そういえば昨日のブログでサポーターと称したが、これは昭和的な表現。今はニーパットと言った方がいいだろう。例えばレスラーのニーパットだけを集めた特集なんかどうだろう。2年位前にリングシューズ・コレクションという企画を考えたが、取材するのが大変で頓挫してしまっているが。
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また一人、昭和のプロレスラーが他界した。新日本プロレスでレフェリーとして活躍した柴田勝久氏である。昨日、心筋梗塞で亡くなったというのだ。まだ66歳の若さだった。大相撲から東京プロレスに入門し、アントニオ猪木を慕い、日本プロレス→新日本プロレスと歩んだ。メキシコ遠征後、新日本の旗揚げイヤーでは、猪木のパートナーとして連日メインに抜てきされていた。TVの無い時代だったから、レスラーとしての印象は薄いが、レフェリーでは常に2番手、3番手として長らく活動。私は一面識も無いが、メキシコ遠征時代の活躍は気にしていた一人である。合掌。
息子は”狂犬レスラー”柴田勝頼。いつの日かまたプロレスのリングで大暴れしてもらいたいものだ。

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また一人、昭和のプロレスラーが他界した。新日本プロレスでレフェリーとして活躍した柴田勝久氏である。昨日、心筋梗塞で亡くなったというのだ。まだ66歳の若さだった。大相撲から東京プロレスに入門し、アントニオ猪木を慕い、日本プロレス→新日本プロレスと歩んだ。メキシコ遠征後、新日本の旗揚げイヤーでは、猪木のパートナーとして連日メインに抜てきされていた。TVの無い時代だったから、レスラーとしての印象は薄いが、レフェリーでは常に2番手、3番手として長らく活動。私は一面識も無いが、メキシコ遠征時代の活躍は気にしていた一人である。合掌。
息子は”狂犬レスラー”柴田勝頼。いつの日かまたプロレスのリングで大暴れしてもらいたいものだ。



