お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

なぜ働くのか

2010年02月11日 | 文化
 巷には、「なぜ働くのか」だとか「働くとは何か」といった本が氾濫しているが、こんな簡単な問題は数行でまとめられる。多くの人が、答えは一つという前提で結論を求めるからいけないのだ。

 仕事をする理由は、以下の三つの要素を考慮したうえでの判断である。
  1.その仕事をすることが楽しい。
   (やりがいを感じる、役に立てる等を含む。)
  2.その仕事は金になる。
   (通常、最低限生活できる必要があるし、多いほど望ましい)
  3.その仕事は、広い意味での資産を築く。
   (キャリア、スキル、資格、人脈、体力、等)

 もちろん、この3要素間のバランスは人によって異なるし、希望と能力、あるいは環境との間にはギャップがあるので、妥協は必要かもしれない。しかし、この3要素をしっかりと意識して選択することが重要なことにかわりはない。
 研究者、医者、政治家、スポーツ選手、芸能人等であっても、この要素は変わらない。変わるのは、この要素間のバランスだけだ。
 振り返って、私の仕事はこの3要素を満たしているだろうか。書くまでもないよな。

お気楽系の抵抗線

2010年02月08日 | 文化
 日本人はとかく暇を嫌う。「小人(しょうじん)閑居して不善をなす」が強調されるが、その後に続く「大人(たいじん)閑居して善をなす」はあまり言われない。お前らは凡人で小人なのだから忙しく働いておけば良いのだ、という言い分を従順に受け入れているのだ。
 しかし、お気楽系は違う。お気楽系は大人である。いや、人は皆、根本的に大人だと考えている。そして大人にとって最も大切なものが閑暇なのだ。閑暇をどう過ごすか。これこそが人間的営為の結晶であり、最も貴重な、味わい深い時間なのだから。
 でもね、暇があってもお金が無いと楽しくないし、働かないと食べて行けないし・・・と考える人もいるだろう。あるいは、お気楽系なんて金持ちだからこそ言える戯言だと思っている人もいるかもしれない。だが、真相は違う。私の知っている生活保護受給者は、数本の煙草と1本の缶コーヒーで会話を楽しみ、毎日を豊かに過ごしている。物質的な豊かさよりも、閑暇という時間的な豊かさの方が、どれほど精神的に稔り多いことかと嫉妬してしまうくらいだ。
 なにも、生活保護制度の利用を勧めているわけではないが、私にはワーキングプアが理解できない。さらに、政府が雇用促進に力を入れ、社会保障をおろそかにするのには大反対である。「働かざるもの食うべからず」という考え方は、ワークフェア(workfare=労働+福祉。福祉の受給に、労働ないし職業訓練を要件とする考え方)という、労働を懲罰的に使う最悪の思想と政策を生んだ。困った問題である。
 では、お気楽系は働かないのかと言うとそうではない。そういう問題では無いのだ。お気楽は、仕事の手を抜くかと言うと、それもない。要は、閑暇という豊かさが、物質的な豊かさよりも尊いということを知っているのだ。
 お気楽系は、仕事中毒になることもなければ、将来を悲観することもない。そして、何よりも「明日より今日が大切だという感覚」で生きている。
 現代社会は、いろいろな手段を使って脅しをかけてくる。勉強しないと、資格をとらないと、一生懸命働かないと、貯金しないと、大変なことになりますよ、と。その度に閑暇が失われる。はっきりと言おう。「そんな脅しに負けると、大変なことになりますよ」と。 閑暇は豊かさであるとともに美徳である。それには、将来の不確実性という対価を支払うだけの価値がある。

レジリエンス

2010年02月05日 | 文化
 レジリエンス(resilience=回復力)という言葉は、多方面で使用される言葉だが、特に心理学、精神科医療で最近よく使われるているようだ。つまり、精神的回復力=レジリエンスである。ある研究(※1)では、以下の3つがレジリエンスの因子として抽出された。
 1.肯定的な未来志向性
 2.感情の調整
 3.新奇性追求

 さらに、精神的回復力と自尊感情の間には、正の相関があるのだと言う。レジリエンスを支援するのは、教育や医療の役割だが、この因子を知っておくということは、自らの弱みを克服するうえで有益なように思われる。
 もっとも、これが<技術>なのか<能力>なのか、トレーニングで習得・向上させることが出来るものなのかは、良くわからない。今度、いろいろな専門家から話を聞いてみたいと思う。

お気楽系への道

2010年02月05日 | 文化
 「お気楽」とは、脳天気のことではない。能天気な人に、能天気はおやめなさいと言うつもりもない。また、脳天気な人ならば、この文章を読むこともないだろう。「いや、私は能天気だ」と主張する人もいるかもしれないが、きっとその人は、本質的に能天気ではない筈だ。
 私の言う「お気楽」とは何か。それを厳密に定義してしまうと、それは「お気楽」ではなくなってしまう。そこで、曖昧にそれを示してみよう。
 「お気楽」から連想される言葉。それは、しなやかさ、自然な、自由な、生き生きした、みずみずしさ、と言ったものだ。あるいは、硬直的でない、奔放な、余裕があるといった言葉を付け加えても良い。定義として不真面目だ、と怒られるかもしれないが、真面目すぎない、というのもお気楽の特徴である。(言い訳だろうか?)
 さて、なぜ今、「お気楽」なのか。これは、現代日本社会を分析したうえでの一つの結論である。今、お気楽が不足している。そして、お気楽が求められているのだ。
 お気楽系が求められる背景には、以下のようなタイプの衰退がある。
  1.保守的な人生設計という考え方が破綻した。
  2.上昇志向の空気が薄まり閉塞感が漂っている。
  3.スピリチュアル・ブームにも陰りが見える。
  4.おたく文化も行き詰まりを見せている。
 生き方はいろいろあって良い。むしろ多様であるべきだ。しかし、生き方の選択を間違えると自らを苦しめ、人生を楽しめないということになりかねない。「お気楽系」も一つの選択肢。決めるのは自分自身だ。
 さて、そう言う私自身が「お気楽系」なのか、と問われると顔色が変わる。鋭い質問だ。実は、私もまだ完全には「お気楽系」にはなれていない。しかし、私は決断した。これからは、「お気楽系の時代」なのだ。私も「お気楽系」になってみようではないか。そのために、私自身が持つリソース、つまり知識や道具、時間やお金、人脈や肉体を使って、どうすればお気楽になれるのか、言い換えると、お気楽になるための<技法>の開発と整理に乗り出すことにする。
 それは、認識の技法、思考の技法、分析の技法、習慣化の技法、意思決定の技法、表現の技法、伝達の技法、捨てる技術、考えない技術、等々だ。これらを実践しながら整理すること。それは一つの実験と言えるかもしれない。
 ん。全然「お気楽」じゃなさそうだって?
 嗚呼。お気楽への道は遠いのか。(笑)

お気楽系宣言

2010年02月04日 | 文化
 お気楽でいられるための一番の条件。それは自信だろう。では、自信とは何だろうか?
 ある事柄についての自信ならともかく、漠然と自信とは何か、と問われると少し考えてしまう。私ならこう答える。自信とは、多少状況が変化しても生きて行けるという見通しがあることだと。つまり、将来がたとえ予定通りにならないとしも、何とかなるという楽観的な態度。これが自信なのだと。
 もちろん、根拠があるかもしれない。健康であったり、技能があったり、対人能力に優れていたりといったことも要因になるだろう。しかし、同じような能力、要因を持ちながら、同じような状況にありながら、自信が持てる人と持てない人がいるのは何故だろうか。それは単に、性格の問題なのだろうか?
 答えはノーだ。自信は思考のトレーニングの賜物だと私は考える。適切な思考を積み重ねることこそが自信に繋がるのだ。逆に、誤った思考が悲観を生む。
 そうは言っても、自信と社会的諸条件の間には相関があると言われるかもしれない。しかし、これはどちらが原因でどちらが結果とも言い難いところである。つまり、自信があるからこそ、社会的諸条件が向上された、と見ることもできるからだ。
 さて、一番肝心な点は、適切な思考とは何かということだ。結論を簡単に言えば、それは、現状を肯定的に受け止めてから問題や課題を探すか、現状を否定的に受け止めて全てを問題だと考えるか、の違いである。もちろん、前者が適切な思考であり、後者の思考は生産的ではない。たとえ状況が悪くとも、生きているという現実は否定できない。できる限り、現状の良い点に目を向け、そのうえで問題の発見や改善、あるいはさらなる向上を考えるべきだと言えるだろう。
 世界は常に不条理に満ちている。不公平も不平等も存在する。賄賂も犯罪も残忍さもある。それは受け入れ難いものではあるが、まずは、良い点にも目を向けて現状を受容することだ。これは、社会についてだけでなく、自分自身についても同じである。ある程度の寛大さをもって現実を受容したうえで課題を設定しない限り、いかなる批判や抵抗も望ましい結果を生むことはないだろう。
 繰り返しになるが、お気楽の第一の条件は、適切な思考に基づく自信である。その基底には、現状の肯定的な受容がある。それは、決して批判精神を持たない事なかれ主義ではない。そうではなく、このような態度こそが、より本質的で鋭い批判や、意味のある問題解決を可能とするのだ。お気楽は決して利己主義ではない。

寂しいセレブ

2010年02月02日 | 小説?

 高層ビルから都市を見おろし、シャンパンを片手に二つのサイコロを振る。どこまでも無邪気に、すべてを忘れてサイコロゲームに一喜一憂する。そういう人種。そういう人種が世の中にはいる。
 私もそういう人種であったりするし、そうでなかったりもする。羨望と余裕。嫉妬と不安。そんな感情は宴の終わりと共に芽生える。どんな人種に見られようが、その中身は誰からも見ることなど出来ない。本音で話をするような間柄なら話は別だが。
 こういう人種は、興奮と熱狂の中に身を投じながら、その終わりとともに、心地よい虚無感を味わうのだろうか。そして、余裕の無い労働者は日々の仕事を、どのような気分で消化しているのだろうか。そう、私もまた余裕のない労働者だ。その気分や思考は知っている。

 高層ビルから見下ろせるもの。

 それはすべて人工物だ。城、公園、鉄塔、ネオン、数えられないビルディング、鉄道、自動車。木の1本にしても、人間の手が入っている。完全に人工ではないもの。それは鳥くらいだろう。そして、その餌は人間の出したゴミだ。

 ナッシング・ナチュラル。

 広いリビングには10人以上のセレブがいる。いや、セレブという表現は間違いだ。セレブとは有名人のことであり、その意味ではセレブばかりがいるわけではない。では、どういう人種なのか。セレブのイミテーションだろうか。
 毎日を真剣に遊び尽くす人々。フィクションではなく、私はそういう人種を知っている。遊ぶ、が何を意味するのかは重要な問いなのだが、それは言葉で語り尽くせるものではない。ある意味で感覚的に、私はこの言葉を使っている。こういう人種の間では、仕事すらも遊びの一バリエーションでしかないようだ。
 快楽を求めて人は木に登る。エレベーターで上を目指す。下から見上げる星よりも、上から見下ろす地球の景色を好む。まあ、好みは人それぞれ、しかも時と共に変化するので一概には言えないが。
 すべてが充たされてしまった時、残るのは未来に対する不安と恐怖だけだ。そして、それは決して埋めることが出来ない。その事実を忘れるために、こういう人種は享楽に身を投じているのではなかろうか。そう考えると、優雅という言葉よりも寂しさという言葉の方が似合っているようにも思えて来る。

 すべての行為は快楽である。

 すべての現象や状況が快楽だと言っているのではない。すべての「行為」が快楽だと言っているのだ。今、こうやってタイプしている私のこの行為もまた快楽だ。
 いや、学校へ行く行為も、会社に行く行為も、快楽ではなく苦痛だと言う反論があるかもしれない。それには、こう答えよう。それは行為ではなく強制であるからだと。あるいは、あなたが苦痛に快楽を感じているのか、いずれかだろう。
 私の嫌いな言葉に「自己管理」がある。結局のところ、この言葉は強制の主体をすり替えているだけの欺瞞としか思えない。先に述べたような優雅な、あるいは寂しい人種というのは「自己管理」などしない。そのような<強制>からは自由な人々なのだ。
 それが、そのような人種に対する嫉妬や羨望、あるいは反感になるのだろうが、これは人種という生まれつきの問題なのだから仕方がないのか、あるいは人種ではなく移動可能な階級のようなものなのかは、浅学にして非才の私には未だ分からない。当面の研究課題だ。