rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

本来ならば、「街歩き」についてだったのに、地デジが妨害したの巻

2011-05-21 00:35:22 | 随想たち
今日の「世界ふれあい街歩き」、オーストラリア:タスマニア島のホバート。
ところが、地デジ電波が妨害して、全くといっていいくらい見られなかった。
本当に、どうにかしてもらいたいものだ。
それでも、諦めないで黒やモザイクの画面を見ていると、静止画のように絵が映るときがある。
太陽の光が燦々と照らすこざっぱりとした建物のある港街、250年前に建てられた住宅街、停泊している帆船、ラフな格好をした人たち、ここでは時間がゆっくりと流れているように見えた。
せいぜいこの程度が、細切れの画面からうかがい知ったこと。

タスマニアといったら、有袋類の宝庫。
タスマニアタイガーは、人間によって絶滅に追い込まれた動物。
私的アイドルは、ウォンバット。
新世界を征服しようと進出した人間によって、絶滅または絶滅危惧種となった動物たちは、数知れず。

この3年前くらいから、近所の田んぼの用水路にかかる茂みに、蛍がまた生息するようになった。
ドジョウやタニシも戻ってきて、それをエサとする白鷺が、その優美な姿を田んぼに見せるようになった。
日本の農薬基準が、随分と厳しくなったおかげだろう。
知り合いの農家の方が言うには、一般的蚊取り線香を焚いて、農産物の仕分けをすると、蚊取り線香の成分がついて、検査のときに農薬成分検出となるから、天然成分の蚊取り線香を使うそうだ。
それには、「除虫菊」「夕顔」などがある。
我が家でも、子供の健康のために、その天然成分の蚊取り線香を使っている。
体に優しいために、効き目は少し弱い感じがするが、それは仕方がないと諦める。

人の利己的な目的の為に、他の生物の存在を脅かすのは、避けなければならない。
いわゆる害虫のムカデ、スズメバチと仲良く共存など、真っ平ごめんは本音。
しかし、彼らにも自然界での役割があるのだろうから、狭い生活圏(住居と庭)以外では、棲み分けとして、彼らを駆逐しようと思わない。
どうか、これ以上人間の為に滅ぶ生き物がでないよう、考えていかなくてはいけないだろう。

地デジ、本当にこれに切り替えて、よかったのかな。
後戻りできないところに来てしまったから、真っ黒やモザイクにならないように、しっかりと整備して欲しいものである。

「煙草」嫌いだけれども、煙草にまつわる文化は否定しない。

2011-05-20 00:45:41 | 随想たち
家人は、煙草を吸う。
でも、家族のいるところでは、吸わない。
子供がいるのもあるが、家人の両親が吸わないからだ。
吸いたいときは、庭で吸うか家人の仕事部屋で吸っている。
昨年の煙草の値上げ時には、一番安いゴールデンバットにパイプの組み合わせで吸っていた。
そして、震災の影響で煙草の供給がストップし、今なお品薄状態が続き、頼みのゴールデンバットは、店頭から姿を消している。
大概ならここで煙草を止める方向に行くのだろうが、そこはしつこい変人の家人、巻き煙草に鞍替えをした。
巻き煙草、刻み煙草の葉を専用の紙で巻いて吸うのだが、一本分は多いらしく、煙管かパイプにつめてワンショット分の香りを楽しみたいと言い出した。
そこで、今日は、目星をつけていた変わった煙草をたくさん取り扱っている店に行って、刻み煙草と煙管の下調べをしてきた。
刻み煙草の種類が豊富な上に、葉巻もピンからキリまで取り揃えていて、西洋の煙草文化の奥行きの深さを垣間見たようで、喫煙の習慣のない自分も、憧れを抱いてしまった。
葉巻も、吸い口のついたスリムなものがあり、女性でも嗜む事が躊躇われないような物があることに驚いた。
煙草のフレーバーのバリエーションも、定番のバニラから、メンソール、コーヒー、チョコレート、チェリーなど様々。
それらが入っているパッケージのデザインも、凝っていて、コレクションしたくなるものが多い。
煙草は、嗜好品であり、大人の道楽の一種であるように思う。
今の主流のフィルターつき巻き煙草は、安易な為にどこでも吸いたい放題で、いささか低級な嗜好品といった感じが否めない。
パイプやキセルで煙草を吸うには、日頃から手入れを欠かせないし、煙草の葉を詰めてマッチを擦り火をつける儀式めいた作業をしなくてはならない。
だからこそ、その一服はかけがえのない楽しみになり、余裕をもたらし、道楽となりえる。
子供の頃、祖父が煙管やパイプをいくつも持っていて、よく覚えているのは象牙で出来たパイプだ。
両切りの煙草を感から取り出してパイプにつけ、マッチで煙草に火をつけて、ゆっくりとタバコを燻らせていた。
もちろん、煙草の煙は大嫌いで、そんな祖父を横目で見やりながら、煙のこないところへ避難したものだった。
確かに、健康に害を与えるだろうが、どこもここも喫煙を徹底排除に向かうのは、行き過ぎではないだろうか。
もう少し、おおらかに喫煙に市民権を持てせてもいいのでは。
子供、妊産婦、病人のいるところは、ご法度。
大勢の人の集まる密室なども、喫煙を避けるべきであろう。
だが、駅の屋外にあるホームの端の空気の流れのあるところまで、「公共の場」という括りで全面禁煙とは、神経質すぎよう。
そう、あのへそ曲がりで我の強い個人主義者のフランスでも、カフェのテラスが禁煙となったというのは、悪い冗談。
さしものフランスも、世界の流れ(アメリカ主義)には抗えなかったのか。
などと、煙草にまつわる文化芸術があったのも事実、それでなくとも肩身が狭くなった煙草なのだから、分煙と時と場所をわきまえるのを条件として、これ以上迫害しないのはいかがだろうか。
潔癖さは、ときとして狭量な暴君に変貌することもあるのだ。

 ミュシャ:ジョブ

小さなフローリスト

2011-05-19 09:11:09 | 随想たち


小さい人が、「都忘れ」を使って素敵なアレンジメントを作ってくれた。
篠竹を短く切り、その表皮を薄く剥いで動きを出し、都忘れを差し込んだもの。
庭にある素材を使って、柔軟に組み合わせ、なにかの手本を見て作ったかのような素晴しいアレンジメントを、度々作りプレゼントしてくれる。
つる草、小枝、樹木の枝一振り、雑草、実のついた植物など、色と質感をバランスよく取り合わせるのだ。
毎日のように、庭遊びをしているから、どんな植物があるか熟知しているようだ。
創意工夫する心が、小さい人の小さな胸に育っている。
こんな日常の心和む出来事がある幸せを、5月の眩い光に満ちた爽やかな風の吹く朝に、こうして記せることを感謝したい。

「人権」なんて、ほんとはないんじゃないかと思うこの頃

2011-05-18 00:36:37 | つぶやき&ぼやき
「人権」、まことしやかに言われているが、自由資本主義・民主主義のまやかしの言葉のように思えてきた。
「人権」が国際的に認知されて、60年が経った。
しかし、それが普及しているかというと、いまだに悲しむべき状況だ。
人権には、「個人の権利」と「最大多数の最大幸福」という、どうしても相容れないものを内包している。
社会を秩序を持って治めていくには、「最大多数の最大幸福」を優先させる必要がある。
そうなると、「個人の権利」または「少数派の権利」を尊重する余地がなくなっていくのだ。
だが、どうも近頃「最大多数の最大幸福」の原理が歪められているように感じるのだ。
「利権」の亡者共が、己が幸福のためにこれを悪用しているきらいがある。
世界のいたるところで。
人の品性、善なる心は、いったいどこへいってしまったのか。
尊厳を踏みにじられ、貧困にあえぎ、生きる希望をもぎ取られた人々が、地上に這いつくばっている。
かたや、何を思ったか「個人の権利」を唐突に取り上げて、「人権」が侵害されているとヒステリックにわめきだす輩がいる。
たしかに、「最大多数の最大幸福」の陰に隠れてしまう「個人の権利」を取り上げて、「最大多数の最大幸福」を得るために泣いている人もいて、人はそのことを忘れたり認識しなかったりするから、その犠牲の上にある幸福に感謝せよと諭すのは大切だ。
それでも、胡散臭く思われるのは、極端な例を挙げて権利を侵害されているであろうグレーゾーンの人たちの目をそらしているようにみえるからだ。
知らず知らずのうちに、心が疲弊すると、状況を客観しできなくなり、不当さに対して声を上げることも出来なくなる。
かなり危機的事態が、世界で、日本で進行しているにしても、不完全な「人権」にあって、どう社会を構成維持すればよいのか、誰も明確な答え、指針を示せはしないのだろう。
混迷の時代の最中のことである。

清らかというよりも清潔、そして高潔な音楽、ベートーベン:チェロ・ソナタ

2011-05-16 23:42:05 | 音楽たちークラシック
ベートーベンは、どうも苦手だった。
それでも、年齢を重ねて分かることもあるので、あまり仰々しくないチェロとピアノのソナタを図書館で借りてみようと思った。
グラモフォン製、「ベートーベン:チェロとピアノのための作品全集」、チェロ:ピエール・フルニエ、ピアノ:ウィルヘルム・ケンプ。
チェロの潤いのある深い音色と、ピアノの鳥の囀りのような軽やかな音のハーモニーが、美しく絡み合い対話し流れるように辺りを満たしてくる。
礼儀正しく控えめに響きあう音楽は、まだ緑深くない木立に囲まれた大理石というよりは白の漆喰を施された程よい広さのテラスに聴くに似つかわしい、清涼感のある高潔な雰囲気を持っている。
いささか硬いともいえるが、節度ある生真面目な音楽も、なかなかいいものだと、再発見できた。

ベートーベンを絵画でたとえるならば、ターナーとフリードリッヒの印象が重なる。

 ターナー

 フリードリッヒ

まことに勝手であるが、いかがなものであろうか。