お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

仕事と複合観念

2013年02月18日 | 社会
「仕事とは何ですか?」

こんな質問を受けたことがある。この質問を私に投げかけたのは専門が社会科学の専門家なので、当然、仕事を定義してくださいということだと理解した。その時は馬鹿げたことを言ったように記憶しているが、今ならこう答える。

「価値を提供し対価を得ること」

これで十分だろう。しかし、多くの人が仕事について悩むのは仕事というものにまつわる諸々の観念だ。社会貢献だとか、やりがいだとか、労働実感とか、適正報酬とか、キャリアアップとか、自己実現だとか。それらに諸観念は既存のものであって、自分で生み出した独自の仕事観などというものはまず無い。
それでも一般に成人したら働くべきだと考えられており、また働かなければ生きて行けない人がほとんどだ。働くということは現代社会における制度的拘束なのだが、労働からの自由を主張する人はまずいない。せいぜい、労働時間の削減とか、人間的な労働を要求する程度にとどまる。

文明が発達したというのならば、必要な生涯総労働時間は削減されるのが普通だ。しかし、競争を是とし、進歩と成長を信仰するグローバル社会にあっては、どうもそうはならないらしい。国にもよるのだが、日本でも定年延長、生涯現役が良いことのように言われている。私には到底信じられないのだが、いまだに「労働は美徳」という支配者に都合の良い道徳を大衆は支持する。それは、自分が働いているのに、優雅に生活している人がいるのが羨ましいというだけの嫉妬ではないのか。実に情けない精神性だと思う。

若い頃から「稼げる人間として成長する」という目標を持つことは素晴らしいことだろうか。人間の価値は収入で、あるいは市場で決まるのだろうか。まったくもって、そこには哲学も、思想も、人間らしい思考も感性も感じられない。しかし、現実の社会や制度を動かして行くのは、そういう非人間的な資本主義エリートなのだ。

仕事が無い人は数多い。さらに多いのが我慢して仕事をしている人だ。大多数の人は、仕事の価値や社会的意義など考えてはいないらしい。そして「仕事が楽しくない」などと言おうものなら「そんなのことは当たり前」だと言う。

しかし、考えて欲しい。多くの人は仕事に膨大な時間を費やしている。その時間が楽しくなくて良いというのは、自己を囚人とみなした奴隷的生き方なのであり、非難されておかしくない生き方なのだ。大多数の人が言う「仕事が楽しくないのは当然」という割り切り方は、とてもとても奴隷的で卑屈な生き方なのだ。

私は、雇用制度そのものが人類最後の奴隷制度だと考えている。雇用という安定を餌に、奴隷的身分にすすんで身を置いているのがサラリーマンの一般的な姿だ。収入や会社内での地位など関係ないし、別にそれが高いからと言って尊敬する気にもならない。私はむしろ、悩み、考えているニートの方が遥かに人間的なのではないかと思う。

別に労働からの撤退を呼びかけるつもりはない。ただ、働いているということは自慢でもなければ、誇りでもないというのが、普通の考え方だと言いたいのだ。「そうは思わない」という人は、完全に洗脳されて頑張っている人だろう。そういう人との対話は時間の無駄だ。

制度の上で横になって生きてきた人々

2013年02月13日 | 社会
抽象的な言い方だが、いまの50代以上は大半が「制度の上で横になって生きてきた人々」だ。「そんなことはない、俺は頑張った」と言っても、それは概ね制度内での、仕事上での話だろう。組織に入り、組織の中でうまく立ち回ることで内部昇進し、給料や退職金、年金といった制度に従がってお金を貰うことで生きて行く。それが悪いとは言わない。しかし、その生き方を今の若者に薦めてはいけない。今の日本の若者は、そういう時代を生きてはいないからだ。

こういう人々は問題が起こると制度が悪いと言う。政府の失敗だと口を揃えて批判する。その政治を選択した自分達については言及しない。自分は安全地帯にいながら、いろいろと意見を言うのだ。

こういう老人は若者から相手にされていないことに気がつかない。マス・メディアが凋落している理由もここにある。制度の上で横になって生きてきた人たちのことを、若者は嫌悪し、軽蔑しているのだ。「テレビを見ていても、あの顏を見ると消すよ」そういう人が増えている。

昔はよく機能していた制度も、環境が変われば不効率になり、不公平になり、障害になる。そして、制度を変えるには膨大な時間と手間がかかる。それぞれの分野には専門家がいて、問題は素人が思うほど簡単ではない。いま現在の環境に合った良い制度をすぐに作ることなど不可能なのであり、そんなことに期待していたのでは「横になっている人」と呼ばれてしまう。

今必要なのは、制度に関わらず、生きて行く力を持つこと。既得権の中に潜り込んで美味しい思いをしようとしても、それはもう難しいことなのだ。たとえ今、組織の属していたとしても、いずれ自分の力で生きなければいけない時が来る。若者はそのための準備をしないといけない。

告白するならば、私も就職したときには「一生、この制度の中で横になっておけば良い人生を送れる」と思っていた。しかし、バブルは崩壊し、911が起こり、世界は一変した。そして50歳で会社を辞めて裸になった。危険な未来を感じとったからだ。

現代のグローバル化した社会で戦い、勝者になれる確率がどの程度なのか。そのためにどれだけのリスクを冒し、犠牲を払うのか。それは数学的に見て戦う場所ではないように私には見える。

生きて行く力にはいろいろある。生活力、提供できる価値、市場を創造する力、仲間、マネージメントやコミュニケーションのスキル、どれも大切だ。タフであることも重要な要素だ。健康(含むメンタル系)をやられると状況は厳しくなる。

さて、私はこのコラムを誰に向けて書いているのだろう。制度の上で横になって生きてきた人々ではなく、それを嫌う若者に向けてであることは明らかだろう。茹であがった老人との対話など時間の無駄でしかない。制度についての議論も時間の無駄だ。今は、生き延びることを考えなければいけない。そして、それ以上に良く生きることだ。腐った制度の中で生きると鼻がダメになる。これからの時代を生きる上で鼻はとても重要なのである。

正論じゃダメなんだよ!!

2013年02月09日 | 文化
先日のエントリー「純粋NLP批判」について、何人かの人からご意見をいただいた。

「正論をいくら書いても、そうね正論ね、で終わってしまいますよね。」

そうなのだ。ただ正論を書いても広がりが無いのだ。市場性が生まれないのだ。ネットという広大な海にティッシュペーパーを流しているようなものだ。話題になるはずもなく、数人の人が目にして、それで終わる。

そもそも私は言論市場という土俵の中にいない。まずは、この土俵に上る必要がある。それには刺激的で話題性のある言説を供給しないといけない。さらに、ブログのアクセスを劇的に増やす必要がある。少なくとも月間10万PVは必要だ。ちきりんさんはブログを書き始めて1年で、月間100万PVを突破していたはずだ。

「あれは下書きですよ。長いし全部読む人は少ない。1分眺める人、5分で知りたい人、熟読する人を考慮して、見出しをつけるとか、太字を使うとか、リンクを張るとか、ハイパーテキストを生かさないと。もっとも、ブログにそこまで時間かけてもしょうがないとも思いますが。」

確かにその通りだ。今まで、全文を熟読してくれる読者しか想定していなかった。このブログの提供する価値について、明確に意識して来なかった。ゴールを設定していなかった。

ブログの体裁は大事だ。昨年の暮れにだいぶ整理したが、まだまだ傷だらけだ。下書きと言われてしまったが、全体から見ればすべてが下書きのようなものだ。ただの各論。ただの正論。ただの感想。

「ただの正論じゃダメなんだよ!!」

戦略を明確にしたうえで、刺激的で話題性のある、言い換えれば市場的に価値のある言説を供給しないと、言説としての価値が生まれて来ない。

私は現代の普遍的価値そのものにメスを入れようとしている。それが多くの人の共感を得られないことも、反発や嫌悪を生むことも承知している。しかし、少しでも私の思想を支持してくれる人たちがいる限り、私は語らなくてはいけない。そして、忌み嫌う「市場」という土俵の中に飛び込まなけれいけない。毒には毒をもって戦うしかない。

努力を称揚し、上昇志向を称賛して、人々を生産システムの熱狂に巻き込み、人間らしい生活を奪って行く、つまり幸福を奪って行く「進歩と成長の思想を解体すること」こそが私の存在理由なのだから。

こういう都合の悪い者は、ただの変人として無視されるだけで終わるのか。それとも一つの思想として一定の支持者を集められるのか。私の戦いは、まだ終わっていないようだ。