お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

成長なき時代にむけて

2010年01月31日 | 経済
 マスメディアがどう騒ごうとも、賢明なる市民は、日本という国が経済成長という時期を終えたことを知っている。現在の状況が一時的な、あるいは循環的な不況ではないということも知っている。問題は、そんな些細なことではなく、社会構造の変化に制度をどう対応させるのかということだ。
 エコノミストの水野和夫氏は、私たちが気にかけるべき経済指標は完全失業率と有効求人倍率だけだと言った。さらに、近代経済学から近代の冠を取らなければいけないと言った。いまや先進国に成長の余地はない。いや、成長する必要がないと考えた方が、成長など出来ないと考えた方が正しいのである。
 アルファブロガーのちきりん氏は、友愛を謳う鳩山政権の経済目標がGDPであるという点をブログで痛烈に皮肉っているが、まさにその通りだろう。
 われわれは、長い成長の時代に教え込まれてきた道徳や習慣や考え方の根本的な変革に迫られているのだ。
 「道徳を変える」「習慣を変える」「考え方を変える」

 そのためには、従来の道徳や習慣や考え方が、どのようなものであったのかを総括しておく必要があるのだろうが、それは大変な作業であり、ここでえ簡単に書けるようなものではない。かといって、何も書かないのでは、ここまで書いた意味がないし、陳腐なことを書いてもつまらない。大胆なことを書こう。

1.政府が機能しなくなるのは誰の責任でもない。 
  ※政府は、経済成長という誤った目標を掲げて失敗し、雇用の創出も出来ないだろう。それは政府の責任でも、政治家を選んだ国民の責任でもない。時代の流れだと思って甘受するしかない。
2.持ち家は変人のすることになる。
3.サイレントテロはサイレントエコとして奨励される。
  (サイレントテロ:徹底して消費をしないという反抗)
4.労働は美徳ではなく贅沢として尊敬されなくなる。
5.煙草を吸う人は高額納税者として特別な待遇を受ける。
6.明日が不安定なのは当然のこととして問題視されなくなる。
7.世界中の国家、地域が人種の坩堝(るつぼ)となる。
8.電子マネーの時代になる。
9.どうやっても、海面上昇が防げないことが明白となる。
10.どんなに優れた社会制度でも、実現には10年以上かかる。

・・・ん。ぜんぜん大胆じゃないか。

幸福という毒薬

2010年01月30日 | 文化
1)世界中の人々は幸福?

 世の中には、私は善人です、私は愛に溢れた人です、ということを自慢し吹聴しているような人が少なからずいる。そういう人々は、私は世界中の人々の幸福を願っていると臆面もなく口にする。私の観察するところでは、こういう人は女性に多い。
 しかし、幸福などというものは人によって違う。中には、あの人の不幸だけが私の幸福である、という人もいる。つまり、すべての人の幸福が実現不可能なことは明白なのだ。
 こんなことを言うと必ず、それは本当の幸福ではないのです、と演説がはじまる。ちょっと待って欲しい。私は真の幸福を知っていて、あなたはそれを知らないという自信に溢れた態度はいったい何なんだ。そんなものは、あなたの大きな勘違いだ、などと言ったら最後、あなたは心を入れかえなければいけない、と断定されるのがオチである。
 争いがなくて安全で平和で、食べるところや住むところに困らず、友達がいて、元気で、笑顔と希望があれば、それだけで幸せなのだと主張されたことがある。これだけ並べておいて、それだけで、と言ってしまうことも相当に凄い。
 まず、争いのない社会などというものを私は想定できない。もちろん、戦争や暴力を肯定するのではないが、競争というものが社会に不可欠の要素であることは明白だ。受験競争、出世競争、スポーツ、ビジネスにおける戦い、その他いろいろな競争がないような社会など不気味である。おおよそ緊張感のない弛緩した社会であり、絶滅寸前状態のようですらある。
 世の中にはいろいろな人がいる。ノーベル賞がいまだに取れないとか、大統領になれなかった、という理由で自らが不幸であると思っている人もいる。そういう人に対して、あなたには住む家があり、食べるものがあるのだから幸せなのですよ、などという言葉は慰めにならない。本人が不幸だと言っているのだから、それで良いではないか。頭の良い人が考えた不幸というのは、普通の人が考える不幸よりも、きっと難解かつ深淵なものなのだろう。不幸も普通の人の何倍も大きいかもしれない。それぐらいの想像力を働かせても良いのではなかろうか。
 逆に、住む家が無い、食べるものも無い、病気である、といった理由で、その人を不幸と決めつけるのも傲慢だろう。本人に悪意は無いのかもしれないが、それは、貴方より私の方が幸福ですと宣言しているだけであり、それ以上の意味を持たない。ふざけるな、の世界である。

2)不幸は幸福から生まれる

 幸福は、個人の領域にあるととともに、社会的・経済的な目標としても用いられる述語でもある。一つの単語なので、あまり区別なく使われる「幸福」だが、個人レベルのものと、社会レベルのものは分けて考えるべきだろう。後者は専ら社会政策等の意思決定における評価基準であり、前者とは意味するところが違う。後者が意味する幸福は、特定のセグメントに対する満足度のような形で示される。個人の心理あるいは精神とは、あまり関係がない。
 さて、「不幸は幸福から生まれる」と書いたが、これは当たり前のことだ。幸福という概念に先立って、その否定形である不幸という概念は存在し得ない。つまり、幸福さえなければ不幸はない。
 手許の辞書には、こう書かれている。
 【幸福】不自由や不満もなく、心が満ち足りていること。(自林21)
私なら、こんな状態はまっぴら御免だ。不自由や不満もなくて、人生なにが面白いものか。幸福好きの人は、私には幸福を追求する権利がある、とか、私には幸福になる資格がある、とか、私には幸福になる責任があるとか言う。彼らの言う幸福とは、良く言えば「夢の実現」に過ぎない。大きな目標を掲げる人もいれば、平凡な家庭、平凡な生活を望む人もいる。そして、多くの人が、私は幸福だと納得しているに違いない。しかし、本当に無条件に納得しているとも思えない。それどころか、私には幸福にこだわる理由がわからない。幸福を願う気持ち、希望を持つことが、社会を維持・発展させ、人生を充実させるという反論もあるかもしれない。しかし、私はそうは思わない。そのような「形」としての幸福こそが、ある種の倒錯であり精神の管理状態に他ならないからだ。
 私ならこう言う。幸福の呪縛から解放され、訪れては去って行く喜びや悲しみ、満足や失望などの気持ちを味わうことこそが人生なのだと。その自然な感情の上にペンキを塗るというのは愚かであると。

3)危険な幸福

 幸福など主観であると割り切る人もいる。さらに知的にとばかりに、幸福とは脳内物質のバランスだと言う人もいる。まあ良い。ならば、一生ドラッグでもやって人生を過ごせば良い。日本では非合法だろうから、それが合法な国に住めば良い。こういう人達は、幸福に呪われた人の究極ではなかろうか。

4)欲動、哲学、開かれた社会

 幸福に縛られないこと。そして、理性を持って欲動を殺すことなく飼いならしながら楽しむこと。これは実に人間が社会の中で生きるための条件である。自由の本質は精神の中にしかない。社会において、人が完全な自由を求めるなど狂気の沙汰と言えよう。
 私たちは、誰しもが現代文明の価値観や思考様式の中にある。言い換えれば、常識を持って生きている。しかし、一方で私たちは常識を疑う力も持っている。哲学と聞くと、たいていの人は尻ごみする。ましてや哲学者と議論したいと思うひとなどまずいない。難解にして理解不能だからだ。しかし、それは哲学者の責任であって私たちの責任ではない。哲学知識を詰め込んだだけで哲学をしていない哲学学者など相手にする必要もない。考えることは、哲学者の特権ではない。
 よくあるのが、正しいという確信の持てることしか発言してはならないという誤解である。そんなことを考えたら、誰も何も発言できない。答えのある問題しか教えない学校教育の弊害(まてよ、目的か?)だろう。多くの問題は、考えただけで答えが出るとは限らない。そもそも答えがあるかどうかすら怪しいものだ。重要なのは、正否に関わらず、思うところを発言することだ。発言すること。これこそが哲学のアルファにしてオメガなのである。
 繰り返すが、幸福=善、という思い込みは間違っていると私は書いた。もはや、幸福などという錆びついた語彙に執着するのはやめよう。私の見るところでは、この「幸福志向」こそが一つの病理だ。故に、この文章のタイトルを「幸福という毒薬」とした。「なんだかんだ言っても幸せだよな」で思考を停止し、感情を麻痺させることは、一種の中毒だと言えないだろうか。
 私たちが求めるのは、欲動を飼いならす理性と、幸福の呪縛を解く力と、開かれた社会を信じる勇気である。開かれた社会とは、外部に敵を作らない社会のことだ。もちろん、人類はそういう歴史を経験していないのであり、ある種のユートピアかもしれない。しかし、今、私たちはその機会を与えられている。そのことに感謝して、この小文の結びとしたい。
 いや、それとも、欲動を飼いならせない理性と、幸福から離れられない煩悩と、開かれた社会を信じられない猜疑心に揺れながらも生きていることに感謝して、というのを結びの言葉にしようか。この方が謙虚で誠実だろうか?

2006年5月25日のmixi

2010年01月29日 | 文化
2006年5月25日(木)
会社帰りに本屋に寄った。
先日ようやく上巻を読み終えた「天皇と東大」の下巻を購入。ついでに、「羽生の頭脳の第1巻」と「ウェブ進化論」を買う。

「天皇と東大」を読むと明治から昭和にかけての思想的な流れが良くわかる。初代の東大総長で自由民権の旗手でもあった加藤弘之が国家主義者の圧力に屈し(殺されてもおかしくない時代だった)、自らの著書「国体新論」を絶版にして、変節を新聞にまで広告として出し、学者の間での誹謗、中傷をものともせず、媚びへつらって大出世街道を邁進し、次々と勲章をもらい、さらにはその勲章を長々と自慢するというその俗物ぶりを筆者、立花隆は非難しているのだが、私のような小人には、その非難に同調する資格もなければ、そう簡単に非難するような気分にすらなれない。人は生きるために何かを犠牲にする。いかに崇高な信念に従おうとも、勝てない戦いを行う者は愚かだとも言える。愚かが悪いとは言わない。ただ、大切なものを犠牲にして生きている人の行為を、そう簡単に批判できるのだろうか、と。

もしかしたら、それを批判し、非難できないという性向が日本人的なのであり、日本人の決定的な弱点なのかもしれない。ユダヤ人的な、つまり、常に対立を求め、対立の上にしか安住できないような性格だと思っていた私の中に、日本人的なものを発見したような気がした。

この本を読むと、東大のもつ性格も良くわかる。そこには学問の自由も大学の自治もなく、ただただ国家に貢献する役人を養成し輩出することが、法律で明文化された目的だったのだ。そのような大学の中では、教授陣と政治、行政は極めて密接な関係にあった。そして、右翼の源流も、左翼の源流も、東大にある。意外なことに天皇の位置づけを除いては、右翼も左翼も見事なまでに社会主義指向であり、ほとんど差がないのだ。(こんな事を書くと、どこからともなく誰かが現れて、それは違います、との指摘を受けるかもしれないが)

歴史に関わる人というのは多くはない。もし、この人物がいなかったら、日本の歴史はまるで異なる方向に行っていたかもしれないと思われることもある。民主主義と言われる今、私たちは本当に民主主義を背負っているだろうか。それは、ある状況では戦いとなることを覚悟したものでなければならない。命を落とそうとも信念を貫くという程度の覚悟だ。偉そうなことを書いているが、私には自信がない。ただ、慰めを言えば、そのような覚悟が必要だという認識は持っているということか。いや、慰めにはなりそうもない。

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正常だな。

ガタリとミクシィ

2010年01月29日 | アーカイブ
2005年8月15日のmixiの日記より~

『ガタリと同じ』

 ガタりは、こんな事を言っている。
//つまり、私は理論的資料や哲学的資料の中から役に立ちそうなものをつまみ食いする泥棒なのです。しかし、あまり情報に通じていない泥棒です。泥棒はよく壁にかかっている大家の絵の前を通りすぎて、自分の気に入った小物を盗んだりするのですよ。私の場合もそれと似ていますね。私は哲学的大家の作品の横を通りすぎて、私の理論を構築するのに有用と思われるようなものだけを拾い集めるのです。//
(フェリックス・ガタリの思想圏 <横断性>から<カオスモーズ>へ 杉村昌昭訳 大村書店2001 p.071)
 こういうやり方は、誰もが同じだろうと思っていたが、そうではないらしい。
 どうやら私は、ガタリと同じ種類の泥棒のようだ。
 なお、この本はとても面白い。
「私が資本主義的主観性と呼ぶ主観性の圧延された状態」 とか 「市場的な主観性への自己放棄」
などの表現は、実にわかりやすいではないか。 (いや、ぜんぜん分からないか?)
 mixiの魅力の一つは、ディープな世界にピンポイントでアプローチできる事にある。 しかし、そうすると日々の仕事がますます空虚なものに感じられる。困ったものだ。

 こんな乱暴な日記にもコメントがつく。難しくて解らないというコメントであったり、これを解りやすく説明してくれる説明であったりだ。

 全然ついて行けないというコメントに対し、どこからともなくコメントがつく。
 資本主義は個性を管理しやすい画一性に変えてしまうのだとか。

 個人的には、私は資本主義者だ。社会の病理の根源を資本主義に求めるなど、安直に過ぎるだろう。ただ、私の左手は資本主義が大好きなのだが、私の右手は資本主義が嫌いなのだ。その程度の事だ。資本主義と言っても多様である。資本主義の定義は難しい。そして、多くの辞典の解説は常に誤っている。

 フェリックス・ガタリ。精神科医にして哲学者そして政治活動家。現代思想の元旗手。その名前を知る人はそう多くない。こういう本が1万部も売れるというのが話題になるようなマイナーな世界であり、かつ超難解とされている。ガタリ=ドゥルーズと書かれた場合は、ガタリとドゥルーズの共著あるいは2名を指す。前衛的で芸術的で実践的。魔術的と言っても良いかもしれない。

 そう言えば、こんな逸話を読んだ記憶がある。「この本は凄いぜ。知らない言葉ばっかり出てくるんだ。意味なんてさっぱり解らないよ。でもな、言葉のリズムが凄いんだ。ロックンロールだぜ。読んでみなよ」
 私も、この逸話をあまり笑えない。私自身もまた、文章から漂う新しい光景に酔わされてしまうとことがあるからだ。
 
 こういう私の日記に丁寧な解説を加えるのは、大学教授などではなく一般人だ。そういう人の日記は、はっきり言って大学教授が新聞に書く論説などよりはるかに明晰で、面白く、レベルが高い。大学院卒の就職難民などと言われているが、こうした知識層の厚みが生かされない社会というのは、実にもったいないなあ、とも思う。というよりも、こういう人達というのは、往々にして反体制である自分に頑なになるようだ。

 もっとも、大学教授が新聞に書く論説が面白くないのには、理由がある。そこには自らの、そして新聞社からの規制があって、ストレートに書くことが出来ないからだろう。決して、大学教授の知識が一般人に劣っているとは思わないが、そこには立場の壁というものがある。

 反体制の空気あるいは、ネットワークに馴染んでくると、面白い人々が次から次へと現れる。笑ってはいけないのだが、面白いからつい笑ってしまう。そして笑ってから怖くなる。

 例えば、ある人が使った「革命的磁場」なる言葉には、本当に驚かされた。21世紀の日本にもまだ、そんな言葉が生きていたのかと。彼等はアンダーグラウンドで生き続けている。

 因みに、ガタリの思想とは何だったのか。それは、ひとことで言うと<脱・権力=脱・被支配>だろう。彼は監視社会の現実を、過去に予測されたような、第三者による監視ではなく、自らに精神を監視させるという自己監視社会であると見抜き、それを「精神の管理社会」と呼んだ。

考えてみれば分かる通り、第三者に監視させるようなコストは膨大だ。自らを監視させるように制度化するならば、これほど為政者にとって都合の良い状況は無いということだろう。

 もちろん、ガタリはそのような社会を肯定はしない。そうではなく、そのような社会からのラディカルな解放を主張した。それが、晩年のスローガンである、三つのエコロジーに現われている。三つのエコロジーとは、環境のエコロジー、精神のエコロジー、社会のエコロジーだ。詳しくは「三つのエコロジー」という本を読んで欲しい。本稿のタイトルは、「ガタリ流」であって、「ガタリについて」ではないのだから。

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この頃から、私の停滞が始まった?
私は変わった。
そして、それ以上に、mixiも変わった。