今年も環境省提唱の山形県環境科学研究センター環境企画部の「水生生物調査」を南陽市宮内の吉野川にて実施しました。午前11:00頃開始です。宮内研究会として。これまで5,6年は続けていると思います。米沢市の松川上流、直江堤(米沢短期大学付近)の川での調査風景はポスターにも掲載してもらいました。
8/29、雨がちが続いたためか水流は多く、水はきれいでした。サンダル履きで川に入るも、冷たさは気持ちいい感じ。
水温は20.8度 カワニナが岸の岩に数匹張り付いていました。川底の石を剥がして、網で受けることを繰り返していても、それほどムシ類はかかりません。水面にはハグロトンボが無数、飛んでいるところからすると、ヤゴ類などはみな孵化した模様。チョウバエ類だけはよくヒッカカリました。
水量は多く、澄んでいるのに、カワニナやチョウバエ類がいるので、水質は階級Ⅳの「きたない」です。吉野川は汚い川だということです。
似たようなものを昨晩も作ったのだが、おいしくなかった。なので、今夜反省バージョン。
・・・おいしくできました!ネギはニラと混ぜないで、豚と刻みニンニクとで炒めました。ニラは昨晩は山盛りにしましたが、今夜は少なめに。麺のゆで方を工夫。余っていた餃子の皮をワンタン風に添えました。
水林の熊野神社奥の院(熊野岳標高660メートルくらいの山頂にあり 南陽市吉野地区水林と白鷹町滝野地区から登れます)
第1回参拝 5月11日、第2回参拝6月11日 第3回参拝7月9日(土) 今日は第4回参拝8月12日(金)
次回の月例参拝は9月の予定
ほぼ1時間で往復。
写真
①熊野神社奥の院参拝写真
8月初めの大雨で道路が崩れていないか心配でしたが、大丈夫でした。
②熊が爪で杉の木の皮を剥いだ痕
③「くぐり滝」と称されている写真の滝は、この水林を水源として流れ落ちています。
調味料は適当に入れたが、だから、たまたまだが、おいしくできましたぁー!
辛すぎず、甘すぎず、しょっぱすぎず (*^_^*)
絵説法 観音経を読む―苦難からの救いの道
前田 孝道 (著)
出版社 : 朱鷺書房 (1994/11/1)
発売日 : 1994/11/1
観音経というと、これまでは瀬戸内寂聴の「観音経」ぐらいしか読んでなかった。今でも残っているとの時の記憶の残滓は「観音という言葉の響きはとても素敵でしょう? この清澄な響きはあらゆる罪汚れをきれいさっぱりと浄化してくれるのです。ですから、何度も何度も『南無観音菩薩』と唱えましょう」そんなことだったと思う。観音さまの救済法は、音楽によるカタルシスではないのかと思いました。
私は毎朝、聖書の説教文を読み、祈り、讃美歌を歌う代わりに「観音経」と称される法華経28巻のひとつ第25巻目の「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」を法華経入門のつもりで15分強かけて音読している。
法華経というと「南無妙法蓮華経」とお題目を何度も唱えるのだと思っていたら「南無観世音菩薩」と菩薩様を何度も唱えるやり方もあるのだ。こちらは「カンゼオンボサツ」という言葉の響きがとても清澄で浄化されるかららしい。それなら15分もかけてお経を読経するのはどんなことがあるのだろう。詩も含まれているので、全体が美しい響きがあるようだ。そもそも「観世音」「観音」と「音」があるように、音の菩薩様のようんだ。
さしあたって読んでばかりいると、やはり中身が知りたくなる。ということで、ブックオフで観音経の解説、説法本を買ってきた。
本書はタイトルで買ったもので、著者の前田孝道さんが紀三井寺の管主だから読むことにしたのではない。じつは、私が各所のブックオフを回ってやっと観音経の解説本として本書を見つけたものだ。
昨晩、またブックオフに行ったら、ひろさちやの「観音経奇蹟の経典」が見つかった。こっちの方が読みやすそうだった。けれども、買ってきたものは読まないともったいないので読むことにする。
観音経は28巻ある法華経の25巻目なので、ことの発端は観音経には書いていないはず。ことの途中から観音経は始まると心得ておくことにする。
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」の内容をかいつまんで並べてみる。
まず、このタイトルの意味は、ちゃんと要約してある。
「妙なる法(のり)、清浄にして美しき宇宙の真実を説いた蓮華の教えのなかで、観音さまが普(あまね)き門より、一切の人をお救いになるお経」
以下、本文を抜き出したりまとめてみよう。
爾時無尽意菩薩即従座起偏袒右肩
本文はこの言葉から始まる。訳をみると「そのときに」となっている。前巻の続きであることが分かる。
無尽意菩薩(ムジンニボサツ)が仏様に質問をする。
「世尊、なんで観世音菩薩と名付けられたのですか?」
仏(世尊)が答えられた。
「大勢の人々が悩みあるとき、観世音菩薩の名を一心に「ナムカンゼオンボサツ」唱えれば、その言葉の音によってみな、救われる開くだろう」
(火難)
「若有持是観世音菩薩名者設入大火」
にゃくうじぜかんぜおんぼさみょうしゃせつにゅうだいか
たとえ火に焼かれようと、観世音菩薩さまと唱えれば焼かれない。これも菩薩様の神通力のおかげだ。
(水難)
「若為大水所漂稱其名号即得淺處」
にゃくいだいすしょひょうしょうごみょうごうそくとくせんじょ
もし、水に流されるようなことがあったら、名号(観世音菩薩)を唱えれば流されない。
「若有百千万億衆生為求金銀瑠璃」
にゃくうひゃくせんまんのくしゅじょういぐこんごんるり
宝を求めて海に出かけ、悪魔に襲われても、1人でも観世音菩薩の名を唱えるのであれば救われる。
「若復有人臨当被害称観世音菩薩名者にゃくぶうにんりんとうひがいしょうかんぜおんぼさみょうしゃ」
刀で襲われるようなことがあっても観世音菩薩の名を唱えれば、その刀はボロボロになる。
「若三千大千国土満中夜叉羅刹にゃくさんぜんだいせんこくどまんじゅうやしゃらせつ」
広大な国土に鬼や悪魔が襲ってきても、観世音菩薩の名を唱えれば救われる。
「設復有人若有罪若無罪枷械枷鎖せつぶうにんにゃくうざいにゃくむざいちゅうかいかさ」
仮にある人が罪を犯し捉えられても、また罪のない人でも観世音菩薩の名を称えれば救われる。
「若三千大千国土満中怨賊にゃくさんぜんだいせんこくどまんじゅうおんぞく」
「有一商主将諸商人斉持重宝経過険路ういつしょうしゅしょうしょしょうにんさいじじゅうほうきょうかけんろ」
あるとき広い国土を旅する一商人の隊が賊に襲われても、1人が「正直に働いているみんな、一心に観世音菩薩の名を称えよう。そうすれば難から免れるから」という。それに応えてみんなが団結して「南無観世音菩薩」と称えたので難から逃れられた。
「無尽意観世音菩薩摩訶薩しょうごみょうこそくとくげだつむじんにかんぜおんぼさまかさ」
「威神之力巍巍如是いじんしりきぎぎにょぜ」
無尽意(むじんに)よ、観音さまの威神力、すなわち神業は天をつく高い山よりも優れたものなのだ」
(以下、原文は省略 省略した訳のみ)
性欲過多の者は観音を念ずれば収まる。
腹を立てやすい人は観音を念ずれば収まる。
愚痴の多い人は南無観世音菩薩を唱えれば収まる。
無尽意(むじんに)よ、観音さまの威神力、すなわち神業で利益を授けてくださるから、観音を心に念ずるべし。
女性が男の子が欲しいと思えば、観音を礼拝供養すれば、しっかりした男の子が授かる。女の子が欲しいと観音を礼拝供養すれば、しっかりした女の子が授かる。
無尽意(むじんに)よ、観音さまを礼拝供養すれば威神力、すなわち神業によって虚しいことにはならない。
だから大勢の人々によってかんのんは礼拝供養しなければならない。
お釈迦様は呼んだ。無尽意(むじんに)よ、もし、人の一生のうちに飲食、寝具、医薬等を供養するのは、その功徳、多いか少ないか。
お釈迦様が言うには、ほんのわずかでも観音を礼拝供養すれば、他の菩薩を一生、礼拝供養したのと同じだ。無限の年月をかけて観音を賞賛しても尽くすことはできない。
無尽意菩薩は衆生を代表してお釈迦様に質問した。
「世尊よ、観音様はどのようなお姿でこの娑婆世界に現れ、どのように説法されるのですか。その方便の力はいかなるものですか。」
お釈迦様は無尽意にお答えになった。
「善男子よ、国土(地上)の生き物たちの中で、悟りを開こうとする者には観音は仏として説法されるのだよ」
独りで悟りを開いたという辟支仏の姿で、悟りを開こうとする者に説法されるのだよ。
説法を聞いて悟りを開こうとする者には声聞の姿になって説法されるのだよ。
梵王によって悟りを開こうとする者には梵王の姿になって説法されるのだよ。
帝釈天によって悟りを開こうとする者には帝釈天の姿になって説法されるのだよ。
自在天によって悟りを開こうとする者には自在天の姿になって説法されるのだよ。
大自在天(シバ神)によって悟りを開こうとする者には大自在天の姿になって説法されるのだよ。
天大将軍(金剛力士)によって悟りを開こうとする者には天大将軍の姿になって説法するのだよ。
毘沙門によって悟りを開こうとする者には毘沙門の姿になって説法するのだよ。
小王(地上の王)によって悟りを開こうとする者には小王の姿になって説法するのだよ。
徳のある長者によって悟りを開こうとする者には長者の姿になって説法するのだよ。
居士(こじ 一家の主人)によって悟りを開こうとする者には居士の姿になって説法するのだよ。
徳のある宰官(行政官や政治家)によって悟りを開こうとする者には宰官の姿になって説法するのだよ。
婆羅門(バラモン)によって悟りを開こうとする者にはバラモンの姿になって説法するのだよ。
出家の男女である比丘、比丘尼、仏教に帰依した優婆塞、優婆夷によって悟りを開こうとする者には比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の姿になって説法するのだよ。
長者、居士、宰官、バラモンの夫人によって悟りを開こうとする者には長者、居士、宰官、バラモンの夫人の姿になって説法するのだよ。
童男童女(少年少女)によって悟りを開こうとする者には童男童女の姿になって説法するのだよ。
仏法守護の異類たち天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人等によって悟りを開こうとする者には、これらの姿になって説法するのだよ。
執金剛神(仁王)によって悟りを開こうとする者には執金剛神の姿になって説法されるのだよ。
無尽意よ、このようにありとあらゆる形で至らない衆生をお導きくださるのだよ。
だからおまえたち衆生は一心に観世音菩薩を供養するが良い。数ある菩薩の中で飛び抜けて優れた菩薩様なのだから。いつどこでどんな災難に遭わないとも限らない。その不安を除いてくださるのですから。
無尽意菩薩は、お釈迦様に申し上げた。
「お釈迦様、私は観世音菩薩を供養します。このとおり、首にかけていた宝石を観音さまに差し上げ、次のように申し上げます。『仁者よ、この宝をお受けください』と」
無尽意は、次に観世音菩薩に首の宝を差し出し、申し上げた。
「仁者よ、我ら衆生を憐れんでください。」
ところが、観音さまは受け取らなかった。宝物と引き換えに憐れむなどということをしないからだ。
無尽意は、観音さまにさらに申し上げた。
「仁者よ、我ら衆生を憐れんで、この宝を受け取ってください。」
それを見てお釈迦様は観世音菩薩に執り成しをした。
「観音菩薩よ、この無尽意を始め、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦樓羅・緊那羅・摩睺羅伽・人非人、一切衆生の切なる願いを不憫と思い、大慈悲の心で宝の供養をお受けなさい。」
観音菩薩はお釈迦様の言葉に従ってすぐに受け取り、二分し、一分を釈迦牟尼仏に一分を多宝仏塔に奉じた。
お釈迦様は、無尽意に声をかけた。
「観世音菩薩は不思議な力を持って娑婆世界を遊んでいるのだよ。観音は自由でなんの行き詰まることもない、だから常におすがりしなさい。」
<偈頌の訳>
お釈迦様が説法を終わると、無尽意は偈をもって問うた。
お釈迦様は素晴らしいお姿をしておられます。私は重ねてお尋ねします。
観音さまにどうして観世音と名付けたのですか。
お釈迦様は答えた。
「心の耳を開いて観音の行を聴きなさい。一切衆生を救おうとの深い誓いを立てているのだよ。」
「重ねて観世音の妙致力について説明しよう。観音の名を聞いて、それを口に称え、お姿を見て礼拝し、心に念じて忘れることがなかったら、あらゆる苦しみを滅することができるのですよ。」
「たとえ火難に遭っても観音の力を念ずれば逃れられるよ。」
「大海に漂流するような水難に遭っても観音の力を念ずれば逃れられるよ。」
「高いところから落とされても、観音の力を念ずれば宙に浮くよ。」
「悪人に追われ、崖から落ちても、観音の力を念ずれば怪我など一つもしないよ。」
「悪者たちに襲われ刃を切りつけられても、観音の力を念ずれば、悪者たちに慈悲の心が起きて逃れられるよ。」
「悪い王様に捕らわれ死罪の刑を受けても、観音の力を念ずれば、刃はボロボロになって折れてしまうよ。」
「手足、身体を縛られても、観音の力を念ずれば、たちまち抜け出せるよ。」
「呪いや毒薬を盛られても、観音の力を念ずれば、翻って呪いをかけた者や毒薬を持った者に返っていくよ。」
「鬼や妖怪に襲われても、観音の力を念ずれば、救いの手が差し伸べられますよ。」
「山で獣に襲われても、観音の力を念ずれば、どこかへ立ち去っていきますよ。」
「ヘビやサソリに襲われても、観音の力を念ずれば、去って行きますよ。」
「雷や雹、大雨に遭っても、観音力を念ずれば、消えていきますよ」
「衆生が苦しむようなことがあれば、このように観音妙智の力が働いて、世間の苦から救ってくださいます。」
「観音さまは神通力や方便の智慧をお持ちになって、世界中どこでも現れてくださいます。」
「世間の良くないことは、すべてことごとく、たちまちにして解決してくださいます。」
「真観清浄観 廣大智慧観しんかんしょうじょうかん こうだいちえかん
悲観及慈観 常願常瞻仰ひかんぎゅうじかん じょうがんじょうせんごう
観世音は、こういう慈悲の心をお持ちだから、常に供養し仰ぎ尊びなさい。」
「無垢清浄光で世間を照らしてくださいます。」
「甘露法雨を降らせてくれて煩悩の炎を消してくれます。」
「訴訟も戦争もなくなります」
「妙音 観世音 梵音 海潮音 勝彼世間音の五つの妙音で説法してくださいます。」
「観世音の有難いこと、威神力、念彼観音力を疑ってはいけません。衆生の苦悩死厄を解決するために身分を落として日夜、働いているのです。いざというときのよりどころになります。」
「観世音菩薩は一切の功徳を備え、慈眼をもって衆生を見守るお気持ちは海の深さ、まさに無量ですよ。」
お釈迦様がこの普門品(観音経)を説法したとき、多くの衆生は、みな、この上もない悟りを開いたということです。