風の回廊

風を感じたら気ままに書こうと思う。

検察審査会の議決が意味するもの―小沢問題から(18)【追記】

2010年04月27日 | 日記
今夜は25日に沖縄で開催された、普天間飛行場県内移設反対集会について書こうと思っていたのですが、「小沢幹事長・起訴相当」の議決があり、出端を挫かれました。
予想はしていたものの、これほどの短期間のうちに、またタイミングよく議決されたものだなと、あらためて極めて政治的思惑の強い中で進められた、小沢さんの検察審査会の流れだと思わざるを得ません。
実は小沢さん議決は、昨日議決で今日発表。鳩山さんの議決は21日議決されていたにもかかわらずを昨日発表という事実をメディは報道しませんね。そして今日は、郵政不正事件の公判で凛の会元会長に無罪判決が出ています。偶然でしょうか?郵政不正事件の検察の失態を隠すためということも考えられます。

ある有能な会計士によれば、鳩山首相の母親からの贈与の問題の方が、小沢さんの政治資金収支報告書記載の問題よりも会計上の悪質性は高いということです。しかし鳩山さんは「不起訴相当」で小沢さんは「起訴相当」という議決ですからしっくりしません。

この議決によって再捜査が始まるわけですが、再捜査をした検察官から、再び不起訴とした通知を受けた時は、検察審査会は、今度は弁護士を審査補助員として加え再び審査を実施します。そこで再び「起訴相当」と判断をした場合は、検察官に検察審査会議に出席して意見を述べる機会を与えたうえで、8人以上の多数で起訴議決がされ、この場合は、裁判所が指定した指定弁護士が、公訴を提起し、公判が開かれます。

検察が再捜査後、起訴するにしても不起訴するにしても、7月の参議院選挙に被るのは明らかで、小沢さんの不起訴が決まってから、わずか3ヶ月のスピード審査が、何を意図しているのか想像は容易です。
検察審査会は、審査申し立てによって始まるわけですが、鳩山、小沢両氏の件を申し立てたのは、「ある市民グループ」としか報道されていませんが、「在特会:在日特権を許さない市民の会」というグループで、ご存知の方は多いと思いますが、ご存じない方は、どんな活動をしているか、youtubeでご覧になるのが解りやすいです。
在特会についてここで書くことも、動画を貼り付けることも可能ですが、在特会は汚らわしいのひと言に尽きるので遠慮させていただきたい。

申し立てから審査のスピードが、意図的だと思う理由のひとつに、在特会よりもずっとまともな市民グループの申し立てがあったにもかかわらず、数ヶ月過ぎても審理が始まらないケースがあります。
たとえば、森田健作千葉県知事の不起訴処分に対する申し立てから、4か月が過ぎていますが、まだ始まったという話は聞きません。こうしたケースはかなりあるようで、小沢さんのスピード審査開始、スピード審査、スピード議決は異様ですね。

検察審査会は、公訴権を独占している検察の不起訴処分に民意を反映させるべく生まれた機関で、審査会の構成員は、市民から抽出され(11人)、民意の反映ということでは、意義があるのですが、審査の過程で、なぜ起訴できなかったかを説明するのは検察官のみで、不起訴は妥当と主張したい被疑者側(今回は小沢氏側)の主張は全く聞き入れられません。
僕は不備だと思うですが、いかがでしょう。

さらに、我々市民の民意や市民感情は、マスメディアの報道によって常に流動するもので、「予断無きよう」と審査の初めによく注意を求められてもなかなかそうはいきません。
特に今回の小沢さんのケースは、1年にも及ぶ小沢ネガティブキャンペーン的な報道によって、小沢さんが相当貶められているわけで、まるで有罪扱いの小沢さん対して、抽出された市民が果たして予断を持つことなく審査ができたのかどうか、大きな疑問です。

こうした民意を法に影響を与える、検察審査会の在り方の土壌には、刑法の大原則“推定無罪の原則”が、隅々に行き届いていなければなりません。
しかし、推定無罪の原則は、本来守られているかどうか監視する役目のマスメディアによって崩壊しています。こうした現況の中では、検察審査会の議決によって、新たな冤罪が生まれないとも言えません。甲山事件はよい例です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

検察の小沢捜査、小沢ネガティブキャンペーンから、検察審査会、その議決という流れは、マイミクのタケセンさんも日記に書かれていましたが、まさに「現代の魔女狩り」ではないかと思うのです。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1472519649&owner_id=548859
メディアの報道によって推定有罪という世論が生まれさえすれば、小沢さんだけではなく、誰でも犯罪者としての烙印が押されてしまうという怖ろしい事態を今回の検察審査会の議決は物語っています。

およそ1年の時間と20億円ともいわれる捜査費用(税金)をかけ、特捜が強制捜査を行った結果、公判に耐え得るような証拠もなく、不起訴となった事実。不起訴までの経過の中で、また不起訴後も、記者会見をするたびに説明を行い続けた小沢さんになお「説明責任」を求めてきた、野党とメディアと多くの国民。
国会での証人喚問での説明でなければ「説明責任」を果たしたと言わない野党とメディアと多くの国民。
小沢さんが「私は黒です」と言わない限り、断固許さないというような風潮……
そして、今回の検察審査会による11人全員による「起訴相当」。
魔女狩り以外何ものでもありません。
たいへん怖ろしい時代です。検察国家がどんどん近付いている気配すら感じます。

元司法記者でフリージャーナリストの魚住昭さんは、元検察の郷原信郎さんと共に、外人記者クラブに招かれ、一連の小沢問題に対する声明の中でこう語っています。
(日本の大手メディアは、こうした発言をする人を電波や紙面に載せません)

「政権交代を成し遂げた中心人物であり、今後の日本の舵取りを間違いなく担う小沢が、検察の無理筋捜査によって失脚すれば、自民党と同じになり、さらに政治不信が国民に拡がり社会不安が起こる。テロが起き警察・検察の力が強化される。そうなると民主主義も崩壊する」

また郷原信郎さんは
「政治・経済を検察が歪め日本は非常に危機的な状況にある。今必要なのは検察の正義というマインドコントロールから国民が脱却することだ」
また皮肉を交えながら
「今回の小沢への検察の無理筋捜査で検察は刑事的には失態だったが、政治的には大成功した。検察は政治団体として登録したらいい」


最後に……

「世論を元にして物事を考えるような人は、自分で自分に目隠しをし、自分で自分の耳をふさいでいるのである」 フリードリヒ・ニーチェ

「世論というものは、愚行、弱点、偏見、悪感情、正義感、頑固、そして、新聞社のスポンサーによって成り立っている」 ロバート・ピール

「新聞を読まない人のほうが読んでる人よりも物事を正しく認識できる。嘘と偽りに心を奪われている人よりも真実に近い場所にいるからだ」 トーマス・ジェファーソン


【追記―郷原信郎さんのツイート】
元検事で唯一とも言っていい、冷静に検察の実態を見ている弁護士。このことで、これまで頻繁に出ていたテレビ番組から、干されています。

(引用開始)
「検察が危ない」の第1章で詳しく述べたように、石川議員の起訴自体が完全に無理筋であり、共犯で小沢氏を起訴するというのは、もともとあり得ない判断です。検審の判断を受けて起訴するとすれば、検事総長も含め組織として不起訴を決定した検察の存在意義を問われます。
約1時間前 webから

検察審査会の議決を読みましたが、「井戸端会議」のレベルに過ぎず、起訴すべしという理屈になっていません。こういう検審の判断で不起訴処分を覆すことは本来はあり得ないはずです。しかし、2度目の起訴相当議決で強制起訴になれば、捜査記録を指定弁護士に提供せざるを得ず、最悪の事態になります。
37分前 webから

検察にとって、捜査記録を指定弁護士に提供することになれば、捜査の中身がいかに酷いかとを指定弁護士に知られることになります。そもそも、石川議員の起訴という判断をしたこと自体が無理筋だったわけで、それを敢えてやったことが、今回の最悪の事態につながったのです。
29分前 webから

(引用終わり)




夢・サンダーバード構想―平和のための抑止力

2010年04月25日 | 日記
ウォルフレンの論文『日本政治再生を巡る権力闘争の謎』を三日分の日記としてアップしたので、それもほとんど労力もなく、ただコピーしただけという怠慢で、やや手持無沙汰の優しい夜です。
それはそうと、ウォルフレンは、先日掲載した論文やこれまでの著書の中で、現在の日本の状況をものの見事に、予言していました。
そのことをマイミクのタケセンさんが書きましたので、ぜひご覧になってください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1468346337&owner_id=548859

このところの流れは、『政治時事、勝手に言いたい放題』と『優しい夜はスタンダード・ナンバーで』を交互に書いているわけですが、今夜はどちらにもかかる内容で『優しい夜は夢を語る……』をテーマに、あまり堅苦しくなく、自衛隊の行く末の先ある僕の夢を書くことにします。それに見合うようなスタンダード・ナンバーが思いつけばいいんだけれど。途中で思いつくかな……?

日本に駐留している米軍は、「日米安保条約」に起源が求められ、日本の安全保障上の「抑止力」として期待されているわけですが、自衛隊も同様に「抑止力」とみなされ、同時に有事の際は、専守防衛にあたり、日本を守ることが期待されているわけです。
しかし、僕はこの「抑止力」に説得力を感じないばかりか、真の平和を望むのであれば、軍事力による「抑止力」や「防衛」には、大きな疑問を持っています。

武器を持って睨めっこしながら、軍事的侵攻を抑止し続けているのであれば、いずれ過度の緊張からバランスを失うこともあるだろうし、小さな誤解が大きな過ちを生むことだってあるし、だいたい子供に平和をどう説明したらいいか分からない。

「いいかい。武器をたくさん持っているから、誰も攻めてこないんだよ。武器を持っているからこそ今の平和があるんだ。その最大の武器が核兵器だよ。日本は核兵器を持っていないけどね」
なんて子供に言えますか?
でも、「軍事力は抑止力として存在し、平和を保つ一定の役割を果たしている。アメリカの核の傘下にいることで、これまで平和を維持できた」と考えている人は、そのことを子供に正直に伝えなければ、狼パパ、ママですよね。

狼パパ、ママにならないために、子供に夢を語ってあげましょう。

もしも、核兵器を持たない日本が、核兵器ゼロへ向けて世界でトップリーダーとして指導的役割を果たし、実績を確実にあげていけば、日本に核兵器を撃ち込もうとする国はなくなります。国際平和のリーダーたる日本に、三発目の核兵器を打ち込めますか?
そんな素振りをみせる国があったら、直ちに世界中から非難の嵐です。
その国から輸入も、その国への輸出も禁じられ、その国はたちまち立ち行かなくなるでしょう。
核兵器ゼロに向けて世界のリーダーになること……軍事力によらない抑止力その1です。

自衛隊がすべての武器を捨てて、国際救助隊として、大地震やハリケーンなどの自然の脅威に襲われ、被災した国々や紛争地帯で戦禍に巻き込まれ、苦しむ人たちを世界に先立って助ける組織として再確立する。
モデルは、あのイギリスの名作人形劇特撮番組『サンダーバード』。


http://www.youtube.com/watch?v=jAA3-80dwnk&feature=player_embedded


日本の科学技術を持ってすれば、サンダーバード5号の宇宙ステテーションは、別にしても、1号から4号までは、世界中をカバーするくらいの数を作ることが可能だと思うし、『サンダーバード』に登場した救助のための数々のメカ――たとえば大規模な爆発現場などで、がれきを押しのけながら救出作業を行う、耐熱ブルドーザーのジェットブル(消火効果を持つ、ニトロ弾を発射できる)や大型磁力運搬クレーン――だって作れちゃう。
そんな救助メカを、サンダーバード2号みたいな輸送機に載せて被災地へ向かうのだ。
作れないとは言わせない。『サンダーバード』は、1965年の作品です。その頃の科学の粋から、あるいは科学万能の未来を予測して生まれた作品なのだ。あの当時からすれば、現在は立派な未来だと思う。やる気になればできないはずがない。サンダーバード5号は、必要ないわけだから。

科学技術だけではなく、予算的にも今の防衛費をそのまま当てれば、世界に冠たる「国際救助隊」が設立可能だと思う。
F15-イーグルは、一機約100億円したし、イージス艦は一艘1243億円もした。
大昔の話だけど、戦艦大和は現在の価値に直せば、2712億円もしたのだ。(当時のGDPの約1%)
ヘリコプターや輸送機など利用できるものは利用し、あるいは改良して使えるものは改良して、ダメな物は融かしてリサイクルしちゃえばいい。
この際、兵器を絶対に諸外国に売ってはいけないのはもちろんである。

サンダーバードに登場しなかったもので、絶対必要なのは医療船だ。
戦艦大和ほど製作費はかからないと思うし、イージス艦を買ったと思えば安いものである。
最新の高度な医療設備と優れた医療スタッフを乗せた、日本の国際医療救助船が、第7艦隊のように、あるいは、かつてのスペイン艦隊、イギリス艦隊のように七つの海を颯爽と航海する。異なるのは、第7艦隊やスペイン、イギリス艦隊は他国を侵略し、人々を傷つけ、支配し植民地化したけれど、日本の国際救助隊は、災害や紛争で傷ついた人たちを助けることである。

僕は、幼い頃『サンダーバード』をテレビで見ながら、隊員たちの活躍に憧れ、『サンダーバード』の隊員になりたいと思っていた。それもかなり激しく!
もし、自衛隊が『サンダーバード』のように国際救助隊として世界中で活躍したら、子供たちや若者の多くが、その一員となることを希望するだろう。
どこから見てもセンスを疑いたくなる「自衛官募集」のポスターもいらないし、現役自衛官による勧誘活動も必要なくなることは間違いないことであり、逆に入隊希望者がウナギ登りとなり、その競争率たるや、人気のある高校や大学を凌ぎ狭き門になることが予測できる。
結果、彼らは平和活動のエリートとなり、世界中の人たちから愛され尊敬されることは間違いない。
何たって夢があるし、正しい行いである。だれも責めたりしない。

イラク、サマーワに派遣された自衛隊員の純粋な気持ちは高く評価し、称賛するが、サマーワ市民は、必ずしも自衛隊員を受け入れたわけではなかった。メディアに登場したサマーワの歓迎の声は、イラク政府の息のかかった人たちの声であり、多くの市民は自衛隊にすぐに出ていってもらいたいという気持だったことが、フリーランスのジャーナリストの取材で明らかにされている。なぜか?自衛隊はどう見ても軍隊だからだ。

「今、日本の自衛隊に何を望んでいるか。何を最優先で活動してもらいたいか?」という質問に多くのサマーワ市民は「すぐにイラクから出て行ってもらいたい」と答えたと言う。(フォトジャーナリスト森住卓の講演を聞いて……)

武器を持たないこと。核兵器を持たないこと。核によるエネルギーを減少していくこと。武器で傷ついた人たちを助けること。災害に苦しめられ、明日の生活がままならない人たちを助けること。
平和と命を大切にする活動の世界のトップリーダーになること。
科学技術や医療技術と心ある人員を、平和活動、人道的活動にたくさん注ぎ込み貢献すること。
そんな日本であること。

こうした国に、どこの国が侵攻してくるでしょうか。自衛隊のサンダーバード化。
軍事力によらない抑止力その2


今僕は、こうして自衛隊のサンダーバード化を構想している。
その構想を、お手伝いしてくれる人を密かに募集しているのである……
さて、まず名称からだ。名称も募集中です♪

夢かもしれない、でも……


今夜の雑文にふさわしいスタンダード・ナンバーは、これしかないでしょう。それもこの人によって。

http://www.youtube.com/watch?v=3iid-A6_CB4&feature=player_embedded



(続き)日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その3)=カレル・ヴァン・ウォルフレン

2010年04月22日 | 日記
『日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その3)=カレル・ヴァン・ウォルフレン』

2010年3月19日 中央公論


◇日米関係の重さ

 日米関係に目を転じるならば、そこにもまたきわめて興味深い権力のダイナミクスが存在しており、日本に有利に事態の解決を図ることができると筆者は考えている。世界の二大先進パワーは、きわめてユニークな形で連携している。日米関係に類似したものは、世界のどこにも存在しないだろう。
 
 鳩山が対米外交において失策を重ねていると批判する人々は、ことアメリカとの関係においては正常な外交というものが存在しない事実を見過ごしにしている。なぜならアメリカはこれまでも日本を、外交には不可欠な前提条件であるはずの真の主権国家だとは見なしてこなかったからである。そして日本は最後にはアメリカの望み通りに従うと、当然視されるようになってしまったのだ。鳩山政権は、これまで自民党が一度として直視しようとはしなかったこの現実に取り組む必要がある。
 
 誰もがアメリカと日本は同盟関係にあると、当然のように口にする。しかし同盟関係の概念が正しく理解されているかどうかは疑わしい。同盟関係とは、二国もしくはそれ以上の独立国家が自主的に手を結ぶ関係である。ところがアメリカとの同盟関係なるものが生じた当時の日本には、それ以外の選択肢はなかった。第二次世界大戦後の占領期、アメリカは日本を実質的な保護国(注:他国の主権によって保護を受ける、国際法上の半主権国)とし、以後、一貫して日本をそのように扱い続けた。また最近ではアメリカは日本に他国での軍事支援活動に加わるよう要請している。実質的な保護国であることで、日本が多大な恩恵を被ったことは事実だ。日本が急速に貿易大国へと成長することができたのも、アメリカの戦略や外交上の保護下にあったからだ。
 
 しかしこれまで日本が国際社会で果たしてきた主な役割が、アメリカの代理人としての行動であった事実は重い意味を持つ。つまり日本は、基本的な政治決定を行う能力を備えた強力な政府であることを他国に対して示す必要はなかった、ということだ。これについては、日本の病的と呼びたくなるほどの対米依存症と、日本には政治的な舵取りが欠如しているという観点から熟考する必要がある。民主党の主立った議員も、そしてもちろん小沢もそのことに気づいていると筆者には思われる。だからこそ政権を握った後、民主党は当然のごとく、真なる政治的中枢を打ち立て、従来のアメリカに依存する関係を刷新しようとしているのだ。
 
 だが問題は厄介さを増しつつある。なぜなら今日のアメリカは戦闘的な国家主義者たちによって牛耳られるようになってしまったからだ。アメリカが、中国を封じ込めるための軍事包囲網の増強を含め、新しい世界の現実に対処するための計画を推進していることは、歴然としている。そしてその計画の一翼を担う存在として、アメリカは日本をあてにしているのである。
 
 かくしてアメリカにとって沖縄に米軍基地があることは重要であり、そのことにアメリカ政府はこだわるのである。しかしアメリカという軍事帝国を維持するために、それほどの土地と金を提供しなければならない理由が日本側にあるだろうか? 日本の人々の心に染み付いた、アメリカが日本を守ってくれなくなったらどうなる、という恐怖心は、一九八九年以来、一変してしまった世界の状況から考えて、ナイーブな思考だとしか評しようがない。
 
 筆者は、日本がアメリカを必要としている以上に、アメリカが日本を必要としているという事実に気づいている日本人がほとんどいないことに常に驚かされる。とりわけ日本がどれほど米ドルの価値を支えるのに重要な役割を果たしてきたかを考えれば、そう思わざるを得ない。しかもヨーロッパの状況からも明らかなように、アメリカが本当に日本を保護してくれるのかどうかは、きわめて疑わしい。
 
 まったく取るに足らない些細な出来事が、何か強大なものを動揺させるとすれば、それはそこに脅しという権力がからんでいるからだ。アメリカが日本に対して権力を振るうことができるとすれば、それは多くの日本人がアメリカに脅されているからだ。彼らは日本が身ぐるみはがれて、将来、敵対国に対してなすすべもなく見捨てられるのではないか、と恐れているのだ。
 
 そして日本の検察は、メディアを使って野心的な政治家に脅しをかけることで、よりよい民主国家を目指す日本の歩みを頓挫させかねない力を持っている。
 
 この両者は、日本の利益を考えれば、大いなる不幸と称するよりない方向性を目指し、結託している。なぜなら日本を、官僚ではなく、あるいは正当な権力を強奪する者でもない、国民の、国民による、そして国民のための完全なる主権国家にすべく、あらゆる政党の良識ある政治家たちが力を合わせなければならない、いまというこの重大な時に、検察はただ利己的な、自己中心的な利益のみを追求しているからである。そしてその利益とは、健全な国家政治はどうあるべきか、などということについては一顧だにせず、ただ旧態依然とした体制を厳格に維持することに他ならないのである。
 
 日本のメディアはどうかと言えば、無意識のうちに(あるいは故意に?)、現政権が失敗すれば、沖縄の米軍基地問題に関して自国の主張を押し通せると望むアメリカ政府の意向に協力する形で、小沢のみならず鳩山をもあげつらい(やったこと、やらなかったことなど、不品行と思われることであれば何でも)、彼らの辞任を促すような状況に与する一方である。しかし彼らが辞任するようなことがあれば、国民のための主権国家を目指す日本の取り組みは、大きな後退を余儀なくされることは言うまでもない。
 
 日本の新政権が牽制しようとしている非公式の政治システムには、さまざまな脅しの機能が埋め込まれている。何か事が起きれば、ほぼ自動的に作動するその機能とは超法規的権力の行使である。このような歴史的な経緯があったからこそ、有権者によって選ばれた政治家たちは簡単に脅しに屈してきた。
 
 ところで、前述のクリントンとゲーツが日本に与えたメッセージの内容にも、姿勢にも、日本人を威嚇しようとする意図があらわれていた。しかし鳩山政権にとっては、アメリカの脅しに屈しないことが、きわめて重要である。日本に有利に問題を解決するには、しばらくの間は問題を放置してあえて何もせず、それよりも将来の日米関係という基本的な論議を重ねていくことを優先させるべきである。
 
 アメリカがこの問題について、相当の譲歩をせず、また日米両国が共に問題について真剣に熟考しないうちは、たとえ日本が五月と定められた期限内に決着をつけることができなかったとしても、日本に不利なことは何ひとつ起こりはしない。
 
 それより鳩山政権にとっては、国内的な脅しに対処することの方が困難である。普通、このような脅しに対しては、脅す側の動機や戦略、戦法を暴くことで、応戦するしかない。心ある政治家が検察を批判することはたやすいことではない。すぐに「検察の捜査への介入」だと批判されるのがおちだからだ。つまり検察の権力の悪用に対抗し得るのは、独立した、社会の監視者として目を光らせるメディアしかないということになる。
 
 日本のメディアは自由な立場にある。しかし真の主権国家の中に、より健全な民主主義をはぐくもうとするならば、日本のメディアは現在のようにスキャンダルを追いかけ、果てはそれを生み出すことに血道を上げるのを止め、国内と国際政治の良識ある観察者とならなければならない。そして自らに備わる力の正しい用い方を習得すべきである。さらに政治改革を求め、選挙で一票を投じた日本の市民は、一歩退いて、いま起こりつつあることは一体何であるのかをよく理解し、メディアにも正しい認識に基づいた報道をするよう求めるべきなのである。
 
訳◎井上 実
 
(了)

(引用終わり)



続き)日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その2)=カレル・ヴァン・ウォルフレン

2010年04月21日 | 日記
日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その2)=カレル・ヴァン・ウォルフレン
2010年3月19日 中央公論


◇小沢の価値

 日本の新聞は、筆者の知る世界のいかなるメディアにも増して、現在何が起こりつつあるかについて、きわめて均質な解釈を行う。そしてその論評内容は各紙互いに非常によく似通っている。かくして、こうした新聞を購読する人々に、比較的大きな影響を及ぼすことになり、それが人々の心理に植えつけられるという形で、政治的現実が生まれるのである。このように、日本の新聞は、国内権力というダイナミクスを監視する立場にあるのではなく、むしろその中に参加する当事者となっている。有力新聞なら、いともたやすく現在の政権を倒すことができる。彼らが所属する世界の既存の秩序を維持することが、あたかも神聖なる最優先課題ででもあるかのように扱う、そうした新聞社の幹部編集者の思考は、高級官僚のそれとほとんど変わらない。
 
 いまという我々の時代においてもっとも悲しむべきは、先進世界と呼ばれるあらゆる地域で新聞界が大きな問題を抱えていることであろう。商業的な利益に依存する度合いを強めた新聞は、もはや政治の成り行きを監視する信頼に足る存在ではなくなってしまった。日本の新聞はその点、まだましだ。とはいえ、日本の政治がきわめて重要な変化の時を迎えたいま、新聞が信頼できる監視者の立場に就こうとしないのは、非常に残念なことだ。これまで日本のメディアが新しい政府について何を報道してきたかといえば、誰の役にも立ちはせぬありふれたスキャンダルばかりで、日本人すべての未来にとって何が重要か、という肝心な視点が欠落していたのではないか。
 
 なぜ日本の新聞がこうなってしまったのか、原因はやはり長年の間に染みついた習性にあるのかもしれない。普通、記者や編集者たちは長年手がけてきたことを得意分野とする。日本の政治記者たちは、長い間、自民党の派閥争いについて、また近年になってからは連立政権の浮沈について、正確な詳細を伝えようと鎬を削ってきた。
 
 かつてタイで起きた軍事クーデターについて取材していた時、筆者はことあるごとに、バンコックに駐在していた日本人の記者仲間に意見を求めることにしていた。タイ軍内部の派閥抗争にかけて、日本人記者に匹敵する識見をそなえていたジャーナリストは他にいなかったからだ。したがって、鳩山政権が成立後、連立を組んだ政党との間に生じた、現実の、あるいは架空の軋轢に、ジャーナリストたちの関心が注がれたのは不思議ではなかった。まただからこそ、日本のメディアは民主党の閣僚たちの間に、きわめてわずかな齟齬が生じたといっては、盛んに書き立てるのだろう。自民党内部での論争や派閥抗争がジャーナリストたちにとって格好の取材ネタであったことは、筆者にもよく理解できる(筆者自身、角福戦争の詳細で興味深い成り行きを、ジャーナリストとして取材した)。なぜなら日本のいわゆる与党は、これまで話題にする価値のあるような政策を生み出してこなかったからだ。
 
 小泉は政治改革を求める国民の気運があったために、ずいぶん得をしたものの、現実にはその方面では実効を生まなかった。彼はただ、財務省官僚の要請に従い、改革を行ったかのように振る舞ったにすぎない。だがその高い支持率に眼がくらんだのか、メディアは、それが単に新自由主義的な流儀にすぎず、国民の求めた政治改革などではなかったことを見抜けなかった。
 
 彼が政権を去った後、新しい自民党内閣が次々と誕生しては退陣を繰り返した。自民党は大きく変化した国内情勢や世界情勢に対処可能な政策を打ち出すことができなかった。なぜなら、彼らには政治的な舵取りができなかったからだ。自民党の政治家たちは、単にさまざまな省庁の官僚たちが行う行政上の決定に頼ってきたにすぎない。ところが官僚たちによる行政上の決定とは、過去において定められた路線を維持するために、必要な調整を行うためのものである。つまり行政上の決定は、新しい路線を打ち出し、新しい出発、抜本的な構造改革をなすための政治的な決断、あるいは政治判断とは完全に区別して考えるべきものなのである。こうしてポスト小泉時代、新聞各紙が内閣をこき下ろすという役割を楽しむ一方で、毎年のように首相は代わった。
 
 このような展開が続いたことで、日本ではそれが習慣化してしまったらしい。実際、鳩山政権がもつかどうか、退陣すべきなのではないか、という噂が絶えないではないか。たとえば小沢が権力を掌握している、鳩山が小沢に依存していると論じるものは多い。だがそれは当然ではないのか。政治家ひとりの力で成し遂げられるはずがあろうか。しかし論説執筆者たちは民主党に関して、多くのことを忘れているように思える。
 
 そして山県有朋以降、連綿と受け継がれてきた伝統を打破し、政治的な舵取りを掌握した真の政権を打ち立てるチャンスをもたらしたのは、小沢の功績なのである。小沢がいなかったら、一九九三年の政治変革は起きなかっただろう。あれは彼が始めたことだ。小沢の存在なくして、信頼に足る野党民主党は誕生し得なかっただろう。そして昨年八月の衆議院選挙で、民主党が圧勝することはおろか、過半数を得ることもできなかったに違いない。
 
 小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりであることは疑いない。ヨーロッパには彼に比肩し得るような政権リーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない。
 
 小沢はその独裁的な姿勢も含め、これまで批判され続けてきた。しかし幅広く読まれているメディアのコラムニストたちの中で、彼がなぜ現在のような政治家になったのか、という点に関心を持っている者はほとんどいないように思える。小沢がいなかったら、果たして民主党は成功し得ただろうか?
 
 民主党のメンバーたちもまた、メディアがしだいに作り上げる政治的現実に多少影響されているようだが、決断力の点で、また日本の非公式な権力システムを熟知しているという点で、小沢ほどの手腕を持つ政治家は他には存在しないという事実を、小沢のような非凡なリーダーの辞任を求める前によくよく考えるべきである。
 
 もし非公式な権力システムの流儀に影響されて、民主党の結束が失われでもすれば、その後の展開が日本にとって望ましいものだとは到底思えない。第二次世界大戦前に存在していたような二大政党制は実現しそうにない。自民党は分裂しつつある。小さな政党が将来、選挙戦で争い合うことだろうが、確固たる民主党という存在がなければ、さまざまな連立政権があらわれては消えていく、というあわただしい変化を繰り返すだけのことになる。すると官僚たちの権力はさらに強化され、恐らくは自民党政権下で存在していたものよりもっとたちの悪い行政支配という、よどんだ状況が現出することになろう。


◇踏み絵となった普天間問題

 民主党の行く手に立ち塞がる、もうひとつの重要な障害、日米関係に対しても、メディアはしかるべき関心を寄せてはいない。これまで誰もが両国の関係を当然のものと見なしてきたが、そこには問題があった。それはアメリカ政府がこれまで日本を完全な独立国家として扱ってはこなかったことである。ところが鳩山政権は、この古い状況を根本的に変えてしまい、いまやこの問題について公然と議論できるようになった。この事実は、以前のような状況に戻ることは二度とない、ということを意味している。
 
 しかしオバマ政権はいまだに非自民党政権を受け入れることができずにいる。そのような姿勢を雄弁に物語るのが、選挙前後に発表されたヒラリー・クリントン国務長官やロバート・ゲーツ国防長官らの厳しいメッセージであろう。沖縄にあるアメリカ海兵隊の基地移設問題は、アメリカ政府によって、誰がボスであるか新しい政権が理解しているかどうかを試す、テストケースにされてしまった。
 
 アメリカ政府を含め、世界各国は長い間、日本が国際社会の中でより積極的な役割を果たすよう望んできた。日本の経済力はアメリカやヨーロッパの産業界の運命を変えてしまい、またその他の地域に対しても多大な影響を及ぼした。ところが、地政学的な観点からして、あるいは外交面において、日本は実に影が薄かった。「経済大国であっても政治小国」という、かつて日本に与えられたラベルに諸外国は慣れてしまった。そして、そのような偏った国際社会でのあり方は望ましくなく、是正しなければいけないと新政府が声を上げ始めたいまになって、アメリカ人たちは軍事基地のことでひたすら愚痴をこぼす始末なのだ。
 
 日本の検察が、法に違反したとして小沢を執拗に追及する一方、アメリカは二〇〇六年に自民党に承諾させたことを実行せよと迫り続けている。このふたつの事柄からは、ある共通点が浮かび上がる。両者には平衡感覚とでもいうものが欠落しているのである。
 
 長い間留守にした後で、日本に戻ってきた昨年の十二月から今年の二月まで、大新聞の見出しを追っていると、各紙の論調はまるで、小沢が人殺しでもしたあげく、有罪判決を逃れようとしてでもいるかのように責め立てていると、筆者には感じられる。小沢の秘書が資金管理団体の土地購入を巡って、虚偽記載をしたというこの手の事件は、他の民主主義国家であれば、その取り調べを行うのに、これほど騒ぎ立てることはない。まして我々がいま目撃しているような、小沢をさらし者にし、それを正当化するほどの重要性など全くない。しかも検察は嫌疑不十分で小沢に対して起訴することを断念せざるを得なかったのである。なぜそれをこれほどまでに極端に騒ぎ立てるのか、全く理解に苦しむ。検察はバランス感覚を著しく欠いているのではないか、と考えざるを得なくなる。
 
 しかもこのような比較的些細なことを理由に民主党の最初の内閣が退陣するのではないか、という憶測が生まれ、ほぼ連日にわたって小沢は辞任すべきだという世論なるものが新聞の第一面に掲載されている様子を見ていると、たまに日本に戻ってきた筆者のような人間には、まるで風邪をひいて発熱した患者の体温が、昨日は上がった、今日は下がったと、新聞がそのつど大騒ぎを繰り広げているようにしか思えず、一体、日本の政治はどうなってしまったのかと、愕然とさせられるのである。つい最近、筆者が目にした日本の主だった新聞の社説も、たとえ証拠が不十分だったとしても小沢が無実であるという意味ではない、と言わんばかりの論調で書かれていた。これを読むとまるで個人的な恨みでもあるのだろうかと首を傾げたくなる。日本の未来に弊害をもたらしかねぬ論議を繰り広げるメディアは、ヒステリックと称すべき様相を呈している。
 
 普天間基地の問題を巡る対応からして、アメリカの新大統領は日本で起こりつつある事態の重要性に全く気づいていないのがわかる。オバマとその側近たちは、安定した新しい日米の協力的な関係を築くチャンスを目の前にしておきながら、それをみすみすつぶそうとしている。それと引き換えに彼らが追求するのは、アメリカのグローバル戦略の中での、ごくちっぽけなものにすぎない。
 
 当初は、世界に対する外交姿勢を是正すると表明したのとは裏腹に、オバマ政権の態度は一貫性を欠いている。このことは、アメリカ軍が駐留する国々に対するかかわりのみならず、アメリカの外交政策までをも牛耳るようになったことを物語っている。しかも対日関係問題を扱うアメリカ高官のほとんどは、国防総省の「卒業生」である。つまりアメリカの対日政策が、バランス感覚の欠如した、きわめて偏狭な視野に基づいたものであったとしても、少しも不思議ではないわけだ。


◇何が日本にとって不幸なのか

 中立的な立場から見れば、きわめて些細なことであるのに、それが非常に強大な存在を動揺させる場合、それはあなたが非常に強い力を有している証左である。いま日本の置かれた状況に目を向けている我々は、権力とはかくも変化しやすいものだという事実を考える必要がある。昨年、日本では、一九五〇年代以来、最大規模の権力の移転が起きた。そして民主党は、いくつかの事柄に関して、もはや二度と後戻りすることができないほどに、それらを決定的に変えた。しかしながら、だからといって民主党の権力が強化されたわけではない。民主党はこれからもたび重なる試練に立ち向かわねばならぬだろう。
 
 もし鳩山内閣が道半ばにして退陣するようなことがあれば、それは日本にとって非常に不幸である。自民党が政権を握り、毎年のように首相が交代していた時期、一体何がなされたというのか? もし、またしても「椅子取りゲーム」よろしく、首相の顔ぶれが次々と意味もなく代わるような状況に後退することがあっては、日本の政治の未来に有益であるはずがない。
 
 民主党の力を確立するためには、当然、何をもって重要事項とするかをはき違えた検察に対処しなければならず、また検察がリークする情報に飢えた獣のごとく群がるジャーナリストたちにも対応しなければなるまい。小沢が初めて検察の標的になったのは、昨年の五月、西松建設疑惑問題に関連して、公設秘書が逮捕された事件であり、彼は民主党代表を辞任し、首相になるチャンスを見送った。
 
 そのとき、もし検察が「同じ基準を我々すべてに適用するというのであれば」国会はほぼ空っぽになってしまうだろう、という何人かの国会議員のコメントが報じられていたのを筆者は記憶している。確かに検察は、理論的には自民党政権時代のように、たとえば国会の半分ほどを空にする力を持っていた。だが、もし検察が本当にそのような愚挙に出たとしたら、そんな権力は持続性を持つはずはない。そのような事態が発生すれば、新聞を含む日本の誰もが、検察の行動は常軌を逸していると断じるだろうからだ。
 
 このように考えると、ここに権力の重要な一面があらわれているように思われる。権力とは決して絶対的なものではない。それはどこか捉えどころのないものである。はっきりした概念としてはきわめて掴みにくいものなのである。それはニュートン物理学に何らかの形でかかわる物質によって構築されているわけでもない。権力の大きさは測ることもできなければ、数え上げることも、あるいは数列であらわすこともできない。権力を数値であらわそうとした政治学者が過去にはいたが、そのような試みは無残にも失敗した。これは影響力とも違う。影響力は計測することができるからだ。権力は、主にそれを行使する相手という媒介を通じて生じる。対象となるのは個人に限らず、グループである場合もあるだろう(相手があって生じるという意味で、権力はともすれば愛に似ている)。
 
 近年の歴史を見れば、そのことがよくわかる。冷戦が終結する直前の旧ソ連の権威はどうなったか? 強大な権力機構があの国には存在していたではないか。そして誰もがその権力は揺るぎないものと見なしていたのではなかったか。その力ゆえに、第二次世界大戦後の地政学上の構図が形作られたのではなかったか。
 
 ところが小さな出来事がきっかけとなってベルリンの壁が崩れた。ほどなくして、長きにわたり東欧諸国を縛り付けてきた、モスクワの強大な権力が消失した。それが消えるのに一週間とかからなかった。なぜか? なぜならモスクワの権力とは人々の恐怖、強大な旧ソ連の軍事力に対する恐れを源として生じていたからだ。ところがミハイル・ゴルバチョフは事態を食い止めるために武力を行使しないと述べ、現実にそれが言葉通りに実行されるとわかるや、旧ソ連の権力は突然、跡形もなく消え失せた。
 
 いま我々が日本で目撃しつつあり、今後も続くであろうこととは、まさに権力闘争である。これは真の改革を望む政治家たちと、旧態依然とした体制こそ神聖なものであると信じるキャリア官僚たちとの戦いである。しかしキャリア官僚たちの権力など、ひとたび新聞の論説委員やテレビに登場する評論家たちが、いま日本の目の前に開かれた素晴らしい政治の可能性に対して好意を示すや否や、氷や雪のようにたちまち溶けてなくなってしまう。世の中のことに関心がある人間ならば、そして多少なりとも日本に対して愛国心のある日本人であるならば、新しい可能性に関心を向けることは、さほど難しいことではあるまい。
 
訳◎井上 実
 
(その3へ続く)


*次の日記欄に続く……


日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン

2010年04月20日 | 日記
3月半ば、マイミクのタケセンさんが、『中央公論・4月号』(3月10日発売)に掲載された、オランダ出身のジャーナリスト、アムステルダム大学比較政治・比較経済担当教授、ウォルフレンの論文についての要旨を日記欄とブログに書かれ、全文を読むことを推奨されました。

【タケセンさんのmixi日記】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1440208774&owner_id=548859
【タケセンさんのブログ『思索の日記』】
http://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen

*タケセンさんの日記を読むことを強くお薦めします。
意識の内部から、変革をもたらすはずです。


僕はさっそく中央公論を買い求め、全文を読みました。
僕は読み終わってからすぐに、引用と部分的要旨を交えながら、ツイートしました。何人かの方がリツイートしてくださり、そこから何人かの方に伝わったと思います。
他にも読んだ方がたくさんいたと推察され、日増しに”ウォルフレンの論文”という言葉と内容の引用、要旨がツイッターで見られるようになり、すぐに古いニュースになってしまうツイッターにあって、今でも”ウォルフレンの論文”と書かれたツイートを目にします。

タケセンさんが推奨されるくらいの論文だから、優れた論文だと察していましたが、読んで、また、ツイッターで多くの方が取り上げるだけあって、あらためて優れた論文だと思いました。

(1)(2)(3)で構成された長い論文なので、続けて日記欄に掲載します。
お時間のあるときに、何度でも来ていただき、ぜひ読んでいただければと思います。
コメントは、とても嬉しいですが、この論文については、何よりも読んでいただくことが僕の望みです。コメントは気になさらぬように。

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(引用はYahoo『みんなの政治』から……引用開始)


『日本政治再生を巡る権力闘争の謎(その1)=カレル・ヴァン・ウォルフレン』


2010年3月19日 中央公論


 いま日本はきわめて重要な時期にある。なぜなら、真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっているからだ。いや、それ以上の意味がある。もし民主党のリーダーたちが、理念として掲げる内閣中心政権を成功裏に確立することができるならば、それは日本に限らず地球上のあらゆる国々に対し、重要な規範を示すことになるからである。それは我々の住む惑星の政治の流れに好ましい影響を与える数少ない事例となろう。
 
 しかしながら、それを実現させるためには、いくつもの険しい関門を突破しなければなるまい。国際社会の中で、真に独立した国家たらんとする民主党の理念を打ち砕こうとするのは、国内勢力ばかりではない。アメリカ政府もまたしかりである。いま本稿で民主党の行く手を阻むそうした内実について理解を深めることは、よりよい社会を求める日本の市民にとっても有益なのではないかと筆者は考える。


◇政権交代の歴史的意味

 各地で戦争が勃発し、経済は危機的な状況へと向かい、また政治的な機能不全が蔓延するこの世界に、望ましい政治のあり方を示そうとしているのが、他ならぬこの日本であるなどと、わずか数年前、筆者を含め誰に予測し得たであろうか。ところがその予測しがたいことが現実に起きた。初めて信頼に足る野党が正式に政権の座に就き、真の政府になると、すなわち政治の舵取りを行うと宣言したのだ。だが、民主党政権発足後の日本で起こりつつある変化には、実は大半の日本人が考えている以上に大きな意味がある、と筆者は感じている。
 
 まず現代の歴史を振り返ってみよう。第二次世界大戦に続く三〇年に及んだ輝かしい経済発展期が過ぎると、日本は目標を見失い停滞し始めた。自分たちの生活が改善されているという実感を日本の人々は抱くことができなくなった。日本の政治システムには何か重要なもの、これまで歩んできた道に代わる、より希望に満ちた方向性を打ち出すための何かが、欠落しているように筆者には見えた。一九九三年のごく短い一時期、行政と政治的な意思決定が違うことをよく理解していた政治家たちは、日本に政治的な中心を築こうと改革を志した。しかしそのような政治家はきわめて少数であり、行政サイドからは全く支持が得られなかった。ただしいい面もあった。彼らは同じ志を持つ相手を見出した。そして後に政権の座に就く、信頼に足る野党の結成へと動き出したからである。
 
 九三年、日本社会にも新しい意識が広がっていった。これまで長く求められてはいても実行されずにいた抜本的な改革が、実現可能であることがわかったからだ。以来、影響力のある政治家や評論家、ビジネスマンたちは、機会あるごとに、抜本的な政治改革の必要性を訴えるようになった。
 
 小泉純一郎が大方の予想を裏切る形で自民党の総裁に選ばれた際、それがほぼ実現できるのではないかと、多くの人々は考えた。ところが、首相という立場ながら、セレブリティ、テレビの有名人として注目を集めた小泉の改革は、残念ながら見掛け倒しに終わった。結局のところ、日本の政治に、真の意味で新しい始まりをもたらすためには、自民党も、それを取り巻くあらゆる関係も、あるいは慣例や習慣のすべてを排除する必要があることが明らかになった。
 
 チャンスは昨年八月、民主党が選挙で圧勝したことでようやく巡ってきた。そして九三年以来、結束してきた民主党幹部たちは、間髪を入れず、新しい時代を築くという姿勢をはっきりと打ち出したのだった。
 
 民主党が行おうとしていることに、一体どのような意義があるのかは、明治時代に日本の政治機構がどのように形成されたかを知らずして、理解することはむずかしい。当時、選挙によって選ばれた政治家の力を骨抜きにするための仕組みが、政治システムの中に意図的に組み込まれたのである。そして民主党は、山県有朋(一八三八~一九二二年、政治家・軍人)によって確立された日本の官僚制度(そして軍隊)という、この国のガバナンスの伝統と決別しようとしているのである。
 
 山県は、慈悲深い天皇を中心とし、その周辺に築かれた調和あふれる清らかな国を、論争好きな政治家がかき乱すことに我慢ならなかったようだ。互いに当選を目指し争い合う政治家が政治システムを司るならば、調和など失われてしまうと恐れた山県は、表向きに政治家に与えられている権力を、行使できなくなるような仕組みを導入したのだ。
 
 山県は、ビスマルク、レーニン、そしてセオドア・ルーズベルトと並んで、一〇〇年前の世界の地政学に多大な影響を与えた強力な政治家のひとりとして記憶されるべき人物であろう。山県が密かにこのような仕掛けをしたからこそ、日本の政治システムは、その後、一九三〇年代になって、軍官僚たちが無分別な目的のために、この国をハイジャックしようとするに至る方向へと進化していったのである。山県の遺産は、その後もキャリア官僚と、国会議員という、実に奇妙な関係性の中に受け継がれていった。
 
 いま民主党が自ら背負う課題は、重いなどという程度の生易しいものではない。この課題に着手した者は、いまだかつて誰ひとり存在しないのである。手本と仰ぐことが可能な経験則は存在しないのである。民主党の閣僚が、政策を見直そうとするたび、何らかの、そして時に激しい抵抗に遭遇する。ただし彼らに抵抗するのは、有権者ではない。それは旧態依然とした非民主主義的な体制に、がっちりと埋め込まれた利害に他ならない。まさにそれこそが民主党が克服せんと目指す標的なのである。
 
 明治時代に設立された、議会や内閣といった民主主義の基本的な機構・制度は、日本では本来の目的に沿う形で利用されてはこなかった。そして現在、政治主導によるガバナンスを可能にするような、より小さな機構を、民主党はほぼ無から創り上げることを余儀なくされている。これを見て、民主党の連立内閣の大臣たちが手をこまねいていると考える、気の短い人々も大勢いることだろう。たとえば外務省や防衛省などの官僚たちは、政治家たちに、従来の省内でのやり方にしたがわせようと躍起になっている。
 
 彼らが旧来のやり方を変えようとしないからこそ、ロシアとの関係を大きく進展させるチャンスをみすみす逃すような悲劇が早くも起きてしまったのだ。北方領土問題を巡る外交交渉について前向きな姿勢を示した、ロシア大統領ドミトリー・メドヴェージェフの昨年十一月のシンガポールでの発言がどれほど重要な意義を持っていたか、日本の官僚も政治家も気づいていなかった。官僚たちの根強い抵抗や、政策への妨害にてこずる首相官邸は、民主党の主張を伝えるという、本来なすべき機能を果たしていない。民主党がどれだけの成果を上げるかと問われれば、たとえいかに恵まれた状況下であっても、難しいと言わざるを得ないだろう。しかし、旧体制のやり方に官僚たちが固執するあまり、生じている現実の実態を考えると、憂鬱な気分になるばかりだ。


◇官僚機構の免疫システム

 明治以来、かくも長きにわたって存続してきた日本の政治システムを変えることは容易ではない。システム内部には自らを守ろうとする強力なメカニズムがあるからだ。一年ほど日本を留守にしていた(一九六二年以来、こんなに長く日本から離れていたのは初めてだった)筆者が、昨年戻ってきた際、日本の友人たちは夏の選挙で事態が劇的に変化したと興奮の面持ちで話してくれた。そのとき筆者は即座に「小沢を引きずり下ろそうとするスキャンダルの方はどうなった?」と訊ね返した。必ずそのような動きが出るに違いないことは、最初からわかっていたのだ。
 
 なぜか? それは日本の官僚機構に備わった長く古い歴史ある防御機能は、まるで人体の免疫システムのように作用するからだ。ここで一歩退いて、このことについて秩序立てて考えてみよう。あらゆる国々は表向きの、理論的なシステムとは別個に、現実の中で機能する実質的な権力システムというべきものを有している。政治の本音と建前の差は日本に限らずどんな国にもある。実質的な権力システムは、憲法のようなものによって規定され制約を受ける公式の政治システムの内部に存在している。そして非公式でありながら、現実の権力関係を司るそのようなシステムは、原則が説くあり方から遠ざかったり、異なるものに変化したりする。
 
 軍産複合体、そして巨大金融・保険企業の利益に権力が手を貸し、彼らの利害を有権者の要求に優先させた、この一〇年間のアメリカの政治など、その典型例だといえよう。もちろんアメリカ憲法には、軍産複合体や金融・保険企業に、そのような地位を確約する規定などない。
 
 第二次世界大戦後の長い期間、ときおり変化はしても、主要な骨格のほとんど変わることがなかった日本の非公式なシステムもまた、非常に興味深いケースである。これまで憲法や他の法律を根拠として、正しいあり方を求めて議論を繰り広げても、これはなんら影響を受けることはなかった。なぜなら、どのような政治取引や関係が許容されるかは法律によって決定されるものではないというのが、非公式な日本のシステムの重要な特徴だからだ。つまり日本の非公式な政治システムとは、いわば超法規的存在なのである。
 
 政治(そしてもちろん経済の)権力という非公式なシステムは、自らに打撃を与えかねない勢力に抵抗する。そこには例外なく、自分自身を防御する機能が備わっている。そして多くの場合、法律は自己防御のために用いられる。ところが日本では凶悪犯罪が絡まぬ限り、その必要はない。実は非公式な日本のシステムは、過剰なものに対しては脆弱なのである。たとえば日本の政治家の選挙資金を負担することは企業にとってまったく問題はない(他の多くの国々でも同様)。ところがそれがあるひとりの政治家に集中し、その人物がシステム内部のバランスを脅かしかねないほどの権力を握った場合、何らかの措置を講ずる必要が生じる。その結果が、たとえば田中角栄のスキャンダルだ。
 
 また起業家精神自体が問題とされるわけではないが、その起業家が非公式なシステムや労働の仕組みを脅かすほどの成功をおさめるとなると、阻止されることになる。サラリーマンのための労働市場の創出に貢献したにもかかわらず、有力政治家や官僚らに未公開株を譲渡して政治や財界での地位を高めようとしたとして有罪判決を受けた、リクルートの江副浩正もそうだった。さらに金融取引に関して、非公式なシステムの暗黙のルールを破り、おまけに体制側の人間を揶揄したことから生じたのが、ホリエモンこと堀江貴文のライブドア事件だった。
 
 いまから一九年前、日本で起きた有名なスキャンダル事件について研究をした私は『中央公論』に寄稿した。その中で、日本のシステム内部には、普通は許容されても、過剰となるやたちまち作用する免疫システムが備わっており、この免疫システムの一角を担うのが、メディアと二人三脚で動く日本の検察である、と結論づけた。当時、何ヵ月にもわたり、株取引に伴う損失補填問題を巡るスキャンダルが紙面を賑わせていた。罪を犯したとされる証券会社は、実際には当時の大蔵省の官僚の非公式な指示に従っていたのであり、私の研究対象にうってつけの事例だった。しかしその結果、日本は何を得たか? 儀礼行為にすぎなくとも、日本の政治文化の中では、秩序回復に有益だと見なされるお詫びである。そして結局のところ、日本の金融システムに新たな脅威が加わったのだ。
 
 検察とメディアにとって、改革を志す政治家たちは格好の標的である。彼らは険しく目を光らせながら、問題になりそうなごく些細な犯罪行為を探し、場合によっては架空の事件を作り出す。薬害エイズ事件で、厚生官僚に真実を明らかにするよう強く迫り、日本の国民から絶大な支持を得た菅直人は、それからわずか数年後、その名声を傷つけるようなスキャンダルに見舞われた。民主的な手続きを経てその地位についた有権者の代表であっても、非公式な権力システムを円滑に運営する上で脅威となる危険性があるというわけだ。
 
 さて、この日本の非公式な権力システムにとり、いまだかつて遭遇したことのないほどの手強い脅威こそが、現在の民主党政権なのである。実際の権力システムを本来かくあるべしという状態に近づけようとする動きほど恐ろしいことは、彼らにとって他にない。そこで検察とメディアは、鳩山由紀夫が首相になるや直ちに手を組み、彼らの地位を脅かしかねないスキャンダルを叩いたのである。


◇超法規的な検察の振る舞い

 日本の検察当局に何か積極的に評価できる一面があるかどうか考えてみよう。犯罪率が比較的低い日本では、他の国々とは違って刑務所が犯罪者で溢れるということはない。つまり日本では犯罪に対するコントロールがうまく機能しており、また罰することよりも、犯罪者が反省し更生する方向へと促し続けたことは称賛に値する。また検察官たちが、社会秩序を維持することに純粋な意味で腐心し、勇敢と称賛したくなるほどの責任感をもって社会や政治の秩序を乱す者たちを追及していることも疑いのない事実だろう。しかしいま、彼らは日本の民主主義を脅かそうとしている。民主党の政治家たちは今後も検察官がその破壊的なエネルギーを向ける標的となり続けるであろう。
 
 日本の超法規的な政治システムが山県有朋の遺産だとすれば、検察というイメージ、そしてその実質的な役割を確立した人物もまた、日本の歴史に存在する。平沼騏一郎(一八六七~一九五二年、司法官僚・政治家)である。彼は「天皇の意思」を実行する官僚が道徳的に卓越する存在であることを、狂信的とも言える熱意をもって信じて疑わなかった。山県のように彼もまた、国体思想が説く神秘的で道徳的に汚れなき国家の擁護者を自任していた。マルクス主義、リベラリズム、あるいは単に民主的な選挙といった、あらゆる現代的な政治形態から国を守り抜くべきだと考えていたのである。
 
 一九四五年以降も、平沼を信奉する人々の影響力によって、さまざまな点で超法規的な性格を持つ日本の司法制度の改革は阻止された。ある意味では現在の検察官たちの動きを見ていると、そこにいまなお司法制度を政府という存在を超えた至高なる神聖な存在とする価値観が残っているのではないか、と思わせるものがある。オランダにおける日本学の第一人者ウィム・ボートは、日本の検察は古代中国の検閲(秦代の焚書坑儒など)を彷彿させると述べている。
 
 日本の検察官が行使する自由裁量権は、これまで多くの海外の法律専門家たちを驚かせてきた。誰を起訴の標的にするかを決定するに際しての彼らの権力は、けたはずれの自由裁量によって生じたものである。より軽微な犯罪であれば、容疑者を追及するか否かを含め、その人物が深く反省し更生しようという態度を見せるのであれば、きわめて寛大な姿勢でのぞむこともある。このようなやり方は、法に背きはしても、刑罰に処するほどではないという、一般の人々に対しては効果的であり、いくつかの国々の法執行機関にとっては有益な手本となる場合もあるだろう。
 
 しかしある特定人物に対して厳しい扱いをすると決めた場合、容疑者を参らせるために、策略を用い、心理的な重圧をかけ、さらには審理前に長く拘禁して自白を迫る。検察官たちは法のグレーゾーンを利用して、改革に意欲的な政治家たちを阻もうとする。どんなことなら許容され、逆にどのようなことが決定的に違法とされるのかという区分はかなりあいまいである。たとえば、合法的な節税と違法な脱税の境界がさほど明確でない国もある。ところで日本にはさまざまな税に関する法律に加えて、きわめてあいまいな政治資金規正法がある。検察はこの法律を好んで武器として利用する。検察官たちの取り調べがいかに恣意的であるかを理解している日本人は大勢いる。それでもなお、たとえば小沢の支持者も含めて多くの人々が、彼が少なくとも「誠意ある態度」を示して、謝罪すべきだと、感じていることは確かだ。
 
 これなどまさに、非公式な権力システムと折り合いをつけるために要請される儀礼行為とも言えるだろう。儀礼の舞台は国会であり、また民主党内部でもあり、国民全般でもある。新聞各紙は「世論が求めている」などと盛んに騒ぎ立てているが、本当のところはわからない。しかも詫びて頭を下げ、あるいは「自ら」辞任するとでもいうことになれば、そのような儀礼行為は、実際には非公式のシステムに対して行われるのである。
 
 体制に備わった免疫システムは、メディアの協力なくしては作用しない。なぜなら政治家たちを打ちのめすのは、彼らがかかわったとされる不正行為などではなく、メディアが煽り立てるスキャンダルに他ならないからだ。検察官たちは絶えず自分たちが狙いをつけた件について、メディアに情報を流し続ける。そうやっていざ標的となった人物の事務所に襲いかかる際に、現場で待機しているようにと、あらかじめジャーナリストや編集者たちに注意を促すのだ。捜査が進行中の事件について情報を漏らすという行為は、もちろん法的手続きを遵守するシステムにはそぐわない。しかし本稿で指摘しているように、検察はあたかも自分たちが超法規的な存在であるかのように振る舞うものだ。
 
訳◎井上 実
 
(その2へ続く)

*次の日記欄に続く……

イラク戦争の検証は行われるのか―ファルージャ市民虐殺から

2010年04月14日 | 日記
2004年11月9日未明より、米軍とイラク軍約1万5000人は、武装勢力の拠点ファルージャ市を完全制圧するため、総攻撃を開始した。8日、すでに総合病院など一部施設を占拠した米軍は、激しい空爆と地上からの侵攻作戦を展開した。ラムズフェルド米国防長官(当時)は「途中で作戦を中止することはない」と徹底的な掃討作戦を示唆した。市内には数千人の武装勢力が集結しているといわれ、ファルージャ攻防戦は03年の4月以来、イラクでの最大規模の軍事衝突となった。
約30万人の市民の多くは市外へ退避したとはいえ、20代から40代の人たちは、武装勢力側が戦闘員とみなし退避できず、家族ら合わせて10万人の民間人が残っていたと言われている。

フォトジャーナリスト・志葉玲さんは、http://reishiva.exblog.jp/3797471/ファルージャ総攻撃を目撃した、ワセック・ジャシム氏を取材し、ワセック氏が目撃した模様をツイッターで報道しています。
 
(志葉玲さんのツイート引用開始)

沖縄の米軍基地はイラクへ出撃する海兵隊の前線基地だった。イラク戦争中、最悪の米軍による虐殺ファルージャ総攻撃の目撃者、ワセック・ジャシム氏がファルージャより緊急来日。普天間基地移設で揺れる沖縄も訪れる予定。http://isnn.tumblr.com/post/508838776
posted at 23:13:46


今週末から各地で報告を行う、イラク人ゲストのワセック・ジャシム氏。彼の住むファルージャ市では何が起きてきたのか。2004年4月と11月、大体東京・新宿区と同じくらいの人口のファルージャ市は米軍に包囲され、集中的な攻撃を受ける。確認された犠牲者は7000人、行方不明者3000人。
posted at 00:11:17

続き)11月の攻撃では、米軍はまずファルージャの総合病院を占拠。4月の攻撃では、病院からのアルジャジーラの中継が米軍への国際世論の反発を呼んだからだ。病院の機材を奪い、運べない器具は破壊。さらには、医療スタッフや、治療を受けている人々を全員「テロリスト」として拘束した。
posted at 00:14:15

続き)ファルージャ総合病院が米軍に占拠されたため、現地医療 関係者は急遽、野戦病院を設営。しかし、これを米軍の戦闘機が空爆し、病人、医者、看護婦、負傷者を含めて、そこにいた人をすべて殺害した。
posted at 00:16:04

米軍はファルージャ市外へ逃げようとしている人々を老若男女かまわず射殺。川に飛び込んで逃げている人々まで米軍は狙撃した。さらに人々を建物の中に集めて銃殺し、建物ごと爆破、埋めてしまった。
posted at 00:17:48

続き)女性や子ども等の非戦闘員の超法規的処刑も行われた。ある女性は、銃剣で腿、胸、腰、そして頭部を突き刺されていた。ある遺体は首を切断され、別の遺体にくっつけられていた。街中、負傷者で溢れていたが、路上に倒れている人々を米軍の戦車がひき潰していった。
posted at 00:21:22

続き)昨年、私はファルージャを訪れた。サッカー場を掘り返した墓地はさらに大きくなっていた。治安は安定せず、外部の人間はイラク人ですら、特別な許可が無ければファルージャには入れない。私が訪れた時もイラク治安部隊による掃討作戦が始まった。
posted at 00:25:39

続き)ファルージャの人々を虐殺していた米軍の主力部隊は、第31海兵遠征部隊。沖縄のキャンプ・ハンセンが拠点で、思いやり予算など日本の税金の恩恵を被っていた。当時の小泉首相は、ファルージャの攻撃を4月、11月と2回も支持した。私は日本人として、ファルージャの人々に申し訳なく思う。
posted at 00:29:20

鳩山首相にイラク戦争検証を求める議員署名には、民主党(76名)の他、社民党(10名)、共産党(5名)、無所属(1名)、みんなの党(1名)、匿名希望(7名)の議員が署名。閣僚では、福島みずほ消費者・少子化対策担当大臣が署名した。匿名を除き、署名した議員リストは近く公開する予定。
posted at 22:46:22

(引用終わり)


凄惨、無慈悲としか言えない米軍の無差別作戦であった事は、すでにワセック氏らの発言によって明らかにされ、武装勢力を駆逐するために、というアメリカの大義名分が許されるのかどうか、多くの市民が虐殺されたことから、これも明らかです。
米軍の無差別攻撃は、ファルージャで始まったことではなく、たとえばベトナム戦争でも、南ベトナム解放戦線兵士が潜んでいる情報や証拠があれば、あるいは囲われていると米軍部隊が想像するだけでそのを民間人の区別なく逮捕、拘留、あるいは殲滅した事実がある。
そこに敵がいれば、民間人の犠牲など顧みず攻撃する。これが米軍の姿です。

志葉さんのツイートにもあるように、当時の小泉首相は、ファルージャ総攻撃を支持しました。当時の報道を見ると小泉は「成功させなければならない。治安の改善がイラク復興の鍵だ」と強く支持し、大野防衛庁長官(当時)は「新しい国造りの第一歩を確実にする意味で評価する」、細田官房長官(当時)も「基本的に米政府の考えを支持している」と立て続けに表明した。さらに小泉はその実態が明らかになってからも謝罪するどころか、「今回の作戦は一定の効果を与えた」と言い放ちました。
また、山本一太自民党参議員は、当時『スーパーモーニング』で、コメンテーターとして、作戦の支持を強く訴えていました。

米軍の大虐殺作戦への支持を表明した小泉は、それまでも米の戦争を支持し続けてきましたが、住民の大量虐殺を目的とした米軍の個々の軍事作戦に対して露骨に支持を表明したのは初めてで、これは香田証生さんが殺害された直後に「テロとの闘い」を声高に叫んだことを想起させます。自民党政権は「テロ撲滅」を口にすれば何をしてもいい、多数の市民を殺すのも必要だと言っているのに等しい。

また、沖縄キャンプ・ハンセンを拠点にしている、第31海兵遠征部隊は、ローテーション部隊で、ほとんど沖縄にいることはなく、他の在沖縄海兵隊も同様で、常時駐留しているのは約12000人の内半分くらいだと報告されていて、果たして広く言われているように「抑止力」なのか疑問で、普天間基地移設問題、広く沖縄の基地問題を考える上で、かけ離されてはいけない事実です。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

見かけにだまされないように
   
     現実というのは常にひとつきりです


                 村上春樹『1Q84』book1より

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇
     

志葉さんのツイートにもあるように、『イラク戦争の検証を求めるネットワーク』http://isnn.tumblr.com/では、民間人1000人以上のイラク戦争の検証を求める賛同者の活動によって、国会議員から「イラク戦争を検証する第三委員会設置を求める」署名を集め、鳩山首相に手渡されたわけですが、その中に、自民党議員がひとりもいないことが、この国の危さを物語っています。(もしかしたら匿名の中にいるかもしれませんが……)
ファルージャ総攻撃への支持、この一点だけでも、僕は自民党を支持できないし、小泉や山本一太を許せません。
志葉さんもおっしゃっているように、ファルージャの人たちに、また広くイラクの人たちに日本人として、申し訳なく思うと同時に、あのような政権や議員を生み出してしまったことを、僕自身望んでいなかったとはいえ、恥ずべきことだと感じます。
自民党の平和理念とは何なのか。彼らが口にする平和をよく考えていただきたい。
そんなふうに思います。そして、鳩山政権には速やかに「イラク戦争を検証する第三委員会」を設置し、しっかりイラク戦争の検証を行っていただきたいと望みます。

最後にニューバクダッド市郊外での米軍ヘリによるイラク民間人の虐殺映像を掲載します。見るに堪えない映像ですが、事実として認識することも大切です。
ただし、とてもショッキングな映像なので、ご自分で判断してからご覧ください。

http://wiredvision.jp/news/201004/2010040723.html



テレビを見ない時間は―たとえば鳩山さんの「政治哲学」を読む

2010年04月08日 | 日記
『外交青書』(以下青書)は、国際情勢の流れや前年度の日本の外交活動の概略を国民向けに取りまとめたもので、詳細性に欠けるが、日本の外交のカタチは明瞭化している。ただし、前年度の外交活動だから、前年度の前半の麻生政権の外交活動も含まれていて、僕が感じた鳩山外交ビジョンから見た青書に感じた違和感は、そうしたこともひとつにはあると思う。

それにしても違和感を覚えないわけにはいかないな。

鳩山外交ビジョンでもっとも注目すべきものは『東アジア共同体構想』で、日本、中国、韓国を中心にASEAN諸国、インド、オーストラリア、 ニュージーランドを含む国々が、貿易、金融、投資、環境、教育等、より密接に協力しあい、開放した地域共同体として、アメリカやEUに匹敵するような国際地域連合を構築していこうという壮大な理念です。
共同体構想では、当然ながら安全保障をどう作り上げていくかと、という難問があって、政権交代前の鳩山さんは
「東アジア地域の安定を図るため、米国の軍に機能すべきだと思うが、同時に政治的・経済的にも影響力を行使し続けるのには、できる限り歯止めをかけたい」(『Voice』2009年9月号)と主張し、アメリカの影響力を少しずつ減少させていく方向を打ち出している。
つまり共同体内の多国間での安全保障に重点を置いているわけだけど、青書ではやたらと日米同盟の深化が強調され、

『「東アジア共同体構想」が提唱されるのも、まさに日米同盟がその基軸にあるからこそで、アメリカとの関与を強化しつつ地域協力を着実に推進していく』

という具合で整合性の欠如が甚だしく、「東アジア共同体構想」に期待している僕としては、ちょっと見るに堪えない状態になってしまい、ため息をついてしまうわけです。
鳩山さんの「東アジア共同体構想」の底流には、鳩山さんの政治哲学が流れているわけですから。

鳩山さんは冷戦後の国際情勢を見まわしながら、アメリカが推し進めてきた、新自由主義経済=市場原理主義や金融資本主義が、理想的な自由主義経済の秩序だと世界各国で受け入れられ、実現するために、それまでの伝統や規制を改め、改革をしてきた流れを良しとしていません。
“グローバルエコノミーとかグローバリゼーションとかグローバリズム”をアメリカンスタンダードだと批判しているんですね。ここに小泉、竹中路線との明確な対立軸があるわけです。

このことは、経済のみならず、安全保障の上でも、「日米安保が外交の基軸」としつつもアメリカへの依存度を減らしていこう、という方向性がこれまで打ち出されてきました。
「(米軍の)常駐なき安保」をずっと言ってきたし、普天間基地移設問題で批判されていた3月にも「常駐なき安保に向けて、ゼロベースで考えている」と言いきっています。
さらに、自衛隊のあり方(日本の軍事力のあり方)に関しては、小沢さんと同じように、国連主義です。
鳩山さんは、自らの憲法試案の中で、こう語っています。

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

(鳩山由紀夫・憲法改正試案中間報告より引用)

私は今回のイラクへの自衛隊派遣には反対した。しかし憲法違反だからという理由ではない。これまでの法制局解釈を前提としても直ちに違憲とはならない。問題の本質は政治判断の誤りにある。つまり今のアメリカの政権にあまりに密着しすぎ、その外交政策に振り回されることは、国益に反すると判断したからである。これは独仏と同様の判断であり、小泉首相とは国益についての判断が異なるということだ。

日米安保体制は、今後も日本外交の基軸であり続ける。それは紛れもなく重要な日本外交の柱だが、同時にわれわれは、アジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならない。われわれは、活力に満ち、ますます緊密に結びつきつつあるアジア太平洋地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなくてはならない。

現在解釈上問題になっているのは、国連決議による多国籍軍や平和執行部隊、あるいは将来編成されるかもしれない国連常設軍への参加である。内閣法制局はこれを違憲としている。
私の憲法草案では、こうした国連による国際警察軍的な活動への参加を明確に容認している。もちろんこれは国連の要請があれば、何処へでも出て行くという話ではない。その必要性は、国益に則り、政府と国会が主体的に判断すればよいことだ。

集団的安全保障活動の一環として、国際警察軍的な行動を行う場合、日本の軍事組織の指揮権を国際機構に積極的に委ねようという意思表示だ。いずれもEU諸国ではすでに根付いている。

集団的自衛権を容認することへの懸念は、アメリカの世界戦略としての一方的な軍事行動に、引きずり込まれるのではないか、というものだろう。正義のための戦いなら予防的先制攻撃すら許されるとするアメリカの現政権に対しては、そうした心配も無理からぬこととも思う。
しかし、この行使も、前章(「平和主義及び国際協調」)で、明確に規定しているように、国連が正当化しない同盟国の軍事行動に付き合って、日本の安全と直接関係のない地域に自衛軍を送るようなことはもちろんできない。

集団的自衛権といっても、基地の提供、物資の輸送から戦場での共同作戦まで、さまざまなレベルの協力方法がある。アメリカと同盟関係にある国家は、世界に四十カ国以上ある。どのレベルの協力をするかは、それぞれの政府が国益に沿って判断すればいいことだし、どの国の政府もそう考えているはずだ。
(引用終わり)

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

鳩山さんも小沢さんも、民主党議員の多くも憲法改正論者ですが、そのことの是非や詳細については、長くなるのでまたあとで語るとして、(興味のある人もない人も、時間があったら、鳩山さんの憲法改正試案をぜひご覧ください。自民党のタカ派の憲法改正試案と異なります。
http://www.hatoyama.gr.jp/tentative_plan/index.html)
現実的に軍事力として存在する自衛隊のあり方、日米の軍事的協力関係を深化させようなどと考えていません。言ってみれば05年に自公政権がアメリカと結んだ「日米同盟― 未来のための変革と再編」
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/area/usa/hosho/henkaku_saihen.html
の否定であり、「東アジア共同体構想」と「日米同盟― 未来のための変革と再編」は異質なもので、「東アジア共同体構想」が提唱されるのも、まさに日米同盟がその基軸にあるからこそで、アメリカとの関与を強化しつつ地域協力を着実に推進していく」ということにはなるはずがありません。
鳩山外交ビジョンが活かされているとすれば……

では、鳩山さんはメディアが盛んに言うように、「迷走しているのか……」変わってしまったのか、といえば、僕は今のところそんなふうに感じません。
安全保障面で深い関わりのある、大国アメリカを相手に、普天間基地移設問題では我慢比べをしていて、また、日米安全保障条約から強化され続けてきた日米同盟そのもの、アメリカを含めた「日米同盟― 未来のための変革と再編」を肯定する勢力と水面下で果敢に闘っているように感じるんです。
これまで言い続けてきたように。
現実的には、鳩山内閣の数年間でこれまでの体制がひっくり返るものではなく、数十年かかるでしょう。
アメリカはそれほど甘くないし、抵抗すればするほど、爪を伸ばしてきます。
そして、青書で感じたのは歴然として立ちふさがる外務官僚の巨大な力です。鳩山内閣は、官僚を掌握するどころか、まだまだ官僚の抵抗にあっていることが窺えます。
青書にやたらと出てくる「日米同盟の深化」という言葉が、それを物語っています。
日本は、これまで自民党と官僚が作り上げてきた「日米同盟の深化」の中にあるのです。
その深みの中からもがき出ようとしているのが、鳩山内閣ではないでしょうか。
もがき出ようとしていることが明らかに判るのは、対米追従で歪んだ関係を築き上げてきた、罪の重いこれまでの歴代政権の方向性を否定し、戦後外交の転換を掲げていることです。
これを実現に向けさせる多くの国民が、増え続けていくことを僕は願っています。
政治は、国民になり代わって政治家が行うものですが、政治と政治家を支えるのは、理念や政策を支持する国民です。メディアの報道に流されることなく……

新聞をあまり読まず、テレビの報道を見ないで、一次的な報道にふれることで、これまで見えなかったものが見えてきます。
報道番組を見ているより、ずっと政治に関心が持てるように思います。
新聞とテレビの報道を捨てませんか?



テレビを見ない時間は―たとえば『外交青書』を読む

2010年04月07日 | 日記
幼い頃からテレビばかり見ていた反動なのか、ここ12、3年ほとんどテレビを見なくってしまった。実は反動ではなく、子供たちが通った保育園は、幼児番組も含めてテレビを見せないように、8時には寝かせるようにというきついお達しがあって、その理由も十分理解できたので、テレビを見たかったけれどそれまでの生活を変えたわけです。

だいたい、共稼ぎの夫婦が8時に子供を寝かせることが、どのくらい大変か察していただけば分かるように、当然テレビなんか見ている時間はなく、8時までに家事のすべてが終わるわけではなく、片方が寝かしつけている間に、片方は食事の後片付けや膨大な量の洗濯があって、それも古典的な洗濯板で手洗いしなければ落ちない汚れものばかりで、ようやく家事が終わりほっとするのは、10時を過ぎくらいになり、ゴールデンタイムを過ぎた番組なんて見たくもなく、それも途中からだなんて冗談じゃない。そんな中で唯一見ていたのは『ER』だけで、後はレンタルビデオ屋全盛期の頃でもあり、映画ばかり見ていたな……

そんな生活をしていると、世の中のことが分からなくなってしまうんじゃないかと思われがちだけど、ところがどっこい、ニュースや報道番組を含めてテレビを見ない方が、世の中がクリアーに見える……というのがこれまでの僕の結論です。
しかし、それではいかにもということで、朝日新聞と地元の上毛新聞の2紙をしっかり読んでいたわけだけれど、昨年春先からのあまりに酷い記者クラブメディアの小沢パッシング、小沢ネガティブキャン♪キャン♪ペーンに新聞に愛想が尽きてしまったので、朝日新聞を止め、上毛新聞だけを読んでいます。

別に小沢ファンではないけれど、冷静に俯瞰的に見れば、小沢さんが政権交代を可能にした核であることは間違いないところだし、政権交代以降日本の舵取りの中心になることは明白なことで、冷静さを著しく欠き、中立性が損なわれたネガキャンなんかゴミにしか見えなくなり、ゴミにお金を払う必要などないと思ったからです。
上毛新聞も内容はだいたい同じようなものだけど、中央の政治経済、社会、また国際記事は、共同通信社の配信記事なので(地方紙のほとんどが共同通信記事を貼り付けただけです)、通信社の性格上、あまり主観的な論調はなく、淡々と述べている記事が多いので、その程度なら許せるか……という妥協の産物でもあり、また、ぜんぜん報道にふれないのもいかがなものか……という多少の報道への未練もあったりする今日この頃です。

じゃあ、C-moonさんは、いったい何をソースにややこしい政治コラムを書いているの?と訊かれれば、偉そうに、「これまでの積み重ねだよ」と答えたいけれど、わずかな積み重ねは、確かにあるものの、風の前の塵のようで、吹けば飛んでしまう積み重ねだから、それだけでは追いつくはずもなく、ネットから一時的な情報――記者会見のノーカット動画、インタビュー、生討論会、省庁のHPなどなど――や二時的な情報として――国内外の論文、ジャーナリストのコラム、ブログ記事、参考程度にメディアのオンラインニュース、読めないけれどワシントン・ポストネット版などなど――をテレビを見ない時間に見て、健闘と言えない検討をしながら書いているわけです。

これまでもマイミクさんの何人かが「C-moonさんは、こんなにたくさんの文章を書いていて、いったいいつ寝ているんですか?」と心配していただいたり、訝しそうに「よくこれだけのたくさんの文章を書けますね?」という言葉の中に、『あんた、いったい何してんの?相当暇なんだね』という意味が感じられる言葉をいただいたことがあるけれど、テレビを見なければ、結構書けるものなんですね。
今も小説ブログは続いているし、何とかなるものなんですよ。

閑話休題……
(閑話休題を「さて本番が終わり、後は閑な話題になります」って意味で使っている人を時折見かけますが、逆ですよね。「閑な床屋談義が終わり、これから本番ですよ」というのが本当の意味ですよね)

報道は、今、平沼新党――「たちあがれ日本」という、70歳を過ぎた人ばかりが集まった、へたれ自民党第三分室を自ら鼓舞するような笑っちゃう党名だけれど――の話題満載ですが、僕はこんな夢や希望もない新党なんかどうでもよくて、報道の中で目についたのは、昨日閣議承認された『平成22 年版外交青書要旨』です。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2010/pdfs/yoshi.pdf

すでに新聞等でも報道されましたが、日本とアジアについて、日米関係ついて、要旨をもっと短くまとめてみました。


◇国際的枠組みの変化
冷戦終結後、歴史転換期へ向かい、イデオロギーによる東西対立の時代から、国際関係の軸が多様化し、グローバル化を伴い地球規模の課題が国際関係に占める割合が大きくなり、地域単位での協力と統合が図られ、競争力と存在感を構築する流れが生まれ、拡大強化されている。
EU(欧州連合)は、拡大と深化が繰り返され、ASEAN(東南アジア諸国連合)の共同体形成の加速化し、AU連合(アフリカ連合)が創設され、一国間どうしの外交を基本としながらも、連合体関係の外交が、今後より活発化されるだろう。

こうした中で日本も「東アジア共同体」構想を長期的ビジョンとして掲げ、貿易・投資・金融・環境・教育「いのちの文化」等の可能な分野から、開放的で透明性の高い地域協力を進め、地域協力の強化に向けて積極的に貢献していくとともに、APEC(アジア太平洋経済協力会議)の新たなビジョン作りにアメリカと共に連携してゆく。

◇新たな協調の時代の到来
21世紀到来の国際社会の大きな特徴は、気候変動をはじめとする地球規模の環境問題と核軍縮・不拡散の課題で、この二つが新たな国際協調を結集させてゆくことになるだろう。

◇安全保障上の脅威の多様化
冷戦後に生じた国際環境の変化の一つとして、国際テロや海賊事案の増加が挙げられる。

・テロリズムの脅威への対応
アフガニスタンにおいて、同国政府と国際社会が協力して、テロ撲滅のために取り組んでいるが、治安の憂慮すべき問題は解消せず、オバマ新政権の新戦略である、アフガニスタンへ責任の委譲するための軍事力の強化と民主支援の強化、隣接するパキスタンへの支援強化にNATOはじめ、25カ国が増派を表明した。
日本は、アフガニスタンの自立的発展のために支援として09年から5年間で最大約50億ドルを支援し、パキスタンには2年間で最大10億ドルを支援する。

・ソマリア沖海賊への対応
貿易立国日本は、海上の安全を図る責任の一環として、無政府状態が生んだソマリア沖の海賊対策として自衛隊と会場保安庁を派遣し、海賊行為対処行動に加え、ソマリア情勢の安定化の支援と海上取締能力向上に向けた支援を行っている。

・北朝鮮への対応
北朝鮮は関係各国が自制を求めたにかかわらず、核実験、ミサイル発射実験を繰り返しており、日本は直ちに抗議し、また国連の安保理では、議長声明を採択し北朝鮮を非難している。

・イランへの対応
イランは北朝鮮と共に、核開発で国際社会の注目を集め、オバマ政権対話による問題解決を標榜したが、新たな濃縮ウラン施設建設が明らかになり、予断を許さない状態が続く中で、日本は国際社会の一員として主要関係国と緊密に連携し外交的解決を図るとともに、イランとの独自関係に基づき働きかけをしている。

◇地域別に見た外交
アジア
・アジアにおいて注目すべきは、「世界の成長センター」と称されるほどの経済力とその成長で、ASEAN+6(日本、中国、韓国、インド、オーストラリア、ニュージーランド)で世界のGDPの23%、APECが53%を占め、さらに増加傾向である。特に世界経済危機・金融危機以降、アジア新興国を中心とした景気回復は、世界経済をけん引する役割を果たしている。

・冷戦後も日本の周辺の安全保障は、「不確実・不安定要因」が存在し、北朝鮮の核開発、弾道ミサイルの脅威、中国の経済成長と増大する軍事力と台湾海峡の緊張感があげられる。

こうした状況から、日本の平和と安全確保するためには自ら防衛力を整備しつつ、さらに日米同盟を外交の基軸としてアジア太平洋地域の平和と繁栄を支える公共財として、さらに進化させてゆく必要がある。また、「東アジア共同体構想」が提唱されるのも、まさに日米同盟がその基軸にあるからこそで、アメリカとの関与を強化しつつ地域協力を着実に推進していく。

◇日米関係
日米両国は、普遍的価値及び戦略的価値を共有する同盟国であり、日米安全保障体制を中核とする同盟は、60年以上にわたり、日本と極東に繁栄をもたらし、アジア太平洋地域における安定と発展のための基本的な枠組みとしても有効に機能してきた。
日米関係は、政治、安全保障、経済、文化等の幅広い分野で極めて密接であり、こうした面からもアジア太平洋地域の平和と繁栄に寄与してきており、「不確実・不安定要因」という状況の中で、日米同盟の深化は、アジア太平洋地域の平和と繁栄の礎として不可欠な役割を担っていく。

だいたいこんな感じですが、いかがなものでしょう。
官僚に押し切られたな……という印象をぬぐいきれません。その根拠と僕の意見は、次回に。


                                続く


誤報!!「ジャーナリスト常岡氏の誘拐報道」【追記】

2010年04月02日 | 日記
今日午後「フリージャーナリスト、常岡浩介氏がアフガニスタンで取材中、行方不明になった。誘拐された可能性がある」という報道が一斉に流された。
こうしたメディアの報道ついて、いち早くツイッターで、勝見貴弘さんという方が「状況が見えないうちに断片的な情報を確定的に捉えることは、人の安否が関わる場合はとれないリスクですし極力避けるべきでしょう。イラクの香田さんの事件、私にはまだ記憶に新しいです。政府としてもまだ動くべきではない」(ツイッターから引用)と注意を促し、メディアの報道のURLを貼り付けたツイートを控えるよう呼びかけ、さらに、「誤報修正」のツイートを拡散するよう求めました。


呼びかけの中で懸念されているのは、

◇アフガニスタンという混迷した危険な状況で、不確かな情報ソースを元にした記事が広まることは、命の危険をより大きくさせてしまうこと。

◇アフガニスタンの現在の状況で、外国人ジャーナリストが、行方不明になった。あるいは誘拐されたのではないかと報道されれば、「タリバン」によるものだと多くの人が、思いこんでしまうこと。

◇これまでも危険地帯での邦人の「行方不明」「誘拐」事件に際し、国が危険地帯だと認定し、国外退去を促しているにも関わらず、危険を承知で近付いたのだから、事件は本人の「自己責任」に帰属するだけだ、という非人道的かつ排他的な風潮が広まること。

軍事的、政治的に混迷している危険地帯での人の命にかかわる報道は、メディアが自粛しなければならないことは、言うまでもないことだと思います。
こうした、脆弱なソースから生まれたメディアの報道に対して、「これでは、常岡さんの命が危うくなる」ということで、もっとも今回の事実を知る、直前まで常岡さんと行動を共にしていた、同志社大学の中田考氏が、ツイッターで事実をツイートしました。

以下は、中田氏のツートを勝見氏が、加工せずまとめたツイートと勝見氏による解説とみなさんへのお願いです。


参考までに……
【勝見貴弘】NGO世界連邦運動WFMの執行理事。民主党参議院議員犬塚直史(長崎1区選出)の外交政策担当(私設)秘書。


・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・―
(引用開始)

On Friday 2nd April 2010, @tkatsumi09j said:
■ジャーナリスト常岡氏「誘拐」に関する誤報について

【誤報拡散自粛のお願い】
ジャーナリストの常岡氏の状況について国内外のマスコミで誤報が行き渡っています。この誤報が誰が見ているか分からないTL上で広まることは危険です。お願いしたいのは、本件でこれ以上騒がずまた報道のソースなどの貼り付けやRTを控えて頂くことです。宜しくお願い致します。

【事件の背景】
常岡氏の知古の友人ハッサン中田氏(同志社大学神学研究科)のツイートより
http://twilog.org/HASSANKONAKATA/asc

ツイッターを発信する暇がない。マスコミには伏せておくように、とのことだったのに流れてしまった。しかもタリバンに誘拐された模様、という大誤報でだ。取り急ぎ、以下のことだけ伝えておかなくては。(続く
posted at 11:14:08

常岡氏がタリバン支配地に入る前に、タリバン側から、「我々の方では貴兄が来ることに問題はないが、我々と接触したことが分ると、アメリカとアフガニスタン政府の諜報員にタリバンの犯行に見せかけて殺害されることが心配だ」との連絡があり、それでも敢えて行く、ということで彼は出発しました。
posted at 11:14:46

私は25日にアフガンを経ちマレーシア経由で一昨日帰国しましたので、26日以降の常岡さんの行動の詳細は把握していません。ただ、彼がクンドゥースに行くまでのタリバン側との交渉時には側にいましたので、アフガニスタン・イスラーム首長国(タリバン政権)の「犯行」でないことは断言できます。
posted at 13:21:30

3:03 PM Feb 16thに呟きましたが、タリバンは公式サイトでフリージャーナリストをヘルマンドに招待しています。http://bit.ly/aP9hAd タリバンがフリージャーナリスト、しかもムスリムの常岡さんを拉致することは考えられません。
posted at 13:49:45

今、常岡さんの友人のアフガン人から、公にしてもらっては困る、と言っておいたのに日本ではニュースになってしまっているようだ、と困惑の電話があった。彼にも新しい情報はないようだ。
posted at 14:09:50

【解説】
これら一連のツイートから、常岡氏はタリバン側に歓迎されているなか、タリバン側が示す懸念を承知の上で現地に赴いたことがわかります。したがって、万が一何かがあった場合、常岡氏に危害を加えるのはタリバン側ではありません。アメリカ側、とも明言はできませんが、敵対する北部同盟側(アフガン政府)側となることもあり得ます。

タリバン側が懸念することが顕在化するか否かは、常岡氏失踪の事実がどう相手側に利用されるかにかかります。そこでメディアは非常に大きな影響力を持ち、タリバン側による仕業と見せるのがベストな選択だと思われれば、そこで常岡氏の命運が尽きてしまう可能性があります。つまり、メディアによる報道を鵜呑みにしてこれを拡散することが、常岡氏の生殺与奪に直結するのです。

【修正拡散のお願い】

勿論、誤報修正のツイートをRTすることについてはこれは歓迎致します。願わくば修正のツイートが誤報のツイートを淘汰することが理想です。Twitterの情報拡散力を最大限に生かして、既成メディアの情報垂れ流しを上回るリテラシーを私達が持っていることを示そうではないですか。

以上、ご精読感謝いたします。皆様の賢明な判断力を信じます。

(引用終わり)

・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

夕方になり外務大臣と官房長官の記者会見が行われ、岡田外務大臣は、誘拐の有無も含めて一切ノーコメントで、これは、失踪の背後の複雑さと常岡さんが危険な状態に陥ったことを伺わせ、常岡さんの命を最優先した配慮だと思います。

その後の平野官房長官の記者会見では「誘拐」を認めています。

みなさんにお願いしたいのは、勝見さんも言っておられるように、メディアの報道を鵜呑みにしないことです。メディアの報道をあたかも真実のように周りに伝えないことです。
そして、何よりも常岡さんの無事を願ってください。


中田氏のツイートをフォローしているので、「誤報道が修正される」新しい情報が入りしだいここで伝えようと思います。


【追記】

◇イラク戦争を撮り続けているフォトジャーナリスト・志葉玲さんのツイート。
http://reishiva.jp/

いずれにせよ、こういう時に大事なのは、いたずらに犯行グループを刺激しないこと。ジャーナリストを拘束するという行為自体は許されるものではないが、うかつに政府関係者が「テロは許さない」という様なコメントを発することは、常岡さんの状況を悪化させるだけだ。


そういう意味では、ノーコメントを貫いた岡田外相は、小泉元首相や当時の政権の連中に比べはるかにマシな対応だったといえる。


◇フォトジャーナリスト・久保田弘信さんの公式ブログ。
常岡さんの失踪の詳細を伝えています。

http://kubotahironobu.blog53.fc2.com/blog-entry-208.html#comment497


【2010年04月02日 09:31】

最悪の事態になってしまった。
常岡さんが何者かに誘拐されてしまった。

これは僕自身、紙一重だっただけに人ごとではない。
日本のニュースはタリバンの犯行だと第一報を流しているがそこでいうタリバンが旧政権を担ったタリバンを示すなら間違いである。

新たな急進的な勢力が誘拐した可能性はあるが、タリバンの犯行は考えにくい。
なぜなら常岡さんは10年以上の付き合いがある旧タリバンの人間と一緒にいたから。

あまり大事にせず、邦人保護課が水面下で動く筈だったが、共同が出してしまったらしい。
出てしまった以上仕方ない。
できるだけ正しい情報が伝わり、誘拐犯が常岡さんを解放してくれることを祈るだけだ。

キーボードを打つ手が震える。
パキスタンは朝の5時半。
殆ど眠っていない。


【2010年04月02日 17:54】

常岡さんが誘拐れてしまったとアフガニスタン人が連絡してきた。
アフガニスタンの人たちは、事を大きくすると常岡さんが危険にさらされるから、大使館、マスコミには当分
表だった動きはして欲しくない。と言ってきた。

とはいえ、僕の所に来た連絡を僕の責任で止める事はできない。
カブールの日本大使館、外務省の邦人保護課に連絡をし、できるだけ水面下で動いてほしいと伝えた。

メールと電話でほぼ眠れずに朝をむかえると、共同電とフジテレビが常岡さんの誘拐事件を報道してしまっていた。
第一報が出てしまえば、各社が動く。メールはどんどん入ってくるし、電話は鳴りやまない。

憶測でものを語られたくないから、常岡さんの最終的な目的地とか誰と一緒にいたとか迷惑になりそうな情報以外を
インタビューで答える。

日本からの連絡で邦人保護課が怒っていると聞いた。「しゃべりすぎだ」と。
親族の事も考えてノーコメントで通してほしいと。
冗談じゃない。昨日の第一報を聞いてから一晩中震えが止まらなかった。
10年以上の付き合いになる常岡さん。僕にとっても親族同様の人だよ。

僕は日本人で一番か二番に常岡さんの誘拐事件を知った。
僕の大切な友人の為に、邦人保護課以外には話していない。
誰だよ!情報をリークしたのは、どうやら政治記者が情報をつかんだらしいが。
僕は大切な友人の事件をネタにしていない。したくもない。
誰だよ!マスコミにネタを提供してしまった人は。

僕にクレームつけるまえに、人命に関わる事なのに最初に情報をリークした人間を責めるべきでしょう。
第一報を流した大手マスコミはクレームの対象にならないのか。
僕や常岡さんのようにフリーのジャーナリストだからか。
今アフガニスタンなんか取材しても赤字になってしまう。それでも伝えるべき事があるから僕たちは動いている。