■ 悲喜こもごもの結末
まもなく
15時になろうかというとき、携帯に気づいた。出ると家人だった。一瞬、リタイヤしたのかと思った。もう携帯を手にしてるなんて予定通りゴールしたにしても早すぎるのではないか?
「もう、何回電話しても出てくれないんだから。今どこ?」
「ずっとドームに入ってくるところで待ってたんだけど。どこにいるの?」
どうやらランナーの通過エリアを挟んで反対あたりにいるらしい。ああ、いたいた。
ゴール後のランナーは決まった通路を通って、いただくものをいただいて、2階のゲート8番からみんな出てくるはずだった(係員が間違ってなければ)。
「着替えだの荷物だの準備が整ったらまた電話して」と言って切ったのだが・・・。
携帯で何度もやり取りしていたが
ドーム内もあちこち通過できないようになっていて、なかなか会えない。ちょっとした「君の名は」状態。
聴けば、ゴール手前数百メートル、ドームに入る少し前で思い切り転んで右肩から膝、頭までしたたか地面に打ち付けたという。
本人的には大したことはない感覚だったようだが頭も打っているということで念のため車いすに乗せられたりちょっと大変だったらしい。
話ぶりはしっかりしてるし、「それでゴールはできたの?」と聞けば「
5時間39分でゴールしたよ」と言うから(まさしく予定通り!)、そんなに心配いらないかと安心はしたのだが、それにしてもドーム内を上がったり下がったりしたが、お互い相手のいる場所に行きつけずイライラしてくる。
どうなってんだ?
すったもんだのやり取りの後、ようやく会えたのが
16時過ぎ。何をするにも時間がかかるし、私としてはもう少し小ぶりの大会のほうが好みだと改めて思う。
ニット帽をかぶっていたのでよくわからなかったが右目が腫れている。まぶたにかかって見にくいが痛くはないらしい。
「昔目の上をぶつけて同じ状態になったことがある。これから時間がたつと赤くなって、青くなって、それから黒くなるんだよね」
本人いわく帽子をかぶっていたおかげでこの程度で済んだ。膝もすりむいてタイツも破けたけど、テーピングとタイツのおかげで膝の傷も大したことなかった。
このレースで初めて使用したおろしたてのタイツとランニングキャップが見るも無残な姿となっている。
まあでも、それぞれ役に立ってくれたのだから良かったんじゃない、と笑いあった。
「タキシード姿のイケメンはどうだった?」
と聞くと、
「
それがさあ、金さんだったんだって」
「金さんてあの金さん? ええっ」
TV解説をしていた金哲彦さんがタキシード隊の一員としてちょうど駆け付けたところだったらしい。
「金さんで良かったあ」
と家人は喜んでいた。
足が痛そうだったが、とにかく金山まで出て乾杯することにした。ブリティッシュ風バールでギネスで乾杯。はじめて入る店だったが料理もおいしかった(ひさしぶりにたばこOKの店で家人は少しゲホゲホしてたけど)。
女性ランナー垂涎のティファニーのペンダントが納められた箱がこちら。NIKEのフィニッシャーTシャツとともに完走者しか手にすることができない。
家に帰りついてこの箱を開ける頃には、目の周りは赤や紫が目立ってきて腫れもずいぶんひどくなっていた。タイツ、帽子も併せて代償はけっこう大きかったけど、
ゴールできて良かったよね。
「いやあ、困ったなあ。ねえ、眼帯買ってきてくれる?」
<おしまい>
《
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■マラソンを走ることと応援することについての2、3の考え。
自分は走らないで、スタートからゴールまでフルマラソンの応援をしたのは初めてだ。
今回強く思ったこと。
フルマラソンをちゃんと走り切ろうと思ったら、タイムはともかく、ランナーのレベルなりにだれにとってもキツイ。
だから、フルマラソンを走る大変さとはちょっと意味が異なるけれど、真剣にやったら応援も本当に大変で、率直な感想として「
自分が走った方が楽だな」と思った。
改めてこれまで応援してくれて家族や友人、そしてもちろんこれまで何度も逆の立場でサポートしてくれた家人に
感謝の気持ちを強く持った。
ランナーなんてきついだ、つらいだと言ったって、しょせん好きで走っているだけの話だ。つらいのが大変なら走らなければいいだけの話。
だから、「マラソン走るなんてすごいね」などと周囲の人がほめてくれても「俺はすごいことをやった!」なんて調子に乗ってはいけないと思うのだ。皆さんのおかげで走らせてもらえたと感謝すべき--というか、感謝してしまうに違いない。
実際のところ、ただゴールするだけならそんなに難しいことでもない。
では、マラソン走ることは自己満足に過ぎないのかといえば、かならずしもそうでもない。いや、本人にとってはそうなんだけど--だから
「走ることで勇気づけたい」なんて本人が言うのはどうかと思う--、懸命に走るランナーの姿は、それを見た人にいくばくかのインパクトを送る可能性があるのも事実だからだ。
ただし、それは意図して与えたりできるようなものでは決してない。
思い上がってはいけない。
これは、マラソンランナーに限ったことではない。真剣にスポーツする姿は時に美しいし気高い。トップアスリートであればそれは人知を超えたもののように感じることもある。しかしながら、そうした力--それを見た人が勇気を感じたり気分が高揚したりすること--は行為者である人間に備わっているなんていえるだろうか? 100mを9秒で走れたとして、世界が大きく変わるわけではないのだ。。
そのとき生まれる力は、むしろ受け手次第といってもいい。競技者にできるのはただひたすら自分の最大のパフォーマンスをやりつくす努力だけだ。
アマチュアスポーツに限って言うなら、ある意味見返りの少ないことに多大な努力や犠牲を払うその
無償性にこそ意味がある。お金をもらってやるなら仕事だけど、そうじゃないのに頑張るから感動するし勇気も湧いてくる。涙する。そこはプロの選手に感じるものとは少し違うかもしれない。プロの場合だって、彼らが仕事である事を忘れた瞬間のプレーにこそ感動するのではなかろうか。ただ、プロの場合は結果としてお金がもらえるというだけのことだ。
つまり
スポーツでは意味がないことにこそ本来意味がある。