風の回廊

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だまされた者の責任、だまされなかった者の責任

2011年05月14日 | 政治・時事
小出さんは講演や会見で、「だまされた者の責任」という言葉を最後に使うことがある。
原発災害にあっての責任は、一義的には、原発を国策とした主体者である政府。国策を補完するために「安全神話」を創りだした推進派学者。運営する電力会社。そこに巨額な資金が投入され、そこに群がる企業。こうした原子力(核)政策に癒着した小出さんが言う「原子力村」にある。
しかしながら、「安全神話」にだまされたとはいえ、これまで容認してきた人たち、反対しながらも止められなかったことにも責任が伴うのではないか。
こうした主旨で小出さんは「だまされた者の責任」を静かに投げかける。

僕の世代が物心ついた頃は、すでに原子力政策は進められ、原子力こそは豊かな未来を約束するエネルギーだと誰もが教えられ、信じていた。原子力から生まれた鉄腕アトムがヒーローで、妹のウランちゃんはアイドルで、僕たちの未来は力強くそしてバラ色だった。
僕たちは、原子力(核)の国策の中で、繁栄を謳歌してきた中心的な世代で、成長するに従い、危険性を知り得る環境にいた。だからこの期に及んで知らなかったでは済まされない面がある。繁栄の構造の中で、その負担を福島や他の田舎に原発を平然と押しつけてきた現実があり、それが「当たり前」だと思いこまされてきたことにまず気づかなければいけない。
このままでは、繁栄を享受しただけの無責任世代として長く後世に伝えられることは必至です。

これは原発だけではなく、ダムや米軍基地についても言える。
危険で厄介なものは、遠くに造っておけばいいという、都会繁栄の構造でもある。
「そんなことはない誘致した地域も繁栄しているだろう」。という意見もあるが、残念ながらダムで栄えた村はなく、米軍基地や原発地区も自然派生的には栄えていない。巨額な資金がカンフル剤のように投入され、繁栄しているように見えるだけで、その構造に繁栄の本質的な基盤はなく、極めて脆弱なのです。
こうした、実体のない歪みくすんだ実態にもだまされている傾向があって、容認してきた事実があり、やはりそこにも同じように「だまされた者の責任」もあると思う。

僕はこれまで、批判ばかりしてきた。批判は批判で大切なんだけど、それだけでは何も生まれないと思っています。危険性を叫んでいるだけでも物事は好転しない。偉そうに今日も言っているけれど責任を取らないことには、『未知の領域』から一歩も外に出られない。
それは今実際進んでいる現実的な『未知の世界』からも、震災で生じた『内なる未知の世界』からも出られない。

『未知の世界』から脱却するには、福島第一を収束させることはもちろんだけど、他の原発も止めなければ、未来は描けない。だから今すぐすべての原発を止めろと言う。すべての原発を止めても電気量が不足しないデータもある。たぶんそうだと思う。原発をすべて止めたところで、一億総玉砕というわけではないだろう。
しかし原発で生活が成り立っていた人たちや地域はどうなるんだろう。
すぐに再生可能なエネルギー施設を造ってそれを生活の糧の場とすることは無理だろうし、何らかの補償で賄いきれるとは思わない。いずれにせよ、原発を止めてから再生するには時間がかかる。
だから電力を確保しながら、忍耐強く再生可能なエネルギー施設を確立し、緩やかにシフトしていかなければならない。本気で安全に止めるには、急速な展開よりもしなやかな展開でなければならない。でなければ、すべての原発立脚地が、空白のスポットとなる。

こうした現実的な政策とリンクしながら発言も変えていかなくてはならない。
何度も言う。批判するだけでは何も生まれない。危険性を叫ぶだけでは害悪になりかねない。
特に急進的反原発の人たちのストイックでヒステリックな叫びだけでは何ももたらさないことは、これまでの歴史が証明しているし、今や害悪でしかない。
穿った見方かもしれないが、ことさらに「反原発」を主張している人たちを見ていると、原発はどうでもよく、知ったかぶりエゴと反権力ごっこを満たしている自慰的な行為に見えないこともない。
そこには安全への事細かな押しつけがあり、「子供の命を!」という錦の御旗があり、子供を避難させない福島県の親への見下しと侮蔑がある。
彼らの福島県民への罵倒を見ていると、彼らにとって「福島県」というのは「原発を受け入れた推進派」という記号にすぎず、政治ごっこ、安全ごっこ、正義ごっこの玩具であり、そのための「敵」でもあるのかと思えてくる。
もう最悪極まりない言葉が飛び交っている錯綜した世界……

そして総じて、「自分たちは原発に反対してきたのだから何の責任もない」という安楽椅子に座っての批判、非難、危険性の叫びだから始末に負えない。
放射能はたしかに怖い。これ以上怖いものはないかもしれない。しかし程度の差こそあれ、日本中に拡散している放射性物質の下で暮らさなければならない私たちは、それなりの覚悟が必要だと思う。
撒き散らされた放射性物質の下では、反原発も推進も容認もない。すべてに覚悟が必要で、覚悟の中で大切なことは、責任ではないかと思う。
だまされた人の責任もだまされなかった人も、子供や未成年以外は、責任が求められるし何らかのかたちで果たさなければ、事態はいつまで経っても現状のままではなかろうか。
というよりもっと酷くなっていく予感すらある。

ではその責任にはどんなものがあるのだろう……
どんな責任の取り方があるのか……
考えてみましょう。


武井繁明

読んでくれたみなさんへの贈り物として今回から『本日の参考書』を掲載していきたいと思います。
第1回『本日の参考書』は“吉岡メモ”
http://www.shippai.org/images/html/news559/YoshiokaMemo37.pdf

福島第一原発の現状がどのような状態になっているのか、解かりやすく書かれています。
もちろん、実際どうなっているのかは誰にもわからないことで、取得可能なデータと経験から導き出されたものです。
書かれたのは、福島第一3号機の格納容器の設計に携わった元東芝の吉岡律夫さん。
よく更新されるので読み続けているととても参考になります。




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