県の大鹿さんが詳しい」と言われて全国から連絡を受けていた時期もありましたが、私の発信した「大鹿一族の歴史探訪」は最近全く更新されておらず、私自身も過去の記憶は全く喪失してしまいました。

  

一方では、かつては皇學館大学だけと思っていた伊勢大鹿氏の研究も、各地の大学関係者や鈴鹿市の考古博物館など研究者によって大鹿廃寺や古墳が調査されており、これからは鈴鹿市へ足を運んで伊勢の大鹿氏の全体像を勉強したいと思います。

 

また、一時は全国で活躍される大鹿さんとの交流も心がけていましたが、複数の先輩たちが鬼籍に入ってしまわれ、新たに活躍される大鹿さんの存在も把握していきたいと思います。

 


2016/2/28 「鈴鹿川 大鹿(おおか)大吟醸滴取」

2022-06-27 14:37:26 | 日記

鈴鹿川・大鹿(おおか)大吟醸滴取
 http://www.taruyasu.com/shopdetail/030000000003/product/

クリックすると元のサイズで表示します

精米歩合40%の酒造好適米山田錦を、低温でゆっくりと醸しました。
華やかな香りが蔵に満ち溢れる頃、もろみを入れて吊るした小袋から、余分な力を与えずに、したたり落ちる滴だけを集めて瓶に詰めました。華やかな香りをいっそう際立たせた大吟醸です。

Moromi(the fermentation ingredients of sake) are placed in a bag and the sake as it drops off naturally without force is collected in a container called a tobin.
All of these lengthy and time-consuming processes are designed to achieve a clear taste.
This Daiginjo Shizuku-dori has a delicate and very distinct flavor with rich aroma.​

精米歩合 40%  アルコール度数 17度

清水清三郎商店 http://seizaburo.jp/

三重県を代表する造り蔵元「清水醸造」の渾身のお酒「鈴鹿川・大鹿」
◆大吟醸滴取
優れた酒好適米である三重県産山田錦を鈴鹿川の伏流水を用いて、低温でゆっくりと醸しました、華やかな香りが蔵に満ち溢れた頃、余分な力を与えずに、袋からしたたり落ちる滴だけを集めて瓶に詰めました。白鳳時代の鈴鹿川の情景に思いを馳せつつ、浪漫と輝きのある味わいをお楽しみ下さい。

鈴鹿川・大鹿(おおか)大吟醸滴取 「木箱入」
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2013/12/23 「灯台下暗し…市内の大鹿さんとお会いして」

2022-06-27 14:36:21 | 日記

 「ところで、何処からですか?」
 「越津だよ」
 「えっ、越津ですか?」
 「越津から柳原に出てここへ」
 「越津の何処ですか」
 「〇〇、〇〇…」
 「〇〇さんですか、私も越津です」
 「何処?」

 本日は新しく建てられた分譲住宅の中に、私と同じ「大鹿」の表札を見つけて、偶然にも車で帰宅されたご主人に話しかけると、私と同じ町内の出身者と判り、私の戦死した伯父の同級生であり、我家と同じ講組の大鹿家から出られた人と判りました。

 大鹿という苗字は、私の住む愛知県津島市に多くあるものの、全国的には限られた地域しか存在せず、愛知県内の大鹿姓のお宅の出身地を聞くと、津島市がほとんどとなり、大鹿の本家と思われる「大大鹿」には三重県鈴鹿地方から出てきた古文書が存在します。

 この三重県の鈴鹿地方には、大鹿三宅神社という古墳や、国分寺周辺に大鹿廃寺など古代の伊勢地方に大鹿氏という大きな豪族が存在したことと、この大鹿氏の娘が第30代敏達天皇に嫁ぎ、生み残した皇女が第34代舒明天皇の母親にあたることなどが歴史に綴られています。

 さて、そんな歴史上の話ではありませんが、名古屋市の人々には大鹿の名前には「先生」の印象が強く、このことは津島市から医師や教師となって名古屋に出て行った人々によるもので、関東地方の大鹿さんのルーツを訪ねても愛知県の場合が多いと思われます。

 「大鹿は三宅から来た」の一言は、私が少年時代に村の古老から聞いた言葉ですが、この古老は三宅の地名のある平和町(現稲沢市)と思っておられたものの、鈴鹿市に「大鹿三宅神社」の古墳が存在することから、大鹿の家々には「三宅から来た」と代々言い伝えられてきたものと思われます。

 本日お会いした大鹿さんは、伯父と同じ大正12年か11年の生れで、当時の同級生もほとんど他界されており、私自身が横井庄一さんの肉親として、横井さんが元々は我家の「大鹿庄一」と判ってから、大鹿姓について研究したり家系を調べていたことから判ったものの、親族以外にはこんな会話はできなくなっていきます。

 最近は大鹿姓について記録したり、古文書を見ることも無くなっており、過去に収集した詩人の「金子光晴」など、大鹿姓の先人の記録や、史実についても家庭内の何処かに眠らせていることにも気づかされる一日となりました。

 もっとも、帰宅後に本日お会いした大鹿さんの話をすると、母親は顔も判っている様子で、私の生まれた当時は、町内から嫁がれた人々や親族について当り前のように知っていたことも実感させられました。

                           12月23日の一言

 

2009/2/25 「質問と答・大鹿首について」 

2022-06-27 14:35:26 | 日記

(問い) 伊勢大鹿首(伊勢大鹿氏、大鹿首)が当方の祖先とされたものです。このサイトでは、【伊勢氏】とされています。伊勢氏と大鹿氏は別系統ではないでしょうか?
 また、【菊間国造 大鹿国直】と【大鹿首】には何か関連有りますでしょうか?
 
   (ohshika様より、08.5.4受け)

 (樹童からのお答え)


1 伊勢氏と大鹿氏の同族性

 伊勢の大鹿首氏については、『姓氏録』未定雑姓右京にあげられ、「津速魂命三世の孫、天児屋根命の後なり」と見え、その系譜が中臣連一族に出たことが記され、これではきわめて漠然としていますが、詳細な中臣連の系譜には、崇神・垂仁朝に活動した大鹿島命の子に①大楯命、②相鹿津臣命、③臣狭山命の三名をあげて、①が常陸の中臣鹿島連の祖、②が伊勢の大鹿首・川俣連の祖、③が中臣連の祖と記されます。
 一方、伊勢朝臣氏は、『姓氏録』左京神別にあげられ、天底立命孫(ママ)天日別命の後なりとのみあり、具体的な系譜は不明です。この家が伊勢国造の家であることはまちがいないところですが、「国造本紀」には、神武朝に天牟久怒命の孫、天日鷲命を国造に定めるとあり、「天日別命=天日鷲命」で天日鷲命すなわち少彦名神の後裔に位置づけられそうにも見えます。しかし、伊勢朝臣が伊勢直の後で、先に中臣伊勢連を賜っており、天牟久怒命(天椹野命)は天忍雲根命(天村雲命)と同神で、年代的にその子の天種子命(中臣連祖)の兄弟に天日別命が位置づけられるとみられます。これは、伊勢国造が中臣連の初期に分かれた氏族ということを意味します。天椹野命は「天神本紀」に中跡直(ナカト)の祖と見えますが、伊勢国河曲郡中跡郷に起る氏で、式内社の奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)を奉斎したとみられます。
 川俣連も、鈴鹿郡川俣神社に関連するとみられますから、後の鈴鹿・河曲二郡のうち河曲郡に起ったとみられます。『姓氏録』河内神別にあげられる川跨連と同じで、この氏は天児屋根命の九世孫の梨富命の後と同書の記事にありますが、梨富命とは相鹿津臣命の曾祖父にあたります。
 大鹿首氏の後裔は三重郡で大鹿三宅神社を奉斎したとみられますが、一族が山辺御園や河曲神戸にも居たことが史料に見えますので、相互につながりがあることが推されます。すなわち、ここまでの記述で、伊勢氏と大鹿氏は中臣氏族という同系統であることが知られます。

 
2 大鹿首氏の系譜と氏人

 大鹿首氏の系譜は、相鹿津臣命の子に若子命をあげて「大鹿首・川俣連の祖」と記し、その後は系図史料に見えません。とはいえ、伊勢有数の豪族として、敏達天皇の後宮に入った菟名子(小熊子郎女ともいい、桜井皇女などの母。伊勢大鹿首小熊の娘)を出しており、奈良時代の後宮女官として大鹿臣子虫が見え、従五位下まで昇叙されています(『続日本紀』天平宝字五年〔761〕六月条など)。
 氏の姓は臣、さらに宿祢に変わり、平安中期頃には山城権少掾に任じた大鹿衆忠、伊勢少掾に任じた大鹿徳益、伊勢介に任じた大鹿国廉や相撲人に大鹿一族が見えます。伊勢の在庁官人として大きな勢力をもっていたことが分かり、これが源平争乱期にも『東鑑』文治三年四月に「介大鹿俊光、散位大鹿兼重、惣大判官代散位大鹿国忠」が見えます。その後の中世での動きは分からなくなります。中世の丹波には大鹿氏が見えますが、これは伊勢から行った可能性もあります。

 
3 東国の大鹿氏など

 先に大鹿首の先祖が常陸にも関係したこと、先祖に相鹿津臣命がいたことをいいましたが、「相鹿」(アフカ)が音の類似から大鹿に通じることが知られます。ところで、常陸国行方郡には相鹿の里があり、『和名抄』の逢鹿郷(潮来市北部の大賀一帯。鹿島神宮の北西で北浦対岸)にあたります。中世下総の土豪に大鹿氏があり、相馬郡取手城(大鹿城)の主で常陸守護でもあった小田氏の配下とされますから、相鹿の里との所縁も考えられます。
 こうした事情からみて、古代上総にあった菊間国造の初祖とされる大鹿国直との関係も、管見に入っていませんが、居地や通婚などの所縁があった可能性もないとはいえません。菊間国造は上古の房総に繁衍した上海上国造の一族で、武蔵国造などと同族で出雲国造と同じ天孫族・天津彦根命の流れですから、中臣氏族とは男系では関係が見られませんが、女系を通じる所縁もないとはいえません。
 (08.5.5 掲上)

下記を参考にしました。
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/keiji%200.htm

古樹紀之房間(こきぎのへや)
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/index.html
古代氏族研究会公認HP

 

2009/2/9 「伊勢国分寺跡 2」

2022-06-27 14:33:29 | 日記

伊勢国分寺第31次発掘現地説明会
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_isekokubunji.htm
  ※以下の注目すべき記載がある。

・「東海道名所図絵」(寛政年間):巻の2
国分寺跡:石薬師の東、河曲郡国分寺村にあり。今浄土宗となる。常慶山と号す。往昔元明帝養老年中に営みたまう一州一寺の古跡なり。
 ※この地に「国分寺」の名があり、早くから伊勢国分寺として認識されていたようである。
  この記事は国分寺村に国分寺があることを伝えるのみで、大正年中に史蹟指定された現史蹟範囲を証明するものでは勿論ない。

・「三国地誌」(宝暦年間)には「国分村南ニ方三百歩ハカリ荒曠ノ地礎石破摶散在セル」とあり、瓦類が散在しているものの明確な遺構はすでに消滅していたものと思われる。

・伊勢国分寺跡を考古学的に初めて考察したのは鈴木敏雄氏であった。
「河曲村考古誌考」(鈴木敏雄著、1936年)によれぱ、当時、顕著な遣構として土塁と土壇を指摘している。
土塁は土壇の西に北土塁(長さ15間、幅3間半、高さ5尺)と南土塁(長さ2間半、幅3間半、高さ5尺)の2カ所であるが、古老の話として、数十年前までは、この土塁よりさらに南に数十間、そこから東に約百間の土塁が存在したことを記している。その土塁の上部には約9尺毎に頂上より3尺下方に3個の石を水平に埋設していたということである。土塁は不整長方形で、南北40間、東西中央部で24間を計るが、50年程前までは土塁は南にさらに約12・3広がっており、高さも周囲より約2間程高かったという。
また、北辺では、長?(文字不明)を縦に一列に埋設した箇所があったり、高さ2寸程の小型の金銅仏一体を発見したという。さらに鈴木氏は土塁の位置や土壇の形状、微地形等を考慮して、残存土壇は「講堂」であり、東に「金堂」及び「門」を推定する東面の伽藍配置を想定している(第1図参照)。なお、土壇は現在は南北約30m、束西20mと戦前の半分以下になっているし、土塁も1960年代までは残存していたが、現在は無い。

※(第1図)鈴木敏雄氏による伽藍想定図

※「三重県河芸郡河曲村考古誌考」鈴木敏雄著、昭和16年 より

・国分僧寺の位置については異論を挟む余地は無いが、国分尼寺については未だ確定的な比定地は定まっていない。
萱生由章「常慶山国分寺縁起」(明和8年)や「勢陽五鈴遣響」(天保4年)には松阪市伊勢寺を尼寺跡として推定しているが、論外であろう。
 ※「論外であろう」と1991年当時には断定されているが、現段階では一考を要すると思われる。
 ※「松阪市伊勢寺」については、以下のような情報があります。但し、詳細は不詳で、正確なことは不明です。

伊勢寺跡:
● 奈良時代/松坂市伊勢寺町世古62/指定面積:2,180平方メートル
昭和12年11月5日県指定(※三重県指定史蹟)
 伊勢寺町地内に入って間もなく、市道外五曲伊勢寺線の北側に一段高く真言宗に属する国分寺(かつては慶雲寺と称していたが、江戸時代になって国分寺と改められた)の境内がある。
この国分寺境内を中心とした東西150m、南北180mの方形区画が伊勢寺跡の寺域と推定されている。
指定区域はその一部で境内にかぎられる。
伊勢寺跡の創建は出土瓦から、7世紀末ごろと考えられ、その後、奈良時代から平安時代初頭にかけて大規模な伽藍の整備がおこなわれたと思われる。なお、伊勢寺跡の寺域北側からは、緑釉の瓦が出土している。

・国分集落内の光福寺には「伊勢国分寺陳跡碑記」(亨和2年)があり、金光明寺(南院)と法華寺(北院)の存在を記している。
南院は現国分集落の字南浦、鉄工所及び墓地付近に、北院は常慶山国分寺より以北の地にそれぞれ比定されており、鈴木氏はその「南院」を国分尼寺に比定している。古瓦は国分僧寺付近は言うに及ばず、国分集落や遠く東の寺山遣跡付近にまで散布しており、軒瓦が光福寺境内からも出土している他、南浦の地からは僧寺と異なる軒瓦が採集されており、一応この地を「尼寺跡」として推定している。

★3)「ASAO'S HOMEPAGE」情報

☆「歴史」の項より抜粋・要約
○伊勢国分寺跡
上記の「鈴鹿市考古博物館」の記事とほぼ重なる記述がベースですが、それ以上の貴重な情報があります。
(重複する記述は省略)

2.伊勢国分寺
(前略)「伊勢国分寺陳跡碑記(享和2年建立・光福寺境内)」には金光明寺(南院)と法華寺(北院)の存在を記していて、現在の国分町集落を「北院」、その南方の「南浦地区」を「南院」と比定されている。
 以上の続きに以下の記載がある。
『また現在の常慶山国分寺の南側の道路に沿って土塁が存在し、その東方には「鐘衝堂」と称される土壇がかつて存在したとの言い伝えがある。』
3.発掘調査
【尼寺】 現国分町集落地に比定される。1993、94年の調査で寺域の北限の溝と考える遺構が見つかり、前述の現国分寺前の土塁の存在を信じるならば南北が約160mほどの寺域が想定される。これらは国分町集落の地割りとほぼ一致していることも興味深い。出土瓦と土器から8世紀後半~10世紀後半の存続時期が考えられる。「南院」の南浦廃寺の調査では、東築地跡が確認されている他は、基壇など直接寺院に伴う明確な遺構は見つかっていない。瓦は川原寺系の白鳳期の瓦が多数見つかっており、瓦の包含層から東西約95m、南北約110mの寺域が推定されている。ただ1997年の寺域の北西部の調査では15棟の規則性を持った掘建柱建物跡が発見されており、寺院の僧坊あるいは大鹿氏の居館と推定されている。
【出土遺物】 奈良時代から平安時代前期の少量の土師器、須恵器、灰釉陶器を除くと、出土遺物の大半は瓦である。
僧寺跡付近にはおびただしい瓦片が散布している。軒瓦は僧寺、尼寺と別個の系統の紋様を持つことが特徴である。
現在判明している軒瓦の型式は僧寺が軒丸瓦3型式9種類、軒平瓦3型式6種類、尼寺が軒丸瓦3型式5種類、軒平瓦2型式6種類が確認されている。僧寺の創建瓦は単弁八葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦で伊勢国分寺特有の紋様である。また尼寺の創建瓦は単弁十二葉蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦である。瓦窯は僧寺が寺域の東北付近と山辺町に、尼寺は加佐登町の川原井瓦窯で焼かれたことがわかっている。南浦廃寺では山田寺系の単弁八葉蓮華文軒丸瓦と川原寺系の複弁八葉蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦が出土している。
 ※以上の参考文献には以下がある。
◆「三重県鈴鹿市伊勢国分寺跡-第3次発掘調査概要報告-」鈴鹿市教育委員会、1991.3
  推定尼寺跡1991年第3次発掘調査調査区

◆「三重県鈴鹿市伊勢国分寺跡-尼寺跡推定地の調査-」鈴鹿市教育委員会、1992.3


推定尼寺跡1992年調査区
※推定国分尼寺跡及び南浦(大鹿)廃寺については、調査範囲が限定されていて、詳細は不詳です。
しかし古代の寺院址であることは間違いないものと思われます。

★4)「国史跡 伊勢国分寺跡」の妥当性について

1)大正年中に、現地が「史蹟 国分寺跡」として史蹟指定されたが、この遺跡が「古代寺院跡」であることは明確であったにせよ、
「国分寺跡」であるとされる明らかな伝承あるいは遺物などの裏付けがあって指定されたものでは無かったと思われる。
それ故、正確にいえば、「国分寺跡と推定される遺跡」あるいは地名の「国分廃寺」などでの史蹟指定であったというべきであろう。

「伊勢国分寺跡 第30次発掘調査現地説明会資料」2005/03/05 では
以下の見解が示される。
 伊勢国分寺の伽藍地を南北方向の築地塀で囲われた西側の狭い範囲と捉え、塔が無いことから、尼寺跡と考える移建もあります。しかしこれまでの調査から積極的に尼寺とする証拠も確認できていない。 (国分寺であるという前提で)引き続き塔の確認作業を続けていきたい。

また、「伊勢国分寺跡5」鈴鹿市考古博物館、2005.3 では
以下の見解が示される。
 塔推定地調査区:
 これまでの調査において,伊勢国分寺跡の主要伽藍は約180m四方とされる伽藍地の西3分の2に偏ることが確認されてる。
そのため,東側3分の1の広い空閑地に塔が建てられていた可能性が高いと推定されてきた。
しかし, 期待に反し、第28・29次調査では伽藍内南東院の南東隅で大型の掘立柱建物が南北2棟確認され、塔の痕跡はなかった。
また,北東院では食堂と考えられる大型の掘立柱建物が確認され,伽藍内を築地で区画したそれぞれの院の構成が次第に明らかとなつつあり,伽藍地内で塔を建てることができたのではないかと考えられる空閑地が次第に限定されてきた。
 そのため今回の第30次調査では,第28次調査でトレンチ調査を行った箇所について,面的に広げ塔基壇の確認を行うこととした。調査箇所は,塔の建設が可能であると考えられる空間を考え,南東隅の大型掘立柱建物の西側で伽藍内を東西で区画する南北の築地塀との中ほどの地点に設定した。
しかし,残念ながら当初の大きな目的であった塔については,何ら手がかりを得ることができない結果となった。
塔の確認については,伽藍地内の施設の配置が明らかになるにつれて,塔を建設することのできるスペースや未調査地が限られてしまい,年々確認する条件が厳しくなっているのが現状である。

2)数次に渡る計画的発掘にも関わらず、なぜ「塔跡」及び「塔の遺物」が発見されないのか。
その理由は
(A)塔跡が後世に壊滅的に破壊されたあるいは流失したために検出できない。
(B)塔は築地塀に囲まれた180m四方とされる伽藍地をはみ出した別の塔院もしくは遠く離れた場所に単独で建立された。
(C)伊勢国分寺には塔が建立されなかった。
(D)「史蹟 国分寺跡」は国分寺ではない。
   などが考えられる。
(A):
地形的に見て流失の可能性は無いと思われる。
現地は後世の耕作で遺跡の残存状況は極めて悪いようですが、鈴鹿市教育委員会の発掘の丁寧さ、発掘面の広さ及び発掘技術の確立などから判断して、痕跡が発見されないことは 遺跡が無かったものと考えるのが自然であろう。
(B):
武蔵国分寺の例が知られる。
武蔵国分寺では、確かに中心伽藍から遠く離れた、東やや南の東南隅に建立されたようです。
但しこの国分寺の寺域は例外的に広大と思われる。広大な武蔵国分寺と同列に考えていいのかどうか、伊勢国分寺において、その必然性があるのかは疑問に思われる。
(C):
この可能性はまず無いであろう。
もし、そうであるならば、塔の無い特殊な国分寺ということになる。
伊勢国分寺だけ、特別な理由の証明がなされなければ納得はできないであろう。
(D):
「史蹟 伊勢国分寺跡」は、実は国分寺跡ではない別の例えば「国分尼寺」などの可能性が高いのではないか。
近年の発掘調査は以上のことを示唆するのではないか。

(D)であるとすれば
3)創建伊勢国分寺はどこなのか。
鈴鹿市教育委員会の発掘成果・発掘報告などから、
「推定国分尼寺跡」もしくは「南浦(大鹿)廃寺」が「国分寺」であり、「史蹟伊勢国分寺跡」が国分尼寺である可能性が高いと思われる。
※南浦(大鹿)廃寺は白鳳期の創建とされるが、畿内の瓦の編年を伊勢に当て嵌めたもので、畿内の瓦の編年の地方への適用もしくは瓦の編年そのものがそれほど信憑性のあるものだろうか?。
もしその信憑性が崩れるとするならば、南浦(大鹿)廃寺も国分寺跡である可能性は捨てられないとも思われる。
しかし、いずれにしろ、推定国分尼寺跡・南浦廃寺の実態がはっきりしなければ、想像でしかない。
※松阪市伊勢寺跡についても、後世の名跡の継承の可能性が高いものと推測はされるが、詳細な検討も必要かと思われる。

☆再びお断り
以上の見解で、鈴鹿市教育委員会をはじめとする関係各位のご努力・成果などを否定する意図は全くありません。
むしろ逆に、伊勢国分寺を巡る関係各位のご努力・成果に深く感謝するものであります。

※掲載画像
国史跡伊勢国分寺・光福寺・現存鈴鹿国分寺・南浦(大鹿)廃寺位置図その1
国史跡伊勢国分寺・推定伊勢国分尼寺・推定南浦(大鹿)廃寺位置図その2
伊勢国分寺第30次調査区配置図
鈴木敏雄氏による伽藍想定図
推定尼寺跡1991年第3次発掘調査調査区
推定尼寺跡1992年調査区

補足:
●明星山国分寺
亀山市関町(JR関駅北方約5km)にも「伊勢国分寺」と称する寺院が現存するようです。
但し、伊勢国国分寺との関連は恐らくないと思われる。

明星山国分寺縁起:「当明星山国分寺は、今より千百有余年の昔天平15年、行基菩薩の始めて開基し給う所、・・・・聖武天皇の勅願所にして一国無隻の霊場なり。・・」、真言宗。
また、弘仁6年(815)嵯峨天皇の霊夢により、弘法大師42歳のとき国分寺で「虚空像求聞持の法」を修業中、明星が瑞光を放ち飛び、柏の大樹に入る、大師はこの霊樹で虚空蔵菩薩を刻み本尊となし、山号を「明星山」と称したと云う。

相当な山中(明星山)に位置するようです。
なんらかの「事情」で 伊勢国分寺の「由来」を引継いでいる可能性もありますが、位置する場所や行基菩薩や聖武天皇、弘法大師に象徴される「縁起」から判断すると伊勢国分寺とは関係なく、真言道場としての寺院と思われます。

2006/04/27追加:
「国分寺の研究 上・下巻」 角田文衛/編(1938)所収:「伊勢国分寺」佐藤虎雄 より:
「・・・土壇跡は小字堂跡にあり、南北40間東西約20間、周囲の畑よりやや高く最高部2尺ある、古老の言によれば、この土壇は南方にさらに約12.3間延び、約2間の高さを有しながら、約50年前に開墾により、地均しをし壊されたものであるという。・・・
 萱生由章「『常慶山国分寺縁起』では礎石の存することを述べ、また古老も約40年前に礎石らしい石を数十個他に搬出したという。」「土居は土壇跡の西方の松林中に少しばかり存している。長さ約10間で現状では5尺内外、高さ約3尺の規模である。・・・古老の言によれば数十年前まではこの地点より南方隅に至る数十間、さらに之より約100間の間に土居を有していたが、開墾されたものである。・・・」
 ○伊勢国分寺の土居
「常慶山国分寺は・・・いつしか東方に移る、・・・本尊は薬師如来、浄土宗知恩院末、本堂庫裏鐘楼を有するが、檀家もなく地区民が支えている。・・・」
「真宗高田派光福寺に『伊勢国分寺陳跡碑記』(貞和2年)がある、この碑は当寺釈普聞が建立、一身田西院の僧真淳の撰になる。・・・文中に『所置本州者金光明寺称南院法華寺北院』という一文がある。そして光福寺が南院を再興したものであるとする。・・・寛政年間神戸侯幽篁来り、その筆による『南院』の額が掲げられている。・・・」