お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

日本経済新世紀計画(2013年版)

2012年12月20日 | 経済
お気楽文化研究所は、日本の経済政策について下記の通り提言を行うこととした。

1.年間総実労働時間の段階的規制強化

2.サービス残業の取り締まり強化

3.最低時給の段階的な引き上げ


日本経済の喫緊の課題は相対貧困率の増加を食い止めることであり、年間所得の中間値の低下を食い止めることである。各種統計から明らかなように、日本経済は成長を目指す環境にはない。高度成長期の攻めの戦略ではなく、守りの戦略が重要になるのである。

まず、第一に掲げたのが年間総実労働時間の規制だ。年間総実労働時間を規制することは、ワークシェアリングと同様の効果を持つ。つまり、雇用の拡大に直結するのだ。最初は年間2000時間から始め、毎年50時間ずつ削減し、最終的には1700時間を目指す。もっとも、雇用は職業別の需給や地域差といった問題も抱えている。スローガン的な短絡な施策ではなく、正しい分析に基づいたきめ細かい施策も必要となることは言うまでもない。

第二に、サービス残業の取り締まり強化が必要だ。労基署の権限を拡大し、罰則を強化、迅速化するとともに、違反した企業は実名公開することが重要となる。この部分が抜け落ちていては、年間総実労働時間規制も、各種統計も意味を持たなくなる。

第三の施策が、最低時給の段階的な引き上げである。現在の日本の最低時給は先進国と比較して極めて低い水準にある。まずは全国一律1000円とし、年間100円ずつ上げて行き1500円を目指す。

安い時給で長時間働くことで生計を営んでいる人はどうするのか、また、最低賃金を上げると倒産する企業が出るという反論があるかもしれない。まず、前者については社会保障制度の改革で対応することになろう。後者は本質的な問題だ。そもそも、市場で利益を出せない企業を消滅させることが出来ること、不効率なものを切り捨てられることが資本主義のメリットだったはずだ。この不効率のしわ寄せが労働者にきていること自体を問題視しなければならない。潰れるべき企業は潰すというのが資本主義の原則だ。この原則を守らないで、過去のしがりみから助成や支援を行っている現状は滑稽である。それでいて、成長戦略を語るなどというのは両手を縛って野球をしろと言うに等しい。一時的な倒産や失業の増加は仕方がない。それに備える意味でも、社会保障制度を改革しておく必要がある。

経済成長が出来ない理由はデフレかもしれないが、いま必要なことは経済成長などではない。繰り返すが、攻めではなく守りの経済政策が必要になる。今までの日本は、終身雇用や解雇規制という形で福祉の一部を企業に負担させてきた。そして、最近でも定年延長という形で企業に社会保障の費用を負担させている。これでは、日本企業の国際競争力が失われるのも当然だし、若年層の勤労意欲もそがれてしまう。

日本はOECD加盟30ケ国の中で4番目に相対貧困率の高い(2010年)貧困国だという現実を見据えること。このまま進めば、さらに相対貧困率は上がると予想されること。これは社会保障費の増加に直接つながるということ。これらの客観的な事実と予測から、お気楽文化研究所は今回の提言を発表することとした。読者諸賢のご批判を賜りたい。

2005年のmixi

2012年12月19日 | 社会

SNSの歴史として、2005年のmixiの空気を記録として残すことには意味があるだろう。2012年との大いなる差。2005年8月15日の私のmixiの日記は以下のような内容だった。

『ガタリ流』

ガタりは、こんな事を言っている。

「つまり、私は理論的資料や哲学的資料の中から役に立ちそうなものをつまみ食いする泥棒なのです。しかし、あまり情報に通じていない泥棒です。泥棒はよく壁にかかっている大家の絵の前を通りすぎて、自分の気に入った小物を盗んだりするのですよ。私の場合もそれと似ていますね。私は哲学的大家の作品の横を通りすぎて、私の理論を構築するのに有用と思われるようなものだけを拾い集めるのです。」
(フェリックス・ガタリの思想圏 <横断性>から<カオスモーズ>へ 杉村昌昭訳 大村書店2001 p.071)

こういうやり方は、誰もが同じだろうと思っていたが、そうではないらしい。

どうやら私は、ガタリと同じ種類の泥棒のようだ。

なお、この本はとても面白い。「私が資本主義的主観性と呼ぶ主観性の圧延された状態」 とか 「市場的な主観性への自己放棄」などの表現は、実にわかりやすいではないか。(いや、ぜんぜん分からないか?)

mixiの魅力の一つは、ディープな世界にピンポイントでアプローチできる事にある。 しかし、そうすると日々の仕事がますます空虚なものに感じられる。困ったものだ。

こんな乱暴な日記にもコメントがつく。難しくて解らないというコメントであったり、これを解りやすく説明してくれる説明であったりだ。全然ついて行けないというコメントに対し、どこからともなくコメントがつく。資本主義は個性を管理しやすい画一性に変えてしまうのだとか・・・。

個人的には、私は資本主義者だ。社会の病理の根源を資本主義に求めるなど、安直に過ぎるだろう。ただ、私の左手は資本主義が大好きなのだが、私の右手は資本主義が嫌いなのだ。その程度の事だ。資本主義と言っても多様である。資本主義の定義は難しい。そして、多くの辞典の解説は常に誤っている。


フェリックス・ガタリ。精神科医にして哲学者そして政治活動家。現代思想の元旗手。その名前を知る人はそう多くない。こういう本が1万部も売れるというのが話題になるようなマイナーな世界であり、かつ超難解とされている。ガタリ=ドゥルーズと書かれた場合は、ガタリとドゥルーズの共著あるいは2名を指す。前衛的で芸術的で実践的。魔術的と言っても良いかもしれない。

そう言えば、こんな逸話を読んだ記憶がある。「この本は凄いぜ。知らない言葉ばっかり出てくるんだ。意味なんてさっぱり解らないよ。でもな、言葉のリズムが凄いんだ。ロックンロールだぜ。読んでみなよ」

私も、この逸話をあまり笑えない。私自身もまた、文章から漂う新しい光景に酔わされてしまうとことがあるからだ。
 
こういう私の日記に丁寧な解説を加えるのは、大学教授などではなく一般人だ。そういう人の日記は、はっきり言って大学教授が新聞に書く論説などよりはるかに明晰で、面白く、レベルが高い。大学院卒の就職難民などと言われているが、こうした知識層の厚みが生かされない社会というのは、実にもったいないなあ、とも思う。というよりも、こういう人達というのは、往々にして反体制である自分に頑なになるようだ。

もっとも、大学教授が新聞に書く論説が面白くないのには理由がある。そこには自らの、そして新聞社からの規制があって、ストレートに書くことが出来ないからだろう。決して、大学教授の知識が一般人に劣っているとは思わないが、そこには立場の壁というものがある。

反体制の空気、あるいはネットワークに馴染んでくると、面白い人々が次から次へと現れる。笑ってはいけないのだが、面白いからつい笑ってしまう。そして笑ってから怖くなる。

例えば、ある人が使った「革命的磁場」なる言葉には、本当に驚かされた。21世紀の日本にも、まだそんな言葉が生きていたのかと。彼等はアンダーグラウンドで生き続けている。

因みに、ガタリの思想とは何だったのか。それは、ひとことで言うと<脱・権力=脱・被支配>だろう。彼は監視社会の現実を、過去に予測されたような、第三者による監視ではなく、自らに精神を監視させるという自己監視社会であると見抜き、それを「精神の管理社会」と呼んだ。

考えてみれば分かる通り、第三者に監視させるようなコストは膨大だ。自らを監視させるように制度化するならば、これほど為政者にとって都合の良い状況は無いということだろう。

もちろん、ガタリはそのような社会を肯定はしない。そうではなく、そのような社会からのラディカルな解放を主張した。それが、晩年のスローガンである、三つのエコロジーに現われている。三つのエコロジーとは、環境のエコロジー、精神のエコロジー、社会のエコロジーだ。詳しくは「三つのエコロジー」という本を読んで欲しい。本稿のタイトルは、「ガタリ流」であって、「ガタリについて」ではないのだから。

大いなるしらけ選挙

2012年12月17日 | 政治
自公の圧勝、維新の躍進で終わった今回の選挙だが、低い投票率と政党別得票率からは、大いなるしらけ選挙だっとと言えるだろう。自公の圧勝というよりも民主の壊滅と言った方が良いくらいだ。

争点は多岐に渡った、経済、原発、TPP、安全保障、憲法、社会保障、増税などなど。各項目ですべて考えが一致する政党などあるはずもない。争点が十あって選択肢が二つだとしても、すべての合意を条件にしてしまうと、計算では千以上の政党が必要になる。有権者はどこかで妥協して投票するしかないのだ。

結果は見えていた。民主党ではだめだ。しかし、それに変わる受け皿もない。自民は圧勝するだろう。しかし、対抗できる政党すら見当たらない。入れたい政党がない。これが低投票率の真相だと思う。

得票率を見て、小選挙区制に異議を唱える識者も多い。個人的には二大政党制に反対なので、私も小選挙区制に反対だが、今のような政党政治では駄目だとも思う。理念ではなく、利害で結ばれた集団。今回、理念を守り抜いた政党がいくつあっただろうか。

マスメディアはいつも経済や景気を話題にするが、政治で経済や景気が良くなるなどというのは幻想に近い。経済政策は重要だが、それですべてが解決するわけでもないし、絶対に上手く行く政策などない。こういう議論は実に専門的なものなのであって、踊らされている国民が多いというのは悲しい現象だ。

自公政権に戻ったことで、既得権層にはお金が回るだろう。しかし、それで経済が良くなるとはとても考えられない。むしろ、今回の選挙の結論は、多数決による弱者の切り捨てではないのか。それを選択したのが弱者だとしたら、実に愚かな選挙だったということになる。

それにしても、民主党政権はひどいものだった。増税しないとマニフェストに書いておきながら、選挙もせずに増税を決めた。日本の政治の裏側に無知だったのだろう。官僚の手口や、アメリカとの力関係を甘く見積もっていたようだ。何もできない政治。その点では、自民党の方が知識も経験も技量も上だった。言い換えれば、どんな改革勢力が誕生しようとも、素人集団の政権では民主党の二の舞になるだろうということを国民は知った。そんな、3年3ケ月だった。

大いなるしらけ選挙のつけ、などと国民に責任を押し付けるようなことを私は書かない。ただ、日本がまた新しい時代を迎えたことだけは確かだ。来年夏の参院戦では憲法改正が争点になるだろう。そして、「近いうち」に国民投票が行われる。賛成反対以前に、内容を吟味することが重要なのだが、国民に熟慮の時間はあるのだろうか。まあ、考えても仕方がないという国民が大半だとは思うが。

人間らしさの再発見

2012年12月16日 | 文化
バートランド・ラッセルという学者をご存知でしょうか?1872年生まれの数学者、哲学者です。彼は、1935年に発表した「怠惰への讃歌」というエッセイの中で、人間は1日4時間も働けば十分だといったことを書いています。勤勉を美徳と考えているマジメな人が聞くと、鼻血を出して、あるいは顔を真っ赤にして怒るかもしれませんね。ラッセルには、一つの道徳的基準がありました。それは以下の通りです。

1.本能的、生理的に幸福であること
2.友情があること
3.美の鑑賞と創造
4.知識愛
※彼にとって仕事は美徳とは見えなかったようです。


人間の本分は閑暇にあるのであって、学校(スコーレ:ラテン語)とは本来、閑暇の楽しみ方を学ぶところ、だったのですから。

さて、日本の現状はどうでしょうか?

ハイパー管理社会化が急速に進んでいます。心の病は急増し、それは本人だけではなく、その家族、あるいは企業、そして社会や行政をも苦しめています。この病気には、本人の治療だけでなく、その環境を変えることも重要です。しかし、現実はそうではありません。精神科医療も、カウンセリングも、一方的に健常とは何かを決めつけ、健常さ、適応、を目指した規格化を行います。(例外はありますが、概ねその傾向にあります。)要は、従順に適応すれば良しとされるのです。本当にそれで良いのでしょうか?

文明が発達しているのに、人々の労働時間は増え、生活の質がある面で落ちている。なぜ、こうなったのか。それは社会の問題であるとともに、一人一人の誤った信念の結果ではないでしょうか?

いま必要なのは、人間の規格化ではありません。かけがえのない独自な存在としての「個人」を、独自な存在として認め、その独自性を活かすことです。それはもちろん、わがままを認めよという意味ではないのです。私は人間を、身体的、精神的、知的、社会的、霊的という五つの次元で捉えます。それらの次元での調和のとれた統合(パーソナリティ)を志向します。それは、人間的な成長であるとともに、能力の開発でもあると信じます。

このままでは日本は、セーフティネットの破綻、貧困の拡大、治安の悪化、といった危機に陥るでしょう。今、新しい考え方、新しい制度が早急に求められているのです。それにはまず、人間観と社会観を見直さなければいけません。人を代替可能な機能としてのみ評価するような視点は捨て去らなくてはいけません。そして、新しい価値観、新しい制度に移行することが必要だと考えます。

しかし、そんな大層なことを私一人で考え、実行することなど、出来るはずがありません。私は、こつこつと、自分に出来ることを少しずつやって行く。そんな中で、良い出会いがあれば、と思っています。21世紀を人間らしさの世紀にしたい。それが私の願いです。

成長幻想を捨てる時

2012年12月14日 | 経済
近所のある喫茶店。たった1年で客層が変わってしまった。定年退職した人たちなのだろうか。一人で本を読んでいる老人が増えた。なかには数人で、日本の未来について政治談議をしている老人もいる。これから、どんどんとそういう老人たちが増えるのだろう。

格差ということばは現代のキーワードだが、老人が豊かだというのは平均しての話だ。若年層の格差よりも老年層の格差の方が大きい。これを老老格差という。概ね、3割の老人は貧しいのだ。

少ない小遣いでも喫茶店に来て図書館で借りた本を読んでいる老人は良い方だ。介護を必要としている老人が、450万人以上いる。そして、この数は年々増え続けると予想される。

いろいろな数字を見ていると、日本はもう崖っぷちに来ていることがわかる。今は選挙で雇用の創出を各党が叫んでいるが、どれも絵に描いた餅にしか見えない。雇用は保証する、しかし賃金は安いでは、総所得は増加せずデフレは進行する一方だろう。

今、成功している日本企業はデフレを利用している企業だ。貧困層はデフレだから助かっているのだ。富裕層もデフレだから購買意欲が湧かないのだ。

日本は貧困国なのだ。OECD加盟30ケ国中、4番目に相対貧困率が高い。相対貧困率とは、所得分布中央値の50%以下の所得の人の割合で、日本の場合、約7人に一人が貧困層となる。若年層の非正規雇用、高齢者のことなどを考えると、この数字が悪化する一方であるということは容易に想像がつく。

こんな状況の中で、未だ高度経済成長の幻想から抜け出せず、「成長戦略」を目指すなどというのは、私に言わせれば寝言の類いだ。もっと現実を見ないといけない。ずるずると貧困層が増え続ける時代。それが現代日本の構造なのである。

世界的に見て、各企業の労働分配率が下がり続けている。これも大きな問題だ。サラリーマンの所得が増えずに、経済成長率が上がることなどあり得ない。最低時給も国際的に見て極端に低い水準にある。本来なら潰れるべき企業が、これで生き延びている。ドラッカーは資本主義のメリットとして不効率な赤字企業が淘汰されることを上げていたが、日本ではこういう企業を守ろうとする。そして、ワーキングプアやブラック企業という社会問題が起こる。

どうすれば良いのか。それは「豊かな国」という幻想を、夢を捨てることだろう。貧しくても幸せな国を目指すことだろう。現実を受け入れること。幻想を抱けば抱くほど、破滅は絶望的なものになる。