お気楽サバイバー研究所

21世紀は人類が経験したことのない「過剰」の世紀である。現在の社会の常識は崩壊する。生き方が「お気楽」に変わるのだ。

まだら模様の時代

2012年09月27日 | 発作的発言群
「厚みのある中産階級の復活」だって? 冗談ではない。どうやっても、そんな時代は復活しないし、それが理想として語られることも時代錯誤というものだ。誰もが結婚し、子供を作り、家を建てる。そんな時代はもうやって来ないだろう。世代間の格差だけではない。老人の間でも「老老格差」は大きいし、若者の間でも「若若格差」はある。しかし、収入や資産だけで格差を捉えて、それが問題だというのもおかしな話だ。年収1千万円で自由時間のないサラリーマンと、自由時間だけはあるニートをどう比較すれば良いのか? いったい、どちらが幸福だというのか?

もはや、豊かさの増加は幸福感を増加させない。誰もが似たような生き方、似たような体験をする時代ではなくなった。大学に行けば職があるという時代でもない。自分の本当にやりたいことを仕事にすることでしか幸福は得られない。多くの人がそのことに気づいてきたのだ。これは、大きな収穫だと思う。

「まだら模様の時代」それが今後ますます顕著になるだろう。社会政策も、このような変化を見据えて考えるべきなのだ。ましてや国家は、何が幸福かなどという個人の領域に侵入してはならない。これは教育にも言える。

まだら模様の時代に大切なのは「自分は何者なのか?」という問いに分かりやすい答があるということだ。大企業の部長だとかいう答えは、自分ではなく属性だ。そういうものに憧れたり、尊敬したりという人はどんどんと減っている。今は、個性とか人間的魅力を基本に据えなければいけない。これは若いうちからの積み重ねだ。古い価値観に長い間浸ってきたオジサンは、感覚的に戸惑うことだろう。

まだら模様の時代に重要になるのは、同業者とのつながりであり、同業者からの評価だ。それは、マスメディアの時代、大衆の時代とは異なってくる。競争より協働に価値が置かれる社会では実力だけが頼りなのだ。

大企業の生涯賃金は急激に減少している。そして、その傾向は今後も続くだろう。もっとも、それでも中小企業との格差は極めて大きいのだが、いずれにしても「逃げるべき時」があるかもしれない。この時代、一生安心などない。また、安心の代償は極めて高いのである。

さあ、まだら模様の時代を楽しもう。もちろん私もその覚悟だ。

(社会変革を目指す場末のブロガーより)

ベーシック・インカム議論の基本

2012年09月14日 | 経済
ベーシック・インカム(生活上必要な費用を一人一律に給付する形態の基本所得制度。以下BI)は、ややもすると制度として論じられている。制度として妥当か、制度のバリエーションにはどのようなものがあるか、実現可能性の問題としてBIへどう移行するのか、そしてBIにどのようなメリットがあるのかといった議論である。

しかし、このレベルの議論は本質的な問題ではない。BIは勤労観や福祉観、さらには経済システムについての思想である。実現可能性から議論してしまうと、簡単に不可能という結論に至るだけに終わる。BIを主張する者は、制度として矮小化された議論に陥ってはいけない。そうではなく、BIを基本的な権利と捉え大上段に構えなければならない。

超資本主義社会(貨幣なしでは生存できない社会)を強制されている我々にとって、基本所得を受け取る事は、労働とは無関係の生存権=基本的権利であるというのがBIの主張だ。それは実現可能か、持続可能かという問題ではなく、実現されなければならない国家の義務なのだ。BIは単なる福祉の一形態などではない。BIは人類史上の革命なのであって、実現の過程が平易なものではないことは明らかだ。もともとのBIは資本主義の成熟を前提として、月額20-30万円の水準で提言されたものなのだ。このBIの活動の歴史は知っておく必要がある。

一方で、BIを基本権として主張することは超資本主義社会というう批判の対象でもある現実を受容し、肯定することにもなるということも忘れてはならない。例えば、半資本主義で生存権が確保できる方が望ましいと考えるならば、BIを主張する理由は失われる。また、巷のBI推進論者には他の福祉政策を最小化し、行政コストを最小化しようという思惑もある。

BIを実行する主体として国家だけを考えるというのも、想像力の欠如と言えないだろうか。EUが通貨を統合したように、超資本主義社会では、通貨統合だけでなくBI統合ということも考えられる。既存の国家概念を超えて、例えば東アジアBI圏であるとか、それを管理する国家以外の機構の設立も考えられよう。

さて、BIが目指す社会とは何だろうか。現時点では、この点に関する共通の展望は無いようにも見受けられる。それだけに、私たちはBIを通して、新しい世界観、新しい生活、新しい社会心理・個人心理等に思いを馳せることができる。もちろん、それは負の側面も含めての話だ。BIの思想を知らないリバタリアンによる福祉切り捨てのためのBIなど邪道なのである。このことだけは、いくら強調しても、強調し過ぎるということはない。

勝手に「哲学2.0」(その-1)

2012年09月12日 | 文化
■1 反・形而上学

形而上学とは何かを知らない人はいませんよね? なに。いる?
ま、簡単に言ってしまえば、形而上学というのは、道徳的なジレンマを解決する公式や真理があるという考え方ですな。道徳的なジレンマとは、めちゃくちゃ単純な例で言うと、ボートが沈没して5人が海に投げ出され、一人だけなら救助出来る場合、誰を助けるのか、助けないのか、といった問題ですね。普通に考えれば、そんなものは色々な考え方があるわけで、どれが絶対正しいなんて言えないですよね。でも、真理や正解は必ずあるというのが形而上学だと考えれば良いでしょう。

形而上学は哲学の一分野とされますが、多くの宗教が形而上学的なわけで、そう考えると、世界の圧倒的多数派は、形而上学を信じていると言えるのですね。本当かなあ?

で、反・形而上学を主張する人とは、そう言った道徳的ジレンマを解決するような、真理や公式は無いと主張する人のことですね。リチャード・ローティは、こういう人のことを、「アイロニスト」と呼ぶんです。皮肉屋という意味じゃないので気をつけてくださいね。

あ。リチャード・ローティ。どんな人かって?
20世紀の有名なアメリカの哲学者ね。後はぐぐって下さいね。

ま、反・形而上学=アイロニスト、ですね。
で、ローティこそ、哲学2.0の租なんです。そのことは追って書きます。

■2 リベラル

昔は、左だ、右だ、中道だと言うのが大衆的な分類でしたが、今は使いませんね。

今の大衆的な分類は、以下の4つです。
1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義)

おお、座標軸が出来て、線から平面になりましたね。(笑)

もっとも、思想・信条あるいは哲学が、実際にはもっと複雑な事は、誰にでもわかりますね。「思想地図」という本もありますし、それに対する異論・反論もあって収集がつかないわけです。(笑)また、大枠での対立より、半ば身内での対立が激しかったりするのは、どこの世界でも一緒のようです。(笑)

でも、ちょっとまって下さい。
こんな単純な分類の話がしたいのではないのです。

私がこだわりたいのは「リベラル」です。哲学2.0の祖、ローティはリベラルをどう定義しているでしょうか。

ローティは、シュクラーにならって、「残酷さを最悪だと考える人がリベラルだ」と定義するのです。

そして、残酷さを最悪だと考えることに形而上学的な理由などいらない、基礎づけなどいらないのだと。要は、自分はそう思うと根拠などなく主張して良いということですね。はい。それがリベラルなんです。

経済学者のシュンペーターも同様のことを言い、自らをリベラルだと宣言していましたね。

ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と呼びました。
私も、「リベラル・アイロニスト」なんです。

これって相当に解説のいる言葉ですよね。(笑)

貴方は残忍さが好きですか? 本能であり不可避だと思いますか?
残忍さとは何ですか? 人類は歴史的に残忍でなくなっていると言う学者の説をどう思いますか?

■3 プラトン無視

流石にプラトン(哲学者)の名前を知らない人はいませんよねぇ。義務教育の教科書の出て来ます。え。名前は知っているけど、忘れた?
ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師ですね。(紀元前427-347)です。それくらいは覚えてますよね。

この時代の人達が試みた哲学というのは、共通の哲学的基礎を打ち立てて、個人の自立と、共同体の公共善を統一・結合させることでした。まあ、私から見たら、これは無謀な野心なのですが、哲学者というのは共通して、こういう無謀な野心に駆られるものなのでしょう。そして、それこそが哲学の存在理由の一つでもあったわけですね。

もちろん、ニーチェやフーコーのように、道徳に懐疑的な哲学者もいれば、カントのような道徳的オプティミストもいれば、いろいろな哲学者がいたわけですが、みんなこの、「プラトンの呪縛」というべきものと絡んでいました。

しかし、ローティは違いました。私的なものと公共的なものを統一しようという考えを、「そんなの無理」とあっさりと捨て去ることで、プラトンを基本的に無視する立場を取ったのですね。何と革新的なのでしょう。これこそ私が、ローティ以降を「哲学2.0」と呼ぶ理由なんです。

で、現代はどういう時代かというと、ポストモダンと言われながらも、市民レベルでは未だに「プラトンの呪縛」が幅をきかせています。残念ですね。

■4 方法を持たないプラグマティズム

アメリカの哲学と言えば、プラグマティズムですね。「プラグマティズムこそアメリカの哲学」。これは1950年以前のアメリカの決まり文句でした。しかし、次第にアメリカも大陸哲学に傾いて行くのですね。

で、アメリカ社会でプラグマティズムがどう機能したのか。ローティはこう見ます。

因習の殻を破り新しいものを受けいれることを奨励すること、宗教文化を振り払い自由にすること、道徳律の影響を抑え新しい立法を恐れないことなど、プラグマティズムは科学主義的、実験主義的に働いたのだと。そして、この反イデオロギー的自由こそが、アメリカの最も価値ある伝統だとローティは言います。

しかし一方で、ローティのプラグマティズムは従来のプラグマティズムとは異なります。それは、「方法を持たないプラグマティズム」と呼ばれるものなのです。プラグマティズムには、信頼できる方法があるという科学主義がありました。しかし、ローティはそのような方法は無いという反科学主義の立場をとります。これは、ネオプラグマティズムと呼ばれたりもします。

ローティは、哲学的な深さを悪しきものと考えます。さらに、プラトン的な夢に至っては最悪のものだと考えます。彼の基軸は自由主義の擁護なんです。そのためには、「方法を持たないプラグマティズム」と、「深さを奪われた大陸哲学」が一緒になれば良いのにとまで言うのです。

難解ですか?
ローティの論文「方法を持たないプラグマティズム」の一節を引用しておきましょう。

「確かにわれわれには、互いに語りかけ、世界に関する見解について話し合い、力よりも説得を用い、多様性に対して寛容であり、心から反省する用意のある可謬論者であるべきで義務がある。けれどもこれは、方法論的原理を持つ義務とは、別のものである。」

■5 脱構築

脱構築。何それ、美味しいの? などと聞く人は冗談が好きな人でしょうか・・・。

まあ、冗談はさておき、聞いたことも無い人、だいたい知っている人、詳しい人がいるでしょう。とりあえず、誰にでもわかるように書いてみます。

脱構築とは、哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)の用いた言葉で、フランス語では、デコンストリュクシオン、英語では、ディコンストラクションであり、日本語では解体構築と呼ばれることもありますね。もともとは工学系の言葉で、機械を分解して部品を取り換えて別の機械を作ることなどを指します。

デリダのいう脱構築とは、何かを伝える時には、すでにそれに対する反論が、そこに含まれているということの論証です。当たり前の話ですね。簡単に言えば、何にだって反論できるよということ。

ちょっと難しく言うと、二項対立の解体作業であり、ロゴス(言語)中心主義への批判的方法でしょうか。

それが、ローティ以降と私が勝手に定義した「哲学2.0」とどう関係があるのかって?
無いです。(笑)いや、ちょっと関係があります。

それを説明するには、ソシュールを起源とする構造主義を説明しないといけませんね。
そうしないと、アメリカのローティ以降を「哲学2.0」とし、構造主義主義以降を「哲学2.0」としなかったのは何故か。続きは追って書きます。


■6 民主主義

「民主主義? それって結局、多数決のことだよね。」
こんな風に言う人がいますが、違うんですねえ。

民主主義とは、市民の討議による政治です。多数決というのは、意思決定の技法の一つであって、本質ではないんですよ(異論があることは、100も承知ですよ。笑)

ムフ(1943-)という政治哲学者は「闘技的民主主義」を主張します。それは、社会の多元性を認め、多元性を受けいれる民主主義です。目標は一致ではなく、差異を認め合うことなんです。

それから・・・民主主義とは本質的にローカルな性質を持つものなんです。地域や文化に根差した民主主義が好ましいということですね。国が大きくなると、民主主義も難しくなります。世界民主主義となると(そんなものは今現在ありませんが)、もっと難しいでしょう。

みなさんは、民主主義について、どんな本を読まれましたか?
え、民主主義が好きじゃない???
ふむ。ムフを読もう・・・。

■7 自文化中心主義

一般に、自文化中心主義というと、自文化を最高のものとして他文化を否定したり、排除したりする、エスノセントリズム(ウィリアム・サムナーの造語)の事を言いますね。何とも怖い考え方です。

しかし、ローティもまた、自分の事を自文化中心主義者だと言い出すんです。え。何で、と思いませんか?

もっとも、ローティのいう自文化中心主義は、自文化至上主義ではありません。そうではなく、自分自身が何かを見る時には、必然的に自文化という立脚点から見るより他に方法がないという意味なんです。

はい。この語りはかなり戦略的です。自文化中心主義という言葉を友好的に再解釈しているのですね。

余談ですが、友好的に再解釈するというのは、一つののテクニックです。仕事で、家庭で使える技です。覚えておきましょう。

(今日はここまで、続きは気が向けば書きます。)

恋愛といじめの哲学

2012年09月03日 | 文化
昨日は実に俺らしく、知的に読書会だった。それは2階で、縁起の良いことに13人だ。薄暗い部屋。まるで秘密結社の会合だな。俺はそう思った。

カレーを食べている人もいる。ケーキーを食べている人もいる。しかし、重要なのはそんなことではない。メンバーがそれぞれこの本をどう読んだかということだ。つまり、テーマは本ではなく読者であるこのメンバーなのだ。おかしい。これでは真面目な日記だ。

読書会の途中でメールが入った。叔父の訃報。そうか、亡くなったか。

議論は白熱したようで、蛍光灯だったかもしれない。部屋が広いのにエアコンは一つだ。9月2日。まだまだ夏だ。故に、熱い読書会になった。

この本の主人公は僕で、僕は学校でいじめられている。そして、コジマという同じクラスの女子もまたいじめられている。二人は健全な男女交際を始める。デートが美術館だなんて実に文化的だ。

読書会では話題にならなかったが、文庫本には作者の写真入りの広告のチラシが入っていた。なかなか可愛い。最近2回目の結婚をし、出産したばかりだ。旦那も作家で、一つの部屋で仕事をしているという。どこからそういう情報が出てくるのか。流石は秘密結社だ。

この読書会に参加するのは4回目だ。参加者は皆、我が強く、弁がたつ。ここで喋るには、気を強く持って、筋金入りの文脈を準備しないといけない。揺れたら負けだ。

だが、俺には困った問題があった。歯が劣化してしまい発声がうまく行かない。これはハンディーだ。言い訳に聞こえるかもしれないが、きっと言い訳だろう。

コジマは中学生で、離婚して別居中の貧しい父を思って、そのしるしとして、汚い格好をし、風呂にも入らない。しまいには絶食してしまう。これは親が悪い。子供は子供だからだ。何と言っても中学生だ。しかし、悪いと判断したところで、それは現実だ。現実とはそういうものだ。

主人公の僕はバカだ。鼻が曲がるほど蹴られて血を流しても学校に行くなど、ただのバカだ。でも人間なんて、ほとんどがバカだ。俺もバカだ。

それに比べて、いじめる側の百瀬というのは賢い。すべての行動を理屈で説明する力がある。利己的で打算的で貪欲で邪悪な者。しかし、こういう要素を根っこに持っていないと、今の時代は生きられない。Kさんが、ネオリベ的自己責任型と言ったが、そうなのかもしれない。

子供の世界が無邪気なら、大人の世界は適当でいい加減だ。社会秩序など、体系的なように見えて矛盾に満ちている。この矛盾を抱えながら生きること。それが良き生なのだろう。ピュアであることの、割り切れることの危うさ。筆者はこれを伝えたかったように思う。それは諦めでもあり、妥協でもある。

人は青春の一時期、それを拒む。ピュアでありたいと思う。それは通過儀礼のようなものだろう。だから青春は美しい。そして、大人は美しくない。別に俺のようにとは言わないよ。

結末の文学的表現についての指摘もあった。主人公の僕とコジマは二度と会うことが無くなった。そして、僕は斜視の手術をし、視界が変わる。そこで見たもの、繰り返される「ただの美しさ」という表現が何を意味するかという議論である。僕はコジマとこの美しさを共有したかったのだろう、という読みである。

だとすると、その切なさは何だろう。

初恋が美しいのは、それが終わるからだ。理屈っぽい小説という評価が多かったが、これは恋愛小説なのかもしれない。そして、それが恋愛だったと気がつくのは、終わってからなのだ。