風の回廊

風を感じたら気ままに書こうと思う。

自然の恵みを生かす(1)

2011年04月23日 | エッセイ
日本の原発数は、現在54基で、アメリカ、フランスに次ぎ世界で3番目の原発保有国で、狭い国土と、世界有数の地震地帯にこれほどの数の原発を造り、これからも推進していくという意識は、もはや脅威の段階を過ぎ、狂態、狂乱というしかありません。常識的な判断、良識的な決断から乖離し、この乖離した姿勢から、このままでいけば、建設中、計画中を含めて将来69基になる予定です。福島の4基が、事実上廃炉のなることや、今後、老朽化から廃炉なる可能性のものまで含めて、多少の減少はあるかもしれませんが、原発を容認する人たちは、将来も含めてこうした事実を考えていただきたいですね。
前回、原発がひとつもなくても、火力と水力だけで賄えると言いましたが、加えて言えば、現在運転中の原子炉は、23基です。だけど停電することなく、電気は被災地を除けば、日本国中行き渡っています。
原発が無くなれば、「日本経済は破綻する」「一億総玉砕」などと過激な無知ぶりを発揮している人もいますが、よく現実を見ていただきたい。

しかしながら、「今すぐ原発を同時に止めるべきだ」という意見も現実的ではありません。だいたい「~すべきだ」という、そこから先のことは放り投げてしまうような言い回しは止めてもらいたい。特に政治家の「~すべき」という発言には嫌悪感を覚える。どうも僕は「べき論」というものを信用できない。僕も使うことあるけれど、そういう時って、たいてい確信が持てない時で、同じ意見への摺り寄り同調的な時が多い。
いろんな人の文章を読むと、信念を持ち思考内容が研ぎ澄まされている人ほど「~すべきだ」という言葉が、見当たらない。
「~すべきだ」だと乱発する人ほど、にわか仕込みの知識に頼っているように感じます。

さて「今すぐすべての原発を止めることは、現実的ではない」というのは、原発で働いている人たち。原発で成り立っている市町村の経済をクリアしなければ、少なくとも方向づけ政策化しなければ、新たな破綻が、日本のあちこちで生まれてしまうからです。経済的破綻の恐怖は、おそらく原発への恐怖と匹敵するくらいのものだと思います。現実的には。
福島で実際被曝を余儀なくされながら、原発の恐怖と不安を感じながら生活している人たちと、そうでない人たちの現実的恐怖感は、かなり差があります。同じように経済破綻による生活の崩壊を現実的に迎えようとしている人たちと、そうでない人たちでは、大きな差が生まれるはずです。
こうした差を現実的に埋められないことには、脱原発は、絵に描いた餅になり下がります。

こんな単純なことは今思い付いたことではなく、ずっと前から気づいていました。そのためには、社会通念上罷り通っている意識と、そこから生まれるシステムを変えなければだめだって。
有限資源である化石燃料や危険なウラン燃料の使用に裏付けられた社会システムを求め続ければ、いずれ社会が崩壊する。循環型社会。持続可能なシステムを自分の範疇の中で作ることが、せめて自分できることだと思いました。

僕は住まいとその周辺を設計し、施工することを生業としています。mixiは、趣味的なもので、仕事から離れた時の息き抜きで、日常の自分と違う自分を表現する場だと思っているので、これまで仕事や家庭について、日常について書いたことは、ほとんどありませんでした。
しかしながら、批判ばかりしていたのでは、説得力に欠けます。それこそ笑いものにもなりかねない。ですから仕事上で得たことを、今さらながらですが、書くことで多少の説得力や、既存のシステムを変えるヒントにもなるのではないかと思い、書くに至りました。
一度で書ききれるものではないので、時々日記欄に登場させたいと思います。

住宅建材でもなんでもそうですが、私たちの身の周りにあるものは、自然界にあるものを原料とし、科学的に手が加えられ、私たちの元へ届けられます。その過程では、やはり自然から得たエネルギーが使われていることは、子供だって解かることです。またそのエネルギー源の種類も分かる。何が持続可能のもので、何が有限なものなのかも解かる。でもどのくらい使われているのかは、知らされていません。
しかしながら、ドイツでは、建材一覧表みたいなものがあって、建材になるまで消費されたエネルギー量を電力量(ワット)に換算して、個々に明示されているんですね。
つまり設計者が、住まいの省エネのイニシャルコストを簡単に解かる仕組みになっているのです。
さすが環境先進国ドイツで、電力量に換算し、数値化するところもドイツ人気質が現れていますね。
一棟の住宅に使用される建材の生産過程、流通過程で使われるエネルギーが膨大な量になることは、その仕事に従事していなくても想像に難くないでしょう。そこで省エネが図られることは、とても大きな貢献になるのです。それまでの住まい造りのシステムを、変えることにも繋がってきます。

僕は木造住宅専門なので(ごく稀に鉄骨造の小規模な工場や倉庫の設計も手掛けますが)木造に限定して書きますが、木造住宅でもっとも多く使用される材料は、当たり前のことですが木材です。そして全国的に見ても木造住宅の割合は多い。森林国日本だから、伝統性からも、自然風土からも、それはごく当たり前のことなのですが、ここ40年ほどは、輸入材が8割を占め、国産材は2割という現実です。
建築現場では、米松が構造体の主体となり、フローリングなどの内装材も、南洋材や欧米材、最近では中国材が、市場を席巻している現実があります。国産材は、和室に使われる程度でごくわずかです。
遠い海の向こうから、石油を消費し、わざわざ運んでくるわけですが、国内になければ、それも解かるのですが、日本の国土の約70%を占める森林には、伐採木を迎えた良質な木が、飽和状態なのです。
さらに、遥か海の向こうから運んできた木材は、工場で加工され集成材や化粧合板となって、現場に運ばれます。現地で加工され輸入される建材も多いです。木質系ハウスメーカーのほとんどは、このような木質工業製品仕様です。供給の傾向として、大量のエネルギーと化学物質を使い、化学的処理された建材に、住まいは支配されているのです。これって不自然ではありませんか?

建築を学んだいた時に出会った貴重な本があります。法隆寺宮大工・故西岡常一棟梁と当時千葉大で人間工学を研究されていた小原二郎さんとの共著『法隆寺を支えた木(NHK出版)』です。(今は一部が教科書にも載っているようです)
この本には、明治以降、特に戦後主流であった建築学を根底から見つめ直さなければならないほどの、体験に基づく明晰な示唆と、実験に基づく現代建築への警鐘が、書かれています。
文明批評と言っていいかもしれません。

この中で西岡さんは、法隆寺宮大工家に伝わる家訓として「木を買わずに山を買え」ということを述べています。それも「近くの山を買え」と。
山には南も面も北の面もある。尾根や谷もある。それぞれ育った環境で、木の性格は一本いっぽん異なる。建物も同じように南面があり、北面がある。朝陽を浴びる面もあれば、西日を浴びる面もある。
だから、近くの山を買い、南面で育った木は、家の南に使い、陽の当らない北面に育った木は、家の北側に使え。その気候風土で育った木は、その条件下で、その場所で使うことが木を活かすことになる。法隆寺はそのように造られている。
さらに木は、生まれながらにして持っている性格がある。水に強い木もあれば、そうでない木もある。そうした性格も活かして木を使う。
法隆寺が1300年もの長い間、仏教の研究機関としての役割を果たして、それを支えてきたのは、日本特有の良質な桧と法隆寺を造った古代の工匠たち知恵の賜物である。
こうした木の使い方を、「適材適所」という。
その個所を要約するとこんな感じです。

僕は打たれました。まるで稲妻が身体を突き抜けたように。
それから約10年後、僕は使用材料の95%を国産材、それも県産材を使うようになり(100%使用も可能)、同時に化粧合板が、僕が設計し施工する住まいから消えました。同様にビニールクロス、石油系塗料、再使用不可能な断熱材などは一切使わず、無垢材(化学的処置を施さない木材)と天然の土壁(珪藻土、漆喰)、羊毛断熱材を使う、「自然素材の家」にようやく辿り着きました。
10年余りも時間を費やしたのは、既存システムが、このような手法を簡単に受け入れるほど寛容ではなかったことと、住まいを建てたい人たちの意識も、そこにほとんど注目していなかったからです。その当時で言えば、わずか40年ほど前には、ごく当たり前であった、住宅建築を取り巻く環境とシステムが、非効率的で古臭く、非科学的なものだと葬り去られていたのです。
しかし実際はどうだったんでしょうね。大切な何かを失い続けてきただけのことだったのではないでしょうか。

木材だけで言えば、こうした住まいを15件ほど造れば、ひとつの山が、飽和状態から再生され、循環し始めます。
こうした住まいは、省エネのイニシャルコストに貢献するだけではなく、ランニングコストも確実に抑えていきます。さらに自然環境に適しているから寿命も長い。寿命が長ければより貢献できる。さらに「自然素材の家」が、べらぼうにお金がかかるかと言えば、そうではないのです。

住まいを設計し施工する上で、「省エネ」とか「地産地消」という意識は、僕はかなり希薄です。そうした観点からアプローチをしたことはありません。僕の中にあるもっとも大きな概念は「自然の恵みを活かす」ことです。ここから副次的な効果が生まれ続けます。

とても小さな世界です。ささやかな取り組みです。しかし原発に頼るようなシステムからは、遠く離れています。
ただ批判するだけではなく、こうしたこともこれから書いていこうと思います。



武井繁明


価値観とシステムの大転換が求められる原発の行方

2011年04月17日 | 政治・時事
日本の原子力発電の創生期については、前々回、94年に放映されたNHKドキュメント『原発へのシナリオ』を起こし、肉づけしながら書きました。
日本は原子力の研究は、すでに戦前始まっていて、湯川秀樹や仁科芳雄、長岡半太郎らの基礎研究(理論研究)は、世界でもトップクラスで、戦争が始まると、軍から『新型爆弾』の開発命令を受けていました。
こうした原子力の研究は、軍事目的だけではなく、医療、エネルギーにも向けられていましたが、敗戦によってすべて喪失することになります。
占領したGHQが、各研究所、大学から原子力に関わるすべての資料を奪ったからです。そして占領期間中は、原子力研究はご法度にされたのです。

やがて52年、サンフランシスコ講和条約が、連合国との間で締結され戦争が終結。原子力の研究は解禁されたものの、7年間の占領期に世界の原子力研究水準から、日本は20年分くらいの差ができていました。
こうした白紙状態の中で、前々回書いたように日本の『原発へのシナリオ』が、形成され現在に至ります。

余談ですが、仁科芳雄博士は、理化学研究所=理研(科学技術の水準の向上を図ることを目的とし、日本で唯一の自然科学の総合研究所として、物理学、工学、化学、生物学、医科学などにおよぶ広い分野で研究活動を1917年から法人化して行い、現在は文部科学省管轄の独立行政法人)に戦前から戦後しばらく務めており、戦後は所長(やがて社長)にも就任。その頃、新潟の片田舎から上京したばかりの若き日の田中角栄の事実上の身元引受人でした。田中角栄が田中土建工業を興してからも、研究所内の仕事を請け負わせるなど、田中角栄を可愛がっていたようです。田中角栄の能力を見抜き、政治家になることを奨めたのも仁科芳雄だと言われています。

推測の域を出ませんが、田中角栄の卓越した進取の気鋭。特にエネルギー政策にみせた、広い見識――原子力政策、石油戦略において対米一辺倒ではなかったこと。広く全方位的に向いていたこと――は、仁科の影響があったからかもしれません。
そしてここからは推測ではなく事実です。田中のエネルギー政策――原子炉の技術輸入を巡る抗争の構図の中――でアメリカの軍産複合体から反感を買い、ロッキード事件が仕掛けられ失脚させられたことは、ますますアメリカの核の傘下に組み入れられ、属国化への道に拍車をかけました。よく言われる、日中友好を推し進めたことが、アメリカの反感を買ったから、ということも事実ですが、もっと深いところにあったのが、田中角栄のエネルギー政策へのアメリカの(軍産複合体)不信と怒りでした。

もとに戻ります。
世界から遅れてしまった状態で、もたらされたのが、『原子力の平和利用』です。アメリカと技術締結した日本は、アメリカの技術に委ね、原子炉を次々に作っていきます。
日本が委ねたアメリカの企業は、

◇WH(Westinghouse Electric Corporation)加圧水炉型原子炉
当時は、老舗の電力、電気製品巨大メーカーで、初の原子力潜水艦ノーチラス号に原子炉を載せたメーカー。WHの下に、三菱重工がつきます。

◇GE(General Electric)沸騰水炉型原子炉
世界最大のコングロマリット。インフラストラクチャ―、電気、メディア、IT、航空機、宇宙産業に至る軍産複合体。
GEの下に、東芝、日立がつきます。

この二つのJVが中心となり、電力会社の依頼を受け、交互に原子力設備を作ってきました。
その数、この狭い日本に55基。
しかし、90年以降、それまで毎年のように受注があったのが、停滞状態になります。
さまざまな要因がありますが、日本経済の停滞。建設予定地での反対運動が大きな要因だと思われます。これでは、三菱、東芝、日立といった国内原子力メーカーは、大きな打撃を受けることになり、何らかの打開策を見いださなくてはならない。
まず、東芝が動きました。一時期の勢いを失い、分野ごとに身売りしていた、WHの原子力分野を買い取ります。これが現在の東芝WHです。

それまでWHと提携していた三菱は、提携先を失いますが、ただでは起きません。
フランスのアレヴァ (仏:AREVA SA:世界最大の原子力複合企業)と提携します。
福島原発事故で、フランスのサルコジ大統領と、アレヴァのアンヌ・ロベルジョンCEO(最高経営責任者)が、いち早く来日しましたが、アルヴァは、フランスの政府機関が9割の株を取得している事実上の国営企業で、日本の原子力の行く末によっては、自国企業が大打撃を受ける……
と懸念したからでしょう。表向きは支援ですが、それ以上に企業の利益が優先します。

ここで日本の原子力産業の構図が再編されたことになります。
WH・東芝  GE・日立  アレヴァ・三菱……まるで三国時代のような構図です。魏・呉・蜀三国鼎立。

しかし再編されただけでは、利益を生みません。企業の自家発電開発が盛んになる中で、電気料金を下げ、エンドユーザーを隷属化させるオール電化システムの大キャンペーンを行います。
そして安全神話の推進。さらに「クリーン、クリーン!」と叫び、政権交代を果たそうとしていた、民主党のクリーン旋風に原発までクリーンだと便乗し、さらに世界的な命題であるCO2削減の風に乗ってその立場をさらに確立してしまうんですね。
長い自民党支配の中で生まれ、成長してきた原子力産業は、政党を選びません。利益にさえなればなんでもいい。水力よりも火力よりも儲かって仕方がない原発を止めることはできない。
国内にも増設しよう。それでは飽き足らず、発展途上にある国に原発を輸出しよう!
これは民主党と相乗りですが、自民党が政権を持続していれば、もっと積極的に行われたでしょう。

海外への原発輸出……これが再編された原子力産業の21世紀の戦略です。

しかし、これまでもっと先に利益になるはずの仕事が舞い込んできました。
それは『廃炉』です。
原発の耐用年数は、およそ30年と言われていますが、(もちろん点検整備を重ねながら)福島第一のように30年を越えて運転しているケースもあります。
廃炉に向けては、運転停止、燃料棒の搬出を経て、その間放射線物質を放出させないことが絶対条件ですが、大々的に体験していないのが日本の原子力産業です。
当然ながら、将来に向けた廃炉技術を『想定』し、ノウハウを作っていると思われますが、ほとんどの部分は、アメリカの企業に委ねることになるはずです。
今、GE・日立と東芝WHが、福島第一の廃炉に向けて検討を始めましたが、これは事実上のアメリカ企業への丸投げだと指摘する専門家も少なくありません。
もちろんここには、莫大な資金が投入され、アメリカの企業―軍産複合体―が潤う仕組みになっています。

石油、天然ガスが、枯渇され始めるのは諸説様々ですが、どうも原子力燃料のウランの枯渇が、先になりそうです。京大・原子力研究所の小出裕章助教によれば、大雑把にですが、ウラン燃料は50年。石油、天然ガスなどの化石燃料は100年と見通しています。

実は、成立から廃炉までの期間を考慮すると、原発は、利益が次から次へ沸いてくる魔法の泉のような存在なのです。

このように建設、運営する側が儲かって仕方がない原発は、果たして日本に必要だったのか?
「発電量の30%を原発で補っているのだから必要不可欠。もし脱原発を唱えるなら代替エネルギーを示してから言え。今のところの太陽光発電にしても風力にしても微々たるものだろう」
と原発信奉者は言います。

実際はどうでしょう?
たしかに原発は、全発電量の30%を占めていますが、実は、火力発電は、震災があったからではなく、ずっと48%しか稼働しておらず、水力はそれ以下です。ずっと休ませていたのです。
では、原発を仮に一斉に止めたらどうなるかと言えば、火力発電所を70%稼働させれば済むことです。
さらに、半分程度に抑えられてきた火力と水力の発電量を越える需要があったのは、これまでの日本の発電の歴史の中でわずか数度で、それも夏場の暑い時期の数日の午後だけで、あとはすべて火力と水力の発電量で賄えてきたのです。

原発が無くなれば、産業が滅び、生活水準も低下してしまうというのも、実は神話なのです。

だからといって、省エネ政策と省エネ生活の必要でないわけではありません。国家と生命を奈落の底に落してしまう原発をスムーズに廃止していくためにも必要ですし、速やかな自然エネルギーへの移行は、これまで以上に求められます。
そして、怠っていけないのは、原子力産業への監視です。これらと一体となっている勢力への監視です。
何よりも求められるものは、価値観とシステムの転換です。その原動力のひとりになることです。

必要でないものを高いカネで強制的に買わされ続け、結果的に絶望的な不安の中での生活を強いられるなんてたまったものではありません。
結局は、こうした原子力産業を受容し続けてきた私たちの責任でもあるわけですけど……


脳が硬直している原発信奉者の方も、そうではないしなやかな脳の持ち主の方も時間のある時にこちらを見て、聞いていただけると幸いです。
http://hiroakikoide.wordpress.com/


僕は30年前から原発には、強い不信感と悪意を感じていました。だから推進には反対の立場をずっと取ってきましたが、積極的に反対運動をしていたわけでもなく、環境共生社会とそのシステムの一端のそのまた一端くらいを設計し、実践してきたに過ぎません。
また原発推進と知りながら、民主党の一部を積極的に応援してきた経緯もあります。今も応援しています。
言ってみれば、消極的にではあったにせよ、原発を容認してきたことになるのです。そういう意味では、福島の事故の微々たる一部の責任はあるのです。そう自覚しています。
今さらながらということになりますが、いろんな観点から、原発の問題点をこれからも発信していきたいと思います。
ここしばらくは、他のことは書けないかもしれない……
他のことを書こうとしても言葉が生まれないのです。そんなことで、みなさんの日記へのコメントも躊躇いがちです。言葉が生まれないからどうしようもないのです。


武井繁明


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月が綺麗な夜は、この曲を聴きたくなります。
今日、夜明け前に目が覚め、西の窓に薄明かりが見えたので窓を開けてみると
山稜に近いところに月が、光っていました。昨夜は待宵月だったようです。
晴れていれば、今夜も月は綺麗です。望月に向かいます……
(曲を聴かれる方は、お手数ですが2度クリックしてください)

スタン・ゲッツのMisty


Misty - Stan Getz

「未知の領域」で考える―原子力の安全神話について

2011年04月06日 | 政治・時事

およそ神話というものは、古事記を読めば明らかなとおり、神話として成立させ、記述した時の権利力者の都合によって書かれる傾向にあります。それまで伝えられた事実に大幅な変更や、都合の良い解釈がなされ、権力者の正当化が図られ、権力者以前の曖昧な継続が、神話によって補完され正統性を演出し、正史となり、国家支配の礎となる。その際、異を唱える少数派は、異端とされ排斥されます。

「原子力の安全神話」もこうした部類の神話と同じように、虚飾と歪曲のプロセスを経て、国家の正統的政策となり、その際、異を唱えた少数派は異端扱いされ、同じように陽を見ない世界に追いやられてしまう。こうした安全神話の究極的な部分、核心とも言っていい安全性の根拠に科学は存在しない。だから、起きてはいけない、起るはずがない致命的事故が起ってしまいました。
何度も言うように福島第一の事故は人災です。

「原子力安全白書」が毎年刊行されます。近年の白書の初めの方を読むと解かりますが、「原子力は絶対に安全」だと書かれているものはなく、努力目標として安全性を高めていく旨の記述がされています。さらに読み進むと、多くの原子力関係者が、実際には「原子力は絶対に安全」だという考え方を持っていないことが明らかです。国のトップブレーンが、確信できない安全性とはいったい何なのか。こうした安全レベルでしかない原子力に、なぜ安全神話が作られたかと言えば、理由の多くは、原子力に携わる人たちの「過信」にあると思う。

その過信を、京大原子力研究所の小出裕章(助教)はこう示しています。
(ちなみに、小出さんは40年間原子力の危険性について研究してきたため、37年もの間、助手のままで、名称が変わってから現在までも助教(助手・講師クラス)です―少数派、異端者として排斥され続けた典型。

◇他の分野に比べて高い安全性を求める高度な設計への過信
◇長期間にわたり人命に関わる事故が発生しなかった安全への過信
◇過去の事故経験の風化
◇原子力施設立地促進のためパブリック・アクセプタンス(住民合意を得ること)活動の分かりやすさの追及―いかに住民を騙せるか。
そして
◇絶対的安全への願望

このように過信や願望によって生まれた「安全神話」を根拠に建設、運営されてきた原子力発電所は、必然的に安全神話の崩壊とともに、存在の根拠を失います。その際、私たちは、致命傷に至る危険を背負わなければならず、いったん放射能性物質が環境に漏れ、生態系に侵入してしまえば、子々孫々にまで多大な悪影響を及ぼし、何世代にもわたり収拾不可能な状況が生まれてしまう。

こんなことは判り切っているのに、原発は促進され続けました。ではなぜ?

◆原発は、なぜ地方に作られ都会に建設されないのか?
原子力立地審査指針で低人口地域、非居住地域に建設が限られているからです。つまりそれだけ危険性が高く、都会では到底受け入れられない代物だからです。
だから都会で受け入れられないものは、国土のすべてで受け入れてはならない。

◆都会では受け入れられない危険なものをなぜ建設するのか?
破局的事故が起きた時、電力会社の損害賠償法的責任は、総額1200億円で済むからです。
原発を運営する電力会社に、低レベルな免責を与えることで原発を促進させている現実。

◆原発は儲かるから!
電力は、必要経費の上にレートペースを加算できる仕組みの料金体系で、絶対損をしないシステムになっています。
http://page.freett.com/trustjp/matuo/matuo1.html

その上、原発は電源別単価で見ると火力、水力よりも高い。原発の電気料金が安いというのは虚構です。
http://www.greenaction-japan.org/internal/101101_oshima.pdf
(立命館大学国際関係学部・大島堅一教授による試算)

儲かって仕方がない原発が、破局的事故が起ってもこの程度の損害賠償責任で免責されるから、人の少ない地方のあちこちに、数多く建てられてしまう。危険極まりない代物がこのような、優遇システムによって保護されているんですね。
より厳しいシステムの上で運営されなければならない原発が、そうではなかった……

さらに、もっとも核心的な事故について「原子力立地審査指針」ではこう記されています。

◆重大事故
技術的見地からみて最悪の場合には、起こるかもしれない事故

◆仮想事故
重大事故を超えるような技術的見地からは、起るとは考えられない事故。つまり想定外の事故というものです。

そして想定外の事故は、想定してはいけない不適当な事故。想定不適当事故として論議されていません。

◇なぜ想定不適当なのか?
起る可能性が低いから。

◇では、起る可能性がどのくらいなのか?
研究がなく分からない。杞憂と言えるほど低いから。

精度の高い安全性の根拠となる、破局的事故に対する認識が、この程度では科学ではなく、科学的根拠を初めから有していない原発は危険極まり過ぎて、人類が手を着けるものではありませんね。
小出さんによると、このように特に日本ではシビア・アクシデント(過酷事故)の発想が著しく欠落しているため対応がなされていないようです。
つまり「想定外」などというのは、逃げ口上であり、責任逃れのための方便にすぎず、それはそのまま、日本の原子力政策が、未熟で杜撰であることを物語っています。

いったん事故が起これば、取り返しがつかない悪影響を広く後々にまで及ぼす原子力は、

「起り得ることは必ず起こる。起り得ること、想像できることを対策しなければならない」(小出さん)

というフェールセーフの概念が徹底していなければならず、しかしながら原子力においては、不可能です。
原発ではフェールセーフの概念が成立しない以上、そこから脱却することしか、原発から生命と健康と財産を護る術はありません。
私たちには原発から脱する覚悟が必要です。そしてその覚悟が求められています。
自分たちのことではなく、子どもたちや、子孫のことを思い覚悟を決めてください。



武井繁明



George Winston - Thanksgiving