お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

「人間・組織・社会」参考文献

2010年12月29日 | 「人間・組織・社会」
とりあえず、参考文献の整理から始めることにした。

大型の本棚が5架、いくつかの部屋に分散して置かれている。しかも、全く整理できていないという、おバカな状態。まずはこれを整理して、その上で参考文献の一覧を作らないといけない。2ケ月はかかりそうだが、随時更新という形をとろう。

テーマに沿った参考文献が、ざっと400~500冊あるようだ。もちろん、特殊な専門書、実用書、文芸書等は含まない。なんだ、大したことはない。本物の研究者なら5000冊は最低あるのではなかろうか。それも、同一分野で!!

もっとも、一分野で200冊読めばそれなりの専門家と言えるという話も聞いたことがある。根拠は知らない。(笑)

どういう訳かgooブログでは有料会員でないとアマゾンにリンクが張れないようなので、私の別ブログに掲載することにしました。少しずつ整理、追加して行きます。

1.参考文献、そのー1 心理・社会系-1
2.参考文献、そのー2 心理・社会系-2
3.参考文献、そのー3 心理・社会系-3
4.参考文献、そのー4 心理・社会系-4
5.参考文献、そのー5 心理・社会系-5
6.参考文献、そのー6 経済・社会系-1
7.参考文献、そのー7 経済・社会系-2
8.参考文献、そのー8 経済・社会系-3
9.参考文献、そのー9 経済・社会系-4
10.参考文献、そのー10 経済・社会系-5
11.参考文献、そのー11 思想・哲学系-1
12.参考文献、そのー12 思想・哲学系-2
13.参考文献、そのー13 その他-1
14.参考文献、そのー14 その他-2

<最終更新:2011.1.24>

「人間・組織・社会」まえがき

2010年12月29日 | 「人間・組織・社会」
「人間・組織・社会」。これをテーマに何か書きたいな、と思ったのは2010年の年末だった。しかし、今にして思う。なんと欲張りな構想、無知ゆえの自惚れと自己過信だろうと。ほとんど馬鹿げている。

もっとも、その意図するところは明白だった。ハイパー・インダストリアル社会といわれる現在、人間の機能的側面だけが注目を浴び、人格としての人間は大きな危機に立たされている。人間の精神は悲鳴をあげ、パーソナリティーは傷つくか、あるいは偏ったものとなっている。それは、心の病の増加だけではなく、離婚、孤独、貧困、治安の悪化といった問題にも繋がる。この人間に対するの規格化圧力の反動は、過度の実存主義的反動、あるいはナショナリズムになりかねない。私たちはより知的にこれらの問題を観察し、思考し、行動する必要があるということだ。つまり、思想、哲学、心理学、倫理学、経済学、社会学、政治学等の総合的知見から、人間とは何か、あるいはコミュニティとは、社会とは、そして組織とはを問うとともに、新しい人間観と社会観を提示し、新しい制度を模索して行くことが本論の趣意なのである。そかしだ、これは大変なことだと今頃気がついた。

確かに。これは一生かかっても完成することのない論考だ。そう言えば、ある人が「本にするとは諦める」ということ、と言う名言吐いたのを思い出す。いろいろと考えたのだが、本論考は「捨てる」ことにする。まあ、書いてもいないものを捨てるのだから、それほど惜しくもない。

こういう境地になれたのも、昨年末に、やましたひでこさんの「断捨離」の本を読んだ故だ。捨てるか捨てないかを見極める力。そして、捨て方の美学。この本は、示唆に富んでいた。気持ちよく、捨てようではないか。もっとも、何も書かずに捨てたのでは罪悪感が残る。目次を付け加えて捨てよう。そう、もしかしたら、誰かがこのゴミにアートを感じるかもしれないし、持って返ってリサイクルしてくれるかもしれない。そんな事を考えながら、捨てる=書かない決意をしたのだが、果たして実行できるかどうか。試されているのは、意思の強さか、思考の明晰さか。

今の私は、何の悲壮感もなく、試されている自分がどうなって行くのかを楽しめる境地にある。もっとも、これは周囲にとっては迷惑な話かもしれないのだが。

<最終更新:2011.1.2>
※この前書きは、随時更新します。

(12)物語に騙されるな

2010年12月25日 | マーケティング
久しぶりの更新ですが、ネタに困っていた訳でも、悩んでいた訳でもありません。単に、ビジネスやマーケティングに興味がなくなってしまっただけです。(宝くじで3億円が当たったのでもありません。)

さて、私は昔から物語が苦手でした。小説を楽しく読むことは出来ても、そこから普遍的な物語の構造を見つけ出したり、法則性を学んだりすることが出来ませんでした。よく「歴史は繰り返す」と言いますが、本当でしょうか。それは「恣意的なこじつけの解釈・言説」ではないでしょうか。人生も歴史も一回性のもの。ニーチェの言う「永劫回帰」など無い。こういう基本的な態度が、私が物語りに普遍性を感じない一因なのだと、最近ようやく理解出来ました。

そうは言っても、多くの人は物語が好きです。マーケティングの技法として「物語の力」、「物語という装置」は昔も今も最強だと言って良いでしょう。

「ほらね。この洋服を着れば男の子から大人気。」
「わ。それ良い。」

物語が示す法則性や因果律は錯覚です。しかし、その錯覚も共有の輪が広がることで現実化して行きます。と言うのも、誰もが知っている物語を知らないということが、世界(社会)を生きる上で不利だからであり、ある程度は物語を信じるか、少なくとも信じたフリをしていないいと、生きることが難しいからです。マーケッターは、ここを狙います。刺さる物語を、ひたすら考えます。テレビCMの15秒、30秒の中に、あるいは一片のチラシやキャッチフレーズの中に、物語の強力なエッセンスを入れるのです。これは、ビジネスだけに限りません。政治においては統治の為に、あるいは抵抗の為に昔から使われて来ました。また、今では、個人の日常の人間関係の中でも使われるようになっています。

革命、イノベーション、ヒット。これらは「新しい物語」によって生み出される。人は新しい物語を求めている。それは概ね事実と言えるでしょう。

最近、マーケティング・リテラシーという言葉が使われることがあります。これは、悪いマーケティングに騙されない消費者としての基礎知識とでも言えば良いでしょうか。(手許に「マーケティング・リテラシー」谷村智康著、がありますが、まだ読んでいません。ただ、この本には「物語」のことは書かれていないようです。)この、マーケティング・リテラシーの立場からも「物語」に対するスタンスを定めておくことは大事だと思います。物語の構造を知り、普遍性の嘘を見破ること。それが、今日のタイトル「物語に騙されるな」です。

しかしねぇ。騙されるのも悪くはないのかもしれません。何事も経験。みんなが騙されてるなら、私も騙されないと仲間外れにされるし。知っているに、知らないふり。処世術も大切。

ハイ。この世界。騙し、騙されは常ですのぉ~。