
地球上に存在するものは、すべて自然の恵みとそれによって出来上がったものと言えるでしょう。ただし、生物である人間にとってその資源は、そのままでは使いものにならず、何らかの手を加えて初めて人間の生活に役立つものになります。第二の生命を得た瞬間です。
そして第二の生命を得た時、人間と環境に影響を与え、その影響は、人間を中心に据え、人間からの距離でおよそ量ることができます。
1)木や草など、普段人間が簡単にふれることができる身近な植物系資源は、ほとんど手を加えることなくそのまま建築材料として使うことができます。
これらは、木材(無垢材=化学的処置を施していないもの)、竹材、畳、葦材、紙、布(綿、麻)、天然塗料として住まいで使われます。
◆再生資源である。◆光合成をして酸素を作り二酸化炭素を吸収し、炭素を蓄えている。◆製品化の過程でエネルギー量が少ない。◆人体への悪影響が少ない(気の遠くなるほどの年月の中で、含まれる化学物質を人体が受容している)などの長所があげられます。そして、◆そのまま土に返しても害にならないこと。◆再利用し(リユース)してとことん使いきり土に還ることが可能です。
2)次に土や砂や石などの鉱物系資源ですが、人間との距離が近い土と砂は、わずかに手を加えるだけで壁材として使うことが可能です。土の種類により、またそれぞれの地方でその特徴を活かした土壁として、それぞれの呼び方で呼ばれています。
瓦の原料となる粘土も、人間から比較的距離が近いところにあり、それほど手を加えることなく瓦になります。石もそのまま使える材料として活かされます。
日本古来の漆喰壁となる原料の石灰石もわりと近い所に位置しています。
これらの鉱物資源は、植物系資源に比べれば、建材になるまでのエネルギー量も必要ですし、再生率も劣りますが、人体に影響がなく、そのまま土に返すことができます。
同じ鉱物系材料でも、金属・ガラス系の鉄骨、鉄製品、アルミ製品、ステンレス製品、ガラス、銅製品、ガラス繊維断熱材、ロックウール断熱材(アスベストを含まな)などは、製品になる過程でも、再生するためのエネルギーも、廃棄処分するためのエネルギーも膨大な量の化石系資源(石油、天然ガス、石炭、ウラン)を必要とします。
土に返しても、環境に悪影響が生まれ、土に還るにも相当な年月を要します。特にアルミニウムの精錬では、膨大なエネルギーを必要とするので、再生資源として取り扱わねばならず、再生に必要なエネルギーは、イニシャルエネルギーコストに比べ約1000分の1で済むのもその理由です。
なおコンクリートの主剤であるセメントは、金属系と土、砂系の中間辺りにあります。
ここまででお解りと思いますが、人間との距離が近いほど、人に優しく自然への負荷もかかりません。距離があるほど、人は馴染めず、環境に負荷を与えます。
3)もうひとつ、化石系資源があります。鉱物系資源よりも量的に少ない有限資源で、その量の多くを、20世紀に、それも一握りの国々で使ってしまいました。
原料としては石油で、ビニールクロス、有機溶剤系塗料、化学接着剤、プラスチック製品、化学樹脂製品、塩化ビニール、発泡ウレタン、ポリエステル、ビニール製品、防虫材、防腐材などの製品となります。これらは
◆製品化の過程で大量の化石系エネルギーを必要とする。◆再生する時、製品化の時以上の化石系エネルギーを必要とする。◆再生を繰り返しても、その都度エネルギーを必要とし、最終処分で土に返そうとしても、土に還ることなく、製品として人体に悪影響を与え、再生の過程でも、廃棄処分でも人体と環境に重大な負荷を与えます。
いかがですか。画用紙の真ん中に直線を引き、人の絵を描き、木や草、石を描いてみましょう。
地面から下は、理科で習ったとおり、それぞれの資源が眠っている深度にそれぞれの絵を描いてみましょう。想像でもいいです。人から遠い資源(物質)ほど、人は馴染めず、現実的に負荷を与えています。
日本は豊かな森林に恵まれ、その文化の特徴は、「木の文化」です。木をもっとも有意に効率よく合理的に住まいを始め、身の回りの製品として使ってきたのが日本人です。
たとえば、森林王国、木材の一大産地吉野(奈良)では、良質の木材をとった後の材から酒樽を造り、さらに余った木端から割り箸を造ってきました。あるいは杉や桧の皮は屋根材として、杉の葉からは御線香も作られ、小さな枝や葉は薪となりました。
酒樽は一定の役割を果たすと、醤油樽へ、さらに一定の役割を果たすと味噌樽へとして使いきりました。最後は燃料です。
木に蓄えてきた炭素は、最終的に燃料となり、初めて二酸化炭素として排出されます。
これは吉野の例ですが、かつて日本国中でこうした使われ方がなされていたのです。
日本国中で、第二、第三の生命としての役割を与え、果たし続けてきたのです。二酸化炭素を視点として見れば、純粋の木造住宅が並んだ集落や街そのものが、炭素を蓄える第二の森として長い年月機能していたのです。
人間にも他の生物にも、地球にもほとんど負荷を与えることなく。
私たちは、科学万能の時代に、大量のエネルギーを費やし、大量開発⇒大量生産⇒大量廃棄という、循環機能を喪失したシステムの中で暮らしてきました。今もほとんど変わりません。
このシステムは、そのまま環境破壊、健康被害をもたらします。地球も私たち人間も他の生物も疲れ切り、みずみずしさを失っています。
すでにある部分では、取り戻すことのできない状況になっています。しかし、まだまだ取り戻せるチャンスも取り戻せる分野もたくさんあります。
私たちが、身の回りのものを求める時、あるいは、今後の方向性を考える時、「土に返す。土に還る」というこの言葉と意味が、ヒントになるはずです。
僕は、「未来への責任」「子孫への責任」と大それた、それも情緒的なことを言っていますが、必ずしも大それたことではなく、情緒的なものでもなく、極めて現実的で、確実に実行できる立場にあり、その立場を求め、実行し、築いてきました。
それは苦もなくとても楽しく、常に「創意工夫」があり、我を忘れ没頭していく中で、「感美遊創」という“遊び”=“歓び”を身に着けました。
そうした“歓び”が転じて、“ささやかな責任”に変化したのです。楽しい責任の果たし方です。プレッシャーはありません。
住まいは、ひと世代ではなく、“永く暮らしやすく”なければ、人の元に渡せません。それには遠くを見据えた視線と取り組みが必要です。これは僕のような仕事に就いている者だけではなく、誰にでも可能な視線であり、取り組みです。少し考え、少し意志的に、ささやかに実行していく気さえあれば、そして実行すれば、ひとつのせせらぎとなり、やがて大きな流れになり、みずみずしさを創ることが可能です。
いかかがですか。ぜひ身の回りで、自然の恵みを活かしてください。
C-moon
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ナターシャ・グジー
ウクライナ生まれの彼女は、6歳の時チェルノブイリの事故に会い、「3日間避難してください」と行政に言われるままに、家族と3日分だけの食糧を持って避難しましたが、その後村に還ることなく、村は失われてしまいました。
こうした経過の中で彼女自身も被曝してしまい、その後音楽の道を歩み、今音楽を通じて被曝者を励まし、原発の不条理を語り、福島の人たちにも優しく語っています。
ナターシャ・グジー Nataliya Gudziy - Itsumo Nando Demo (Always With Me)
そして第二の生命を得た時、人間と環境に影響を与え、その影響は、人間を中心に据え、人間からの距離でおよそ量ることができます。
1)木や草など、普段人間が簡単にふれることができる身近な植物系資源は、ほとんど手を加えることなくそのまま建築材料として使うことができます。
これらは、木材(無垢材=化学的処置を施していないもの)、竹材、畳、葦材、紙、布(綿、麻)、天然塗料として住まいで使われます。
◆再生資源である。◆光合成をして酸素を作り二酸化炭素を吸収し、炭素を蓄えている。◆製品化の過程でエネルギー量が少ない。◆人体への悪影響が少ない(気の遠くなるほどの年月の中で、含まれる化学物質を人体が受容している)などの長所があげられます。そして、◆そのまま土に返しても害にならないこと。◆再利用し(リユース)してとことん使いきり土に還ることが可能です。
2)次に土や砂や石などの鉱物系資源ですが、人間との距離が近い土と砂は、わずかに手を加えるだけで壁材として使うことが可能です。土の種類により、またそれぞれの地方でその特徴を活かした土壁として、それぞれの呼び方で呼ばれています。
瓦の原料となる粘土も、人間から比較的距離が近いところにあり、それほど手を加えることなく瓦になります。石もそのまま使える材料として活かされます。
日本古来の漆喰壁となる原料の石灰石もわりと近い所に位置しています。
これらの鉱物資源は、植物系資源に比べれば、建材になるまでのエネルギー量も必要ですし、再生率も劣りますが、人体に影響がなく、そのまま土に返すことができます。
同じ鉱物系材料でも、金属・ガラス系の鉄骨、鉄製品、アルミ製品、ステンレス製品、ガラス、銅製品、ガラス繊維断熱材、ロックウール断熱材(アスベストを含まな)などは、製品になる過程でも、再生するためのエネルギーも、廃棄処分するためのエネルギーも膨大な量の化石系資源(石油、天然ガス、石炭、ウラン)を必要とします。
土に返しても、環境に悪影響が生まれ、土に還るにも相当な年月を要します。特にアルミニウムの精錬では、膨大なエネルギーを必要とするので、再生資源として取り扱わねばならず、再生に必要なエネルギーは、イニシャルエネルギーコストに比べ約1000分の1で済むのもその理由です。
なおコンクリートの主剤であるセメントは、金属系と土、砂系の中間辺りにあります。
ここまででお解りと思いますが、人間との距離が近いほど、人に優しく自然への負荷もかかりません。距離があるほど、人は馴染めず、環境に負荷を与えます。
3)もうひとつ、化石系資源があります。鉱物系資源よりも量的に少ない有限資源で、その量の多くを、20世紀に、それも一握りの国々で使ってしまいました。
原料としては石油で、ビニールクロス、有機溶剤系塗料、化学接着剤、プラスチック製品、化学樹脂製品、塩化ビニール、発泡ウレタン、ポリエステル、ビニール製品、防虫材、防腐材などの製品となります。これらは
◆製品化の過程で大量の化石系エネルギーを必要とする。◆再生する時、製品化の時以上の化石系エネルギーを必要とする。◆再生を繰り返しても、その都度エネルギーを必要とし、最終処分で土に返そうとしても、土に還ることなく、製品として人体に悪影響を与え、再生の過程でも、廃棄処分でも人体と環境に重大な負荷を与えます。
いかがですか。画用紙の真ん中に直線を引き、人の絵を描き、木や草、石を描いてみましょう。
地面から下は、理科で習ったとおり、それぞれの資源が眠っている深度にそれぞれの絵を描いてみましょう。想像でもいいです。人から遠い資源(物質)ほど、人は馴染めず、現実的に負荷を与えています。
日本は豊かな森林に恵まれ、その文化の特徴は、「木の文化」です。木をもっとも有意に効率よく合理的に住まいを始め、身の回りの製品として使ってきたのが日本人です。
たとえば、森林王国、木材の一大産地吉野(奈良)では、良質の木材をとった後の材から酒樽を造り、さらに余った木端から割り箸を造ってきました。あるいは杉や桧の皮は屋根材として、杉の葉からは御線香も作られ、小さな枝や葉は薪となりました。
酒樽は一定の役割を果たすと、醤油樽へ、さらに一定の役割を果たすと味噌樽へとして使いきりました。最後は燃料です。
木に蓄えてきた炭素は、最終的に燃料となり、初めて二酸化炭素として排出されます。
これは吉野の例ですが、かつて日本国中でこうした使われ方がなされていたのです。
日本国中で、第二、第三の生命としての役割を与え、果たし続けてきたのです。二酸化炭素を視点として見れば、純粋の木造住宅が並んだ集落や街そのものが、炭素を蓄える第二の森として長い年月機能していたのです。
人間にも他の生物にも、地球にもほとんど負荷を与えることなく。
私たちは、科学万能の時代に、大量のエネルギーを費やし、大量開発⇒大量生産⇒大量廃棄という、循環機能を喪失したシステムの中で暮らしてきました。今もほとんど変わりません。
このシステムは、そのまま環境破壊、健康被害をもたらします。地球も私たち人間も他の生物も疲れ切り、みずみずしさを失っています。
すでにある部分では、取り戻すことのできない状況になっています。しかし、まだまだ取り戻せるチャンスも取り戻せる分野もたくさんあります。
私たちが、身の回りのものを求める時、あるいは、今後の方向性を考える時、「土に返す。土に還る」というこの言葉と意味が、ヒントになるはずです。
僕は、「未来への責任」「子孫への責任」と大それた、それも情緒的なことを言っていますが、必ずしも大それたことではなく、情緒的なものでもなく、極めて現実的で、確実に実行できる立場にあり、その立場を求め、実行し、築いてきました。
それは苦もなくとても楽しく、常に「創意工夫」があり、我を忘れ没頭していく中で、「感美遊創」という“遊び”=“歓び”を身に着けました。
そうした“歓び”が転じて、“ささやかな責任”に変化したのです。楽しい責任の果たし方です。プレッシャーはありません。
住まいは、ひと世代ではなく、“永く暮らしやすく”なければ、人の元に渡せません。それには遠くを見据えた視線と取り組みが必要です。これは僕のような仕事に就いている者だけではなく、誰にでも可能な視線であり、取り組みです。少し考え、少し意志的に、ささやかに実行していく気さえあれば、そして実行すれば、ひとつのせせらぎとなり、やがて大きな流れになり、みずみずしさを創ることが可能です。
いかかがですか。ぜひ身の回りで、自然の恵みを活かしてください。
C-moon
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ナターシャ・グジー
ウクライナ生まれの彼女は、6歳の時チェルノブイリの事故に会い、「3日間避難してください」と行政に言われるままに、家族と3日分だけの食糧を持って避難しましたが、その後村に還ることなく、村は失われてしまいました。
こうした経過の中で彼女自身も被曝してしまい、その後音楽の道を歩み、今音楽を通じて被曝者を励まし、原発の不条理を語り、福島の人たちにも優しく語っています。
ナターシャ・グジー Nataliya Gudziy - Itsumo Nando Demo (Always With Me)