rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

めらめらと湧き立つ雲、共鳴する身体、エル・グレコ

2011-05-05 23:31:59 | アート
羊飼いの礼拝

トレド眺望

なんとも奇妙な空間、歪んで引き伸ばされた身体に潤んだ大きな目の人物、めらめらと湧き立つ雲。
エル・グレコの描く特異な絵画。
彼は、ギリシャ人(グレコ=GRECO=ギリシャ人)で、スペインに渡って終生その地を離れることなく画業に勤しんだ、スペインマニエリスムの画家。
EL GRECOは、通称。

彼の絵は、あまりにも個性的で、一度目にしたなら忘れられない強さを持っている。
個性的過ぎるということは、好悪がはっきりするということ。
ウイリアム・ブレイクと同系統の灰汁の強さがある。
グレコもブレイク同様、出会った初めはどうにもその灰汁の強さで敬遠してしまった。
しかし、全く受け付けられない種類ではなかった。
彼の絵が発している電波は強く、受信する自分のアンテナの受信力が弱かっただけのこと。
今ではかなり受信できているように思う。

彼の絵に満ちている空気は、地上から湧き立ち昇り、天の光を背負った雲がダイナミックに循環している。
それにつられて、地面も草木も岩さえも躍動しようとしている。
人物の身体は言うまでもなく同調し、身に纏った衣がいっそう協調するようにうねり光を反射させている。
全てが共鳴共振して、目に見えない何かを表そうとするかのようだ。
神秘的な光景。

彼の住んでいたトレドに行ったとき、トレドの何が彼の絵に影響を与えたのかと、興味を膨らませながら街を散策した。
マドリッドからの日帰りツアー半日の滞在で何かを得ようなんて、虫のいい考え。
真夏のトレドから得られたものは、光と影のコントラストの強烈さと、激しい渇きだった。
サント・トメ教会のほの暗さと光を遮った石壁の冷気は、灼熱の真夏の非常さから人を救ってくれる、安息のオアシスに思えた。
グレコの家は、確か見晴らしの良いテラスがあった。
とても快適な住まいだった。
おそらく、グレコは恵まれた環境にあって、高台の街から眺めた過酷だが美しく素晴しい自然に感謝を、そして、流れ巡った自分の幸運に神秘を感じていたのではあるまいか。
トレドを離れるとき、タホ川のほとりでトレドを見たとき、グレコの心境を考えてみたのだった。

薫風の中、家族で田植え

2011-05-05 00:10:14 | 随想たち
今日は、田植えの日。
昨夜の雨で、田んぼに大目の水が入っていた。
これでは、苗が水に浸かりすぎて浮ついてしまうので、水がちょうど良い高さになる午後から、田植えを始めた。
田植えをするにはうってつけの陽気で、心地よく涼しい風が水を張った田の上を渡って吹いてきた。
我が家の田んぼは、一家が一年食べるくらいのお米が取れるくらいのささやかな面積だ。
毎年、田植え機を借りて、家人が田植えをする。
苗運びなどのサポートを、今年から中くらいの人も手伝うことになった。
とはいえ、田仕事のほとんど、田起こし・代掻き・水張・追肥・除草を父母がしていて、ほんの少しだけ手伝っているに過ぎなく、しかも家人がやっているのだ。
自分は、お茶菓子や食事の買出しと支度を受け持ち、田仕事の一休みにお茶を出したりするくらい。
それでも、田植えは一大イベントであり、祭りといえるだろう。
その中で、みんなで、畦に止めた軽トラックに広げられたお茶菓子を頬張るのは、なんともいえない楽しみだ。
時期的に、毎年GWあたりが田植え日となる。
そのせいもあって、スーパーにはたくさんの柏餅が売られていたから、みんなで柏餅を食べた。
風になびく、まだ植えられたばかりの苗を見ながら食べる柏餅は、一味も二味も美味しく感じられる。
高だか3時間弱の田植えでも、こどもたちは、半ばには飽きてしまって、田んぼの泥で好き放題遊びだしていた。

こんな長閑で和やかな田植えの光景だが、今年は少し違ったところがある。
ここでとやかく言っても仕方ないかもしれないが、今年以降取れるコメは、そのほか諸々、子供たちが食べても問題ないのかということ。
いまさら気にするだけ無駄なのか。
黄砂だって毎年飛来しているし、そもそも地球全体が均等に化学物質や放射能で汚染されているのだから。
産業革命以降、地球は人の手で汚されて続けている、これは隠しようのない事実だ。
我々が出来ることは、これ以上汚さない努力と、汚染がもたらす事象と付き合って生きていくことだけ。

美しい風景、楽しい出来事、子供たちの溌剌とした姿を、幸せなこととして素直に喜べないことが、とても悲しく思われてしまう。
明日こそは、「永遠の美」にお出ましいただいて、救いの手を差に伸べていただこう。