お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

官製デフレ

2013年01月24日 | 経済
マスメデディアはデフレ脱却を目標としたアベノミクスについて報道しているが、これは問題の本質を理解できていないダメノミクスであり、デフレからの脱却が出来ないだけでなく、日本社会の貧困を拡大する最悪の政策として歴史に名を残すものと私は考えている。

そもそも、現在のデフレは所得の減少や貧困の増加を背景に、価格で勝負した、つまりデフレという環境を利用した企業が勝ち組になるという構造的なもので、これは官製デフレともいうべきものなのだ。つまり、このデフレから脱却するには所得の増加と貧困の増加を食い止めることなのだが、現在のアベノミクスは大企業の利益にその牽引をさせようとしている。しかし、これでは日本の半分は助かっても、半分はさらに苦しむだろう。トータルでは悪いことの方が多いのだ。

インフレ目標というのも素人は誤解している。CPI(消費者物価指数)という統計は、一定の店で一定の商品の価格がどうなったかを統計的に処理した数字だ。例えば、ワイシャツではデパートの価格が基準になっていたとする。そこに価格破壊の紳士服店が現れる。しかし、そこでのワイシャツの価格は統計には反映されない。あくまで、その影響でデパートのワイシャツの価格がいくらに下がったかが問題にされる。これは統計技術の問題で善悪とは関係ないが、消費者物価指数と体感する価格下落のギャップの理由はこれなのだ。

嫌なことばかもしれないが、日本が「勝ち組」と「負け組」に分かれているとして、「勝ち組」だけでは生き残りましょうというのがアベノミクスの考え方だ。生活保護の削減など、ある意味で象徴的な負け組切り捨てであり、それによって最低時給を引き上げるなどの政策をやめ、生産性の低い中小企業の生き残るという悪しき状態が続くことになる。

これは、まったく市場経済的ではない。政府は規制を緩和し、既得権を廃するとともに、富の再分配を行うというのが資本主義的な考え方なのに、アベノミクスは特定の産業、特定の階層を守ることに主眼が置かれている。

その結果どうなるのか。日本から中間層が消えるのだ。極めて不安定な社会になるだろう。そして、弱者は政治的に切り捨てられて行く。そして、それを選択したのは景気が回復すれば自分の生活も向上すると勘違いして投票行動をした一般大衆だ。もしかしたら、アベノミクスは成功し、経済は好転するかもしれない。しかし、その恩恵を「負け組」が受けることはない。

さらに世代間の問題もある。多くの若年層は、若年層だというだけで「負け組」である。そして、日本では「勝ち組」は減り続け、「負け組」は増え続ける。高齢化した民主主義社会の日本において「負け組」が政治的な解決に期待することは現実的とは言えない。

「負け組」は、政治や制度を超えて、新しい生き方、新しい働き方、新しい楽しみ方を創り出す以外に道はないように思われる。もっとも、政治や制度に無関心であったり、無知であったりすることは望ましくない。使える社会的資源は存在するのであり、それを利用するには知識が必要になる。「負け組」は一人では生きられない。新しいネットワーク、新しいつながりが生まれなければいけない。

それにしても、政府も財界もいい加減、問題の本質に気がつくべきだろう。日本が相対的貧困率の高い国であり、そのことがデフレの最大の要因であるということに。
まあ、政官財学の潤えるマフィア連合は、ほんとうのところ日本経済になど関心がないのかもしれないが。

経済力より生活力

2013年01月18日 | 社会
今日、ある人から憐れな中高年の話を聞いた。

妻と二人、マンションで暮らしていた男性。ある時、妻が重篤な病気で入院した。会社では相当の地位にあった人だが、洋服がどこにあるのかも分からない。洗濯の仕方もわからない。料理も作れない。困り果てて暴れだし、近所の人が警察に通報した。犯罪ではないので、最終的には役所の人が対応したらしい。この人はその後、仕事を辞め、親戚に引き取られたという。少し不思議な話ではある。会社で相当の地位にあったのならば、お金で問題を解決できたのではないか、と。その点については聞かなかった。

経済力と生活力は違う。経済力とは主にお金を稼ぐ力だ。一方の生活力とは少ない生活コストで高い生活パフォーマンスを出すスキルだ。具体的に言えば、料理や買い物、掃除、洗濯をいかに上手くやるか。そして、生活コストをうまくマネージメントするかということだろう。

もちろん、経済力と生活力、両方あることが一番望ましい。しかし、どちらが重要かと聞かれたら、私は迷わず生活力だと答える。単身世帯ならば、家賃を除いて、最低水準とされる月7万円程度で光熱費、通信費、食費、医療費、雑費などを収める技術。別にいま収める必要はないが、収められるという自信があれば、これほど強い武器はない。

そうなのだ。生活力は立派な武器なのだ。

こう書きながら、私には生活力がない。今年の課題は生活力を身につけること。今は経済力がある人でも、いつ、どのような環境変化が起こるか分からない。先の話ではないが、歳を取ってから妻に先立たれた時、生活力がある人と無い人では雲泥の差になる。いくら、お気楽サバイバーでも、生活力は必須なのだ。

さあ、500円で、どれだけ美味しいものを作れるか(食べられるか)。同じ500円でも、どれだけの差が出ることだろう。これを機会に、今の生活の燃費(コスト・パフォーマンス)を自己評価してみてはどうだろう。

政府はインフレターゲットを政策として掲げるようだが、いま貧困層が増え続けている。こうなれば、貧困なんて怖くないという生活力を身に着けて、守りを固めよう。生活力は自信となり、大きな力となるだろう。

新しい常識を求めて

2013年01月13日 | 社会
昨日、ある人の問題意識を聞く機会があった。

上昇志向に踊らされて苦しんでいる人を見るのが辛い。経験から知っているが、お金だけでは真の幸福は得られない。未だに「成功」という甘い言葉に踊らされて、セミナーに行ったり、つまらない名刺交換に熱心になったり、ネットワークビジネスの罠にはまって行く人たちがいる。これは、根本的な目標意識について、メディアが洗脳しているからではないのか。つまり、多くの人が頑張れば成功するという錯覚を植え付けられているのではないのか。そして、その努力の先に幸福はないのだ。

「何かしたい」とその人は言った。私も「政治や法律、制度に期待していたのでは駄目だと思う」と言った。もちろん、法律や制度は知っておくべきだし、政治への関心や問題意識は必要だ。しかし、そこに過度に期待することは、ある種の逃避であり、危険なことだ。

「何かしたい」。まずは、成功とか上昇志向という常識を変えること。そのためのコンテンツを作って提供すること。フィールドワークや実体験も必要になるだろう。使命も提供すべき価値もコンセプトレベルでは明確だ。ここから理念をブラッシュアップして、行動に移したい。「一緒にやりませんか」。そんな話になった。

さて、どういうアプローチが良いのだろう。このブログでの発信などでは話にならないだろう。いきなり「日本を変える」などという意味不明な目標を立てるほどの馬鹿でもない。そうではなく、もっとローカルな小さいネットワークを作ること。新しい生活の形をつくることが重要なのだと私は思う。

天才によるイノベーション(革新)などいらない。普通の人が、普通に働き、普通に暮らすこと。それが可能であるということを示せるかどうかが鍵なのだ。生活とは本来、楽しいことだ。しかし、時代は生活を合理化しようとする。生活を減らし、生産に時間を振り向けようとする。今、考えるべきことは仕事ではなく生活なのではないのか。私はそう思う。

昨日の雑談から出た話なので、今後どう展開するのかしないのかは未知数だ。ただ、問題意識は共有できている。同じ問題意識を持つ人を組織化できれば、新しいムーブメントを起こせる可能性はある。