風の回廊

風を感じたら気ままに書こうと思う。

小沢問題に見る、思考後退した世論

2010年12月26日 | 政治・時事
仮に憎まれ口とささやかれても「小沢は潔白なら政倫審に出て釈明すべきだ」と思っている人について僕は、思考が停止しているどころか、“思考後退”していると思わざるを得ない。こう思っている人で小沢の『政治と金』について、詳細に説明できる人は、ほとんどいないと思う。
つまり、根拠をそれぞれが持っていないと僕は実感している。
こうした思考後退した人たちが、一概には言えないけれど、国民の大半以上いることは、世論調査の数字から窺い知ることができる。

小沢一郎は国会の場で自らの「政治と金」について釈明すべきだと思っている人が、何と90%近くいる。これを世論として、政倫審(政治倫理審査会)招致を求める国会議員の数が、これまた大半以上にいる。国会での証人喚問招致も然り。
その先頭を切っているのはマスメディアで、大手五社の論調どころか地方紙までどこも同じということは、世界から見たら異常であることは、多くのまともなジャーナリストや長く海外で暮らしてきた人が指摘している。
たとえば、シーア派イスラムを国教と、閉鎖的と思われている国、イランの新聞は、それぞれが違った論調を書き、読者の思考を活発化させている。みなさんイランという国を侮っていないか?他国のメディアを侮っていないでしょうか?
欧米やイランのような国から見れば、日本のメディアは、その役割を果たしていないと映るだけではなく、異常に後進的、前近代的なメディアに見えるらしい。ひとつにはこれまでも指摘してきたように『記者クラブ』の存在の問題がある。各省庁からの情報をほぼ独占的に支配し、今もなお完全に開こうとしない、官僚と政治家との仲良しサークル、情報カルテル、護送船団方式の排他的『記者クラブ』なるものは、世界広しといえども日本とジンバブエにしか存在しない。
笑えない現実である。
国家に管理されているか、いないかの違いだけで、論調の類似性、一体性、権力への姿勢という意味合いでは、中国や北朝鮮のメディアとそれほど変わらないのが、日本のメディアの現実で、
その姿勢の本質は、既得権力の保護と、既得権力を脅かす存在の排除で、メディアは既得権力の中でも最大の権力と言っていい。

そんなメディアは、何ら検証もせず、朝から晩まで、2年近くにもわたり小沢の『政治と金』を疑惑として、あたかも、事実として行われてきたかのように報道し続けている。たとえば、TBSの報道に見られるように、石川知裕議員が水谷建設から不正献金を受け取ったと捏造再現までして放映する犯罪ともいえる行為。この報道を視聴者はどう見たのか?

識者と言われる人たちや評論家やジャーナリストやコメンテイターが、「シロなら国会の場で釈明すべきだ」とテレビ画面や紙面で言えば、国民の90%近くの人が、漠然とした認識の中で肯いてしまい、自分の意見として身につけてしまう。
テレビ画面や紙面に登場する人たちのほとんどが、小沢の政治と金について、まともに説明できないことをみなさん知っていますか?
そして多くの人たちもまた説明できない。にもかかわらずこうした人たちから得た、漠然とした認識程度で小沢の政倫審招致を求めている。思考停止どころか、受動するだけで能動的に考えようとしない姿勢は、思考の後退と言ってもいい。たしか人間は考えることができる、考えることで文明を築いてきたはずです。

西松建設不正献金事件の公判はどうなっているのでしょう?
与良正男・毎日新聞論説副委員長は、みのもんたの『朝、ズバ!』で「西松建設の公判は始まったの?」とゲストの森ゆう子議員に問うた。
大新聞社の論説副委員長がこの程度である。馬鹿じゃなかろうかと呆れるしかない。
西松建設からの小沢への献金について、大久保秘書の公判で検察側証人として政治団体の担当者が「ダミーと指摘された政治団体は、適正な政治団体であり、献金も適切な献金である」と証言し、検察は公判維持ができなくなり、“訴因変更”という手段に出て、公判を大幅に遅らせている。
”訴因変更“とは、主たる起訴事由では、裁判に負けてしまうため、主たる起訴事由から、その範疇に留まる程度の事由に起訴事由を変更することで事実上の検察の失態。敗北を意味している。こうした事実があったことさえ、大新聞の論説副委員長ともあろうものが知らないで、堂々と小沢の『政治と金』をもっともらしく訴えている。
こんな番組は、見ない方がいいに決まっている。悪害以外社会にもたらさない。

莫大な違法献金を得たとして、小沢を起訴しようとした検察は、ついにその証拠を得られず、政治資金規収支報告書不記載という微罪で起訴しようとしたが、これも公判を維持できるほどの根拠がなく断念。しかし、どのように審議されたか、議事録も存在しない、その実態が明らかにされていない、訳の分からない検察審査会という“市民の視線”というもっともらしい大義名分で小沢は強制起訴された。被害者はどこに居るのだろうか?誰なんだろう?
僕は、小沢こそ思考後退した世論の被害者である、と思っている。
政治資金収支報告書不記載で問題となる土地登記の期ズレに関しても、まったく問題がないことを明らかにしている会計、登記専門家もいる。
だいたい、政治資金収支報告書不記載は、総務省管轄(国会議員)でも年間100を上回る数の不記載が指摘され、そのほとんどは修正で澄んでいる。起訴なんてほとんどされない。

なぜ、小沢だけが起訴されなければいけないのか?
なぜ、検察やマスコミ、政治家、そして国民の多くは、小沢にだけ高い敷居をまたがせなくてはならないのか?
本人が「私は黒です」と言うまで、思考後退した世論は気が済まないらしく、『悪魔の証明』を人民公開裁判や魔女裁判の場で小沢に求めているような状況になっている。

小沢が疑惑を持たれる要因のひとつとして、小沢に集まる金額の多さを指摘する人がいるが、適切に集まった政治資金なら、金額の多い少ないは問題ない。有能な政治家には多くの献金が集まり、無能な政治家に多額の献金など集まるわけがない。日本人の潔癖性は、金額の多さで本質を見失うことがある。これは潔癖性と言わず、過敏症という。もう病気に近い。
アメリカ大統領選で、候補者はどのくらいの巨額な献金を受けるかご存知なのか。
巨額の献金を受け、新大統領になったオバマを日本人の多くが称賛した。

一連の小沢問題で、『政治と金』というスローガンだけを掲げ、小沢に進退を迫り続けてきた、生方幸夫という元読売新聞社記者の民主党議員がいる。生方はまるで自分の墓穴を掘ったように、自らの選挙資金の不記載を指摘され記事にも小さく書かれた。たしか数十万円の不記載だったと思う。
生方の理屈で言えば、金額の大小にかかわりなく辞任すべき問題であるのに、生方は謝罪しただけで、今も議員を続けているし、メディアも国民も生方に辞任せよ!とは言わない。秘書宿舎建設場所としての小沢(陸山会)の土地購入代金については、どこも疑惑になるような事実は存在しない。メディアの根拠のない疑惑報道で思考後退した世論は、その正当性を知ろうともせず、「国会で説明せよ!」と小沢に求める。おかしな話だと思う。

自民党の佐藤ゆかり議員は、事務所引っ越しの際に507万円に及ぶ、領収書を無くしてしまった。
と彼女は言っている。小沢を追求する視点で見れば、これこそ犯罪と言わなければならないだろう。
「合わせて500万円にも及ぶ領収書を無くしたなんていったい誰が信じる!」ということになるはずなのに、世論は騒がない。

「小沢さんは新進党を解党した時の党の運営資金の残額を国庫に返済すべきだ」とあたかも小沢が私腹を肥やしていたかのように記者団に語った岡田民主党幹事長は、認識不足も甚だしい。笑いを通り越して呆れるほかない。当時、国庫(税金)からの政党補助金制度はなく、ごくわずかな事務費が支払われていただけで、事務費不足は献金によって賄われていたことは、どの党も同じである。
国庫に返すべき金などなかったし、理由もない。しかし、メディアは騒ぎ世論は小沢を悪代官に見立てて攻める。

親である私たちは子供に、「先入観で物事や人を見てはいけない。事実を探求し認識して評価しなさい」と諭す。正論だと思う。しかし90%の世論は、それを反故にしている。

小沢は、自民党、旧田中派のプリンス的存在で、若くして(47歳)自民党の幹事長になり、政権の中枢、政治の中枢で活動してきた。ロッキード事件、その他の金脈問題でメディアと世論は、田中角栄を政権から引きずりおろし、その後継とも言える小沢への印象も世間の視線にはすでにオブラートがかかっている。自民党を出てからは、新党を創り、解散し、また創っては解散するという道を歩んできたことから、“壊し屋”とメディアは呼んだ。
しかし、もし小沢が自民党を出なければ、思考錯誤しながら新党を創り、解散し、吸収と合併を繰り返してこなかったら、政権交代は、ずっと先の話しになっていただろう。
自民党気質がたっぷり染み込んだ、がちがちの保守的な政治家だと小沢を見ることは、見当違いも甚だしく、評価を大きく誤らせてしまう。
今現在の政治家の中で、共産党の議員も含め、小沢ほど明瞭に改革を唱え、可能性と手腕を持つ政治家はいない。
菅は、市民政治活動、社民連、さきがけ、オリジナル民主党という、リベラル路線を歩んできたが、リベラルな火はすでに消え、保守の権化となっている。

なぜ小沢は、ここまで国民に嫌われながら、政治の中枢から外れることなく、政治のダイナミズムを具現化し、政界を揺るがし続けたてきたのか。絶体絶命の今もなお闘い続けているのかと理由は極めて純粋で簡潔である。

小沢発言の随所に見られるように“真の民主主義の確立”“120数年に及ぶ官僚を主体としたそれに連なる既得権力の解体と正常化”“日米対等、世界各国との等距離、全方位外交”が、日本に幸せをもたらし、世界に貢献できる日本へ変換できると信じて疑わず、実現の方向へ今も向かっているからに他ならない。そして同調する政治家や多くの人たちが、めげることなく小沢を支えているからだ。小沢に夢を託している……と言ってもいいと思う。
だから小沢は、既得権益保持勢力から、抹殺されようとしている。

諸外国の首脳とメディアの小沢への評価は、すこぶる高い。『政治と金』程度の疑惑で、根拠に欠ける恣意的な報道で、政治家の生命が絶たれようとしていることに懸念を表し、日本のメディアと世論を異常に感じている。
欧米では、公金以外の『政治と金』のスキャンダルで、政治生命を失うことはほとんどなく、スキャンダル中でも、国会が空転することはない。政治家もメディアも国民も、個々の政治家の手腕や資質への評価とスキャンダルは別物に考えているからだ。

これは、これまでたぶん報道されてなく、僕も先日初めて知ったのだが、APEC横浜で来日した
胡錦濤・中国国家主席は、菅総理とは会いたくなく、わずかな会談で済ませたが、小沢には自ら会談を求め会っていたのだという。小沢は一兵卒でもあるし、儀礼的なことは得意ではないので、辞退したらしいが、胡錦濤側が、どうしても、と実現した。
その席で小沢は、胡錦濤に小沢の座右の銘のひとつでもある、ヴィスコンティの名作『山猫』の中の台詞『変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければいけない』という言葉を贈り、暗に中国の外交姿勢を諌めたという。時は、尖閣諸島問題で日中関係が悪化し続けていた。
小沢は親中派と言われるが、そうではない。アメリカに対してだけではなく、中国にも明確に意思を言うことができる政治家である。
だから小沢は、世界で評価される。
今、政治家・小沢一郎を失うことは、日本の損失だと僕は思う。思考後退した世論でひとりの政治家を追い詰める愚挙を国民は恥じねばならないと思う。

僕は人を戒めたり、人の思考を醒ますような人格や思考を持ち合わせていないけど、今の政治と政局の流れを見つめると、90%近くの思考後退した人たちにこの国の行く末への危機感を覚える。
事実の探求と考えること。主観的な意見を持つことが大切だと思う。
今、私たちが歴史に試されている時だからこそ……



柳田法務大臣辞任に見る本質とは何か?―禁断の刑事訴訟法第47条にふれた男

2010年12月03日 | 日記
【11月22日のmixi日記から】


北朝鮮の砲撃事件で、明日からメディアの報道に載らなくなるかもしれない柳田法務大臣の辞任ですが、そのことに安堵している人たちがいることを忘れてはならないと思う。

野党とメディアが、現役の法務大臣として国会を軽視する発言だとする、地元広島での柳田の(以下敬称略)国政報告会の発言はこの部分です。

(11月18日YOMIURI ONLINEから 引用)
「9月17日(の内閣改造の際)新幹線の中に電話があって、『おい、やれ』と。何をやるんですかといったら、法相といって、『えーっ』ていったんですが、何で俺がと。皆さんも、『何で柳田さんが法相』と理解に苦しんでいるんじゃないかと思うが、一番理解できなかったのは私です。私は、この20年近い間、実は法務関係は1回も触れたことはない。触れたことがない私が法相なので多くのみなさんから激励と心配をいただいた」

 「法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と。これはいい文句ですよ。これを使う。これがいいんです。分からなかったらこれを言う。これで、だいぶ切り抜けて参りましたけど、実際の問題なんですよ。しゃべれない。『法と証拠に基づいて、適切にやっております』。この二つなんですよ。まあ、何回使ったことか。使うたびに、野党からは責められ。政治家としての答えじゃないとさんざん怒られている。ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している」
(引用終わり)

僕は当初この発言内容を見て、「ジョークでしょ。それに事実だから、何も糾弾するようなことじゃない」と思っていました。たしかに「法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから」という部分に主眼を置くと法務大臣という責任ある役職を軽視しているし、「これを使う。これがいいんです。分からなかったらこれを言う。これでだいぶ切り抜けてまいりましたけど」という部分もふざけている。国会を軽視しているとも言えるわけで、メディアも野党も柳田のこの部分の無責任さを批判している。
そしてこの二つの柳田の”情緒”に前後している、柳田がもっとも意味を込めて言いたかったと思われる“二つ”に注目してほしい。

◇『個別の事案についてはお答えを差し控えます』
◇『法と証拠に基づいて、適切にやっております』

この二つの言葉は、柳田だけではなく、歴代の法務大臣が国会や記者会見で、事件について質疑される度に答弁してきた、いわば、法務大臣お決まりの答弁ですね。

では、何を論拠に柳田をはじめ、歴代の法務大臣の答弁としてきたかは二つ目の言葉の“法”にあります。

その法は刑事訴訟法第47条です。

(訴訟書類の公開禁止)
第47条
訴訟に関する書類は、公判の開廷前には、これを公にしてはならない。但し、公益上の必要その他の事由があって、相当と認められる場合は、この限りでない


この条文により、質疑されても個別的事案に法務大臣とはいえ、答えることを制限されています。

柳田は言っています。
◇「実際の問題なんですよ。しゃべれない」
◇「ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している」
ここに現役法務大臣の苦悩と自嘲を読みとることができないだろうか?そして現役法務大臣の責任感のようなものが漂っていないでしょうか?

『個別の事案についてはお答えを差し控えます』
『法と証拠に基づいて、適切にやっております』

この二つは互いにリンクし、これには大前提があります。
『適切にやっております』という言葉に示されているんですね。何を示しているかと言えば、

“公訴権を独占している検察が、すべて正義に基づき正しく処理している”ということ。

この大前提に刑事訴訟法47条は明文化されていると言ってもいいし、それを“法”が、検察に求めています。だから答弁は必要なく、個別事案について情報開示の義務は存在しません。

しかし、実態はどうでしょう?
“検察がすべて正義に基づき適切に処理しているのか?”という疑問が残るのは、私たちだけではなく、現役の法務大臣ならもっと強く実感しているでしょう。
例えば、柳田が法務大臣在職中明らかになった大阪地検特捜部による証拠改ざん事件。
その他、検察特捜が捜査、起訴した冤罪の可能性が高い事件が、過去から現在まで目白押しです。一般の刑事事件でも疑いのあるものは少なくありません。
こうした検察の暴走、検察への信頼の崩壊から、柳田は検察の在り方を検討する第三者機関の設置を強く各方面から、多くの国民から要望され、法務大臣の諮問機関である『検察の在り方検討会議』を設置します。

この時の検討会議のメンバー選定の経緯として、委員になったフリージャーナリストの江川紹子はこんな発言をしています。

「官僚から大臣にメンバーの推薦者リストが渡された時、柳田さんは読んだ後、ゴミ箱に捨て、私と郷原信郎さんを入れるよう担当官僚に指示した」

江川紹子、郷原信郎は、特に郷原信郎は、一連の小沢問題の検察の在り方にふれ、極めて理論的に実態を詳細を明らかにしながら徹底的に批判してきたヤメ検(元検事)で、法務官僚、特に検察からもっとも敬遠され、同時に怖れられている人です。江川紹子も然り。

このような事実から、柳田が
“検察がすべて正義に基づき適切に処理しているのか?”という疑問を持っていたことは容易に推測できるし、検察の改革に前向きだったことは明らかです。
そんな柳田の想いが
◇「実際の問題なんですよ。しゃべれない」
◇「ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している」
という自嘲とも苦悩とも推察できるこの部分によく表れているのではないでしょうか。

そして柳田は野党とメディアと多くの国民に辞任を迫られる中、辞任発表の前日に記者会見を行います。しかし、正式な記者会見は法務官僚の阻止にあったと思われ、“ぶら下がり記者会見”となる。
おそらく、刑訴法47条をめぐり、法務官僚との間でそうとう激しいやり取りがあったと推察されます。というのは、そのぶら下がり記者会見で柳田は、「辞任しない」ことと「法務省刑事局長に対し刑訴法47条の在り方を検討するよう指示した」と語ります。
刑訴法47条は、たしかに公判前の証拠を守る上で有益な法律でしょう。一方、法務行政のトップである法務大臣が、法務行政の一機関の検察を監視できても、正義に基づいて適切に処理しているかどうか、公開できない大きな壁でもあるわけです。

自民党の歴代の法務大臣と検察は、刑訴法47条を拠り所に、程良い距離を保ちつつ、相互権力の保持に努めてきたことは、検察の膨大な権力と、過去の疑わしい不祥事が明らかにされなかったこと――特に三井環事件に見る当時の政府と検察の癒着――を考えれば明らかで、良心的に考えても自民党の歴代法務大臣と自民党にとっては、検察に踏み込めない、踏み込まない事実の汚点としての記憶があります。
また、官僚と一体となった“官報複合体”と言われる、マスメディアにとっても、刑訴法47条は、程良い距離を保つのにひじょうに都合の良い法律なわけです。
この法律によって、個別的事案に突っ込んだ取材をしなくていいからです。突っ込んだ取材で検察の在り方が問題になれば、それを記事にしなくてはならない。
しかし、開示義務のない聖域にあえて踏み込む必要がない。検察と対峙する必要がない。

つまり、刑訴法47条は、既存権力にとってまことに都合の良い法律であり、ここにふれることは、ひじょうに危険であり、まさに禁断の法律(条文)だったわけです。

昨日、柳田は法務大臣の職を辞し、記者会見を行いました。
Youtubeに掲載されたノーカット版では、刑訴法47条にふれていますが、僕が見た限りのニュース映像では、その部分はカットされ、論議している新聞記事も見当たりません。
もっとも柳田がふれたいと思っていたことが、国民に伝わらないことに柳田はさぞ無念の想いを噛みしめているでしょう。



柳田法務大臣辞任会見ノーカット1/4(10/11/22)


柳田の広島での発言が軽率だったことは間違いありません。もっと他に言いようがあったはず。問題提起のしようがあったはずです。そして重要な問題として心しているのであれば、もっと違ったかたちで表現し、補正予算の審議に関わりなく、事を運ぶことができたはずです。そして辞めるべきではなかったし、辞めさせるべきではなかったと思うのです。
柳田の弱さは、ここにありましたが、菅の周辺にそれだけの力強さをもった議員も見当たらないところが、この内閣の弱点でもあります。

問題の提訴の方法として、自ら作った『検察の在り方検討会』で論議させてもよかったのではないでしょうか。(遅かりしですが、記者会見で自ら言っています)刑訴法47条は、検察の問題にふれることにもなるわけですから。

そして危惧するのは、後ろ盾を失った『検察の在り方検討会』の行方です。
せっかく、郷原、江川という検察がもっとも怖れる人が、委員としているわけですから。
僕はあまり深読みすることや陰謀論的なことを考えたくないのですが、利害の一致ということを考えれば、柳田がいなくなり『検察の在り方検討会』が、事実上機能しなくなり安堵するのは誰か?ということまで考えなくてはならない問題の多い、そして政治的に重要な辞任劇ではなかったかと思います。

後任兼務の仙谷官房長官への期待度ですか?
尖閣事件で、強引に検察を使ったことから考えれば、答えは明らかでしょう。

メディアは、事実にふれても本質にふれません。
尖閣事件も、ビデオ流出事件も、そして柳田辞任劇についても同様です。
メディアの報道により、本質が明るみにされない危険。読者が同じ流れに陥っていく危険を感じるばかりの今日この頃です。



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歴代の法相答弁の制約に法務官僚が使ってきたのがこの条文。その解釈問題には絶対に触れられたくないはず。この点について法相として検討を指示し、検察の在り方検討会議でも検討するよう座長に依頼したのは重要な事実だ。この問題が報じられれば、後任法務大臣への影響は大きい。

郷原信郎のツイートから引用